エラリイ・クイーン『中途の家』

(犯人を明言してはいませんが、本書の推理やら伏線やら、しゃべり散らかしています。またディクスン・カー1937年の長編小説のトリックに触れています。)

 

 『中途の家』?エラリイ・クイーンになにが起こったのか。

 ローマ、フランス、オランダ、・・・と続いてきたシリーズが、いきなりスペインで終わってしまった。しかも9冊目で。なぜ、10冊まで書かない?まだイギリスも、ドイツも出てきていないのに。

 おかげで、11冊目の『ニッポン樫鳥の謎』は「国名シリーズ」なのか、とか、『中途の家』には「読者への挑戦」があるから、「国名シリーズ」に入れてもよいのではないか、とか、無用な混乱を招いてしまったではないか。『中途の家』ではなく、「中途半端」である。

 ついでにいうなら、1929年デビューというのも、中途半端だった。ジョン・ディクスン・カーのように、1930年なら、きりがよかったのに、1920年代に1冊だけ、というのも、なんだか中途半端。クイーンの第一期は、1929年から1935年というが、大掴みにいえば、1929年から1939年までだろう。これも11年間と、なんとも中途半端。別に、クイーンのせいではないけど。

 無駄にまくらが長くなった。『中途の家』は、エラリイ・クイーンの転換期に位置する作品と理解されてきた。より大きな転換点は、『災厄の町』(1942年)にあるが、本書は、そこに向けた「移行期」[i]の始まりを画するものだった、という。表層的には、高級雑誌への掲載[ii]が決まり、メロドラマないしスリラー・サスペンス的要素が色濃くなってくる。本書では、殺された男には、年上だが富豪のジェシカと、若く美しいルーシィの二人の妻がいたことが明らかとなる。パトリック・クエンティンみたい?重婚による二重生活を重ねてきた男の死、という、まさにサスペンス・ノヴェルのような幕開きから、上流階級の人々と庶民階層の人々との対比が、ジェシカとルーシィという二人の妻の対照によって描かれる。前者が金持ちだが年上、後者が貧しいが美しい、というのも、通俗スリラー的だ。

 「国名シリーズ」からはずれてしまった本書だが、近年評価が高まった長編のひとつだろう。比較的早くから評価してきたひとりとして、都筑道夫の名が挙げられる。クイーンに関する二度の座談会で、いずれも本書をお気に入りとして挙げ[iii]、とくに1982年には、もっとも好きな作品と発言している[iv]。しかし、具体的に、どこがどう好きなのかは、はっきり述べていなかった。『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を読むと、どうやら「マッチの燃えかすと焦がしたコルクから組みたてられる推理」[v]が気に入っていたらしい。細かいことを推理するのが面白い[vi]、というようなことも言っているので、そのあたりに都筑の好みがあったようだ。

 しかし、だとすると、都筑とは好みが合わない。マッチに関する推理は、さして面白くない。普通マッチの紙入れは20本入りだから、そして使用済みのマッチが20本、現場に残されているから、空のマッチ入れがひとつあったはずだ、なぜそれを捨てていかなかったのか云々といわれても、細けえなあ、とは思うが、だからどうした、としか言いようがない(わたしなら絶対持ち帰る。足がつかないとか、そういう問題ではない)。不要なマッチ入れを現場に残していかなかったのは、犯人を指し示す特徴のある品だったからだ、と推理すると、実際、登場人物のひとりが持ち歩いているマッチ入れには名前が印刷されているのがわかる、という具合。なんだか、お膳立てがよすぎるなあ。しかし、だからといって、ただちに犯人の特定に繋がるわけではない。容疑者のひとりというだけである。回りくどい推理のわりに、あまり効果がない。

 しかし、「スウェーデン・マッチの謎」[vii]は肩透かしだが、本書のテーマである、被害者の二重生活から生まれる謎は素晴らしい。

 被害者は、はたしてどちらの人格として殺害されたのか?これが、本書の最大の謎だが、まさに、「二人の妻をもつ男」というテーマと有機的に結びついた見事な謎である。そして、それに対する解答も、負けず劣らず見事である。(答えを明らかにします。)

