エラリイ・クイーン『レーン最後の事件』

(犯人を明かしてはいませんが、未読の人でこんな文章を読む人はいないでしょう。)

 

 ドルリー・レーン四部作の掉尾を飾る本書だが、まったく予備知識なく読む読者はどのくらいいるのだろう。

 名探偵のシリーズは、大抵の場合、作者が絶筆するか、死去して打ち切りになるのが普通だが、そしてエラリイ・クイーンのシリーズもそれに当てはまるが、レーン四部作は、最初から結末を見据えて書かれた(とされる)珍しい例である。『レーン最後の事件』(1933年)のどの解説をみても、「最初に読んでほしくない」とか、「『Xの悲劇』から順番に読むことをお勧めする」とか、書いてある。これだけ読者にうるさく注文をつけるシリーズものは他にないだろう。しかし、「この結末ゆえに新しいシリーズ探偵を創造したのだろう」とか、「この結末のために探偵に特別な設定を与えたに違いない」などとほのめかされたら、勘のいい読者は、これはくさい、と怪しむのではなかろうか(すでに、踏み込み過ぎていますね)。

 とにもかくにも、ドルリー・レーンのシリーズ、とりわけ本書は、その驚くべき結末によって知られてきた。『Xの悲劇』も『Yの悲劇』も、ついでに『Zの悲劇』も傑作だが、本書があることによって、シリーズそのものが不滅のミステリ連作と認められてきたといえる。ところが、犯人の正体の意外さは、誰もが驚嘆するが、作品自体は、逆に、さほど評価されない。「この一作だけは書かなければよかったと思う人すらでてきそう」[i]、と酷評したのは、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアである。「クイーン絶頂期の1933年に書かれた長編としては、かなり落ちる」[ii]、とするのは飯城勇三。東西のエラリイ・クイーン研究の第一人者たちが、そろって低評価を下していては、反論の余地はない。もっとも、前者は、「すばらしい場面が二カ所ある」、と言い、便箋に関する推理と、犯人が斧を使って壁を打ち壊した謎および目覚まし時計に関する推理を称賛[iii]して、誉めるところは誉めている。飯城も、「もちろん、他の作家の本格ミステリーよりは数段上なのだが」、とカッコ書きして、つじつまを合わせている。

 さらに、飯城は、本書が『X』『Y』『Z』に比べて劣る理由として、次のような説を唱えている。ドルリー・レーンものは、エラリイ・クイーンのシリーズほど売れていなかったので、打ち切ることを決めた、というクイーンのエッセイがあるが、それで出来のよくないプロットや手がかりを『最後の事件』に回したのだろう、というのである[iv]。なるほど、なんだか身につまされるような、はなはだ現実的な逸話だが、レーン・シリーズを打ち切るつもりだった、というのは、作者の都合のよい記憶の改竄か、自分達にいいように話を作りかえているように感じられる。クイーンのエッセイを読んだわけではないので、誤解があるかもしれないが、要するに、出版社に切られたということだろう。作者のほうから契約を打ち切る、あるいは更新しない、と通告するというのは、およそありそうもないことのように思う。それとも、こちらの考え方が貧乏くさいだけか?

 ついでに、上記のクイーンの発言どおりだとすれば、いわゆるレーン・シリーズの「三部作」説[v]も怪しくなるのでは。売行き不調なのに、三冊だった契約を、一冊増やしたりはしないでしょう?

 それはともかく、プロットが弱い、というのが、批判的意見に共通する見方であるようだが、プロットが弱い、というのは、つまり、どういうことなのだろうか。端的にいって、面白くないということか。確かに、本書は、なかなか殺人事件が起こらない。その代わり、何だかわけのわからない小事件が数珠つなぎのように発生する。そこがプロットの弱さということだろうか。

 冒頭、サム元警視の探偵事務所に、カラフルな、一目で付け髭とわかる扮装をした怪人物が現れ、もしも自分からの連絡が途絶えたら、ドルリー・レーンを呼んで、一緒に開封してくれ、と謎めいた条件をつけて、一通の封筒を預けていく。その後、シェイクスピアの古書蒐集で知られる博物館で、警備員の失踪事件が起こる。その同僚から相談を受けたサムと娘のペイシェンスが博物館に出かけると、警備員の失踪とときを同じくして、観覧に訪れていた団体客に紛れ込んだ謎の人物が二人も行方知れずになっていることが発覚する。

 レーンに出馬を求めたサムとペイシェンスが、再度博物館を訪問すると、今度はシェイクスピア稀覯本が、未発見のさらに価値の高い稀覯本とすり替えられている、という奇妙な事実が明らかとなる。その後、付け髭男からの連絡が途絶え、預けられていた封筒を開封したサム、ペイシェンス、レーンが眼にしたのは、なぞの記号列[vi]を記した便箋だった。しかも、その便箋は、盗まれた稀覯本を博物館に寄贈した、今は亡き富豪の書庫で使用していたものだった。

