エラリイ・クイーン『エジプト十字架の謎』(その2)

(本書および『アメリカ銃の謎』、『Xの悲劇』の内容に触れています。)

 

 『エジプト十字架の謎』(1932年)の最大の売り物は、ヨードチンキ瓶の推理だが、中盤にもすごい推理が出てくる。すごい、というか、ややこしい、というべきか。

 第二の被害者トマス・ブラッドのパイプと思われていたものが、帰国した長兄スティーヴン・メガラのものとわかって、トマスが四阿で喫煙中に襲撃されたことを示す証拠類は犯人の偽装だったことが判明する。そこから、殺害現場が書斎と確定すると、エラリイが、犯人は、そこで何かを発見させたがっている、と断言する。スティーヴンが帰国すれば、すぐにばれてしまう偽装工作を行ったのは、いずれ警察が間違いに気づくことを想定したうえで、時間をかせぐためだった、と。そして、一同が捜索を開始すると間もなく、トマスの警察宛ての手紙が発見される。手紙には、第一の殺人で殺されたと思われていた三男アンドルー・ヴァンが実は生きている、と書かれていた[i]

 ここまででも十分ややこしいが、犯人と思われる復讐者ヴェリャ・クロサックは、なぜこの手紙をわざわざ警察に発見させるような工作を行ったのだろう、とエラリイは問いかける。その答えは、手紙の発見を遅らせることで、殺しそこなったアンドルーの行方を警察に先んじて探すことができる。しかし、それが叶わない場合には、手紙を警察に発見させて、アンドルーの居場所を探させ、あとを追跡することで、結局狙う相手にたどり着ける。それが偽装工作の狙いだ、というのである。

 ところが、真犯人はアンドルーなので、彼の考えは当然異なる。トマスが彼に遺言で金を残してくれているので、それを相続するためには、生存していることを明らかにしなければならない。それで、兄に手紙を書かせた、というわけ。つまり、アンドルーにはアンドルーで、手紙を発見させたい理由があるが、クロサックにもそれがあるように見せかけなければならない。簡単に発見させては怪しまれる。なぜクロサックは、発見を遅らせる偽装工作をしたのか、もっともらしい理由を作らなければならない。

 しかし、以上は作中人物の理屈であって、作者の理屈はまた別にある。というより、作者の意図がまずあって、それに合わせて、犯人の意図、さらに犯人と思われていた復讐者の意図が考えられている。この三者、基本的には、犯人と復讐者双方の理由が作者の意図と矛盾しないようにしなければならないのだから、大変だ。もちろん、作者の意図とは、一度死んだと見られていた被害者が、生存を確認され、その後再度殺害されるも、実は真犯人だった、という意外な結末の演出にある。そのために、中盤で、死んだと思われていたアンドルーを生き返らせなければならないのだ。クイーンという作家は、なんて捻じくれ曲がった思考回路を持っているんだろう、とため息が出る。

 ところで、手紙の発見後、エラリイが、メガラに向かって、ブラッドの手紙がなければ、あなたもヴァンの殺害を疑わなかったはずだ、と問うと、相手は、いや、そんなことはない、とあっさり打ち消す。反論されたエラリイがうろたえて、急に挙動不審になるが、突然きょときょとして、どうした?

 

  「わかりませんか。書置きが残されていなかったら、メガラさんがもどったところ 

 で、ヴァンの死を疑う理由がないんです!メガラさん、どうですか」

  「疑いますよ。でも、クロサックがそれを知ることはない」(後略)

 エラリーは面食らった。「どうしてまた・・・・・・クロサックが知ることはない 

 と?(後略)」[ii]

 

 何度読みかえしてみても、この箇所の二人のやり取りの意味がよくわからなかった。この会話、必要なの、と思ったが、よく考えると、こういうことのようだ。すなわち、なぜトマスは警察宛てに手紙を書き残したのか、という疑問の答えを、作者はごまかしているらしいのである。

 スティーヴンの発言は、アンドルーが、架空のピート老人に扮装して身を隠す計画を、兄たちにすでに教えていたことを示している。従って、トマスには、わざわざアンドルーが存命していることをスティーヴンに知らせるよう、警察に忠告する手紙を書く理由はない。一方、犯人であるアンドルーには、上記のように、遺産を相続するために生きていることを明らかにしたい、という理由がある。ただし、それはスティーヴンが帰国すれば、彼が明かしてくれるはずである。だが、彼だけを当てにしていると、スティーヴンが航海中に事故死するなどという事態が起これば、自分が生きていると名乗り出るきっかけを失ってしまう。従って、保険のために手紙を書かせた、という動機が考えられるが、それならば、ピート老人の名前まではっきり書かせておくべきだ。しかし、そうすると、今度は、見せかけの犯人であるクロサックがアンドルーの所在を知ることになって、手紙を破棄せずにおく理由がなくなる。

