横溝正史『悪魔が来りて笛を吹く』

(本書のほか、J・D・カーの長編小説のトリックに言及しています。)

 

 『悪魔が来りて笛を吹く』は、横溝正史が代表作と自負する長編である。1976年頃のエッセイで、自作のベストを選定するにあたって、田中潤司の選んだ5作(『獄門島』『本陣殺人事件』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』『八つ墓村』)を妥当としたうえで、その次に本作を挙げている[i]。しかし、恐らくこの順位は作者の本意ではない。少なくとも、作者が愛着をもっていたのは、『犬神家の一族』よりも『悪魔が来りて笛を吹く』のほうだろう。それは、本作の連載に並々ならぬ意欲を見せていたことや、構想の段階で実に多くの素材-モンタージュ写真、旧貴族の退廃、動機となる男女関係、フルートの楽譜など-を組み合わせて全体を構想していること、そして何よりも『宝石』誌に二年余りに渡って連載したことに現れている[ii]。作者としては、『本陣殺人事件』や『獄門島』の路線を継承する本格ミステリ長編として位置付けていたのだろう。

 しかし、作者が「組み立てのガッチリした、本格的な探偵小説」[iii]を目指しながら、江戸川乱歩高木彬光による評価が、必ずしも作者の意図に呼応していないことは、『横溝正史自選集』解説の浜田知明によっても指摘されている[iv]。その一方で、浜田は、作者のいう「細部にいきわたった・・・緻密さ」[v]、すなわち細かな謎が事件が起こるたびに提示されることで、「論理的緊張感が持続している」、「本格探偵小説の妙味を感じさせる」、と評価している[vi]

 確かに、本作のパズル・ミステリとしての魅力の一端は、三重殺人事件[vii]のそれぞれについて、細かな謎やトリックが配置されている点にあるだろう。そのあたりの手の込み方は、『犬神家の一族』や『女王蜂』を上回っており、作者が自負するだけのことはある。その割に、本作のメイン・トリックである密室の謎は、あまり言及されない[viii]。『僕たちの好きな金田一耕助』では、「小粒ながら『密室』というおまけつき」[ix]、と「おまけ」扱いされている。

 しかし、本作の密室トリックはなかなかよく考えられている。完璧な密室ではなく、江戸川乱歩の『魔術師』のような、扉の上に腕が通せるぐらいの隙間のある部屋で、その隙間を使って外からドアを施錠することが可能である。それを蓋然性が低い、という理由で一旦否定したうえで、最終的には、その隙間を利用した殺害方法を提示している。なかなか巧妙である。不可能興味が薄いため、印象は強くないが、『本陣殺人事件』や『蝶々殺人事件』を経て到達した、考え抜いたトリックだったのだろう。トリック分類としては、「犯人が密室内にいなかった」、あるいは「密室外から被害者を殺害する」という類型で、横溝がジョン・ディクスン・カーの虜になるきっかけとなった有名作も同じタイプである[x]

 この解法では、犯人が密室内にいたように見せかける必要があるが、作者は、砂占いの砂に残された血染めの文様の出現について、かなり手の込んだ手順を考えることで、この課題をクリアしている。さらに、本作の場合、被害者は絞殺されているが、その前に額を殴打された形跡が残っている。この犯人の被害者に対する襲撃と殺人が一連のものと思わせ、しかし、実際には、その間に時間差があるというのがトリックの要になっている[xi]。室内で乱闘があった後、一旦、犯人は被害者を残して立ち去ろうとする。被害者が内側から鍵をかけて密室が成立するが、その後、犯人が室外から内部の被害者を殺害し、室内に乱闘のあとが残っているために、殺人もそこで起こったように見えるというものである。何段構えかのトリックであるので、かなり細かく組み立てられているが、逆にトリックの説明が複雑になりすぎて、読者をあっと言わせる単純明快さに欠ける結果になってしまったようだ。そのうえ、せっかく張った伏線が回収されていないのは、どうしたことか。うっかり忘れたのだろうか。それとも、解説しなくとも、読者はちゃんと読みとって感心してくれると買いかぶったのか[xii]。ともあれ、本作の密室トリックは、分類好きのマニアにとっては興味深いが、トリックそのものの効果は今一つだったということになりそうである。

 といっても、本作の構想の中心は動機の解明にある。そして乱歩や高木が、パズル・ミステリの本道から、ややはずれたものと本作を見なしているのも、この中心テーマに原因があった、と考えられる。その点で、「本格探偵小説の枠組みと道具立てを備えながら、しかしその中核はスリラーである」という浜田の評言は本質を突いている[xiii]。本作はパズル・ミステリになりにくい、もしくは、なりえないテーマを力技でパズル・ミステリに仕立てようとした作品なのである。

