J・D・カー『死者はよみがえる』

 (本書のほか、G・K・チェスタトン「奇妙な足音」、A・クリスティ『大空の死』の内容に触れています。さらに、注で、同じくチェスタトンおよびA・E・W・メイスンの作品に言及しています。)

 

 『死者はよみがえる』または『死人を起す』(1938年)[i]は、評価の難しい作品である。江戸川乱歩が戦後、ジョン・ディクスン・カーの紹介に熱を入れていた頃、本作をカーの代表作の筆頭に挙げていた[ii]。さらに乱歩は、横溝正史が「カーの最傑作とするもの」[iii]、と紹介しており、乱歩・正史の両巨頭から、カーのベストの一つ、とのお墨付きをもらうことになった。横溝が本作をカーの最高傑作としたという文章を寡聞にして知らないが、カーの代表作と考えていたらしいことを伝えるエッセイはある[iv]

 筆者が本書を読んだ頃は、早川書房版は絶版になっていたから、創元社版を手に取ったわけだが、こうした評価をすでに知ったうえで、期待して読んだ記憶がある。

 しかしその後、『死者はよみがえる』の評価は、だだ下がりの様相を呈している。

 「新カー問答」のなかで、松田道弘は、乱歩のベストを批判して、『帽子収集狂事件』『赤後家の殺人』『死人を起す』は一般読者向けではない、と結論しているが、とくに本作について筆を費やして、

 

  『死人を起す』の制服を着たホテルのボーイを二度も登場させる発想は、なぜか作

 家たちの職業意識を刺激するとみえる。怪談でいう未来の幽霊テーマとでもいおう

 か。この作品でカーの犯しているルール違反はあっぱれなもので、すれっからしのマ

 ニアは、完全にいっぱいくわされたと痛快がるかもしれないけれど、普通の読者はア

 ンフェアだといって腹をたてるんじゃないかな。ミステリをまだ一冊もよんだことの

 ない人に『アクロイド殺し』をすすめるような強引さと無邪気さがあるような気がす

 る[v]

 

と述べている。

 「ミステリをまだ一冊もよんだことのない人」は、そもそもフェアとかアンフェアとか感じないのではないか、と思うが、『アクロイド殺し』ほど単純明快ではない、という意味でも、本作が一般読者むけでないというのは確かだろう。海外の評価もさほど高くないらしく、ダグラス・G・グリーンは、

 

  ・・・だが、カーが物語をどう展開するか決めていなかったのは明らかであ

 る。・・・物語の大部分はアクションより入り組んだアリバイが軸になり、(カーに

 しては驚くべきことに)秘密の通路も出てくる結末は、ものたりない[vi]

 

と、辛口である。この前段で、カーが前作の『四つの凶器』(1937年)のイギリスでの出版を延期する代わりに、新しい長編を書く約束をして、それが『死者はよみがえる』だった。それで大急ぎで書き上げなければならなかった、という逸話を紹介している[vii]ので、グリーンの評価が低いのには、本作が十分練って書かれていない、という先入観が働いているせいもあるのだろう。

 恐らく松田による評価の影響だろうか、本作の前後に書かれた長編-『火刑法廷』『四つの凶器』『曲がった蝶番』『緑のカプセルの謎』『テニスコートの殺人』(旧題『テニスコートの謎』)-が、いずれも近年新訳改訳版が刊行されているのに[viii]、本作は取り残された格好である。

 もっとも筆者が読んだ創元推理文庫版の刊行にしても、1972年という、ハヤカワ・ミステリ文庫が創刊され、カーの旧作の復刊が相次ぐ、その直前にポツンと出版された、という印象だった。あれは、カーの短編集が創元社から出だした、そのついでだったのだろうか[ix]

 

 ・・・と、ここまで書いたところで、何と、『死者はよみがえる』の新訳が創元推理文庫から出てしまった[x]。48年ぶりの新訳でめでたい話だが、しかも若林 踏による解説は、本作に関して、松田やグリーンの上記の評価を引用しつつ、持論を展開し、『死者はよみがえる』の復権に大いに寄与しそうだ。

