横溝正史『女が見ていた』

(本書の内容に触れています。)

 

 『女が見ていた』(1949年)は、数多い横溝作品のなかでも、異色作という意味では筆頭に挙げられるだろう。

 金田一耕助や由利麟太郎のような名探偵もののシリーズではなく、しかも新聞小説である。本作について、解説を書いている中島河太郎は「スリラー」と呼び[i]二上洋一は「サスペンス・ミステリというか、ムード・ミステリというか」[ii]、と表現している。もうひとつ、本作について言われていることは、ウィリアム・アイリッシュコーネル・ウールリッチ)の『幻の女』(1942年)を模して書かれた、ということである。

 加えて、中島や二上が指摘しているのは、本作が、戦後の世相を背景に都会の日常のなかの殺人を描いていることで[iii]、戦後の東京を舞台にすることの少なかった横溝長編では、これも珍しい特徴といえる。作者自身、連載前の挨拶で、「平常な雰囲気の中に、謎を描いてみたい」「新聞の社会面にしょっちゅう現れているような事件をつかまえて来て、その中に大きな謎を空想してみたい」[iv]、と抱負を述べている。

 しかし、横溝の意欲に反して、本作が論じられることは少ない。『幻の女』に触発されたスリラーというのが、本作に対するステレオタイプ的な評言で、金田一耕助シリーズのようなパズル・ミステリの書き手と見なされる横溝にとって、変わり種の一作というのが一般的な受け止め方だろう。後の『白と黒』もそうだが、新聞連載でパズル・ミステリを書くことの難しさ、という、これもお決まりの指摘があり、それゆえアイリッシュ風のサスペンス小説が選択されたのだと見られてきた。あるいは、横溝正史の作風の広がりを称賛する際の実例として注目される、これが横溝作品における本作の位置付けであるように思われる。

 しかし、先に引用した、日常のなかに「大きな謎」を描いてみたい、という横溝の言葉を見落とすべきではないだろう。アイリッシュの作風について、「本格探偵小説としては、これがいま一番新しい型ではないか」[v]、と発言していることも重要である。つまり、アイリッシュの作品を「本格探偵小説」と捉えている、もしくは、アイリッシュのような作風で本格探偵小説が書ける、と横溝は考えているのである。

 1949年から1953年頃にかけては、『本陣殺人事件』や『獄門島』を完結して、横溝流パズル・ミステリを確立した時期にあたる。同時に、ミステリの様々な可能性に手を広げようとしていた時期でもある。それが本作のほかに、『びっくり箱殺人事件』(1948年)や『八つ墓村』(1949-51年)、さらに中絶したが『模造殺人事件』(1949-50年)や『失はれた影』(1950年)などに見て取れる。しかし、これらの諸作は、あくまで横溝にとって「本格探偵小説」の枠内で書かれているとみるべきである。

 すなわち『女が見ていた』についても、パズル・ミステリとしての側面をもっと重視すべきではなかろうか。

 本作のストーリーは、小説家の風間啓介が妻と争って、家を飛び出し、銀座で飲み歩くうちに、自分の後をつける三人の女に気づくところから始まる。ところが、その間に、自分の名前を使って呼び出された妻加奈子がキャバレーで殺害されたことを知り、そのまま逃走する羽目になる。啓介は、かつて彼に窮地を救われ、恩義を感じている田代皓三に助けを求め、後半は田代が中心となって、啓介のアリバイを証言できる三人の女を発見しようとする。ところが、彼女たちが次々に殺害されていく、というのが大筋で、確かに『幻の女』をなぞったストーリーである。プロットを『幻の女』におぶさっているという点で、本作は明らかに創意に欠ける。結末の意外性も、『幻の女』と比較するのが失礼なくらい、平凡である。

 とはいえ、本作は『幻の女』よりも、はるかにパズル・ミステリらしい。『幻の女』の意外性はスリラーとしての意外性だが、本作はそうした結末の意外性ではなく、推理の部分に多くの力が注がれている。

 本作は、金田一耕助のシリーズとは異なり、名探偵は登場しない。新聞小説では、名探偵による長い謎解きは不向きと判断した結果だろう。その代わりに、三人の登場人物が推理を分担している。最初が主人公の啓介で、彼は、第三の女との会話から、彼女たちが互いに連絡を取り合って自分を追跡していたことを田代に説明している[vi]。推理というには単純すぎる推測に過ぎないが、酔いつぶれていたとは思えない冷静な分析である。

 第二の推理は、事件当夜、主人公が出会った新聞記者の西沢がみせる。彼は啓介を憎んでおり、助けるよりも陥れようとしている。加奈子の葬儀の場でたまたま受け取った、三人の女からの啓介の無実を訴える手紙を、彼は紛失してしまうが、その後、手紙を手に入れた何者かが、それをそのまま握りつぶしてしまったことを知る。そこから西沢は、その人物こそが犯人ではないか、と考える[vii]。これも極めて単純な推理だが、この後、西沢は、手紙を手に入れた疑いのある人々の指紋を採取して、犯人を突き止めようとする。

 三番目の推理は田代皓三による。三人の女のうち、最後に残った女が犯人に拉致されたことを知った田代は、一度彼女が殺害されそうになったところを救った、容疑者のひとりでもある那須愼吉のもとにかけつける。そこで、田代は、那須が犯人を知っているはずだという推理を理路整然と説明するのである[viii]

 このように、本作は、いわば金田一が担当するような推理を、三人の主要登場人物に振り分けて探偵役を務めさせているのである。その推理は単純だが、この時期の作者に特徴的な機知に富んだものである。

 『女が見ていた』は、新聞小説という条件のもとで、スリラーの形式を取りながらパズル・ミステリの可能性に挑んだ意欲的な長編だったと言えよう。そしてその出来栄えは、この時期の作者らしい充実したものである。

 

[i] 『女が見ていた』(角川文庫、1975年)、353頁。

[ii] 二上洋一横溝正史作品事典」『幻影城 横溝正史の世界』(幻影城、1976年5月)、209頁。

[iii] 『女が見ていた』、353頁、『横溝正史の世界』、209頁。

[iv] 『女が見ていた』、352頁、横溝正史「新しい探偵小説」『横溝正史探偵小説選Ⅲ』(論創社、2008年)、586-87頁。

[v] 『女が見ていた』、352頁、『横溝正史探偵小説選Ⅲ』、587頁。

[vi] 『女が見ていた』、56-58頁。

[vii] 同、88頁。

[viii] 同、327頁。