横溝正史『八つ墓村』

(『八つ墓村』、『夜歩く』のほか、A・クリスティの『ABC殺人事件』の内容に言及しています。)

 

 『八つ墓村』(1949-51年)は、横溝正史の代表作であると同時に、『犬神家の一族』と並んで、日本で最も名の知られたミステリ長編の一つだろう。

 ストーリーの面白さについては多言を要しないし、映像化にも適していることから、多くの映画、テレビ・ドラマが作られている。

 また本作が、坂口安吾の『不連続殺人事件』(1947-48年)に触発されたことは有名であり、冒頭の大量殺人事件の描写が現実の津山事件(1938年)を下敷きにしていることも周知のことであろう。

 以上のように、『八つ墓村』については、作品の成立や背景をめぐる話題に事欠かない。

 しかし、本作の本質がパズル・ミステリと伝奇冒険小説の統合にあることは、十分には論証されてこなかった。横溝正史の、しかも金田一耕助シリーズ作品であるから、当然、いわゆる本格探偵小説に分類されてきたものの、プロットは「捜査」や「推理」よりも、「冒険」や「怪奇」に傾いている、というのが従来の大方の評価であり、『本陣殺人事件』『獄門島』で日本の本格探偵小説の革新を担った著者が方向転換をはかった作品というのが、本書の位置づけであった。

 そうした定説に対し、本書の本格探偵小説としての側面を強調して、改めて、本作が本格ミステリと伝奇ロマン小説のハイブリッドである点を強調したのが、出版芸術社版の浜田知明による解説である。

 浜田は、本作のちょうど半ばあたりの「久野おじの逃亡」の章までで、犯人を推理する手がかりは出つくしていて、

 

  ここで金田一耕助が提示したポイントをきちんと考察していけば、犯人を論理的に

 指摘することは十分可能な構成になっている[i]

 

と喝破している。

 実際、その前の「四番目の犠牲者」の章、主人公の寺田辰弥が森美也子とともに、梅幸尼の死体を発見する場面で、主人公が見つけた紙片が[ii]、犯人を特定する推理の決定的データとなる。その紙片には、それまでに殺害された被害者の名前とこの後殺害されるかもしれない人物の名が記されており、八つ墓明神の祟りという、連続殺人の(表層的な)動機を暗示する重要な手掛かりである。いかにも横溝らしい奇怪な殺人動機であるが、読者は、怪奇冒険小説を書く際の作者の手際に幻惑されて、この紙片が発見された意味を見落としがちになる。その後の、本来、殺されるはずのなかった濃茶の尼殺害の理由を含めて、ここで作者は大胆かつ巧妙に推理の材料を晒しており、いわば危険な綱渡りをしている。

 浜田が指摘しているとおり、作品の半ばまでで犯人推理の手掛かりが出尽くすと、以降は、伝奇冒険小説の味が強まり、そのまま終盤になだれ込んでいく構成となっている[iii]。犯人を特定するためのデータは、ほぼこの紙片の発見のみであり、その点で、パズル・ミステリとしてはやや物足りないが、海外作品の例で言えば、アール・デア・ビガーズの『チャーリー・チャンの活躍』(1930年)[iv]なども、ほぼ単一の手掛かりによって、犯人が指摘される。まして、本作が謎解きミステリと冒険小説の融合という独創的な構想に基づいていると考えれば、やむを得ないかもしれない。伏線や手がかりを増やせば、今度はパズル・ミステリの比重が大きくなりすぎてしまっただろう。

 通常のパズル・ミステリであれば、犯人を特定するデータが出た段階で、犯人指摘へと進んでいけばいいのだが、本作の構成上そうはならず、そのため、犯人を突き止めたはずの金田一がその後の連続殺人を傍観することになり、彼の名探偵としての評価を下落させ、「迷探偵」扱いされる要因となってしまった。

 金田一が犯人指摘に踏み切れなかったのは、結局動機が突き止められなかったから、と説明されるが、作者の理由はもちろん別のところにあり、連続殺人の中盤で犯人が指摘されてしまっては、主人公の出生の秘密や里村典子との恋愛、宝探しなどの決着がつかないまま終わってしまう。作者としては、どうしても犯人暴露を先延ばしにして、伝奇冒険小説としてのクライマックスを派手に演出したいところである。それは最後に鍾乳洞での殺人と追跡、落盤と救出という形で果たされるわけだが、その代わり、金田一の名探偵振りは犠牲にされてしまった感がある。

 もっとも、紙片の発見だけでは、厳密には、犯人特定には不十分である。紙片を置いたのは死体を発見した二人のうちのいずれか、という金田一の推理は説得力があるが、その二人、すなわち主人公の辰弥と森美也子のどちらが犯人かを決定するデータは出されていない。金田一は、「・・・二人のうちのどちらかが、こっそり落としておいて、あとの一人に発見させる。犯人はこれほどいい時期はないと思って、そのとおり実行した」[v]、と説明するが、心理的には納得できるとしても、論理的には完璧ではない。犯人は、あそこに紙片が落ちている、などと呼びかけて、一緒に拾う段取りにすればよく、相手に拾わせる必要はない。もっとも、達也は実際にはそのような行動を取っていないから、それは彼が犯人ではない証拠だ、ともいえるが、やはり論理的に絶対とはいえないだろう。しかし、金田一が、美也子を犯人と推理したのには、さらなる理由があった。実は金田一はすでに彼女が犯人ではないか、と疑っていたのだ。美也子に殺人の前歴があるらしいとの情報を依頼者から得ていたのだが、それは読者には知らされていない。その代わり、読者には、この段階で金田一には知り得なかった、辰弥が犯人ではない決定的な情報が与えられている。本作が他ならぬ辰弥の手記の形で書かれており、冒頭で、すでに事件は終結して、辰弥は犯人ではないことが明らかにされているからである。しかし、犯人を特定するためのデータは、本来ストーリーのなかで提示されなければならず、物語の外部で手がかりが示されるのでは、フェアとはいえない。

