ビー・ジーズ1970(1)

ロビン・ギブ「夏と秋の間に」(1970.1)

1 「夏と秋の間に」(August October)

 ロビン・ギブの第三弾シングルは、前作から間を置かずに1970年早々に発売された。

 前作の「ミリオン・イヤーズ」があまりに重々しいバラードだったことを反省してか、こちらはもう少しとっつきやすい三拍子のバラードになっている。ロビンの曲を形容する際の常套句、童謡のように単純で覚えやすいメロディで、3枚のシングルのなかでは、もっともキャッチーともいえる。しかし70年代の音楽としては保守的に過ぎ、おとなしすぎると思われたのだろう。全米ではランク・インせず。それでも、ドイツでは、前作の14位に次いで、12位に上昇したというから、ドイツのファンは優しい。イギリスでは45位がやっとだったが、チャート・インしなかった前作よりはましだった[i]

 

2 「ほほえみを僕に」(Give Me A Smile)

 前作のB面だった「ウィークエンド」同様、親しみやすいスロー・バラードになっている。それ以外にはとくに言うことはない。

 

ロビン・ギブ『救いの鐘』(Robin’s Reign, 1970.1)

 ロビン・ギブの初のソロ・アルバムは、ようやくというべきか、1970年初頭に登場した。しかし発売された正確な時期は不明瞭で、1970年1月、2月、3月と情報は錯綜している[ii]。発売時期が確定しないのはシングルも同じで、「ミリオン・イヤーズ」なども1969年の発売なのか、1970年なのかはっきりしないが、ここでは2015年に発売された『救いの鐘 ロビン・ギブ作品集1968-1970年』に拠っている。この画期的な集成によって、『救いの鐘』前後のロビンの音楽活動の成果を容易に聞くことができるようになった。

 『救いの鐘』は原題がRobin’s Reign、Reignとは君主の統治期間のことだが、いかにも中世趣味の彼らしい。アルバム・ジャケットでは、中世の騎士というより、むしろバッキンガム宮殿の衛兵のような衣装を身に着けてポーズを取っている。日本盤ジャケットは、2015年の『救いの鐘』に付録として再現されているが、こんな突飛なデザインではなかった。

 ジャケットも1970年代に相応しいとは思えないが、内容もある意味時代を裏切っている。『救いの鐘』は、ロビン・ギブが自身の音楽的才能を傾けて制作した渾身の一作だが、同時に彼の限界も示している。それは2015年盤に付された膨大なボーナス・トラック、その半数はセカンド・アルバムに予定されていたSing Slowly Sistersのためのセッションからだが、それらを合わせて聞くことで、よりよくわかる。彼の場合、作曲のレンジが狭い。言い換えれば、何を書いても同じような曲になってしまう。まあ、それは極端としても、ビー・ジーズ時代から、彼の書いた(と思われる)楽曲は、明らかによく似たメロディ展開や共通の曲調が認められた。四分音符と二分音符を組み合わせて、サビではトップから音が下降する、というのが、ロビンが繰り返し用いたパターンだが、2015年盤で聞かれる楽曲はまさにそのような曲のオンパレードなのだ。同じことは『救いの鐘』についてもいえる。

 アルバムの楽曲は大きく二、ないし三通りに分けられる。ひとつは、「救いの鐘」のような教会音楽風の朗々と響き渡るバラードで、まるで讃美歌のような曲もある。いま一つは、もう少し小味でなじみやすい「ウィークエンド」や「秋と冬の間に」のような曲だ。しかしこの両者も根本的に異なるわけではなく、一括すれば「バラード」ということになる。やや例外的なのが、もっとリズミカルで、より普通のポップ・ソングに近い「マザー・アンド・ジャック」のような曲である。しかし全体として見れば、似たような曲ばかりで、ロビン・ギブのファンか、よほどのバラード好きでなければ、通して聴くのは苦痛だろう。

 しかしそれでも、いやそれだからこそ『救いの鐘』は、現在でも注目に値する作品ということができる。この見事に時代の流行を無視して、聞き手の気分を高揚させようなどということとはほとんど無縁な、あまりにも静謐なバラードばかり集めたアルバムを1970年に発表するということ自体、ある意味アヴァンギャルドとも言える。

 こうしたことを考えると、この作品をつくったとき、ロビン・ギブがまだ20歳だったというのは、やはり驚くべきことである。あるいは逆に、20歳という若さだったからこそつくることのできたアルバムといえるかもしれない。

 

A-1 「秋と冬の間に」(September October)

A-2 「ゴーン・ゴーン・ゴーン」(Gone Gone Gone)

 これはまたシンプルにもほどがある。ほとんどワン・フレーズを延々と、延々と、延々と繰り返す。ようやく”Gone, gone, gone”というフレーズで変化をつけるが、このしつこいまでの繰り返しは、何か特別な狙いがあるのかと勘繰りたくなる。

 あるいは「夏と秋の間に」を前奏として、アルバムの本格的なオープニングを飾るファンファーレかなにかのつもりで置いたのかもしれない。案外、初のソロ・アルバムということで、自身の感情の高ぶりを表現しているのだろうか。

 

A-3 「街で一番悪い娘」(The Worst Girl in this Town)

 アルバムのメインとなる曲のひとつ。全編にわたって分厚いコーラスがヴォーカルをかき消すかのように空間を埋め尽くす。オーケストラを含めた、この広がりとスケールはまるでプログレッシヴ・ロックのようだ。

 2015年盤の『救いの鐘』には、B面の「ファーマー・ハドソン」の原型となった未発表曲“Hudson’s Fallen Wind”が収められているが、この三部構成の組曲の2番目のパートを書き換えたものが本作になっていることが判明した。

 

A-4 「ほほえみを僕に」(Give Me A Smile)

A-5 「沈みゆく太陽」(Down Came the Sun)

 前曲に続いて、とっつきやすいメロディの小品。どことなくカンツォーネ風というか、イタリアっぽい雰囲気の曲。そういえば、「ミリオン・イヤーズ」と「夏と秋の間に」は(なぜか)イタリア語ヴァージョンが作られていたことも、今回の集成に収録されたことでわかった。

 

A-6 「マザー・アンド・ジャック」(Mother and Jack)

B-1 「救いの鐘」(Saved by the Bell)

B-2 「ウィークエンド」(Weekend)

B-3 「ファーマー・ハドソン」(Farmer Ferdinand Hudson)

 アルバムのメインとなる曲。というか、そうなるはずだった曲である。「街で一番悪い娘」のところで述べたように、この曲は本来12分を越える大作“Hudson’s Fallen Wind”の一部なのだった。

 『救いの鐘』のリマスター盤にボーナス・トラックとして付け加えられた“Hudson’s Fallen Wind”は、ファーディナンド・ハドソンという農民と村を襲った嵐をテーマにした、ロビンお得意の叙事詩で、最初、語りから始まる。その後、「街で一番悪い娘」のもとになるメロディが歌われると、残る7分以上が、ロビンのア・カペラのヴォーカルで嵐の擬音を交えて歌い継がれる。そのうちの終盤の3分足らずを抜き出したのが「ファーマー・ハドソン」となる。

 ギターもベースもドラムも、ドラム・マシーンもなし。リズムもテンポもあったものではない。およそキャッチーでも、ポップでもない曲を12分以上にわたって歌うというのは、相当な荒業だが、結局この曲をアルバムに収録しなかった理由はよくわからない。