 被害者は、両方の人格として殺された、という解答は、ある意味、はぐらかしともいえるが、意外性充分である。すなわち、被害者の二重生活を知っていた人間が犯人だ、というエラリイの推理には、思わず、よっ、大統領、と拍手したくなる。

 ただ、二重生活を知る手段は、被害者が、富豪の夫としてかけていた多額の保険金の受取人を若妻に変更した、その書類を見ることしかない、という推理は、少々危うい気がする。これこれの事実を知っている者が犯人、という条件は、「知る」手段を明確に限定することが難しい。エラリイの推理は一応納得できるが、偶然知ってしまった、という可能性を排除できるのか、というところに疑問が残る。実際に、作中でこの問いが投げかけられ、エラリイは否定するが[viii]、それでも万全とは言い難いように感じるのだ。

 とはいえ、ルーシィに罪を着せるには、彼女に物質的[ix]動機があることを知らなければならない、そのためには保険証書の書き換えの事実を知っている必要がある、という推理には一応説得力がある(損得ではなく、夫の不実を知ったことで殺意を抱く動機にはなるが)。偶然被害者の二重生活を知ったとしても、それだけで犯人であるとはいえない、という、その辺の理屈は通っている。また、保険証書の書き換えに関する情報を、エラリイは、ルーシィの裁判以前にすでに得ていたのだから、彼女の有罪宣告をただ傍観しているのはおかしい、という疑問も浮かぶが、これについても、最後の謎解きで理由が説明される[x]。マッチとマッチ入れの推理はつまらないと言ったが、犯人の性別を判定することでルーシィの無実を証明するためのデータとして巧みに使用されている(もっとも、現代なら、灰も吸い殻も残さずに済む携帯用の灰皿(?)があるだろうが)。このように、エラリイの推理に対して生じる疑問にも更なる答えが用意され、論理の細部への目配りが念入りである。「国名シリーズ」が続くなかで、うるさ型のファンから色々と推理への突っ込みがあって、腹を立てたダネイが寝る間を惜しんで隅々まで点検を重ねたのだろうか。本書で「読者への挑戦」を打ち止めにしたのも、重箱の隅をつつくようなマニアのあら捜しに疲れ果て、ここらで店じまいと考えて、有終の美を飾るつもりだったのか。ともあれ、本書は、謎の設定と解答の巧みさ、そして推理の完成度において、『オランダ靴の謎』や『ギリシア棺の謎』に匹敵するといってもいいかもしれない。

 惜しむらくは、途中から、ヒロイン(ルーシィ)の冤罪を晴らすというストーリー展開になって、二重生活を送った男の数奇な人生が描かれないままに終わってしまった。本当は優柔不断で根は善良な性格だったらしい、といった表層的な人柄のレヴェルにとどまって、せっかくの特異なテーマが掘り下げられていない。もちろん、「二重生活者の死」というアイディアは、パズルをつくるために発想されたもので、被害者の人生を描く興味は、最初からクイーンにはなかったのかもしれないが、小説の主題と内容が微妙にずれている感は否定できない。このテーマなら、やはり、もっと被害者にスポットを当てるべきだった(少なくとも、ミステリではなく、ノヴェルだったとしたら、そうだろう)。

 都筑道夫は、同様の指摘を、現代ミステリが向かうべき方向という観点から行っていて[xi]、これに対して、飯城雄三は、本書の狙いは、男性優位社会に対する批判にあるので、被害者の内面を描くと個人の問題に矮小化され、社会批判にならない、と反論している[xii]が、どうも、都筑はないものねだりをしているし、飯城は深読みしすぎているような気がする。

 仮に、クイーンに社会批判の意図があったとすれば、中盤の裁判パートで、年配の女性陪審員が、若く美しい女性被告を妬んで、もう一人と結託して評決をひっくり返す、などという経緯(いきさつ)を書いたりはしないだろう。クイーン自身の男性的偏見に基づく、このような逸話を挟むことはしなかったはずだ[xiii]。(ところで、このたった二人の陪審員が他の圧倒的多数を説得して評決を覆すという話は、『十二人の怒れる男たち』のパロディなのだろうか?[xiv]