 言い方を変えれば、本作の犯人特定の推理には、「探偵は知っているが読者は知らないこと」と、「読者にはわかっているが、探偵には知り得ないこと」がそれぞれあって、探偵と読者は対等に犯人当てを競うことができないのである(いや、それとも、これはこれでフェアなのか)。

 その意味で、本作の犯人を特定する推理は不完全であるが、すれっからしのマニアであれば、実は手記の作者である辰弥が犯人であり、冒頭の記述にはアクロイド的な叙述トリックが仕掛けられていると勘ぐるかもしれない。紙片の発見は、辰弥が犯人である可能性も示唆しているからであり、金田一も辰弥にいっぱい食わされた、という解釈が考えられるからである[vi]

 もちろん結末はそんなことにはならず、辰弥は典子と幸せな新生活を送るであろうことが示唆されて、小説は終わる。

 しかし、本作が一人称の手記の形式を取っていることは、また別の想像をかき立てる。本作よりも先に連載が開始され、しばらく並行して連載された『夜歩く』(1948-49年)が、やはり一人称の手記の形式で書かれているからである。しかも、『夜歩く』の場合は、記述者が犯人なのである。

 この二作の並行連載は、はなはだ興味深い。無論、『夜歩く』は、最初から「記述者=犯人」というアイディアで構想されたと思われるが、『八つ墓村』を、同じく一人称小説としたのは、恐らくそのほうが主人公の焦燥や恐怖が読者にダイレクトに伝わると考えたからだろう。とすると、『八つ墓村』の冒頭に主人公の回想を置いたのは、『夜歩く』は「記述者=犯人」のアイディアを用いるが、『八つ墓村』で同じ手を使う気はない、という作者のフェア・プレイの精神を暗に示しているのだろうか。上記に示したような、実は金田一もだまされていた、というような結末は、横溝正史らしくはない。彼はそこまで人が悪くない(だろう)から、『八つ墓村』の冒頭の回想は、「記述者=犯人」のトリックを疑わずに作品を楽しんでください、という作者のメッセージなのかもしれない。

 しかし、あるいは作者は、先行する『夜歩く』が一人称小説で、しかも「記述者=犯人」のアイディアであることを踏まえて、あえて『八つ墓村』でも一人称の手記の形式を採用したという可能性もある。つまり『夜歩く』の「記述者=犯人」のアイディアをカヴァーするために、『八つ墓村』も一人称形式にした。「記述者=犯人」のトリックを隠すために、一人称の小説を複数書いた。すなわち、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』の応用である。しかし、複数の作品にまたがるトリックを仕掛けるとは新機軸だ。

 当時の出版事情を考えると、両方の長編を読んでいる読者がどれほどいたのかわからないが、少なくとも同業作家達の何人かは読んでくれているだろう、と作者は想定していたはずである。とすれば、平行連載されている二つの長編が相互にミスディレクションとなるという前代未聞のアイディアもまんざらありえないことではない。しかし、横溝正史は、さすがにそこまで突き抜けたアイディアは実行しないだろうか。とはいえ、そのような空想が可能になるのも、本作(および『夜歩く』)の面白さのひとつではある。

 最後に蛇足をひとつ。本作冒頭の主人公辰弥の回想部分、ことに母の思い出を語る箇所[vii]は、横溝の書いたなかでも最も美しい文章だと思う。

 

[i]八つ墓村』(出版芸術社、2007年)、377頁。

[ii] 同、135頁。

[iii] 同、377-78頁。

[iv]チャーリー・チャンの活躍』(創元推理文庫、1963年)。

[v]八つ墓村』、330頁。

[vi] 美也子は、殺人を告白しているではないか、というかもしれないが、あれは、金田一が、里村慎太郎が犯人にされるよ、と美也子を脅したから、仕方なく罪をかぶったのだ、とも取れる。ひどいよ、金田一君。

 「いや、美也子は、田治見春代を殺そうとして、指を噛み切られていますよ。」

 「そんなことは何でもない。春代は、もともと美也子が嫌いだったんだよ。あれは、口からでまかせだ。」

 「しかし、春代が犯人に殺害されたのは明らかでしょう。」

 「じゃ、美也子と辰弥の共犯だったんだ。」

 「・・・美也子と辰弥が共犯だとしたら、証拠となる紙片を一方が落として、もう一人に拾わせるような芝居をするはずないでしょう。」

 「あれは、辰弥の手記だからねえ。美也子に全部おっかぶせることができる、と思ったから、嘘を書いたんだろう。」

 「しぶといなあ・・・。」

[vii]八つ墓村』、19頁。