 もちろん単純に考えれば、このような冒険的な曲をアルバムに入れても、売り上げに貢献するとは思えないからだろう。原曲を分割して、「街で一番悪い娘」と「ファーマー・ハドソン」に分けて聞きやすくしたのは、商業的な観点からの妥協だったのだろうか。しかし、結局セールスが好ましいものではなかったことを考えると、“Hudson’s Fallen Wind”をそのまま入れてもよかったようにも感じる。少なくとも、インパクトはあっただろう。

 

B-4 「神の恵み」(Lord Bless All)

 『救いの鐘』はB面後半に進むにしたがって、いよいよマニアックになっていく。「神の恵み」はタイトルから想像がつくように、ほとんど讃美歌のような曲だ。ロビン・ギブのファンでも、さすがにここまでくると戸惑うだろうが、後年クリスマス・キャロルを集めたアルバム[iii]を出したように、いやそれ以前に「ランプの明かり」や「救いの鐘」を聞けば、ロビンに中世音楽というより、教会音楽への嗜好があることはわかっていたことだった。

 さらに2006年に発表された『ホリゾンタル』と『アイディア』のボーナス・トラックのなかには、数曲のクリスマス・ソング(オリジナルとカヴァー双方を含む)が収録されていて、それらはほぼロビンのヴォーカルである。この当時のポップ・ミュージックにおけるクリスマス・ソングというと、サイモンとガーファンクルの「7時のニュース/きよしこの夜」が思い浮かぶが、ギブ兄弟が、というよりロビンがこれだけオリジナルのクリスマス・ソングを書いていたとは驚きだ。なぜ一曲でも公式発表しなかったのだろうか。

 とはいえ、そうしたロビンの好みであれば、この曲のような作品が生まれるのも不思議ではないということだろう。

 

B-5 「モースト・オブ・マイ・ライフ」(Most of My Life)

 最後の曲は、比較的普通のバラードである。『救いの鐘』には、セカンド・シングルの「ミリオン・イヤーズ」が収録されなかったが、この曲と同タイプということではずしたのだろうか。3枚のシングルのB面曲はすべてアルバムに収められているのも、考えてみると意外な気がする。膨大な数のレコーディングを進めていたのだから、代わりの新曲はいくらでもあったと思われるが、この3曲「マザー・アンド・ジャック」、「ウィークエンド」、「ほほえみを僕に」に自信があったのだろうか。それともこれらの親しみやすい曲がアルバムに必要と考えたのだろうか。

 本当のところはわからないが、この曲ではベースが使われている。これはモーリスだろうか。ジョセフ・ブレナンの解説では、セッション・ミュージシャンらしいが、モーリスだとすると面白い。バラードにもかかわらず、かなり自由に飛び跳ねるベースで、またそれには全く無関心に歌い続けるロビンのヴォーカルとの対比は、かなりシュールだ。

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.705.

[ii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.704; Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1970; Saved By The Bell: The Collected Works of Robin Gibb 1968-1970.

[iii] Robin Gibb, My Favourite Carols (2006).

カーター・ディクスン『読者よ、欺かるるなかれ』

 『読者よ欺かるるなかれ』(1939年)は、カーター・ディクスン名義の異色長編である。といっても、カーには異色長編が多い。

 例によって、カー作品ではおなじみの怪奇な謎が全編を覆っている。今回いささか異なるのは、SF的な超能力(テレフォース)による遠隔殺人だという点である。しかも、超能力者の怪人物は殺人を予告したうえ、死体には一切傷あとも毒物の痕跡も残っていないという、ものすごい不可能犯罪である。

 作品は、『五つの箱の死』にも登場したサンダーズ博士の視点で語られる。作家のマイナ・コンスタブルの屋敷に招かれたサンダーズは、読心術師のハーマン・ペニイクを紹介される。彼の力を信じないマイナの夫サムに対し、ペニイクは、彼の死を予言する。その直後、サムは、マイナの目前で不審な死を遂げてしまう。錯乱してペニイクをインチキ呼ばわりするマイナに、再びペニイクが死を予言すると、今度はサンダーズの監視下にあったにもかかわらず、マイナもまた予言通りに死体となって発見される。

 とまあ、カー長編のなかでも、飛びきりの不可能犯罪小説といえるだろう。ただ、アイディアはごくシンプルで月並みともいえるものだが、それを手の込んだシチュエイション(主に犯人の事後工作)でカヴァーしている。従って、真相を見抜くのは難しいし、十分なデータが提示されているわけでもない。というより、事件を再構成できるための伏線を揃えること自体不可能に近い。ほとんどの読者は、ヘンリ卿の謎解きを拝聴するしかないだろう。

 江戸川乱歩は、本作を「このトリックは一般智識を越えているからアンフェアだという人もあるが、私には面白かった」[i]、とベストの七作に入れているが、いかにも乱歩らしい率直な評価である。二階堂黎人は、「犯人の正体と動機において優れた傑作とみるか、簡単な殺害方法を仰々しく飾り立てただけの凡作とみるか、難しいところである」[ii]、と評価を保留したかたちである。動機(というより、プロットといったほうがよいかもしれない)については、ハヤカワ・ミステリ文庫版の解説を担当している泡坂妻夫も注目している[iii]。二階堂は、本書の脚注を用いた読者への挑戦の趣向についても、「単なる引っ掛けとも言える」、と手厳しい。ダグラス・G・グリーンは、本書を「実に興味深い作品だ」と述べるが、その興味深さは、黒人との混血というペニイクに対するカーの人種観に向けられている[iv]

 やはり、カー作品には恒例の、評価が割れる作品のひとつといえそうである。

 しかし、本書はまぎれもなく、カーの全作品中最大の異色長編といえる。

 本書の狙いそのものが従来の長編と異なるのである。

 どういうことかというと、どうも本書で、カーは本気で超能力が実在すると読者に信じ込ませたがっているようなのである。

 カーの作品は、毎回、人狼だの幽霊屋敷だの、怪奇小説風の味つけが売り物になっている。しかしもちろん、本当に人外や幽霊による殺人だと思わせようとはしていないし、読者にそう思ってくれることを期待しているわけでもない(、と思う。例外はあるが[v])。

 ところが、本書の場合は、超能力による殺人としかみえない、とやけに強調するのである。そのあたりのことを、グリーンは、「(本書では)カーが犯罪の不可能性をあまりにも強調しオカルト的雰囲気をかきたてる」と表現している[vi]。泡坂も、「ここに至っては、おいおいカー先生、そんなことを書いてしまって大丈夫なのか、と言いたくなるような不可能趣味満点のストーリーである」[vii]、と述べている。

 これは、それほどの迫真のトリックを作り出せた、という自信の表れなのだろうか。それとも、前々年の長編小説[viii]の結末と同じ、と読者に思わせて、裏を書こうとしたのだろうか。

 そうではなさそうだ。

 二階堂は上記の引用に続けて、「戦時の社会風潮を筋書に大胆に織り込んでいる」[ix]と解説しているが、事実、本書では、事件が社会的問題となる、というストーリー展開をとっている。各章の最初に再三にわたって「新聞報道」として記事を差し込んだり、群衆が検死審問に詰めかける描写を作中に折り込んだりしている。こうしたいつものカーらしからぬ手法は何に起因するのだろうか。それを解く鍵は最後のヘンリ卿の言葉にありそうだ。

 

  「あの騒ぎを起こしたのは、実はこのわしの筋書だったのだ。起こした理由かね? 