 続きを書いて投稿しようと思ったが、気勢が上がらないことおびただしい。やめるのも癪なので、仕方ない。粛々と続けることにしよう。

 

 若林は、本作を「カーの多面的な魅力を堪能できる小説」と称揚し、その魅力のひとつを「本作は、“なぜ”の集積によって構成された物語であり、その一つ一つを解き明かしたときに初めて全体像が判明する」と表現している[xi]。そのうえで、カーの狙いを「トリックを成立させるための土台・・・小説を虚構として意識させる部分」[xii]に読者の眼を向けさせることだった、と述べる。これまでもカーは、しばしば登場人物にメタ・フィクション的な発言をさせたりしているが、そこに注目しての指摘であり、メタ・ミステリという言葉が一般的になった近年ならではの視点だろう。

 上記の若林の主張の前段には同感できる。深夜の田舎屋敷でホテルのボーイの格好をした人物を見たという奇怪な証言を始めとして、二件の殺人が起こった後になって、第一の殺人の舞台となった屋敷のデスクから、「もう一人死ぬ者がいるぞ」、と裏に殴り書きした写真が発見されたり、同じデスクから小銭だけが盗まれている、といった奇妙な謎が幾つも示される。本書を面白いと思うかどうかは、つまるところ、こうした謎を面白いと思うかどうかにかかっているようだ。

 こうした大小の謎をまき散らす展開が本書の読みどころで、その意味では、初心者向けではないし、一言ではプロットを要約するのも難しい。ごたごたした印象を与えるというのも、その通りだろう。幾つものトリックやアイディアを無造作に一作につぎ込んだように見えるのは、この時期のカーの発想力の豊かさを示しているともいえるし、洗練されていないとも取れる。

 しかし、これらの大小の謎は、解き方にも注目すべきだろう。例えば、上記の「連続殺人が終わった後になって殺人予告状が発見される」、という奇妙な謎に対するフェル博士の答えが、「犯人が優柔不断だったから」、というのは、意外というより、唖然とする。犯人の性格に合わせた謎では、論理的に解きようがない。とはいえ、留置場に秘密の通路があるという、社会派推理小説だったらたまげるようなメイン・トリックも、本書が、「奇妙な謎を非論理的に解錠する」[xiii]、というテーマで書かれたとすれば、全体の一部としてうまくはまっている、といえなくもない。

 このメイン・トリックに関して、若林は「本作のトリックは、小説やミステリに関しての読者の固定観念に挑んだ、遊び心のある実験と捉えることができる」[xiv]と評価しているが、最初、この解説を読んだときには、この「トリック」が何を指しているのかわからなかった。本編を読む前に解説に眼を通す読者がいることを危惧して、若林がぼかして書いているせいもあるが、何より、わたしが、本作のメイン・トリックを「警察官の制服をホテルのボーイの制服に見せかける」トリックと理解していたからだ。そちらを面白いと思った、と言い換えてもよい。また、「警察所に留置されている人物が犯人」というのは、トリックではなく意外な犯人の「アイディア」だと思っていたからでもある。しかし、確かに「留置されている人物が犯人」というのはアイディアであるとしても、それをミステリで具体化する方法として「留置場に秘密の通路を設ける」というのはトリックであると言えるだろう。そういう意味では、本作の犯人の設定について、江戸川乱歩が述べた、

 

  古来、犯人の意外性について、探偵即犯人、記述者即犯人など様々の不可能興味が

 案出されたが、この小説では、不可能性に於てそれらに劣らぬ新しいトリックが創案

 されている[xv]

 

