ビー・ジーズ1975

 1970年代後半は、ビー・ジーズがバリー・ギブの主導体制、あえて言えば、ワン・マン体制に移行した時期である。ほとんどの曲でバリーがリード・ヴォーカルを取り、コーラスもバリーの多重コーラスではないかと思えるような曲が増えた。曲作りは、他のアーティストに書いた曲を除けば、ほぼすべて3人の共作だが、明らかにバリーが主体となって書いており、彼がグループのリーダーとして、プロデューサーのアリフ・マーディンやカール・リチャードソンとアルビィ・ガルテン、バンド・メンバーのブルー・ウィーヴァーやアラン・ケンドールとともにレコーディングを取り仕切る、というシステムができていたように感じられる。

 思えば、オーストラリア時代、1963年のデビューからバリーがもっぱら一人で作曲を担当しており、ロビンとモーリスがソング・ライティングに加わるようになったのは1966年頃からである。それが英米でデビューした1967年から69年までは、初めバリーとロビンの共作が中心だったが、後にはすべて3人の共作となっていった。リード・ヴォーカルについても、「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」ではロビンが主旋律を歌い、2小節だけだが、ソロのパートもあった。「トゥ・ラヴ・サムバディ」はバリーのリード・ヴォーカルだが、アメリカのみでシングル・カットされた「ホリディ」は別として、続く「マサチューセッツ」はロビンが全編リード・ヴォーカルを担当した。「ワールド」はバリーのパートが多いが、ラストのクライマックスとなる高音のパートはロビンが歌った。「ワーズ」はバリーのソロだったが、次の「恋するシンガー」はロビンのソロ・ヴォーカル。しかし「ジャンボ」とAB面逆になったあたりから、ロビンの不満が芽生え始めたと思われる。「獄中の手紙」は、1、3番をロビンが歌い、バックのスキャット・パートも彼が担当した。イギリス未発売の「ジョーク」の後、「若葉のころ」と「ランプの明かり」のAB面をめぐって、ロビンの憤懣が爆発して、グループ消滅へと進んでいった。

 こうしてみると、60年代のビー・ジーズは、「ホリディ」、「ジョーク」を含めて、ロビンのヴォーカルが多くフューチュアされていた。バリーが兄の度量を見せて、ロビンにヴォーカルを譲っていたのか、ビー・ジーズのメロディアスな曲にはロビンのヴォーカルのほうが合っていると判断したのか。アルバム全体としてみると、バリーのヴォーカル曲のほうが多いが、シングルではロビンの声がビー・ジーズのイメージを作っていたと言ってよいだろう。

 1970年の再スタート以降は、「ロンリー・デイ」はコーラスが主体。「傷心の日々」はロビンのヴォーカルで始まるが、最初のサビから2番のヴァースとサビまでバリーのヴォーカルで通している。バリーのソロの「過ぎ去りし愛の夢」はアメリカでのシングル・カット。次の「マイ・ワールド」は、ブリッジの部分を1、2番ともロビンが歌い、彼主導の楽曲という印象。「ラン・トゥ・ミー」は、ヴァースをバリー、コーラスをロビンが歌い、きれいに役割分担ができている。「アライヴ」はバリーのソロ曲。

 このように、1970年から1972年は、「過ぎ去りし愛の夢」「アライヴ」などの例もあるが、バリーとロビンのヴォーカル・パートを公平に割り当てていたという風に取れる。

 バリー主導の体制が強まってきたのは『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』からで、全8曲のうち半数がバリーの単独作だった。もっとも、シングルの「希望の夜明け」ではサビをロビンが取っているし、未発表となったA Kick in the Head Is Worth Eight in the Pantsは3人の共作でほぼ占められているので、『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』は発売を急がされて、バリーが大車輪で曲を書き飛ばした結果だったのかもしれない。これ以降、活動が縮小したのはモーリスで、アルバムに1、2曲入っていた単独作がなくなったのが『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』からだった。演奏面でも、『ミスター・ナチュラル』ではピアノをセッション・ミュージシャンに譲り、『メイン・コース』からはブルー・ウィーヴァーが担当するようになる。

 ロビンのほうは、「ひとりぼっちの夏」でもバリーとヴォーカルを分け合い、『ミスター・ナチュラル』からの3枚のシングルでもヴォーカルを担当している。しかしアルバムでは、「愛の歌声」を除くと、ほぼバリーにリード・ヴォーカルを任せている。