 もっぱら国民に、健全な良識を植えつけてやるためさ。テレフォースの脅威だなど

 と、一時は、ロンドン中がひっくり返るような騒ぎになろうと、これを冷静に、白日

 下にさらしだせば、他愛ないナンセンスにすぎん、科学の仮面をかぶった戯言だとい

 うことを理解させるのだ。

  新聞社に、デカデカと報道させたのもわしだ。テレフォースの威力と、駆使する男

 の評判を、一度書かせただけでも、この騒ぎなんだ。いまに戦争がもっと烈しくなっ

 てみい。あわてものは、街中を駆けまわって、やれ、敵の爆撃機の空襲だ、ロンドン

 中は火の海に化そう。やれ、敵は毒ガスを撒くそうだ。ハムステッドからラムベスま

 で、人っ子ひとりいなくなる、なんてことをいい触らして歩くじゃろう。」[x]

  

 つまり、ここでカーは珍しくも、社会的なメッセージを発している。トレードマークの怪奇趣味を自ら否定しても、読者に、非科学的な根拠のないニュースを信じたりしてはいけない、と呼びかけているわけだ。こうしたメッセージを効果的たらしめるには、ひょっとしたら本当に超能力による殺人という結末なのかも、と読者に思わせる必要がある。もっとも、それほどの不可能トリックを案出できたので、こうしたメッセージを付け加える気になった、という解釈も考えられるが、第二次世界大戦の勃発前後という当時のヨーロッパの社会情勢を踏まえれば、上記のヘンリ卿の言葉はカーの本心を代弁しているのだろう。

 そして、そう考えると、本書のタイトルにも別な意味を読み取れる。

 「読者よ、欺かるるなかれ」とは、ミステリを読者とのゲームと心得るカーらしいタイトルで、脚注を使って読者を煙に巻こうとするギミックも、いかにも、と思わせる。だが、上記の引用が本書でカーが言いたいことであったとしたら、このタイトルも、「デマや風評に惑わされるな」、という「読者(国民)への警告(The Reader is warned)」、と受け取れる。

 そう考えれば、脚注を使った「読者への警告」という本書の重要な趣向が、取って付けたようであまり効果的でないのも納得がいく。むしろ、本書のメッセージを隠すためのレッド・へリングなのだろう。

 もっともカーのことだから、真面目なメッセージとみせて、実は単なるパズル・ミステリだよ、という洒落の可能性もある。もし、カーに直接訊ねることができたとしても、いやいや、私はただのミステリ作家だからね、と笑って答えそうだ。そもそもプロパガンダなどとは縁のなさそうなカーではあるが、実は熱血漢であった彼のこと。声高ではないメッセージをこっそりタイトルに忍ばせていたとすれば、そのさりげなさも、まことにカーらしい。

 

[i] 江戸川乱歩幻影城』(1951年、講談社文庫、1987年)、138頁。

[ii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、370頁。

[iii] 『読者よ欺かるるなかれ』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)、406-407頁。中心となる殺人のひとつは事故で、もうひとつは、殺人の障害となる人物をあらかじめ除去しておくことと超能力による遠隔殺人が事実であると世間に知らしめることが目的。実際に犯人が狙う殺人は最後になるまで実行されない。

[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、177頁。

[v] 『火刑法廷』(1937年)。

[vi] グリーン前掲書、176頁。

[vii] 『読者よ欺かるるなかれ』、404-405頁。泡坂を解説に起用したのをみると、早川書房編集部も充分そのことを理解していたのだろう。泡坂のとくに『妖女の眠り』(1983年)は、まさに輪廻転生をテーマにした幻想小説だと読者に思わせてしまうパズル・ミステリである。

[viii] 註5参照。

[ix] 二階堂前掲書、370頁。

[x] 『読者よ欺かるるなかれ』、398頁。

カーター・ディクスン『ユダの窓』

 『虚無への供物』(1964年)で、日本ミステリ史上に名を残す中井英夫のエッセイに、『虚無』を書くきっかけとなったミステリについて語ったものがある。鎌倉まで所用があって、車中で時間をつぶすために分厚いミステリを貸本屋で借りた、という話である。読み始めると、期待にたがわぬ面白さで夢中になったが、何と、結末の部分が落丁になっていた。お預けを食わされて歯噛みした中井は、それでも密室のトリックを自分であれこれ想像して、とうとう解決方法をひとつ思いつく。

 

  「それは、まさかこんなくだらないトリックじゃないだろうなというほどのお粗末 

 なものだったから、私はなお期待をこめて完本を探し、お目当ての箇所を読んだ。そ

 して何と!トリックはそのお粗末そのものだったのである。」[i]

 

 その後、怒り心頭の中井は「自分の手で完全な密室殺人譚を書き上げるという久しい悲願」[ii]を達成すべく『虚無』を執筆する、という内容だが、いうまでもなく、このミステリが『ユダの窓』だった、というオチである(いや、別に、中井がタイトルを伏せておいて最後に明かした、ということではない)。

 自身の頭の良さを自慢しているようにしか思えないが、『ユダの窓』のトリックを「こんなくだらないトリック」呼ばわりするとは、カー信者(そんな人たちがまだいるとして)を卒倒させるような恐ろしい発言だ。

 『ユダの窓』(1938年)と言えば、江戸川乱歩が、「密室殺人の最も奇抜な着想の一つ」、と讃嘆し、続けて、

 

  「どんな洋室にもあるが、大抵の人にはどうしても気付き得ない四角な窓、作者は

 それを「ユダの窓」と名づけて読者を五里霧中に彷徨せしめる。この窓を通じての殺

 人事件。私は諸方の講演などで数回この小説の筋を話し、聴衆に「ユダの窓」がどこ

 にあるか当ててごらんなさいと挑戦したが、どの場合も云い当てる人はなかった」[iii]

 

、と記したほどのカーの傑作である。今、読みかえすと、他人の考えたトリックを滔々と得意気に話す乱歩もどうかと思うが、『ユダの窓』が絶版の時代、この文章を読んだ私は、読めない悔しさに切歯扼腕(表現が古いなあ)したことを思い出す。

 カーに対し、意外に辛口だった中島河太郎も、本書を代表作とすることには異存はないようだし[iv]、最近では、二階堂黎人が、「この密室は、カーの発明したトリックの中でも一、二を争う傑作である。作品自体、古典的名作という位置づけに恥じない」[v]、と大絶賛である。この辺が、まあ、平均的な評価だろう。

 ただし、横溝正史は、あまり感心しなかったようであり[vi]、ダグラス・G・グリーンも殺人方法には懐疑的だ[vii]

 (以下、トリックを開示する。)

 本書の謎は、いしゆみで射殺された被害者(ヒューム)と同じ部屋で意識を失って発見された主人公を殺人容疑から救出する、という法廷ミステリである。被告の弁護に(文字通り)立ち上がるのがヘンリ・メリヴェル卿というわけである。

 部屋は内部から密閉されており、凶器も発見されないが、被告以外に殺人可能な人間はいない、と思われる。ヘンリ卿は、殺人は眼には見えない「窓」を使って外部から行われた、と主張し、それを「ユダの窓」(刑務所の独房の窓のことをこう言うらしい)と呼ぶ。

 謎の答えは、ドア・ノブを取り付けている金具をはずした四角い穴で、そこから矢を射込むというものである。この解決を読んで、「カーの発明したトリックの中でも一、二を争う」と思うか、「こんなくだらないトリック」と思うかは、まあ、人それぞれだろう。筆者は、なるほどなあ、と感心したが、こうして文章にすると、何とはなし、間抜けなような気もする。しかし、問題は、実際に、この「ユダの窓」を使った殺人が可能か、ということである。グリーンの疑問もそこにある。