という文章は正確である。とはいえ、この「アイディア」に比べると、「トリック」のほうが、あまりといえばあんまりだった、と言えなくもない。

 また若林は、本作のトリックがチェスタトンの某短編からの影響による[xvi]ことが乱歩の「カー問答」に書かれている、と指摘しているが、これにも、そんな文章あったかな、と思わず首をひねった[xvii]。さらに若林は、「むしろ某有名長編に刺激を受けたのではないか」[xviii]とも述べている[xix]が、ここでも作品名を明示していないので、しばらく考え込まされた。実は、先述した通り、ここで言及されているのは、「ホテルのボーイの格好をした怪人物」のトリックのほうだと思って読んでいたからでもある。そして実際、こちらのトリックはチェスタトンの短編に類似例がある。遠慮せずに作品名を挙げれば、「奇妙な足音」(1910年)[xx]である。しかし、若林に倣っていえば、むしろ直接の刺激を受けたのは、より近い時期に書かれた某長編からだと思われる。アガサ・クリスティの『大空の死』(1935年)[xxi]である。この長編が、まさに同じ発想に基づいて書かれていることは、既読の人には説明はいらないだろう。

 結局何が言いたいのかといえば、様々なアイディアやトリックを織り込んだ『死者はよみがえる』の、どの点にまず眼が引かれるかは読者それぞれによって様々でありうるのではないか、ということである。それこそが、まさに本作の魅力なのではなかろうか。

 

[i]『死人を起す』(延原 謙訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1955年)、『死者はよみがえる』(橋本福夫訳、創元推理文庫、1972年)。

[ii] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、340頁。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、135頁。

[iv] 「御存じカー好み」『横溝正史探偵小説選Ⅲ』(論創社、2008年)、615頁。

[v] 松田道弘『とりっくものがたり』(筑摩書房、1979年、ちくま文庫、1986年)、206頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、188頁。

[vii] 同。『四つの凶器』を雑誌に先行掲載するためだったが、その結果、『四つの凶器』のイギリス版は、アメリカ版が1937年秋に出版されたのに対し、1938年3月に出版され、逆に『死者はよみがえる』は、イギリスで1937年秋に、アメリカでは1938年3月に出版された、という。

[viii] もっとも『四つの凶器』はハヤカワ・ポケット・ミステリ版の改訳で、創元社での刊行は初めてである。『火刑法廷』(ハヤカワ・ミステリ文庫、2011年)、『四つの凶器』(創元推理文庫、2019年)、『曲がった蝶番』(創元推理文庫、2012年)、『緑のカプセルの謎』(創元推理文庫、2016年)、『テニスコートの殺人』(創元推理文庫、2014年)。

[ix] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』(創元推理文庫、1970年)、『カー短編全集2/妖魔の森の家』(創元推理文庫、1970年)。

[x] ジョン・ディクスン・カー(三角和代訳)『死者はよみがえる』(創元推理文庫、2020年)。

[xi] 同、若林 踏「解説」、345、347頁。

[xii] 同、348頁。

[xiii]『死者はよみがえる』(橋本福夫訳)、273、349-50、351-52、355-56頁。ディクスン名義の『貴婦人として死す』なども、犯人の性格から生じる謎を扱っている点で、本作と似かよっている。

[xiv]『死者はよみがえる』(三角和代訳)、「解説」、348頁。

[xv]幻影城』、135-36頁。

[xvi] 『ブラウン神父の不信』(創元推理文庫、1982年)所収の「ダーナウェイ家の呪い」のことらしい。

[xvii] よく考えると、若林がここで言っているトリックとは、(犯人の身体的特徴に基づく)殺害方法のトリックのことかもしれない。それならば、確かに、乱歩がチェスタトンの短編名を挙げて、その影響について触れている。『続・幻影城』、339頁。

[xviii] 『死者はよみがえる』(三角和代訳)、「解説」、348頁。

[xix] これもだいぶ考え込まされたが、どうやらA・E・W・メイスンの1924年の長編のことのようだ。

[xx] 『ブラウン神父の童心』(1911年)所収。

[xxi] アガサ・クリスティ『大空の死』(創元推理文庫、1961年)。