 とまあ、このようにして、読者が予想しているとおり、奇妙な依頼人と博物館での盗難事件が結びついて、事態はいよいよ不可解な様相を呈してくる。

 その後、書庫に勤める研究者のゴードン・ロウ青年がペイシェンスに言い寄ったり、ペイシェンスもまんざらではなくて、段々いちゃいちゃし始めると、ドライヴ中に覆面の男に襲撃されて、ロウが撃たれるという私立探偵小説まがいの事件が起こる。私立探偵小説といえば、失踪事件を追って観光客の一団から聞き込みをする場面でのサム元警視の荒っぽい言動などは、まさに私立探偵小説風、というより、そのパロディのようで、ペイシェンスが父親を宥める場面は、コンビ探偵物のようでもある。

 全体は、およそ三部構成になっており、博物館での窃盗事件までが第一部、封筒の中身が明らかになってから、付け髭男がエールズ博士と名乗る怪人物らしいとわかり、博物館の新館長となったイギリス人のセドラーと同一人物ではないか、という疑惑がもちあがるあたりまでが第二部、そして第三部になって、ようやく事件が急展開して、エールズ博士の住居から、失踪していた警備員が発見され、直後に住居が爆弾(!)で粉微塵となり、そのがれきの下から、銃弾のあとの残る黒焦げの死体が発見される。今度は、まるで冒険小説さながらの派手な展開となる。

 確かに、一言で説明できない複雑なプロットであるが、これは、結局、犯人の設定がアレなので、まさかサイコ・キラーによる連続殺人にはできない。冒頭で殺人事件を起こしてしまうと、その後、犯人がペイシェンスやサム元警視と議論したり、推理したりする場面が白々しくなって描きにくい。そこで、事件が進行する過程で、犯人もまた巻き込まれ、結末間近になって、思わぬ形で殺人を犯してしまう、というプロットにしたのだろう。凶悪犯による残虐な殺人事件にするわけにはいかないので、あれこれと作者も苦労して筋立てを考えたもののようだ。

 その結果、だらだらと長期にわたって事件が長引き、レーン探偵も関わりたくないような、そうでもないような微妙な態度で、作品自体も、途中何回も緊張感がぶつぶつ途切れてしまう結果となった。何が起こっているのか、作中人物たちも、読者もよくわからないまま、何となくページが進んでいって、半ば過ぎて、ようやく殺人が起こるが、密室とか、顔のない死体とかが出てくるわけでもなく(双子を利用した入れ替わりのトリックは出てくる)、面白いのか面白くないのか判断がつかないまま物語が進行する、という印象である。

 しかし、この、他のクイーン長編ともがらりと異なるプロットは、いわゆるホワット・ダニットのミステリとも考えられる。近年、ジョン・ディクスン・カーの諸作について、こう形容されることがあるが[vii]、何が起こっているかわからない、というプロットの立て方は、まさに『レーン最後の事件』についても当てはまる。本書の意外な犯人のアイディア[viii]を活かすには、どのようなプロットにすべきか、考えあぐねた末の苦心の結果だったのだろうが、これはこれで独特の雰囲気を醸し出しているといえるだろう。冒頭などは、ちょっとチェスタトン風でもある。エラリイ・クイーンが、その若さに似合わぬ柔軟な構想力と筆力を備えていたことを改めて実感させてくれる。

 そして、筆力の冴えは、とくに最終章、レーンのもとに向かうペイシェンス、サム元警視、ロウの三人の会話の異様な緊張感と最後の二行の幕切れの鮮やかさに、いかんなく発揮されている。

 

[i] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、56頁。

[ii] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、27頁。

[iii] ネヴィンズJr前掲書、56頁。

[iv] 飯城前掲書、28頁。

[v] 同、25頁。

[vi] この記号の意味が、本書のミステリ的趣向のひとつで、ネヴィンズ・ジュニアが褒めているとおり、いわれてみれば、という単純さがあってよいが、トリックとしては、やや苦しい。WmSHe(正確な再現は難しい)を見て、レーンは、「なぜHが大文字なのでしょうか。たぶん、その場の思いつきなので、これは重要なことではありません」、などというが、ごまかすの、下手!(無論、小文字だと逆さ文字にしたときに困るから。小文字のhが逆さにするとyに見える、というのは、もっと苦しいか。)『レーン最後の事件』(越前敏弥訳、角川文庫、2011年)、299頁。

[vii] 『貴婦人として死す』(創元推理文庫、2016年)、山口雅也による解説、311頁。

[viii] いうまでもないことだが、本書の犯人のアイディアは、バロネス・オルツイの隅の老人シリーズに先行例がある。