 

  「殺人犯には、矢が致命的な場所に当たるような場所にヒュームが立つという確信

 は持てなかったはずだ。被害者を見ることができなかったから、なおさらだ。かりに

 見る余地があったとしても、ドアの厚さで矢の狙いを定めることはできなかったろ

 う。」[viii]

 

 カーの評伝中の文章なので、この後気を使ってか、上記の困難を軽減する方策をグリーンは提案しているが、もっともな疑問である。しかし、これより早く、都筑道夫が同趣旨の批判を行っていた。

 

  「つまり、成功の可能性の実に少ないトリックなのです。密室にする必然はあって

 も、密室にするには無理なシチュエイションなのです。こんなあやふやなことで、ひ

 とは殺人計画を実行に移すでしょうか。」[ix]

 

 はっきり言って、この都筑の指摘がすべてである。

 犯人は被害者と共謀(と見せかけるだけだが)して、主人公を罠にかけようとする(実は人間違いだった、というひどい話)。お互い、見知った者同士である。もし、最初の一射がはずれたら、一巻の終わりなのだ。被害者が鍵をかけて閉じこもっている以上、もはやチャンスはない。「やあ、ごめんごめん。冗談なんだ」では済まないだろう。高木彬光に本作のトリックを堂々とパクった長編があるが、実行可能性に関しては、はるかに優っている[x]

 こういった批判もあってか(?)、近年の本作への評価は、密室トリックそのものより、それを含むミステリとしての結構、もしくは法廷推理である点を評価する論調が目立つ。ハヤカワ・ミステリ文庫版の解説で、山口雅也は、「カーにとって密室とは、そのストーリー・テリングという屋台骨を支える柱のひとつだったのではないでしょうか。あるいは、オカルティズムやユーモアとともに、美味しい御馳走にかけて食欲をそそる、一種のスパイスだったのではないでしょうか」、と述べて、続けて、「本書においても、圧巻は全編にわたって展開されるスリリングな法廷場面で、・・・そのストーリー・テリングの妙を引き出すためには、冒頭の密室の謎がどうしても必要な要素となってくる」[xi]、と結論付けている。創元推理文庫版の解説を書いている戸川安宣も、訳者の高沢 治の言葉を引いて、「本書の傑作たる所以は、その密室トリックにあるのではない。・・・カーの本当のねらいは、犯人の正体を含む事件の真相-二重三重に織りなされ、錯綜した様々な企みにあるのではないだろうか」[xii]、と主張する。

 戸川の言にある「犯人の正体」に関する本作の特質とは、二階堂が端的に説明している「密室以外の犯人隠蔽に関するとてつもないトリック」に集約できるだろう。

 

  「つまり、強烈な殺人方法に読者の目を釘付けにすることで、犯人捜索をまったく

 忘れさせ、その意識から犯人の存在を完璧に隠蔽してしまうというのである。これは

 前代未聞の方法だ。この作品を読んだ読者は、H・Mによる密室の解明が終わった

 後、まだ犯人追求が残っていたことを思い出して愕然とするのではないか(私はそう

 だった)。」[xiii]

 

 随分面白いところに眼をつけるなあ、と感心するが、戸川も同様の趣旨の発言をしている[xiv]。(なんだか、一所懸命持ち上げようとしているように感じられなくもないが・・・。)

 二階堂や戸川の解釈には感嘆するが、問題は、本作の犯人が大して意外ではないということなのだ。当然、最後には、犯人は〇〇だ、とわかるのだが、ああ、そうですか、という程度なのだ(私はそうだった)。犯人を特定する推理にもあまり見るべきものがない(スタンプ台に関する推理がちょっと面白いが)。

 法廷推理としての評価も理解できるが、それはやはりミステリの本質的な部分ではなく、小説スタイルの問題だろう。もちろん面白く読ませることが作家としてもっとも力を注ぐところだろうが、『ユダの窓』が面白いからといって、カーにはもっと法廷推理を書いてほしかった、という声は耳にしない。誰もがペリ・メイスンを好むわけでもない。カーにも面白い法廷ミステリを書ける才能がある、という主張はわかるが、評論であまり強調すべき点でもないように思う。

 結局、二階堂や戸川、山口らが指摘する諸点(ストーリー・テリングやプロット)は、カーの他の作品の多くについても言えることなのだ。『ユダの窓』がパズル・ミステリの傑作である、と言おうとすれば、やはり密室トリックの評価如何に依存するのではないか。

 無論、本作のトリックの実行可能性が低いから駄作だ、とはいえない。そんなことを言ったら、カーのミステリはことごとく駄作になってしまう。

 問題はそこではなく、本作が、カーの作品中でも、より現実的な書き方がされているのに、トリックが現実的でないことにある。

 現実的な書き方がされている、というのは、まさに法廷推理だからである。法廷推理である以上、当然具体的な犯行の手順や段取りが検討の対象となる。『不思議な国のアリス』の「首を切っておしまい」のような、ファンタジーのふわっとした法廷描写では困る。

 本書では、実際に法廷にドアが持ち出されて、ヘンリ卿がトリックを説明する(そこが横溝が性に合わなかったところのようだ)が、どうも、カー自身は、本作の密室トリックは現実味がある、と自信を持っていたらしい(評伝によると、実際にドアを使って実験した、という[xv])。カーも、自分が書くミステリが非現実な絵空事だ、と批判されるのを気にしていたのだろうか。本書で法廷推理の体裁を取ったのは、日常的な実行可能性の高いトリックを案出した、という自負が要因のひとつだったのかもしれない。

 しかし、トリックの発想の卓抜さはともかく、現実的かどうか、という点に関しては、カーの感覚はやはりずれている。都筑やグリーンが批判したポイントは、現代ミステリだったら致命的だろう。現実的なプロットとトリックがちぐはぐなのだ。

 そうはいっても、本書の謎が魅力的なことに変わりはない。以下の文章などは、何度読みかえしてもぞくぞくする。

 

  「どこまでも続く街並みのどの部屋も、夜になれば明かりのともる平和な部屋なの

 だ。だのに、その部屋の一つ一つに、殺人犯にしか見えないユダの窓があるというの

 だ。」[xvi]

 

  「ロンドンに建つ何千何万の家、何百万の部屋。数限りない街路の両側に並び、ど

 れもがちゃんとしていて、夜ともなれば平和な明かりがともる。それでいて、どの部

 屋にも殺人犯にしか見えないユダの窓があるというのだ。」[xvii]

 

 カーが書いた、最高に心躍らせる文章ではないだろうか。そして、「ユダの窓」という絶妙なタイトル。そうだ、本作の傑作たる所以は、この文章とタイトルにあるのだ。

 

[i] 中井英夫「カーの欠陥本」『地下鉄の与太者たち』(白水社1984年)、165-66頁。今、気づいたが、このエッセイのタイトルは、落丁のことだけではなく、内容についての評価も含んでいるようだ。

[ii] 同、166頁。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(1951年、講談社文庫、1987年)、137頁。

[iv]アラビアン・ナイトの殺人』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1960年)、「解説」、518頁。

[v] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、367頁。

[vi] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、235-36頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、175頁。