 こうしてビー・ジーズの最大のバブル期となった1970年代後半は、バリーがリード・ヴォーカルを取った「ジャイヴ・トーキン」から始まることとなった。

 

「ジャイヴ・トーキン」(1975.5)

1 「ジャイヴ・トーキン」(Jive Talkin’, B, R. & M. Gibb)

 「ジャイヴ・トーキン」は、ビー・ジーズ初のダンス・ミュージックだった。これまでメロディを聞かせるポップ・バラードを出し続けてきた彼らが、リズムやビートを主体とするシングルを出したのは、確かに大きな方向転換であり、驚きだった。それだけ事態の打開を求められていたわけだが、それほど練りに練った意欲作という感じではなく、どちらかというと小品という印象だ。

 曲自体は、いきなりワン・フレーズを4回繰り返すコーラスから始まる、いつもながらのシンプルなもの。「ジャイヴ・トーキン~」とタイトルを連呼する歌詞は、頭が空っぽな、いや空っぽにさせるような、いかにもダンス・ナンバーっぽい仕掛けで、曲構成はABA型というか、ヴァースをコーラスで挟み、最初にサビのコーラスでインパクトを与える方法を取っている。シングルではよく見られるスタイルで、有名なところでは、ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」やビーチ・ボーイズの「アイ・ゲット・アラウンド」があり、近いところでは、同じディスコ・ミュージックのK.C.& サンシャインバンドの「ザッツ・ザ・ウェイ」やドナ・サマーの「ラスト・ダンス」などがある。ビー・ジーズにはこの形式の曲は少ないが、初期の「ワールド」、この後の曲では「トゥ・マッチ・ヘヴン」が挙げられる。つまり、大半の曲では、ヴァースから始まりコーラスでクライマックスを迎える、お行儀よく手順を踏んでいくものが大半を占めてきた(「ジャイヴ・トーキン」が、お行儀が悪いということではない)。

 それにしても、それなりにキャッチ―なメロディであるとはいえ、さほど際立った特徴のない本作がイギリスでも5位、アメリカでは「傷心の日々」以来の1位になったのは、少々、いや、大変に意外だ。どうやら間奏の合いの手のような東洋風のフレーズがアクセントになったのではないか、と思う。ブルー・ウィーヴァーのシンセサイザーにバリーがスキャットを重ねるパートだが、当時はカール・ダグラスの「カン・フー・ファイティング(吼えろ!ドラゴン)」が全米1位になるなど、東洋がまたブームになっていた(インドではなく、チャイナだが)。かつてビー・ジーズオリエンタリズムを取り入れた「スウィート・ソング・オヴ・サマー」は単なるゲテモノだったが、今回はうまく曲にフィットした。

 ともあれ、「ジャイヴ・トーキン」は長いスランプからビー・ジーズを救い、それどころかポップ・ミュージックの世界市場を制覇するきっかけとなった。

 

2 「ウィンド・オヴ・チェンジ」(Wind of Change, B. & R. Gibb)

 イントロからホーンとオーケストラがシンフォニーのように鳴り響くが、次の瞬間、ファンキーなベースとシンセサイザーサウンドに変わる。「ジャイヴ・トーキン」以上にインパクトのある始まり方だ。

 1975年1月の最初のセッションで録音された曲のひとつだというが、2月にアレンジを変えてリメイクされ、強烈なダンス・グルーヴ・ナンバーになったらしい[i]。ヴァースはあまり面白くないが、サビになると一気に冒頭のようなシンフォニックなメロディがどこまでも上昇していき、最後の”Get up, look around”からのぶっきらぼうなコーラスで締める展開はこれまでになくダイナミックだ。エンディングの”Yeah, yeah, yeah, …”のファルセットも迫力がある。

 この時期の彼らにぴったりのタイトルといい、アルバムの看板となる曲で、いっそ『ウィンド・オヴ・チェンジ』というアルバム・タイトルにすればよかったのにと思うが、ピーター・フランプトンに同名のアルバム(1972年)があるので遠慮したのだろうか。

 

〔11〕『メイン・コース』(Main Course, 1975.6)

