横溝正史「黒猫亭事件」

(「黒猫亭事件」のほか、『白蠟変化』、『夜光虫』、『真珠郎』、『双仮面』、「神楽太夫」、『夜歩く』、『悪魔の手毬唄』、『白と黒』の横溝作品、およびG・K・チェスタトン「折れた矢」、A・クリスティ『ABC殺人事件』、E・クイーン『エジプト十字架の謎』、M・ルブラン『金三角』、高木彬光『魔弾の射手』の内容に触れています。)

 

 「黒猫亭事件」は、横溝正史の戦後の中短編のなかでも5指に入る傑作といえよう。ちなみに他の4編は、・・・適当に選んでください。

 本作は、「顔のない死体」というミステリの典型的なトリックをテーマに書かれた中編で、最初にトリック論が作者と作中探偵の金田一耕助との対話という形で語られている。トリック論といっても、最もポピュラーなトリックである「一人二役」「密室」と合わせて、「三つの型」として検討されているに過ぎないが、最初から「顔のない死体」をテーマとすることを宣言して、さらに、通例、被害者と加害者が入れ替わっている、と基本パターンを明かしたうえで読者に挑戦しているわけであるから、相当な自信であるし、メタ・ミステリ的な趣向でもある[1]。中編ではなく、本作のアイディアをもとに長編を書くこともできたろうが、そうなると、やはり人物関係を複雑にして幾つものエピソードを入れざるを得ないし、他のトリックも工夫しなければならなくなる。本作の場合、「顔のない死体」テーマに集中したかったのだろう。並々ならぬ作者の意気込みを感じさせる。

 上記の対話のなかでは実例が挙げられていないが、周知のように、「顔のない死体」は作者のお気に入りの、あるいは得意のテーマないしトリックである。最初に用いられたのは『真珠郎』(1936-37年)[2]だろうが、同作はエラリイ・クイーンの『エジプト十字架の謎』(1932年)を下敷きにしている。『エジプト十字架の謎』は、「顔のない死体」としては定型どおりの「被害者と加害者の入れ替わり」だが、首を切り取られた殺人が複数起こり、そのうちの幾つかのみで「入れ替わり」が行われる、という工夫をこらしている。この複数化のアイディアは、G・K・チェスタトンの短編「折れた矢」(1910年)の応用とも取れるし、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』(1935年)を連想させる。『真珠郎』の場合、最初の殺人で首の切断が行われるが入れ替わりはない。続く殺人で被害者と加害者が入れ替わる、という、事前工作のための殺人で、『エジプト十字架』に比べて、シンプルな作りになっている。

 『真珠郎』とほぼ同時連載の『夜光虫』(1936-37年)[3]でも同様のトリックが使われるが、こちらはモーリス・ルブランリュパンものの長編『金三角』(1918年)の模倣で、オーソドックスな被害者・犯人の入れ替わりである。両作に先立つ『白蠟変化』[4]でも、顔のない死体ではないが、被害者・犯人入れ替わりのトリックが使用され、両作に続く『双仮面』[5]も、やはり顔のない死体ではないが、入れ替わりトリックが用いられている。確かに戦前の作者は、顔のない死体を含めた、広義の一人二役に属する入れ替わりトリックに拘っていた。あるいは、これが使い勝手のよいトリックだったのかもしれない。

 戦前のこれら長編は、いずれも定型通りの顔のない死体トリックを用いており、その点で、新味はない。このことが「黒猫亭事件」での「犯人と被害者いれかわり、という公式的な結末以上の結末をもって、探偵小説の鬼どもを、あっといわせたくてたまらないんですよ」[6]、という発言につながったのだろう。

 しかし「黒猫亭事件」の前年、戦後短編の第一作でもある「神楽太夫」(1946年)[7]は、「顔のない死体」テーマで、「公式的な結末」ではない新機軸を打ち出している。といっても、極めて単純なアイディアで、顔のない死体の被害者と思われた人物、犯人と目された行方不明者の双方とも殺害されており、犯人は別にいた、という解決である。この「どちらも殺されていた」という解決法は、この後の『夜歩く』(1948-49年)でメイン・トリックとして使用されており、「黒猫亭」とともに、横溝の発案したヴァリエーションの一つと言える。主要長編では、この後、『悪魔の手毬唄』(1957-59年)、『白と黒』(1960-61年)が顔のない死体を扱っている。前者では、被害者が一人二役を演じていたため、彼が殺された結果、架空の人物が犯人と疑われる、という解決で、効果的に使われているが、高木彬光の長編に先例がある[8]。後者は、入れ替わりのトリックではなく、身元を隠すためという解決である。

 以上のように、横溝正史は、その長い作家生活を通じて、常に「顔のない死体」テーマに取り組み続けたといってもよい。それでは、なかでも最も意欲的に挑戦したとみえる「黒猫亭事件」のアイディアとはどのようなものだったか。