[viii] 同。

[ix] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、116頁。

[x] 高木彬光『死を開く扉』(1958年)。トリックがよりシンプルで、しかも犯人が被害者に正体を知られることなく、殺人を実行できる設定になっている。

[xi] 『ユダの窓』(砧 一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)、394-95頁。

[xii] 『ユダの窓』(高沢 治訳、創元推理文庫、2015年)、414頁。

[xiii] 二階堂前掲書、368頁。

[xiv] 『ユダの窓』(創元推理文庫版)、413頁。

[xv] グリーン前掲書、175頁。都筑も、本書を批評するに際して、ドアで実験してみたらしい(皆さん、熱心ですな)。こうした実験が簡単にできるという点では、本書のトリックは現実的だった、といえるだろうか(?)。都筑前掲書、115頁。

[xvi] 『ユダの窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、96頁。

[xvii] 『ユダの窓』(創元推理文庫)、97頁。

J・D・カー『帽子収集狂事件』(補遺)

 ジョン・ディクスン・カーの長編を系統的に見ていくと、探偵の交代とともに、作風の変化が見て取れる。バンコラン・シリーズの4作品から、ロシターものの『毒のたわむれ』を経て、1933年の『魔女の隠れ家』でフェル博士のシリーズが始まる。バンコランの無国籍ミステリからフェル博士の英国風ミステリへの転換だが、続く『帽子収集狂事件』は、さらに大きな方向転換の第一作という印象を受ける。

 その一つは、プロットの特徴の変化である。バンコランのシリーズでは、グロテスクな殺人場面や冒険活劇的場面が多出して、それらがセンセーショナルな外観を与えていた。しかし、『帽子収集狂事件』にはそうしたシーンがほとんど見られない。ロンドン塔での死体発見という劇的な場面で幕を開けるが、小説の大半は、ロンドン塔と被害者のアパート、彼の伯父の邸宅における関係者の聞き取りに終始する。これほど動きのないプロットは、これまでのカー作品には見られなかったものである。つまり、いかにもイギリス的な、警察の尋問で進行する、いかにもありふれたミステリとなっているのだ。

 この作風の変化から当然生じてくるはずの退屈さを和らげるためにカーが採用したのが、ユーモアである[i]。カー作品におけるユーモアないしファースの要素については、評価が分かれている[ii]が、本作に続く『剣の八』(1934年)と『盲目の理髪師』(同)が同じような、いやさらにファースの度合いが強まった長編になっているところを見ると、カーが意識的にこの路線を進めようとしていることがわかる。

 この方向転換は何に起因するものなのだろうか。常識的に考えれば、カーも「大人」になったということだろう。残虐とグロテスクをブレンドしたバンコラン・シリーズの鬼面人を驚かすミステリから、ユーモアを湛えた休日の読書にふさわしいゆとりのあるミステリへの変化ということである。

 このように『帽子収集狂事件』は、初期のカーのイメージを一新して、新たな小説スタイルの確立に向かう作品だったように思える。

 カーも「大人になった」、と述べたが、この変化はイギリスへの移住の影響も感じられる。カーがイギリス作家として生きていこうと決心したのかどうかはわからないが、今後はイギリスの読者を意識して書かなければならない、とは考えただろう。アメリカ読者向け(とまではいえないかもしれないが)の煽情的な場面を売り物にしたミステリから、思わせぶりな会話の応酬を軸にした英国風ミステリへの緩やかな転身をはかった、と見ることもできる。もっともディクスン名義では、イギリス的怪奇趣味を正面に掲げて、ある種煽情的なミステリを書くのだが。

 さらに憶測を重ねれば、他のアメリカ作家の影響も考えられる。『帽子収集狂事件』にはちょっと面白い一節がある。フェル博士は小説の名探偵を気取っている(これもメタ・ミステリ的な発言だが)、というハドリー警視に対し、フェル博士が、現実の警察官はといえば、

 

  「小説の探偵のように鮮やかにはいかんじゃないか。納税者を厳粛な目つきで見つ

 めて、″この殺人の謎を解く鍵はマンドリンにあります、乳母車にあります、ベッド 

 用の靴下にあります″と納得させて、彼らにこれぞ真の警察の姿だと感心させたりは 

 せん。そうしないのは、そうできないからさ。」[iii]

 

、と言い返す。この発言を見ると、フェル博士は前年に出版されたばかりのエラリイ・クイーン(バーナビー・ロス)の『Yの悲劇』を読んでいるようだ。さすが読書家の博士らしい。

 わざわざ引用するまでもなく、フェル博士、いやカーがクイーンの作品に注目していたのは間違いないだろう。クイーンが描くアメリカの都市社会で起きる事件を推理によって解決する小説は、ヴァン・ダインの先行例があるとはいえ、ほぼ同時期にデビューした同業作家であるだけに、強い印象を与えたと思われる[iv]。うっかりすると、パルプ・マガジン小説とも取られかねない煽情的なミステリから、本来目指していたはずの知的興味を主眼とする巧緻なミステリをイギリスを舞台に描こうとした、と考えれば、この転身には納得がいく。

 もう一つ付け加えれば、クラリス・クリーヴズとの結婚も、作風の変化に影響したのではないか。こんな夫婦間の会話が浮かんでくる。

 

  「ねえ、ジョン。私、このバンコランという探偵、好きになれないわ。あまりに冷 

 たすぎるんですもの。」

  「うーん、そうだね、ハニー。実は、僕もそう思い始めたところさ。この男は、こ 

 のところ、どうにも扱いづらくてね。何で、こんな性格にしたのかな。若気の至りと

 いうやつだね。」

 

 イギリス移住後はカーに同行して探偵作家クラブの例会に出席し、名だたる女性作家(アガサ・クリスティを筆頭に、ドロシー・セイヤーズやマージェリー・アリンガムなど)にも臆することなく接した[v]、というくらい度胸があったと思われるクラリスである。そもそも、誕生日のパーティを開いてもらうより、一人でアメリカ旅行に行きたい、と両親にねだって[vi]、実行してしまう。結婚後、妊娠すると、これでこっちのものと言わんばかりにジョンを連れて、さっさとイギリスに戻る[vii]女性である。カーも頭が上がらなかったに違いない。

 もっとも本質的なところは変わっていないのかもしれない。『絞首台の謎』や『蝋人形館の殺人』では、バンコランは犯人たちに対してはむしろ同情的だ。彼らに共通するのは、誇り高いことである。卑劣なのはいつも被害者のほうなのだ。『蝋人形館の殺人』のラスト・シーンも、バンコランの冷徹さより、犯人の時代遅れだが狷介な性格を際立たせるための演出である。

 『帽子収集狂事件』でも、最初フェル博士は同情から犯人を見逃そうとする。しかしこのままなら、フェル博士の配慮にはあまり説得力がない。だが、最後の最後で、犯人は(フェル博士以外には)疑われていないにもかかわらず、自分を救ってくれた人物が犯人として葬られることを黙過できず、ハドリー警部に告白する。ここで初めて、この事件の犯人は矜持を見せるのである。「未解決」とハドリー警部が述べるラストは、警察官が何やってんの、と言われようとも、カーが「そういう」作家だったことを如実に物語る。そこがカーの小説のある意味通俗的な所以でもあるが、それは終生変わらなかった。

 

[i] フェル博士の真面目くさってバカなことをするユーモアは、新訳よりも、少々堅苦しい田中西二郎訳(創元推理文庫、1960年)のほうが、おかしみが出ているように感じる。田中訳に親しんできたせいに過ぎないかもしれないが。

[ii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、208-209頁、瀬戸川猛資・鏡 明・北村 薫・斎藤嘉久・戸川安宣「内外ミステリ談義2 ジョン・ディクスン・カーの魅力」『ユダの窓』(高沢 治訳、創元推理文庫、2015年)、394-95頁。