 帽子以外、一糸まとわぬ女性がスプーンに乗っているイラスト。「わたしを召し上がれ」、というわけだろうか。今なら問題となりそうなデザインだが、前作に続いて、アルバム・ジャケットからビー・ジーズの面々は消えて、これまでのイメージで聞いてほしくない、という悲壮な決意が痛いほど伝わってくる。

 次のレコーディングの場所を探しあぐねたバリーたちが、同じRSOの看板アーティストで、同じロバート・スティグウッドのマネージメントを受けてきたエリック・クラプトンから、「(『461オーシャン・ブールバード』を録音した)マイアミでレコーディングしたらどうだい。場所が変われば、気分も変わるだろう」[ii]、と勧められた、というのはよく知られた話だ。

 クラプトンのカムバックの二番煎じを狙ったわけだが、結果的にこれが当たった。マイアミのクライテリア・スタジオは、ビー・ジーズのヒット曲製造工場となった。同時に、レコーディング・スタジオを完全にアメリカに移すことによって、本格的にアメリカ市場をターゲットにする腹が決まったのだろう。

 『メイン・コース』はビー・ジーズがディスコ・ミュージックないしソウル・ミュージックに徹したアルバムと評されるが、それは半分正しく、半分間違っている。確かに、アルバムA面は、「ジャイヴ・トーキン」や「ウィンド・オヴ・チェンジ」を初めとするダンス・ソウル・ミュージックで構成されているが、B面は主にカントリー・ナンバーで占められている。つまり本アルバムは、ソウルとカントリーというアメリカを代表する二つの音楽ジャンルの楽曲を片面ずつに配した、いわばアメリカをテーマとしたコンセプト・アルバムである。もっとも、エルトン・ジョンを思わせるナンバーが入っていたりして、コンセプトが徹底しないところも彼ららしい。

 1970年代半ばは、アメリカの大物白人グループ2組が劇的な復活を果たした時期でもあった。ビーチ・ボーイズフォー・シーズンズである。前者は、ベスト・アルバム『エンドレス・サマー』(1974年)がアルバム・チャートの1位を達成し、続けて『スピリット・オヴ・アメリカ』(1975年)、オリジナル・アルバムの『15ビッグ・ワンズ』(1976年)もトップ10入りを果たした。後者は、シングル「ディセンバー1963(オー・ホワット・ア・ナイト)」(1976年)が1位を記録し、さらにリード・シンガーのフランキー・ヴァリは前年に「マイ・アイズ・アドアード・ユー」をナンバー・ワンに送り込んでいる。翌年の「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」以降、ファルセットを売り物にするようになるバリーにとって、ヴァリとブライアン・ウィルソンは師匠のような存在だが、この3つのグループがほぼ同時期にヒット・チャートに返り咲きを果たすのは興味深い。

『メイン・コース』は、全米チャート(ビルボード)で最高14位。『ファースト』以来のオリジナル・アルバムでのトップ10は逃したが、1975年に最高15位を記録した後、翌1976年に再度上昇して14位を記録するロング・セラーとなった。間違いなく、オリジナル・アルバムでは最大のヒットで、1976年のビルボード年間チャートでも24位にランクされた。それまで年間チャートにランク・インしたのは、1969年の『オデッサ』の72位だけだったのだ[iii]。しかし、このヒットも後続のモンスター・アルバムに比べれば、ささやかな成功に過ぎなかった。

 

A1 「ブロードウェイの夜」(Nights on Broadway, B, R. & M. Gibb)

 ようやく何年振りかで会心作が登場した。

 もちろんそれまでの不調とされる時期にも彼らはよいメロディを書き続けてきた。それらの曲はファンなら十分満足できるものだった。しかしファン以外のリスナーに自信をもって勧められる楽曲かといえば、躊躇せざるを得ないという状況が続いていた。

 「ブロードウェイの夜」は、バリーの歌うヴァース、ロビンのセカンド・ヴァース、そしてサビのコーラスとすべてに非の打ちどころがない。とくにコーラスはハーモニーでこそ、そのメロディのよさが伝わる-かつての「ターン・オヴ・ザ・センチュリー」のように。そして長い中間部のスロー・パートも実になめらかにメロディが次のメロディへと流れていく。この構成は前作の「幸せの1ペンス」と同じだが、完成度ははるかに上回る。

 曲を支えるアレンジとサウンドも、モーリスのべースとウィーヴァーのシンセサイザー、とりわけデニス・ブライオンのドラムがこの曲の緊張感と力強さを最後まで持続させている。