 本作の解決法は、犯人が一人二役を演じ、まったく別の人物を殺害しておいて、自分が殺されたように装い、架空の人物が犯人であるようにみせる、というものである。随分ひねったものだが、確かに新しいヴァリエーションではある。しかし、犯人の一人二役は伝聞のかたちでしか情報が伝えられない(実際の登場シーンはない)ので、あまり描き分けがうまくいっていないし、結局死体が必要になるのだから、これほどややこしいトリックを弄さずとも、死体の身元を分からなくするだけでよいのではないか、という常識的疑問を感じさせなくもない。このトリックの裏返しともいえる『悪魔の手毬唄』では、被害者が一人二役を演じるが、長編だけあって、実際は同一人物である二人の特徴がある程度書き分けられていた。「黒猫亭事件」は中編であるため、展開が急で、トリックのみが浮き上がる印象になってしまった感がある。

 しかし、本作の読みどころは、トリックそのものよりも、そのカヴァーの仕方にある。

 上記の、本作冒頭の対話で、最初から「顔のない死体」を論じるのではなく、わざわざミステリの三大トリックとして「一人二役」「密室」「顔のない死体」を挙げて、そのなかからとくに「顔のない死体」を取り上げる、という書き方をしているのが工夫である。次のように。

 

  しかし、この三つの型を子細に調べてみると、そこに大きな相違があることに気が 

 つく。と、いうのは、「密室の殺人」や「顔のない屍体」は、それが読者にあたえら

 れる課題であって、読者は開巻いくばくもなくして、ははア、これは「密室の殺人」

 だなとか、「顔のない屍体だな」とか気がつく。しかし、「一人二役」の場合はそう

 ではない。これは最後まで伏せておくべきトリックであって、この小説は一人二役

 らしいなどと、読者に感付かれたが最後、その勝負は作者の負けである。・・・[9]

 

 このように書いておいて、作者は、さらに「密室の殺人」と「顔のない死体」とはまた大いに異なっている、と話を続けるのだが、本作の最後、金田一に語らせる形で、こう述べている。

 

  ・・・結局この事件も、あなたのおっしゃる「顔のない屍体」の公式を、大して外

 れているわけじゃなかったのですが、そこへ一人二役という、別のトリックがからん

 で来たから、事件が複雑になったのです。あなたはいつかおっしゃった。一人二役

 最後まで、伏せておくべきトリックであって、それを読者に観破されたら作者の負け

 であると。・・・あなたはこの一人二役を見破ることが出来ましたか。・・・[10]

 

 すなわち、冒頭の対話は「顔のない死体」テーマについて語ると見せかけて、実は、本作のメイン・トリックである「一人二役」の伏線になっている、というわけである。しかも、「一人二役」トリックをついでのように取り上げて、「顔のない死体」「密室」と並べたうえで、本作は「顔のない死体」がテーマであると宣言する。それによって、「一人二役」トリックから読者の注意をそらす効果を狙っている[11]

 もっとも、伏線とはいっても、この対話から「一人二役」トリックが見破れるというものではない。最後の金田一の手紙も、作品のオチのようなものである。しかし、このような作者の機知ないしはミステリ・センスと呼べる要素こそが、戦前の日本の探偵小説に決定的に欠けていたものである。欧米のミステリならなじみ深い、作者と読者の間のある種の共犯関係、あるいは、互いの目配せのようなウィット。

 そうしたミステリ・センスが、戦後間もなくのこの時期に書かれた多くの横溝作品に横溢している。それが横溝正史のミステリが革新的だった最大の理由だと思うが、その最たる例が、この「黒猫亭事件」と言えるのである。

 

[1] 「黒猫亭事件」『本陣殺人事件』(角川文庫、1973年)、285-88頁。対話のもととなるのは、「私の探偵小説論」『横溝正史探偵小説選Ⅰ』(論創社、2008年)、495-508頁、『真珠郎』(扶桑社文庫、2000年)、451-68頁。

[2] 『由利・三津木探偵小説集成1 真珠郎』(柏書房、2018年)、317-458頁。

[3] 『由利・三津木探偵小説集成2 夜光虫』(柏書房、2019年)、5-160頁。

[4] 『由利・三津木探偵小説集成1 真珠郎』33-165頁。

[5] 『由利・三津木探偵小説集成3 仮面劇場』(柏書房、2019年)、5-108頁。

[6] 『本陣殺人事件』、288-89頁。

[7]横溝正史ミステリ 短編コレクション3 刺青された男』(柏書房、2018年)、7-23頁。

[8] 高木彬光『魔弾の射手』(1950年)。

[9] 『本陣殺人事件』、286頁。

[10] 同、405頁。

[11] この発想は、ジョン・ディクスン・カーによる『三つの棺』のなかの「密室講義」を思わせる。「密室講義」も読者を誤導させるためのトリック論だった。正史が、果たして『三つの棺』からヒントを得たのか、わからないが、偶然とすれば、さすが正史の発想力は、カーにひけを取らない。