[iii] 『帽子収集狂事件』(三角和代訳、創元推理文庫、2011年)、186頁。

[iv] クイーンとロスを混同した書き方になってしまったが、もちろん、1935年当時は、別の作家だと思われていた。(2022年4月23日追記)本書は、タイトル自体が『Yの悲劇』をもじっていることを付け加えておかなければいけなかった。エラリー・クイーン『Yの悲劇』(越前敏弥訳、角川文庫、2010年)、24頁。

[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、212-16頁。

[vi] 同、99頁。これに、「あなたがこの国にいるなら面倒をみるけど、よその国で暮らすなら生活費は出せないわよ」と答えたというクラリスの母親もナイスだ。

[vii] 同、109-110頁。

J・D・カー(カーター・ディクスン)『白い僧院の殺人』

 『白い僧院の殺人』(1934年)は、カーター・ディクスン名義の第二長編で、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの第二作でもある。

 かつては、『修道院殺人事件』の表題で、長谷川修二訳がハヤカワ・ポケット・ミステリに収録[i]され、『修道院の殺人』の書名で、宮西豊逸訳が東京創元社の全集[ii]に収められた。現在では、厚木 淳訳が上記タイトルで創元推理文庫[iii]から出ている。いずれの題名もあまりしっくりこないのは、本当に修道院で殺人が起こるわけではないからで、とくに近年歴史ミステリの翻訳が増えるようになって、カーの歴史ものと誤解されかねないような気もする。固有名詞だから『ホワイト・プライオリの殺人』でよいのではないか(プライオリだと附属修道院と訳すほうがよさそうだし[iv])。

 ちなみに、私は、宮西豊逸訳を国立国会図書館で読んだ。借り出しはさすがにできなかったので、昼食もとらず館内で大急ぎで読了した(と、さりげなく自慢する)。

 本書はディクスン・カーの代表作のひとつとして知られる。江戸川乱歩の「カー問答」では、『三つの棺』や『曲がった蝶番』とともに第二位の七作のうちのひとつに挙げられている[v]松田道弘の「新カー問答」でも、かなり頁数を割いて、「雪の上の足跡がひと組しかないという謎もかなり見事にときあかしてくれる」「パズル趣向の小説としてはトリックの構成がじつによく出来ているし、何よりも不可能状況の設定が水際立っている」、と称賛を惜しまない。ただし、「・・・登場人物の描きわけが十分でないので読みかえすのは正直いってかなり苦痛だったね。会話がまずいせいだろうな」、と苦言も呈している[vi]二階堂黎人は、やはり「多数出てくる作中人物の性格描写がやや交錯している」とするものの、「《足跡のない殺人》トリックを用いた犯行は雄大」、と評価する。「この作品で、《足跡のない殺人》という不可能犯罪がかもし出す謎の面白さを知った人も多いはず」というコメントも大いに同感できる[vii]

 以上の諸氏の評価はいずれも肯綮に当たっており、あまり付け加えることもない。前作の『プレーグ・コートの殺人』もそうだが、まるでミステリの教科書のような作品で、周囲を薄い雪で覆われた居館の入り口まで死体発見者の足跡だけが残され、犯人は空中に消失したかのような冒頭から、ほぼ、この不可能な謎をどう説くかだけを追求する長編ミステリである。途中、二度にわたって、作中人物が仮説を提示するが、その解決法だけでも充分面白いので、それらが否定されるたびにさらに不可能興味が深まるという絶妙な展開となっている。最終的な解決は、それまでの上をいく見事なもので、カーのミステリのなかでも、もっとも鮮やかな謎解きのひとつと言えるだろう。

 ただし、トリックの原理は既存のもので、カー自身の先行作品を応用したものである。

(以下、本書および別のカー長編のトリックを明かす。)

 本書のクライマックスで、ヘンリ・メリヴェル卿は次のように喝破して、聴き手を(読者も)驚かす。

 

  「・・・いいか、間抜けども、マーシャ・テートはこの部屋で殺されたんだぞ」[viii]

 

 一方、『帽子収集狂事件』では、フェル博士がこう叫ぶ。

 

  「そう、ドリスコルはロンドン塔で殺されたんではない。自分のフラットで殺され 

 たんだよ」[ix]

 

 これ以前にも、カーは『夜歩く』のトリックを『弓弦城の殺人』で応用しているが、有効活用というか、省エネというか、まあ、本作の場合、これぐらい上手く使っていれば文句は出ないだろう。しかし、いずれもカー名義の作品をディクスン名義、つまり別名義で応用しているのは、さすがに気がとがめたのだろうか。果たしてカーター・ディクスンディクスン・カーが別人だと思う英米の読者は、何人いたのだろう?それと、この使いまわし方は、ディクスン名義のほうを軽く見ていたことを意味しているのだろうか。

 話を戻すと、犯罪の細かい段取りに関しても、本作は、よく考えられ、書き込まれている。「彼女はなぜ犬が吠えかかってくるのに、別館を出ていったのか」「犯人はなぜ被害者の居場所がわかったのか」など。前作の『プレーグ・コート』が、どちらかというと、「細けえことはいいんだよ」的な大雑把さがあったのに比べると、非常に丁寧にトリックの手順が説明されているのも好ましい。犯人を特定する推理はあまり目立たないが、電話を利用した「犯人の失言」の手がかりは、後年のエラリイ・クイーンの作品[x]を思わせる、なかなか巧妙なアイディアである。

 他方、明快かつ巧緻なトリックに比して、読みづらいというのも、多くの評論が認めるところだが、これは、会話の巧拙や性格描写というより、登場人物が皆、思わせぶりに腹に一物あるような話し方をするせいであるようだ。しゃべり方のリズムというか、癖が皆一緒なのである。また、プロットの捻り方にも癖がある。作中、ある人物が殺人を告白して、自殺を図る。ところが、その直後に、殺されたはずの人物から電話がかかってくる。作中人物も、読者も唖然とするところだが、さらにそのすぐあと、今度は別の人物が殺人を告白する。こうなると、スリリングというより、ファースに近くなる。いや、作者はそのつもりなのだろうか。

 「黒」の『プレーグ・コート』が怪奇小説風の語り口で読者を作品世界に引きずり込むのに対し、「白」の本書では、純白の殺人舞台に、被害者は華やかな映画スターと、明るいとまではいわないまでも、対比の妙を狙っているのは明らかだが、前者の怖がらせに対し、本作では、かけひきめいた会話劇とショッキングな告白の連続で読者を引きつけようとしたらしい。

 ところで、『プレーグ・コート』も『ホワイト・プライオリ』も、夫婦間の殺人を取り上げているところも共通している。前者は、妻が夫を殺し、後者は、夫が妻を殺す。1932年に結婚したばかりのカー夫妻だが、早くも倦怠期を迎えていたのだろうか。それとも、ジョンには、いつかクラリスに捨てられるのでは、という無意識の(カーが大嫌いだったという)「心理学」[xi]的恐怖が潜んでいたのだろうか。

 

[i]修道院殺人事件』(長谷川修二訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1956年)。1995年に復刊されている。

[ii]修道院の殺人』(宮西豊逸訳、東京創元社、1959年)。

[iii] 『白い僧院の殺人』(厚木 淳訳、創元推理文庫、1977年)。

[iv]修道院」は本来、ウェストミンスタ・アベイのように、Abbeyである。

[v] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、314頁。

[vi] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、217-18頁。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、351頁。

