J・D・カー『喉切り隊長』

(犯人を名指しはしていませんが、気づかない人はいないでしょうね。)

 

 『喉切り隊長』(1955年)は、ディクスン・カーの歴史ミステリのなかでも、もっとも「ミステリ」らしい作品といえそうだ。ただし、パズル小説ではなく、スパイ小説である。ジョゼフ・フーシェが登場するせいもあってか、対するイギリスのスパイ、アラン・ヘッバーン(日本では、正しくなくとも、ヘップバーンのほうが馴染みがありますね)、フーシェ配下の女スパイ、イダ・ド・サン=テルム、アランの妻マドレーヌの四人が、全編にわたって、腹の探り合い、騙し合いを展開する。ジョン・バッカンやエリック・アンブラ―を研究したのだろうか。

 ナポレオン戦争さなかの1805年8月、あのトラファルガー海戦の数か月前に、イダの手管に惑わされ(たふりをした、と後で判明)、捕らえられたヘッバーンと、同じくイギリスのスパイと疑われて、フーシェの前に引き出されたマドレーヌは、ブーローニュの野営地に集結したフランス軍の間で、兵士が次々に「喉切り隊長」と名乗る怪人物によって殺害されていることを知らされる。フーシェから、スパイ容疑を見逃す代わりに、喉切り隊長を逮捕するよう持ち掛けられたヘッバーンは、マドレーヌの命を救うために、申し出を受け入れ、人質扱いのマドレーヌ、彼女の監視役のイダ、そして自身の監視役のギー・メルシエ大尉の四人で、ブーローニュへと向かう。

 ヘッバーンは、イギリスにいたとき、マドレーヌがフランスのスパイだと仲間から忠告され、泣く泣く彼女を置いてフランスへと渡った経緯がある。マドレーヌは、ひたすらアランを愛している、というカー作品では恒例の純情ヒロインだが、一方、アランをだましたくせに、彼に魅かれている、という、こちらもカー長編ではお馴染みの、面倒くさい美女のイダがアランを我が物にしようと、色々と画策する。二人の美女の、愛想のよい笑顔の裏で、テーブルの下では互いに相手の足を蹴り合っている女の戦いも見ものである。実は、ヘッバーンには、ナポレオンのイギリス侵攻計画の意志を突き止め、本国にそれを伝える使命がある。そして、彼に喉切り隊長の捕縛を命じたフーシェにも何やら思惑がありそうで、関係者がいずれも腹に一物抱えているという設定である。

 本書は、この基本設定で押しまくっており、従って、いつもの歴史ミステリなら必ず出てくる主人公と敵役の決闘シーンもない。いや、ないわけではなくて、ハンス・シュナイダーという、フランス軍きっての剣豪がいて、いかにも、最後はヘッバーンとやり合うぞ、と期待させるのだが-事実、ヘッバーンは剣のチャンピオンという、カー得意の無駄な設定がついていて、ひと合戦ありそう、と思わせる-、案に相違して、そうはならない。終盤、ナポレオンのイギリス侵攻計画断念の証拠を掴んだヘッバーンを追って、シュナイダーが迫る。両者、なぜか剣ではなく、銃を構えて対決するが、銃声とともに落馬したシュナイダーは、そのまま絶命する。しかし、撃ったのはヘッバーンではないのだ。誰が狙撃したのかもはっきりしないまま、小説も終わる。とんだ肩透かしだが、作者も、ここは読者の予想をはずしてやろう、と思ったのだろうか。それとも、本書はそうした冒険活劇ではない、という意思表示なのだろうか。

 このように、本作は、いろんなことの決着がつかないまま、あるいは、関係者の真意が不明確なまま、作品が終わってしまう。

 ヘッバーンは、ナポレオンのイギリス侵攻計画がオーストリアおよびロシア遠征へと変更されたことを、イギリス艦へ手話で合図することに成功する。最大の見せ場であるが、ところが、情報を受信した艦船が、あろうことか、フランス軍の攻撃に無意味に応戦して撃沈されてしまう。つまり、ヘッバーンの任務は失敗に終わるのだが、この後、史実では、言うまでもなく、ネルソン率いるイギリス艦隊が、トラファルガー沖で、フランス=スペイン艦隊を撃破して、イギリスの制海権を守り、ナポレオンのイギリス侵攻を阻止する。結果的に、ヘッバーンの任務失敗は、歴史には影響しなかったようなのだが、この辺の歴史には詳しくないので、ヘッバーンの使命達成のもつ意義がよくわからない。

