J・D・カー『蝋人形館の殺人』

 『蠟人形館の殺人』(1932年)は実質的にアンリ・バンコランを主人公としたシリーズの掉尾を飾る長編である(1937年の『四つの凶器』では、バンコランの性格まですっかり変わってしまって、あえて同じ主人公と考える必要もない)。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、正真正銘の幻の長編と化していた。

ところが、1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、2012年に、ついに新訳版が創元社から出版された[ii]。2017年には、『髑髏城』の新訳により、バンコラン・シリーズ四作が同一訳者によって揃えられた。まことに画期的な出来事であった。

 といっても、忘れられていたのは評価が低かったからに他ならない。江戸川乱歩の「カー問答」では『絞首台の謎』と並んで第三位[iii]松田道弘の「新カー問答」では、「あまりとりえのない凡作」の一言で片づけられている。ただし、「閉館後のうすぐらい館内で、獣人の人形に抱かれた女性の死体を発見するシーンでの血のしずくの音響効果はすばらしい」[iv]とフォローはされている。二階堂黎人は、明白に順位付けはしていないが、「被害者となる若い女性の生活や、彼女を殺さねばならなかった犯人の動機と人物像などをみれば、カーがけっしてアンリアリズムではなかったという明白な証拠となる」[v]、つまりカーは決して時代遅れの保守的作家ではなく、現代性・社会性をもった作品を書いている、と擁護している。

 バンコランのシリーズは、毎回舞台が大きく変わるヨーロッパ漫遊記的な性格をもっているが、最終作の『蝋人形館の殺人』では再びフランスに戻ってくる。というより、バンコランはパリを根城にしているのだから、本来もっとフランスを舞台にしたミステリを書いていてもよかったはずなのだが、結局、バンコランのパリは、アメリカ人のカーが見た、あるいは夢見たパリであって、最初から幻想の街なのだろう。それは『絞首台の謎』や『髑髏城』でもそうであって、『絞首台の謎』のロンドンは、関係者以外人が住んでいないような、映画のセットの街のようだし、『髑髏城』では、ドイツの古城という閉ざされた空間のなかの非現実的犯罪を描いている。『夜歩く』と本作におけるパリは、(カーが想像する)悪徳と退廃の街として描写されている。

 というわけで、本長編では、語り手のジェフ・マールまで秘密クラブに潜入して、ハードボイルド・ミステリもかくやという大立ち回りを演じる。この仮面の男女が集う背徳的クラブと大時代的見世物の蝋人形館を対比的に描くことが、作者の興味のひとつだったのだろう。

 物語は、若い女性が水死体で発見されたという知らせがバンコランに持ち込まれるところから始まる。その女性が最後に目撃された蝋人形館をバンコランとマールが訪れると、蝋人形に抱えられた女性の死体を発見する。松田が称賛したショッキングな死体発見場面である。この蝋人形館の出口の一つは、隣接する秘密クラブの通路に出られるようになっており、ここから捜査の眼はこのクラブに向けられることになる。このクラブのオーナーのひとりはギャランという鼻のつぶれた(それもバンコランによって)美青年で、後半ではマールはこの男を向こうに回して、クラブからの脱出をはかるというハラハラドキドキの展開となる。

 パズル・ミステリとしては、バンコラン・シリーズに特徴的だが、犯人特定の推理に工夫がこらされている。とくに殺害現場で発見されたガラスの破片に基づく推理は、犯人の身体的特徴を利用したもので、エラリイ・クイーンを思わせ[vi]、小味だが気が利いている。

 一方、これといったトリックは用いられていない。『夜歩く』を除けば、このシリーズでは、カーはトリックにあまり関心を寄せていない。『髑髏城』では、一人二役を用いた列車からの消失トリックを考案しているが、過去の犯罪という設定もあって、手がかりも乏しく、さほど印象に残らない。大学文芸誌に掲載された短編シリーズ[vii]では、毎回不可能犯罪のトリックが案出されていたことを考えると、こうしたトリック軽視が何に起因するのか不思議である。

