ビー・ジーズ1971(1)

「傷心の日々」(1971.5)

1 「傷心の日々」(How Can You Mend A Broken Heart, B. & R. Gibb)

 「ロンリー・デイズ」から半年後に発表された、リユニオン後の2枚目のシングル。なぜこんなに間があいたのか不思議だが、モーリスのコメントによると、「ロンリー・デイズ」を作ったのと同じ日にこの曲をレコーディングした[i]、という。しかし「傷心の日々」のレコーディングは知られる限りでは、1971年1月28日らしいので[ii]、モーリスの発言とは矛盾する。同じ日に「ホエン・ドゥ・アイ」などニュー・アルバムのレコーディングが開始されているので、シングルもその日程に合わせてレコーディングされたのだろうか。それにしても、1月に録音を済ませていたのに、シングル発売を5月まで遅らせたのはなぜか。半年間新曲を出さないというのは、「ジャンボ」と「獄中の手紙」の間もそのぐらい空いたとはいえ、少し空きすぎのようだが、それだけ新曲発表に慎重になったということなのだろうか。

 そうした詮索はともかく、「傷心の日々」は、アメリカで思いもよらない大ヒットとなった。ビルボードでは4週間連続1位。年間チャートでも5位(1位はスリー・ドッグ・ナイトの「喜びの世界」、2位はキャロル・キングの「イッツ・トゥー・レイト」)。グラミー賞にノミネートされるおまけ付きだった。実際4週連続1位というメガ・ヒットは、ブリティッシュ・インヴェイジョンの時期でも、ビートルズローリング・ストーンズぐらいしか記録していない。70年代にはいってからは、「傷心の日々」の前に、ジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」が、後にポール・マッカートニ―(とウィングス)の「マイ・ラヴ」が達成している。それほどのヒットだったのだが、イギリスではチャート・インすらしなかった。「ロンリー・デイズ」でも33位にはなっているのだから、それよりはイギリス人向きと思える「傷心の日々」がノー・ランクだったのは意外だ。もっとも、2011年のBBC番組「ネイションズ・フェイヴァリット」のビー・ジーズ回では、堂々8位にランクしている。イギリスでは1位になっていた「獄中の手紙」(10位)などを抑えてのこの順位だからわからない[iii]。繰り返しカヴァーされてスタンダードになった結果なのかもしれないが。

 いずれにせよ、英米で対照的な結果となった本作だが、ギブ兄弟の作品ではお馴染みともいえるカントリー・タッチのバラードで、バリーとロビンの共作。ロビンが最初のヴァースを歌い、コーラスでバリーに交代し、以後バリーが2番まで通して歌っている。やや珍しいのは、最初に4小節のヴァースから次に4小節の展開部に移った後、コーラスが8小節を2回繰り返す構成になっている。通常は8小節のヴァースを2回繰り返すか、8小節のヴァースから8小節の展開部に移ってサビになる、と思うのだが、ヴァースの部分がコーラスの半分しかないのだ。それだけ早くコーラスに移るというか、コーラスが聞かせどころになっているといえる。

 しかし、このコーラスのメロディは、誰がどう見ても、いや聞いても、バート・バカラックの真似だろう。フィフィス・ディメンションのヒット曲でバカラック作の「悲しみは鐘の音と共に(One Less Bell to Answer)」(1970年全米2位)に似ているという指摘もあるが[iv]、明らかに元ネタは、前年にカーペンターズが歌って4週連続ナンバー・ワンとなった「遥かなる影(Close to You)」と思われる。コーラスの付点八分音符と十六分音符の組み合わせやテンポがまるで同じである。最初耳にしたとき、バカラックがクレームをつけるのではないか、と思ったが、そんなこともなかったらしい[v]。1971年当時のアメリカ人は、この曲を聞いて、バカラックのカヴァーと思わなかったのだろうか。それとも、ビー・ジーズバカラックと共作したと思ったのか。1970年はバカラックの年ともいえ、年頭に映画『明日に向かって撃て』の主題歌「雨にぬれても」がB・J・トーマスのレコードで1位、その後夏には「遥かなる影」が、さらに上記のフィフィス・ディメンションが大ヒットになった。こうした状況でバカラックのような曲を書こうという気持ちになるのもわからないではないが。

 思えば69年の『オデッサ』までのビー・ジーズは常にビートルズを意識していた。ロバート・スティグウッドがブライアン・エプスタインのパートナーだったということもあったが、ビー・ジーズにとってビートルズは変わることのない目標だった。しかし1970年にビートルズが消滅してからは、その影響は薄れつつあったようだ。もともとギブ兄弟、とくにバリーは-多くの作曲家もそうなのかもしれないが-、気に入った曲を聞くと、そこからインスピレーションを得て自分でも書いてみるというやり方で作曲をしてきたのだと思う。従って、他のアーティストやライターの作品を連想させるような曲をいくらも書いている。69年までは、その多くがビートルズだったが、ビートルズ消滅後は、刺激を受ける作曲家も変わったということだろう。その一人がバート・バカラック(とハル・デイヴィッド)であったわけだ[vi]。1972年の初来日時のインタヴューで、お気に入りのソング・ライターを聞かれて、3人が口をそろえてバート・バカラックとハル・デイヴィッドの名を挙げているが[vii]、正直というか、開き直っているというのか。イギリスでヒットしなかった理由は、バカラック風の気取った(しゃれた)メロディ進行がイギリス人に受け入れられなかったのかもしれない。

 ともあれ、この後も、とくにバリーはバカラック調の曲をしばらくの間作り続けることになる。

 

2 「カントリー・ウーマン」(Country Woman, M. Gibb)

 「マイ・シング」などと同様、モーリスの一人舞台の作品。再結成後も、ときにモーリスはソロであるかのような活動を続けていたようだ。こちらもA面と同じカントリーだが、アップ・テンポのカントリー・ロックである。ピアノ、ベース、ギターなど、モーリスが気ままに演奏し、兄弟とやるときより伸び伸びしているように聞こえるのは勘ぐりすぎか。

 4月に他のニュー・アルバム用の曲とともにレコーディングされたようだが、この曲がシングルのB面に収録されたのは、「傷心の日々」がバリーとロビンの共作だったので、印税を平等にするためにモーリスの単独作を、ということだったのだろうか。ところが、日本ではあろうことか、「傷心の日々」がB面に回されて、こちらがA面で発売されたのだ(!)。全米ナンバー・ワン・ヒットをB面にするとは、暴挙というか、英断というか。確かに、同じカントリー調でも、「マサチューセッツ」などとは違って、「傷心の日々」のようなあまりにスローなバラードではヒットは見込めない、とレコード会社は判断したのだろうが、それにしても、グラミー賞にノミネートされたほどの作品をB面にするというのは・・・。絶句するほかない。しかし、そのおかげで、ついに日本のみではあったが、初めてモーリスがリード・ヴォーカルを取るビー・ジーズのシングルが発売されることとなった。

 

[i] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[ii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1971.

[iii] Wikipedia: The Nation's Favourite.

[iv] ポップス中毒の会『全米TOP40研究読本』(学陽書房、1993年)、70頁。

[v] 『ミソロジー』には、バート・バカラックも祝福の言葉を寄せている。Bee Gees Mythology (2010).

[vi] もっとも1967年11月のインタヴューで、すでに、バリーは、敬愛する作曲家として、バート・バカラックビートルズの名前を挙げている。Bee Gees: The Day-By-Day Story, 1945-1972, p.45.

[vii] 『ミュージック・ライフ』1972年5月号、100頁。