[viii] 『白い僧院の殺人』、306頁。

[ix] 『帽子収集狂事件』(三角和代訳)創元推理文庫、2011年)、364頁。

[x] エラリイ・クイーン「菊花殺人事件」(1968年)『クイーン犯罪実験室』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)所収。

[xi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、142頁。

J・D・カー『黒死荘の殺人』

 『黒死荘の殺人』(1934年)は、カーター・ディクスン名義の第一長編で、いよいよヘンリ・メリヴェル卿が登場する。

 本作は、1977年に平井呈一訳が講談社文庫[i]に収録され、同年、仁賀克維訳がハヤカワ・ミステリ文庫[ii]からも公刊されている。近年、創元推理文庫[iii]に新訳が収められ、今後の定番になりそうである。平井呈一南條竹則といった翻訳者の面々からわかるとおり、カーの作品中、もっとも正統的な(というのもおかしいが)怪奇小説風ミステリである。

 古くからカーの代表作として知られ、その評価は一貫して変わっていない。江戸川乱歩の「カー問答」では第一位の六作に含まれ[iv]松田道弘は「新カー問答」で「カーの第二期の代表作のひとつ」と言い、さらに、「ロンドンの雨の夜の、幽霊屋敷のゴースト・ストーリーばりの雰囲気描写は相当なもんだ」[v]、と称賛している。二階堂黎人に至っては、「言うことなしの傑作」[vi]、と述べ、六頁にわたって、メイン・トリックを中心に詳細な分析をしている。

 実際、本作はカーの最高傑作のひとつで、トリック小説としては最初の成功作といってもよいだろう。まさに王道の(というのもおかしいが)不可能犯罪ミステリであり、まったく無駄なく、完璧に組み立てられている。最初の黒死荘(プレーグ・コート)の殺人に全体の頁数の半分以上が割かれ、じっくりと怪奇小説的雰囲気が醸成されていく。その後、ヘンリ・メリヴェル卿が登場すると、第二の殺人から最後の深夜の謎解きまで、一気呵成にクライマックスへとなだれ込む。息も継がせぬ展開は見事である。殺人の謎はシンプルに提示され、鮮やかに解決される。読者に余計なことを考えさせず、不可能犯罪と怪奇な非日常世界に引きずり込む手際は、ついにカーの才能が開花したことを確信させる。

 パズル・ミステリとしても教科書のような折り目正しさ(というのもおかしいが)があり、「密室」「一人二役」「顔のない死体」と、ミステリの三大トリックを一作にぶち込んで、しかも見事なバランスですべてがきれいに収まっている。出来過ぎという感さえある。

 ダグラス・G・グリーンによると、カーター・ディクスン名義の作品は、「使い古された状況を用い」ている、とカー自身が認めており、また「単一的な状況設定」で、「複数でなくただ一つの問題に焦点を絞っている」のが特徴だ、と解説されている[vii]。カー名義の作品が、事件そのものがなかなか掴めないような書き方になっているのに対し、ディクスン名義の作品はわかりやすいプロットが特徴だ、というわけであろう[viii]。確かに1930年代の長編を比較すると、カー名義の長編は、必ずしもフェル博士ものに拘らず、作風も多彩であるが、ディクスン名義では、合作の『エレヴェーター殺人事件』(1939年)を別とすれば、ヘンリ・メリヴェル卿ものに固定化されている。プロットも初めから不可能犯罪を取り扱った小説が多い。どちらがよいというものでもないが、ディクスン名義の作品のほうがとっつきやすいということはあるだろう。

 ところで、乱歩は本作をカーの第一級の傑作と評したが、最初はそうではなかったらしい。『幻影城』のエッセイを読むと、「この作については正当な評価ができない」、と書いている。先に『三つの棺』を読んでいて、「密室講義」のなかに本作のトリックが紹介されていたからだという。しかもトリックの要となるもの(「被害者の体内に喰い入った物質」と苦心の表現だが)が「こんなありふれたものでは困る」と思ったらしい[ix]。その後考え直して、最上位の作品と認めた、ということだが、一方、横溝正史は、乱歩のいう「物質」を密室トリックに応用した点が優れている、と端的に評価している[x]。分類マニアの乱歩と徹頭徹尾探偵小説作家だった正史のミステリの読み方の違いが現れているようで、興味深い。

 いずれにしても、本作の密室トリックは、カーの考案したなかでも出色のもののひとつだろう。(以下、トリックを明かす。)読み返してみると、現場に残されていた短剣の特殊な形状の説明がわざとらしいほどだが、読んでいる間はそのことに気づかせない。怪奇ムード満点の手記など、お膳立てと描写の巧みさで押し切ってしまう。もっとも、犯人が具体的にどのように被害者を言いくるめて、どのような手順で殺害したのか。最初密室内で被害者をちくちくやったとして[xi]、その後部屋を出てから、どのように塀に登って、木に飛び移ったのか。そんな軽業師の芸当が本当にできたのか。窓の狭い格子の間から銃を突き出して、被害者に気づかれなかったのか。それでも急所に命中させるほど、銃の名手だったのか、等々、詳しく説明されていないので、やや消化不良気味なところもある。

 しかし、本作の妙味は、むしろ犯人の意外性にあるというべきかもしれない。(以下、犯人を明かす。)一人二役と顔のない死体を組み合わせて、見事に読者の意表を突く犯人を考案している。「顔のない死体」の謎はオーソドックスな解決なので、読み慣れた読者にはさほど難問ではないが、真犯人の正体は、大方の予想を越えているだろう。

 ところで、日本では、カーといえばカラスではなく、瞬間的にエラリイ・クイーンの名が浮かんでくる人が多い(だろう)が、『黒死荘』の犯人の設定は、クイーンのある作品と類似している。(以下、クイーンの代表作の犯人を明かす。)

 『黒死荘』の犯人は、はっきりとした動機をもった人物だが、登場人物のひとりに扮して、正体を隠している。犯人が本来の自分に戻るためには、この架空の人物を消さなければならない。作品中では、最初の殺人を目撃されたことが第二の殺人の動機となっているが、犯人にとっては、いずれ架空の自分を抹消しなければならない(失踪しただけでは、捜索が継続される)ので、そのための新たな犯行が必要となる。そこで第二の殺人を決行し、死体を焼却して身元不明にするのである。

 一方、クイーンの『Xの悲劇』でも、犯人は一人二役(実際は三役、しかもすべて架空の人格)の生活をしている(もちろん、殺人が目的)。事件後も二役を続けることは、捜査の対象となることを考えれば、事実上不可能である。そこで、犯人は、第二の殺人で、被害者に自身の服を着せ、顔が判別できなくなるような手段で殺害する。かくして架空の人格をひとつ抹殺する。

 『黒死荘の殺人』と『Xの悲劇』は、いずれも意外な犯人だが、一人二役と顔のない死体を使ったアイディアはよく似ている。『X』は1932年刊、『黒死荘』は1934年。影響があるとすれば、明らかに『黒死荘』が『X』からヒントを得ている。もちろん偶然かもしれないが、カーに「顔のない死体」を扱った作品が他にないことを考えると、『X』からの影響の可能性は大きいだろう。だからといって、盗作だとか、剽窃だとか言うつもりはない。『黒死荘』は、独自のプロットでこのアイディアをうまく活かしている。非現実的すぎて(一人三役はやりすぎだろう)、人工的な印象を与えかねない『X』よりも、優れているといってもよい。やはり、カーの代表作のひとつという評価は変わることはないようだ。

 