 中心テーマは、近親相姦による「血の悲劇」で、デュ・モーリアの『レベッカ』のようなゴシック・ロマンスにこそふさわしい。しかし、このような特異な人間関係は、物的データによって論証できるものではないので、結局目撃証言や当該人物による告白によって明らかにするほかはない。犯人の動機も、わかったような、わからないような、複雑な心理によっており、いくら復讐欲に駆られていたにしても、実の両親と祖父をこうもあっさり殺害する気になるものだろうか。そもそも復讐といっても、見方を変えれば、八つ当たりのようなもので、動機から、この犯人を推理するのは難しそうだ。どちらにしても、このような秘密の関係も犯人の動機も、推理で解明できるものではないので、金田一の推理も暗示やほのめかしにとどまってしまっている。本作半ばで、金田一が同行の刑事と関西方面に出張捜査に出かける珍しい場面が描かれるが、ここだけ見れば、足で調べる(金田一はあまり歩かないが)私立探偵小説のようである。つまり本作の中心となる殺人動機の謎は、本来サスペンス・ノヴェルか、よりミステリらしい形式で書くのであれば、ハードボイルド・ミステリのほうに適合する。動機の解明が犯人の告白によらなければならなかったのも、探偵の説明では、犯人の殺人動機に説得力をもたせられないからだろう。

 もっとも、この犯人の告白こそが、作者が書きたかったものであったろうし、本作の読みどころであるのは事実である。犯人による秘密の暴露から告白文に移り、事件が落着した後の登場人物達のその後を語った後、再び犯人の最後の独白に戻るという段取りは、恐らく考え抜いた挙句、あのような順序になったものだろう。もちろん、作者としては、もっとも自信をもっていたフルートの謎解きで、小説を締めくくらせたかったのだろうし、その狙いは充分に果たされている。

 『悪魔が来りて笛を吹く』は、パズル・ミステリの技巧で天才を発揮していた著者が、物語作家としての本質を生かして、ゴシック・ロマンスとのハイブリッドとしてまとめあげた長編であるが、作者本人はその異色さに気づかなかったかに見える特異な小説である。とすれば、本書の本格ミステリとしての異質性は偶然の産物だったことになるが、いずれにしても、本作は『八つ墓村』と並び、日本ミステリ史上、稀有な作品のひとつに数えられるだろう。

 

[i] 横溝正史『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、96-97頁。金田一耕助ものに限定したベストで、それ以外の作品を入れるのであれば、『蝶々殺人事件』も入る、と断っている。同、183頁。

[ii]横溝正史自選集5 悪魔が来りて笛を吹く』(出版芸術社、2007年)、331-42頁、横溝正史「探偵小説の構想」『横溝正史探偵小説選Ⅲ』(論創社、2008年)、588-94頁。

[iii]横溝正史自選集5 悪魔が来りて笛を吹く』、331頁、「探偵小説の構想」、588頁。

[iv]横溝正史自選集5 悪魔が来りて笛を吹く』、361-62頁。

[v] 同、334頁、「探偵小説の構想」、590頁。

[vi]横溝正史自選集5 悪魔が来りて笛を吹く』、363頁。

[vii] 中心となる椿子爵邸における連続殺人。このほかに、淡路島における尼殺し、増上寺における顔をつぶされた死体が加わるので、かなりの大量殺人である。

[viii] 作者は、本作の「一番大きな」トリックを、フルートの楽譜を使ったそれと見ているようだが、これはトリックというよりアイディア、もしくは最後のオチのようなものだろう。手がかりとなる楽譜が示されていないから、なおさらそのように見える。同、335、338、342頁。

[ix]別冊宝島1375号 僕たちの好きな金田一耕助』(宝島社、2007年)、32頁。

[x] 『プレーグ・コートの殺人』(1934年)。

[xi] この点では、ガストン・ルルーの古典、『黄色い部屋の謎』を連想させる。

[xii] 最初に密室内に入った人物が、「とたんに椅子につまずいてひっくりかえった」、と証言しているのは、殺人方法を推理するのに必要な重大な手掛かりのはずだが、金田一探偵はまったく触れていない。また被害者の顔の血をふき取ったハンカチが現場に残されており、これも重要な手掛かりだが、そして金田一もその理由を問うているにもかかわらず、解決の際には、「そんな血だらけの姿でこちら・・・・・・のそばへかえっていくことを、憚る気持ちもあったのでしょう」、としか語らず、ハンカチに言及していない。ここは、「ハンカチに血がついていたのは、被害者が、自ら血を拭きとったことを暗示しています。すなわち、格闘後もまだ被害者は生きていたのです」、という金田一の説明が欲しいところだ。『悪魔が来りて笛を吹く』(角川文庫、1973年)、101-102、118、405-406頁。

[xiii]横溝正史自選集5 悪魔が来りて笛を吹く』、365頁。