 また、喉切り隊長、というか、殺人の実行犯が誰かは、作品半ばで、シュナイダーだ、とヘッバーンが明らかにしてしまう[i]のだが、その前に、喉切り隊長が殺人現場に残していった「ごきげんよう、喉切り隊長」と書かれた紙片を検討する場面で、「喉切り隊長」の綴りがCaptain Cut-throatではなく、Captain Cut-the-throatであることから、犯人はイギリス人である、と推理し、しかも、そのことにフーシェは気づいているはずだ、と述べる箇所がある[ii]。ところが、最後、任務失敗で意気消沈するヘッバーンに向かって、フーシェは、犯人(真の犯人。イギリス人ではない)は最初からわかっていた、と得意気に言う[iii]。これは、ヘッバーンの憶測がはずれていた、ということなのだろうか。それとも、最初はフーシェも、喉切り隊長はイギリス人だ、と思っていたのか(「最初から知っていた」、というのはフーシェの見栄だった?)。確かに、フーシェの推理を聞くと、犯人が誰かを知ったのは、ヘッバーンが出発してから後のようだが[iv]

 ところで、そもそも、このCaptain Cut-throatとCaptain Cut-the-throatのくだりが、どうもよくわからない。紙片はフランス語で書かれていたのではないのだろうか。ヘッバーンが、フランス人ならCaptain Cut-the-throat と書くはずがない、成句であるCaptain Cut-throatと書かなかったのは、フランス語に不慣れなイギリス人であることを示している(とフーシェは推理した)、と語る[v]のだが、フランス語で該当する言葉を、カーが英語のCut-throatに翻訳した、という理解でいいのだろうか(Trancher-gorgeとか?)。本書は、当然のことながら、英語で書かれているので、混乱するのだ。英語のCut-throatは単なる「人殺し」の意味らしい。従って、ヘッバーンの「殺人鬼は文字通り喉を切ってるわけではない」[vi]という言葉も意味が通じるのだが、しかし、もともとフランス語で書かれた紙片だったのではないのだろうか。イギリスやアメリカの読者は、この説明を読んで首をひねったりはしないのか。

 さらに疑問なのは、最後にフーシェがキレて、ヘッバーンに喉切り隊長の正体を口走ってしまうことだ。実行犯のシュナイダーが、フーシェが黒幕であるかのごとき偽の紙片を残していったために、それが真犯人の意志だと勘違いして激怒するのだが、こんな胡散臭い手掛かりに過剰に反応するのは、稀代の策士、怪人ジョゼフ・フーシェらしくないのでは。もっとも、こうでもしないと、(ヘッバーンは、犯人の見当がつかないらしいので)犯人を明らかにできる探偵役がいなくなってしまう。

 そしてそもそも疑問なのが、ナポレオンが喉切り隊長の逮捕をフーシェに命じたことだ。連続殺人事件に何も手を打たないわけにはいかないだろうが、実際にそうなったように、フーシェが真相を探り当ててしまったら、どうするつもりだったのだろう。フーシェを舐め過ぎだろう。英傑ナポレオンにしては、考えが浅いというか、それとも細かいことは気にしないから英雄なのか。それはまあ、イギリス側視点のカーの創作ではあるので、こうなるのも仕方がないと言えなくもない。(カーの描く)チャールズ2世だったら、こんなに浅はかじゃないよねえ。

 というわけで、いろいろ首を傾げる箇所はあるが、本書は、カー全作品中でも、飛びきりの手に汗握る面白い小説だ。最初から最後まで、クライマックスの連続である。

従来、『喉切り隊長』は、犯人の意外性で知られていた。一つの新しい型とも呼べそうな犯人像で、これは、短編で書いた『パリから来た紳士』[vii]の意外な探偵役を犯人に置き換えたら、という発想だったのだろう(もはや、ほぼネタ晴らししてしまった)。日本のある有名作に影響を与えたことでも知られている[viii]

 しかし、再読して強く印象に残ったのは、冒頭に述べたように、スパイ・スリラー的なプロットの妙味で、思い切って、わずか数日の出来事として組み立てられた筋書きが強烈な緊張感をもって読み手を惹きつける。作者も自信をもっていたらしい[ix]が、『赤い鎧戸のかげで』や『騎士の盃』など、いささかピントのずれた冗漫なミステリばかり書いていたカーの、これは『ビロードの悪魔』と並ぶ1950年代の代表作であることは間違いなさそうだ。

 ラスト、フーシェは、ヘッバーンに丸め込まれて、喉切り隊長の逮捕に失敗しました、ととぼけるつもりのようだが、喉切り隊長(実行犯)のシュナイダーが殺されたことを、すでに報告されているはずのナポレオンが、そんな弁解をすんなり受け入れるだろうか。むしろ、フーシェが密かに手をまわしてシュナイダーを殺させ、自分の前ではとぼけてみせている、と勘繰るのではないか。小説は、ナポレオンが登場したところで終わってしまうが、この後、両者の間で、一体どういう駆け引きが繰り広げられるのか、そっちの結末も見てみたかった。

 

[i] 『喉切り隊長』(島田三蔵訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、195頁。

[ii] 同、91、176頁。

[iii] 同、419頁。

[iv] 同、428-29頁。

[v] 同、176頁。

[vi] 同。

[vii] 1950年作。「黒いキャビネット」(1951年)もそうだろう。いずれも『カー短編全集3/パリから来た紳士』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1974年)所収。

[viii] 海渡英祐『伯林-一八八八年』(1967年)。

[ix] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、404頁。