[i] 『黒死荘殺人事件』(平井呈一訳、講談社文庫、1977年)。元々、次の全集に収録されていたもの。カー『黒死荘殺人事件/皇帝の嗅ぎ煙草入れ』(世界推理小説体系10、講談社、1972年)。『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』は宇野利奏訳。この全集の監修は、松本清張横溝正史中島河太郎、今見るとすごい顔ぶれである。

[ii] 『プレーグ・コートの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[iii] 『黒死荘の殺人』(南條竹則・高沢 治訳、創元推理文庫、2012年)。

[iv] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、313頁。

[v] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[vi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、352頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、142-43頁。

[viii] 二階堂前掲書、349-50頁参照。

[ix] 江戸川乱歩幻影城』(講談社文庫、1987年)、136-37頁。

[x] 横溝正史忠臣蔵とカー」、小林信彦編『横溝正史の世界』(角川書店、1976年)、147-51頁。

[xi] ちなみに、この状況設定は、横溝正史の『迷路の花嫁』(1955年)で借用されている。

J・D・カー『弓弦城の殺人』

 『弓弦城殺人事件』(1933年)はカーター・ディクスン(正確にはカー・ディクスン)名義の最初の長編で、この一作のみの探偵ジョン・ゴーントが登場する。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1976年にハヤカワ・ミステリ文庫が創刊されると本作も収録され[i]、広く(?)読まれるようになった。

 ジョン・ゴーントという名は、よく知られているとおり、イングランドエドワード3世(在位1327-77年)の三男で、リチャード2世(在位1377-99年)を廃位してランカスター朝を開いたヘンリ4世(在位1399-1413年)の父親ジョン・オヴ・ゴーント(John of Gaunt, 1340-99年)から取られている。ランカスター朝といえば、バラ戦争で有名である。カーの歴史趣味がよく発揮された名前といえる。もっとも、一作きりの探偵ということもあり、名前以外は、酒ばかり飲んでいるアル中探偵のイメージしかない。アンリ・バンコランをアルコール、いや水で薄めたような(というのは言い過ぎか)キャラクターである。

 また、本作は同年のカー名義の長編『魔女の隠れ家』と同じく、イギリスを舞台にしている。東部海沿いのサフォーク州のオールドブリッジ(実在の地名かどうかは知らない)で、『魔女の隠れ家』の舞台リンカンシャも近い。カーがイギリスに旅行した際、訪れた場所だったのだろう。

 ダグラス・G・グリーンによれば、別名義による執筆は、カーがイギリス人女性クラリス・クリーヴズと結婚した後、イギリスに移住して生活するための資金稼ぎが直接の動機だった、という。このために速攻で書かれたのが本作だった[ii]

 となれば、杜撰なやっつけ仕事という印象を受けそうだが、実際グリーンの評価はそのようなものである[iii]。カー自身も同じように考えていたらしい(ただし、よく売れたともいう)[iv]。物語は、終始タイトルにあるボウストリングという古城で展開し、『魔女の隠れ家』におけるようなイングランドの田園風景の描写は見られない。しかし、別名義でもイギリスを舞台に選んだのは、『魔女の隠れ家』と同じ気分のまま書けるということもあったのだろうか。

 日本での評価はと言えば、江戸川乱歩の「カー問答」では第三位の十作のひとつ[v]で、密室トリックに関して、やや詳しく解説しているので、そこはかなり感心したもののようだ[vi]松田道弘の「新カー問答」では、「密室テーマ」のうちの一冊として挙げられているだけで[vii]、評論の対象とされていない。二階堂黎人は、探偵がヘンリ・メリヴェル卿だったら「佳作へと昇華する素質を持っていた」、とし、「古城の描写」や「手がかり兼ミスディレクション」は「冴えている」、と結論している[viii]。ジョン・ゴーントにとってはお生憎さまというところか。

 確かに、続くヘンリ・メリヴェル卿の『プレーグ・コートの殺人』や『ホワイト・プライオリの殺人』に比べると、だいぶ見劣りすると言わざるを得ない。

 そうはいっても、カーの他の長編に比べて、著しく劣っているというようなことはなく、古城を舞台とした密室殺人の謎は頁を繰る手を休ませないし、パズル・ミステリとしても充分面白い。

 ただし、肝心の密室トリックは、グリーンが指摘しているとおり[ix]、『夜歩く』の焼き直しで、ありあわせのものをアレンジして出したという感は否めない。ただ興味深いのは、『魔女の隠れ家』もそうだが、この時期のカーは、基本的に一人二役をもとにトリックを案出していることで、後年の多彩なトリックの引き出しがまだ作られていない。ある意味、非常に幅が狭い。

 また、被害者は最後に目撃されてから数分後に死体で発見されるが、足を折り曲げたような不自然な姿勢で倒れている、と描かれる。わずか数分で死後硬直が起こったかのような描写なのだが、実際このようなことがあるのだろうか。それについて何の説明もないまま、捜査は進展し、そもそも死亡推定時刻も明確にされない。これも充分推敲されずに出版社に渡してしまったのでは、と勘繰りたくなるところか。

 他に興味深い点は、ゴーントが解説で強調しているように、本作では「死体の落下」がテーマになっていて、乱歩が説明している「密室に死体を投げ込む」トリックのほか、第二の殺人でも死体の落下によって捜査陣(と読者)を錯覚させるトリックが用いられている[x]。このあたりはなかなか面白い。ただし、城内の見取り図がないので、少々わかりづらい。

 というわけで、短期間で書かれたという先入観のせいか、色々と練られていない部分や考え抜かれていない点が目立つが、全体としては一定のレヴェルを上回っていると言ってよいだろう。

 最後に探偵の交代について触れると、ジョン・ゴーントが印象の薄い探偵であるのは確かだが、そういう探偵ならば、カー以外の作家にもいくらでもいる。何も戯画化した探偵を必ず登場させなければならないわけでもない。その後の長編で、ゴーントをそのまま起用することも可能だったはずだが、次作からはヘンリ・メリヴェル卿に主役の座を譲ることになる。確かに、H・Mの毒舌で天衣無縫のキャラクターは、その後イギリスのパズル・ミステリでいわばひとつの定番となるタイプ(レジナルド・ヒルのダルジール警視など)でもあるが、今度はフェル博士と区別がつかない、という(主に日本での?)弊害をもたらした。カーがそれまでのバンコランのような痩身でミステリアスな探偵から巨漢で饒舌な探偵に180度転換したのは、カーがこうしたキャラクターを好んだのだ、と推測できるだろう。前者に欠けていて、後者に特徴的なのは父性の有無だろう。別名義のペンネームが必要になった際、まずニコラス・ウッドという父親の名前をもじったものを考えた[xi]、という挿話も示唆的である。

 別稿でも書いたが、カーが作品中に自身を投影したアメリカ人青年は、フェル博士やヘンリ・メリヴェル卿に父親に対するような感情を抱いているように見える。その行動に飽きれ、からかい、文句を言いつつも、無限の信頼と敬意を寄せている。それがカーの抱く理想の強く賢い父親像だったのだろう。

 

[i] 『弓弦城殺人事件』(加島詳造訳、早川書房、1976年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、109-110頁。

[iii] 同、137頁。

[iv] 同、138頁。

[v] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、315頁。

[vi][vi] 同、326頁。

[vii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、214頁。

[viii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、348頁。

[ix] グリーン前掲書、137頁。

[x] 『弓弦城殺人事件』、262頁。

[xi] グリーン前掲書、110頁。