 全米7位、イギリスではチャート・インしなかったが、間違いなく彼らの全作品中でもベスト10に入るだろう。「自慢できる曲だよ」というロビンのコメントも納得だ[iv]

 

A2 「ジャイヴ・トーキン」

A3 「ウィンド・オヴ・チェンジ」

A4 「ソングバード」(Songbird, B. R. M. & D. Weaver)

 思わず、エルトン・ジョンがピアノの弾き語りをしているのかと思ったが、バリーの声だった。ギブ兄弟が初めてブルー・ウィーヴァーと共作した作品。ウィーヴァーの力強いピアノのタッチもエルトン・ジョンを思わせるが、ヴォーカルも明らかにエルトン・ジョンを意識している。一応後輩なのだから、そこまで真似しなくとも、と思うが、当時の状況では無理もないとはいえる。この頃エルトン・ジョンは、アルバム、シングルを次々と全米ナンバー・ワンに送り込み、とくに1975年は、3枚の全米1位シングルに加え、アルバム『キャプテン・ファンタスティック・アンド・ブラウン・ダート・カウボーイ』が、なんとビルボード誌初の初登場1位を記録している。

 とはいえ、「ソングバード」は、エルトン・ジョンよりは感傷的で、ビー・ジーズらしい美しい旋律の佳曲となっている。基本となるメロディはウィーヴァーが書いたらしく、バリーが彼の弾くコードに歌詞をつけ、完成したらしい[v]。このエピソードは、従来モーリスが果たすべき役割をウィーヴァーが務めるケースが増えた。すなわちバリーの相棒をウィーヴァーが受け持つようになったことを暗示しており、少々複雑な気持ちになる。

 どことなく、山下達郎の「ユア・アイズ」(1981年)を連想させる曲でもある。

 

A5 「ファニー」(Fanny (Be Tender with My Love), B, R. & M. Gibb)

 思わず、スリー・ディグリーズが歌いだすのかと思った・・・。

 アリフ・マーディンが、ギブ兄弟に、今何が流行っているのか聞くように、とアドヴァイスした[vi]ことは繰り返し語られているが、その結果が『メイン・コース』であり、この曲だったというわけだ。ということは、『メイン・コース』はアメリカを描いたというより、多少辛らつだが、アメリカのヒット・チャートをテーマにしたアルバムと言ったほうが良いかもしれない。

 ビー・ジーズは常に他のアーティストから影響を受けており、1960年代はビートルズビートルズが解散した後は、バート・バカラックが刺激となってきたが、その後は影響を受けるライターがいなくなった、ということだろうか。自分たちの好きなように曲を書いていたら、いつの間にか誰にも聞いてもらえなくなっていた、といっては皮肉すぎるだろうか。

 しかしそれはそれとして、「ファニー」は見事な出来だ。フィラデルフィア・ソウルを下敷きにしているとはいえ、素晴らしく芳醇なメロディで聴き手の耳をとらえて離さない。バリーが歌うヴァース、ファルセットのコーラス、そして中間部のパートと、文句のつけようのない心地よい旋律で、地平線の彼方までさらわれていくような快感を味わわせてくれる。

 1976年に第3弾シングルとしてカットされ、ビルボード誌で12位を記録。それにつられてアルバムも再度上昇して、最高14位を記録した。

 

B1 「メイキング・ラヴ」(All This Making Love, B. & R. Gibb)

 この曲については、狙いがどうもよくわからない。

 陽気なポップ・ソングだが、最後の”Too much, too much, too much …”のコーラスはソウルっぽく、A面に置くのであれば、わからなくもないが、B面の他のカントリー・タイプのバラードとは合っていない。1曲目はアップ・テンポの曲を、ということなのだろうが、この曲なら、ほかに何か代わりの曲があったのではないか、と思ってしまう。

 悪いというわけではないが、虎の鳴き声らしき効果音が入っていたり、ノヴェルティ・ソング風でもある。8小節の短い曲で、バリーから途中でロビンにヴォーカルが切り替わるトゥイン・ヴォーカルだが、そこがトップに据えた理由だろうか。