 もっとも、初期短編で使用されている不可能犯罪のトリックは、いささか凡庸であまり効果的ではない。(あくまでトリックが)一番優れているのは、第一作の「山羊の影」だと思うが、かなり無理のあるトリックで、長編を支えるのは難しいだろう。以上を総合すると、カーという作家は、もともとトリックを考えるのが得意ではなかったのではないか、とも思われる。トリック大魔王にこのようなことをいうのは気がひけるが、バンコラン・シリーズに限って見れば、そのような印象を受ける。ダグラス・G・グリーンによれば、カーの執筆方法は「最初に殺人方法を考え――たいていは、ハリー・フーディーニとかジャスパー・マスキリンといった奇術師のトリックを参考にした――それから、その方法にふさわしいプロットを作り出した」[viii]、という。「カーはミステリ作家として、独創力はあまりなかったのじゃないかと思う。むしろ彼は非常にバリエーションづくりのたくみな、修正型の職人作家だという気がしてならない」[ix]、とは松田道弘の慧眼だが、1930年代の「黄金時代」以降のパズル・ミステリ作家は、多かれ少なかれ、カーのような修正型の作家だといってよいだろう。カーも、グリーンが述べているように、奇術などを参考にこつこつトリックを組み立てていくうちに、本来もっていたミステリのセンスが目覚めて、トリックを活かす巧みな設定を案出できるようになったのかもしれない。

 本書について言えば、最も注目すべき点はプロットそのものにある。いや、むしろバンコラン・シリーズを通じて、カーの手腕がもっとも冴えを見せているのは、プロットの展開にあるといえる。どの場面をどこで描き、どのデータをどこで示すか、行き届いた計算がなされている。後半、ジェフ・マールがギャランの手から逃れる活劇場面から、物語は一気にクライマックスに向かうが、その直後、16章の終わりで、何とギャランが殺されてしまう(続く17章の終わりで、犯人がバンコランによって明かされる)[x]。最後は、黒幕のギャランとバンコランの対決を予想していたであろう多くの読者はあっけにとられるかもしれない。この殺人はなんともあっさり描かれるので、付け足しのようにしか見えないが、実は犯人が実行しようとしていた本当の殺人はこちらのほうだったのである。本書の売り物となるのは、蝋人形に抱かれた娘の刺殺事件のほうだが、ギャランが殺されることで初めて犯人の動機につじつまが合うことがわかる。最初の殺人だけを取れば、犯人もその動機も実に意外だが、ギャラン殺しによって連続殺人の動機が首尾一貫したものであったことが明らかとなる。

 同時に、本作が壮絶な復讐のドラマだったことも明白になる。ギャラン殺しは、口封じのためである、とバンコランは説明するが、それはバンコランの推測に過ぎないし、またバンコランの本心とも限らない。しかも、『絞首台の謎』『髑髏城』におけるバンコランの行動を考えると、彼は、この復讐が果たされるまで犯人の指摘を控えていたように映る。バンコラン・シリーズの犯人の動機は『夜歩く』を含めて、すべてある種の復讐なのだが、とくに『絞首台の謎』以降の三作はその度合いが徹底している。本作での犯人の復讐が読者の心情に強く訴えるのは、犯人暴露後の最後の場面も影響している。バンコランの冷徹さが表れた、あざといといえばあざとい結末だが、『絞首台の謎』といい、カーはこのラストの一行が書きたかったのではないか、と思わせる幕切れである。

 

[i] 『蝋人形館の殺人』(妹尾アキ夫訳、早川書房、1954年)。

[ii] 『蝋人形館の殺人』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2012年)。

[iii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、316頁。

[iv] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[v] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、345頁。

[vi] 例えば、エラリイ・クイーン「針の目」『犯罪カレンダー』(1952年)所収。

[vii] 「山羊の影」(1926年)、「第四の容疑者」(1927年)、「正義の果て」(1927年)、「四号車の殺人」(1928年)『カー短編全集4/幽霊射手』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1982年)所収。

[viii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、130頁。

[ix] 松田前掲書、214頁。

[x] ちなみにバンコラン・シリーズ全四作は、すべて全19章から成っている。19という中途半端な数字は、バンコランものの、どこか読み手を居心地悪くさせるような雰囲気をさらに強めるための演出なのだろうか。

 ついでに、その後の作品の章立ての数を調べてみた。『毒のたわむれ』、18章(ただし、「プロローグ」と「エピローグ」付き)。『魔女の隠れ家』、18章。『帽子収集狂事件』、21章。『剣の八』、19章。『盲目の理髪師』、22章(「幕間」あり)。『死時計』、22章。『三つの棺』、21章。『アラビアン・ナイトの殺人』、24章(「プロローグ」「エピローグ」付き)。『四つの凶器』、20章。『火刑法廷』、五部構成(21章に分かれ、第五部は「エピローグ」)。『死者はよみがえる』、20章。『曲がった蝶番』、四部構成(21章)。『緑のカプセルの謎』、20章。『テニスコートの殺人』、20章(最後に「登場人物のその後」が付いている)。

 こうしてみると、単に、小説執筆に慣れて、全体を20のようなきりが良い数字でまとめられるようになった、ということなのだろうか。プロ作家の方々に聞いてみたいところだ。