 そもそも、この手紙は、どのような状況で書かれたのだろうか。「メガラには、アンドルー・ヴァンの死を信じてはならぬと告げてください」とある一方で、その後を「ヴァンの所在は、スティーヴン・メガラただひとりが知っているはずです」と続けたり[iii]、どっちなんだよ、と言いたくなる。手紙の内容自体が混乱していて、前半の文章は、スティーヴンは、アンドルーの変装のことを知らないかのような書き方だが、後半は、スティーヴンだけがアンドルーの所在を知っている、と述べている。もちろん、捜査陣がクロサックだと思っていた深夜の訪問者(犯人)は、アンドルーであるわけだから、トマスはこの手紙を、アンドルーが無事なのを、実際に会って確認して、彼の面前で書いたのだろう。

 しかし、真相はそうだとしても、手紙発見の時点で、警察もエラリイも、訪問者は姿を隠したクロサックだと推定しているはずだから、クロサックがどのようにしてこの手紙を入手したのか、もっと問題にすべきだろう。アンドルーは生きている、その所在はスティーヴンが知っている、という重大な情報が書かれているのだから、いくら正体を偽っているとしても、他人である訪問者の前でトマスがこんな手紙を書くわけがないし、すでに書き終えていたとしても、その辺に放り出しておくはずがない。しかも、訪問者がある晩に、たまたまトマスがこのような重要な手紙を書くというのもおかしな話だ。何日も前に書いてあったとすれば、なぜ投函せずにおいたのか。逡巡していたのだろうか。それに、クロサックはどうしてこんな手紙があると知ったのか。探し回った形跡はあったのか。そういった問題を、もっと検討すべきだと思うが、一向にそんなそぶりもないのは、どうして?

 どちらにしても、トマスがなぜこの手紙をわざわざ書き残したのか、合点がいかない。アンドルーには、遺産の相続のために、生きていることを明らかにしたい、という目的があるので、上記のようにスティーヴンに何かあった場合を考えて、書くように頼んだ、という可能性はある。しかし、まさか、兄さんの遺産を相続したいから、殺される前に書いといてくれ、とは言わないだろう。

 アンドルーに手紙を書かせる理由はあるとして、しかし、無論、本当の理由は作者のほうにある。ここでの長々とした推理は、本書のプロットの要で、死んだと思われていた被害者(実は犯人)が生きていた、とわかる重要な箇所である。上述のとおり、このプロットのひねりが本書の肝なのだ。そして、ここでこの手紙を出しておかないと、スティーヴンには、アンドルーが生存していることを打ち明ける積極的な理由がない。無事、姿を隠して逃れているのなら、あえて名前を挙げて危険にさらす必要はないからである。手紙が発見されたことによって、スティーヴンも秘密を明かす気になったのだ。彼が打ち明けずに黙ったままでは、アンドルーのほうも、いつまでも死んだままになって、プロットに狂いが生じてしまう。何としても、さっさと死人を生き返らせる必要がある。それに、パイプをめぐる、ややこしくも美しい推理をお蔵入りにするのも惜しい。というわけで、長兄の告白だけではなく、次兄の手紙によって、死んだはずの末弟が華々しく蘇ることになったのだろう。つまり、作者にとっては、アンドルーの生存を明らかにするために、ここで手紙を出すのが好都合なのだ。

 そこで、改めてスティーヴンとエラリイの会話を見直すと、エラリイの発言は、トマスが手紙を書いたのは、スティーヴンはアンドルーが誰に変装しているのか知らないからである、と推理したことを示している。手紙が書かれた理由を推測するならば、当然の推理だろう。ところが、手紙には続けて、アンドルーの所在はスティーヴンが知っている、と書いてあり、本人もそれを裏付ける発言をする。エラリイが混乱するのも無理はない。それなら、エラリイの次の質問は、じゃ、どうして、ブラッドさんはこの手紙を書いたんでしょう、のはずだが、なぜか突然話をそらしてしまう。なぜか、というか、作者にとって都合が悪いからだが、どうやら、作者に忖度して、エラリイも余計な発言は控えたようだ(設定上は、作者も主人公もエラリイ・クイーンだが)。

 以上をまとめると、この手紙をトマスが書いたという事実は、スティーヴンは忠告を受けずともアンドルーの生存を確認できるし、するはずだ、ということをトマスも承知している、という前提と矛盾する。かといって、スティーヴンは、アンドルーが誰に変装しているかを知らない、という設定にしてしまうと、今度は、アンドルーの所在を警察に教えることができなくなってしまう。もちろん、アンドルーが成りすましている人物の名前を、トマスの手紙に書かせるわけにはいかない。書いてあれば、クロサックには、手紙を警察に発見させるための、いらぬ工作をする理由がなくなる。なんだか、随分がんじがらめの面倒くさい状況だが、こうした状況を考慮して、作者は、なぜトマスは手紙を書いたのか、という小さな問題については、無視することに決めたのだろう。

 

[i] 『エジプト十字架の秘密』(越前敏弥訳、角川文庫、2013年)、239-67頁。

[ii] 同、272頁。

[iii] 同、267頁。