 ただ、力の入りまくったヴォーカルのわりに、どことなく呑気な雰囲気はカントリー風でなくもない。あるいは、A面のソウル・サイドからB面のカントリー・サイドへの橋渡し的な役割として、両方の特徴を取り入れたこの曲が置かれたのだろうか。すなわち、ソウル(黒人)もカントリー(白人)も、同じアメリカン(・ミュージック)だという壮大なメッセージが込められているのかもしれない-そんなわけないか[vii]

 

B2 「カントリー・レーンズ」(Country Lanes, B. & R. Gibb)

 思わず、・・・。やめておこう。

 誰が聞いても、明らかにジョン・デンヴァーが元ネタになっている。もっともロビンの書いた(?)メロディは、デンヴァーほど爽快なカントリーではなく、フォークっぽい抒情的なものだ。アレンジが当時のカントリー・ポップに、もろに影響されているということだろう。

 全編ロビンが歌う、このアルバムで唯一の曲で、バリーは”Country lanes, country lanes”の掛け合いコーラスのみ参加。難癖をつけたが、ギブ兄弟ならではの極上のメロディには、抗しがたい魅力がある。

 

B3 「カム・オン・オーヴァー」(Come on Over, B. & R. Gibb)

 オリビア・ニュートン・ジョンがカヴァーして全米23位を記録した。この後、ギブ兄弟の曲が他のアーティストによって次々に大ヒットを記録する、その口火を切るかたちとなった。

 しかしカントリー・ポップとしてはありきたりで、これといった特徴がない。前曲に続いてロビンがリード・ヴォーカルを取るが、サビの途中でバリーに交替する。カヴァーされるだけあって、そつなく作られているが、本アルバムのなかでは中ぐらいの出来か。

 

B4 「宇宙の片隅」(Edge of the Universe, B. & R. Gibb)

 思わず、いや思わなくとも、ダニエル・ブーンの「ビューティフル・サンデー」が頭に浮かんでくる。

 但し、似ているのはイントロだけで、その後はミディアム・テンポのカントリー・ロックとなる。カントリーでも、歌詞の内容は「僕の背は10フィートだが、厚みは3フィートしかない。向かいを流れる大洋の中に住んでいる」、と、タイトルを含めて、久々にわけのわからないSF調。歌詞の最初に「愛犬と僕と・・・」とあるが、前作の「ドッグズ」の続きだろうか。

 しかし、このだらだらとした単調なテンポは案外癖になる。また、この曲を含めたアルバム全体をカラフルに彩っているのは、ブルー・ウィーヴァーのシンセサイザーであることが改めて実感される。後にライヴ・ヴァージョンがシングル・カットされて、全米26位を記録した。

 

B5 「ベイビー・アズ・ユー・ターン・アウェイ」(Baby As You Turn Away, B, R. & M. Gibb)

 アルバムのラストは、1曲目の「ブロードウェイの夜」と並ぶ傑作が登場する。

 柔らかなアコースティック・ギターのイントロから、バリーのファルセットによるヴォーカルが始まる。このヴァースは、メロディが機械的過ぎてあまり感心しない。4小節目を四分の二拍子にしてテンポを変えているくらいしか工夫がなく、面白みに欠ける(テンポを変えるくらいの工夫が必要だったということだろう)。

 しかしサビになると、この時代のビー・ジーズらしいゴージャスなメロディが次から次へと繰り出されて夢見心地にさせてくれる。目くるめくようなメロディの奔流は、まさに珠玉のアメリカン・ポップスといいたくなる素晴らしさだ。後の「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」のモデルとなる一曲ともいえる。

 

「ブロードウェイの夜」(1975.9)

1 「ブロードウェイの夜」

2 「宇宙の片隅」

 「ブロードウェイの夜」は、イギリスでは不発だったが、1977年にキャンディ・ステイトンのヴァージョンが6位を記録した。

 

[i] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1975.

[ii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.369.

[iii] オリジナル・アルバム以外では、同じ1969年に『ベスト・オヴ・ザ・ビー・ジーズ』が59位にランクしている。

[iv] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[v] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.374.

[vi] Ibid., p.372.

[vii] 「『アイランズ・イン・ザ・ストリーム』は最初リズム・アンド・ブルースとして書かれたが、ごく自然にカントリー・ソングになった、両者の間にはすごく近いものがあるんだ」、という彼らの発言は、『メイン・コース』の制作中の実感に基づいているのかもしれない。Ibid., p.540.