J・D・カー『髑髏城』

 『髑髏城』(1931年)はアンリ・バンコランを主人公とした第三長編で、第一作のフランス、第二作のイギリスに続き、ドイツのライン渓谷を舞台としている。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、・・・いやそうではなかった。本作はずーっと創元推理文庫で読むことができていたのだった[i]

 つまり、『帽子収集狂事件』や『連続殺人事件』などとともに、カーの長編のうち、ほぼ常に読むことのできた数少ない作品のひとつで、しかしその割に評価は低かった。

 江戸川乱歩の「カー問答」では、第四位の最低ランク。この順位の作品は、乱歩によれば、「いずれも怪奇性は充分あるので、一応読ませるけれども、探偵小説としての創意が乏しい」[ii]。一方、松田道弘の「新カー問答」では、「古城の城壁から火だるまになって墜落する男が、ライン河の対岸から目撃される場面の視覚的効果などは満点」[iii]と称賛されているが、ある意味両者の評価は合致している。これに対し、二階堂黎人は、「中盤の一人二役も効果的でうまい」とし、「なかなかの佳作」[iv]と評価している。

 本長編も『夜歩く』、『絞首台の謎』同様、最近新訳版が出たが、その解説で、青崎有吾は、バンコランのライヴァルとしてフォン・アルンハイム男爵を登場させている点に着目して、後者が帰納的推理によって事件の前半を解決し、バンコランが演繹的推理によって真犯人を明らかにする構成を高く評価し、「本書の解決編は数あるカー作品の中でも指折りの完成度を誇っている」[v]と絶賛している。

 こうしてみると、本作もカーの作品につきものの、評価が割れる長編といってよいかもしれない。あるいは、評価が変わってきた、ということだろうか。

 青崎の評価で当たっていると思われるのは、本作品がトリックよりも犯人を特定する推理に比重がかかっているというところである。カーの特徴というと、多彩なトリックというのが通り相場で、その評価は、近年ストーリーテラーとしての評価が高まった後でも、本質的には変わっていない。ところが、バンコラン・シリーズについては、『夜歩く』こそトリッキーだったものの、その後の『絞首台の謎』や『蝋人形館の殺人』など、トリックらしいトリックがない。その代わり、犯人推理の部分には、かなり力が入っている。

 とくに興味深いのが、冒頭の火だるま殺人の捜査の過程で、殺人現場の髑髏城と対岸の屋敷を往復するモーターボートをめぐって、犯人がどのように屋敷と現場を行き来したのかが検討対象となる。ところが、何と川底の下を通る秘密の通路が発見されて、犯人はそれを利用したことがわかる。もしこの種明かしが最後にされていたら、大半の読者は本を床に投げつけるだろうが、さすがにそんなへまはしていない。

 それどころか、むしろ、このモーターボートの検証から地下通路の発見に至る展開にミステリとしての創意が見られる。最初、髑髏城と屋敷の間を移動する手段は、モーターボートと手漕ぎのボートのみと考えられ、しかも犯行時、何者かによってモーターボートが使用されていたことがわかる(ボートは死体発見者が使用していた)。ところが、実は、カップルが逢引きに利用していたに過ぎないことが判明し、そこから改めて犯人の移動手段について探索が進められ、秘密の通路発見に至る。そして、この地下通路が発見されたことにより、それまで疑惑の対象となっていなかった-モーターボートの操作や渡河にかかる移動時間を考えると、高齢でしかもアリバイのある人物は犯行可能とは考えられない-真犯人が容疑者のなかに入ってくるという展開になっている。この辺りは、非常に巧みである。そして、地下通路の捜索によって、青崎が指摘している重要な手掛かりが発見される。中盤まで秘密の通路を伏せておくことで、重要なデータを解決の手前まで隠しておくことができているわけだ。

 このほかにも、髑髏城には、古城が舞台ならではの、お約束の隠し部屋などがあり、17年前に驀進する列車から転落して死亡したと思われていた魔術師が監禁されていたことが明らかとなる。秘密の通路に隠し部屋と、本来現代ミステリなら呆れられそうな道具立てがうまくパズル・ミステリの組み立てに活かされている点は、本作の特長といえるだろう。

 これに比べると、17年前の魔術師の死の偽装トリックは-二階堂は評価しているが-、やはり平凡に映る。以上をまとめると、本作は、トリックよりも犯人を特定する推理の段取り、あるいはプロットの展開とひねりに見るべき点がある。とはいえ、バンコランものに共通する特徴として、トリックや謎解き以上に殺人や劇的場面の演出のほうに力が注がれているのも確かなようだ。これは、どういう狙いからなのだろうか。『夜歩く』、あるいは、それ以前のアマチュア時代のバンコランものの短編は、むしろトリック中心の組み立てになっていた。一つ手がかりになりそうなのは、ダグラス・G・グリーンが紹介しているカーの1935年の書簡で、そのなかでカーは「私はグロテスクなものをばらまいて雰囲気を盛り上げ、登場人物たちを右往左往させないと、読者に飽きられてしまうのではないかと思い込んでいた」[vi]、と述べている。

 カーがこのように「思い込んでいた」のは、作品のなかの「グロテスクなもの」を称賛するファンレターでも舞い込んだのだろうか。それとも、処女作の評判にもとづく出版社からの要望でもあったのだろうか。真相はわからないが、独創的なトリックよりも、読者を作品世界に引き込む場面描写に心血を注いだのは、カーのプロ意識のなせる業だったのかもしれない。

 とはいえ、カー自身、そうした怪奇でグロテスクな場面描写を好んだのだろうし、本作でもっとも書きたかったのは、犯人と被害者とそして監禁されていた魔術師との間の愛憎劇だったのだろう。次作の『蝋人形館の殺人』を含め、『絞首台の謎』『髑髏城』のバンコラン・シリーズは、いずれもどろどろの復讐劇である。これら諸作の犯人たちは、利害得失などではなく、ひたすら憎悪に駆られて被害者に殺意を向ける。とりわけ、『髑髏城』では、17年間監禁された魔術師による復讐、夫を奪われた妻の復讐と、非日常の舞台にふさわしい壮絶な復讐のドラマになっている。

 

[i] 『髑髏城』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1959年)。

[ii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、317頁。

[iii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[iv] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、344-45頁。

[v] 『髑髏城』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2015年)、287-88頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、106頁。