 いずれにしても、この時点でのクイーンは、ミステリ・ライターではあっても、ノヴェリストではなかった[xv]、ということだろう。

 ついでだが、本書の序盤で、ジェシカ側のある人物が、自分達は犯行時間にはホテルの行事に出席していたとアリバイを強調し、しかし、途中で気づかれずに中座して車で犯行現場を往復することは可能だ、と発言するのだが、実は、この人物が犯人なのである[xvi]。作者は、犯人の心理的失言のつもりで、わざわざ、このようなことを言わせたのだろうか。

 ちなみに、この犯人、ジェシカが途中で席を立たなかったか、と問われると、断じてそんなことはなかった、と証言する[xvii]。つまり、他人のアリバイを裏付けることで、暗に自身のアリバイを証明するトリックと読める。翌年のディクスン・カーの長編で同様のトリックが用いられている[xviii]が、そちらに先行していることになる。もっとも、最後の謎解きでは、エラリイはこのトリックには一切言及していない。作者も気がつかない、作中人物が勝手に企んだトリックだったらしい。

 こうしてみると、幻のタイトル(『スウェーデン・マッチの謎』)といい、いろいろ小ネタが見つかる作品ではある。しかし、本書は、何よりも、「読者への挑戦」を含む作品群のなかでも緻密な論理の組み立てで抜きんでており、クイーン初期を代表する作品であることに間違いはなさそうだ。



[i] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房1980年)、77頁。

[ii] 同。

[iii] 都筑道夫赤川次郎・権田萬治「座談会 アメリカを代表する探偵作家」『ミステリマガジン』No.283(エラリイ・クイーン誕生50周年記念号、197911月)、84頁、都筑道夫・二木悦子・中島河太郎・青田 勝「回顧座談会 クイーンの遺産」『ミステリマガジン』No.320(エラリイ・クイーン追悼特集、1982年)、123頁。

[iv] 「回顧座談会 クイーンの遺産」、127頁。

[v] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社1975年)、51-52頁。

[vi] 「回顧座談会 クイーンの遺産」、127頁。

[vii] まえがきで、JJ・マックがいいそうなタイトルだ、とエラリイがからかって持ち出す題名。ところで、最近、江戸川乱歩の随筆評論を読みかえしているが、いろいろと発見がある。「探偵小説の世界的交歓」というエッセイを読んでいたら、「私はアントン・チェーホフの探偵小説は短篇「スエデン・マッチ」(又は「安全マッチ」)しか読んでいなかった」、という一文が出て来た。チェーホフの「安全マッチ」は、乱歩編『世界短編傑作集』に収録されているので、承知していたが、「スウェーデン・マッチ」というタイトルとは知らなかった。『傑作集』で確認してみると、ちゃんとThe Swedish Matchという英訳題名(?)がついている。『スウェーデン・マッチの謎』という題名は、JJ・マックまたはエラリイの口から出まかせと思っていたのだが、チェーホフの小説題名に引っ掛けたものだったのですね。スウェーデンがマッチ生産大国だというのも初耳で、数十年たって初めて知った「驚くべき真相」だった。江戸川乱歩『子不語随筆』(講談社文庫、1988)216頁、江戸川乱歩編『世界短編傑作集1』(創元推理文庫1960年)、61-93頁。

[viii] 『途中の家』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、361-62頁。

[ix] 同、371頁。エラリイは、保険証書を見ることが二重生活を知る唯一の手段だ、と述べているが、やはりここは、ルーシィを犯人に見せかけるためには、と言うべきだろう。

[x] 同、376-77頁。

[xi] 都筑道夫『推理作家の出来るまで』(下巻、フリースタイル、2000年)、518-21頁。

[xii] 飯城雄三『エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、83頁。

[xiii] 『途中の家』、199234-35頁。

[xiv] ・・・と思って確認したら、『十二人の怒れる男たち』のほうが後だった(1957年)。まさか、映画のほうがクイーンの本書からヒントを得たのか?

[xv] 『災厄の町』(越前敏弥訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2014年)、9頁。

[xvi] 『途中の家』、87214頁。

[xvii] 同、215頁。

[xviii] ジョン・ディクスン・カー『四つの凶器』(1937年)。