J・D・カー『黒死荘の殺人』

 『黒死荘の殺人』(1934年)は、カーター・ディクスン名義の第一長編で、いよいよヘンリ・メリヴェル卿が登場する。

 本作は、1977年に平井呈一訳が講談社文庫[i]に収録され、同年、仁賀克維訳がハヤカワ・ミステリ文庫[ii]からも公刊されている。近年、創元推理文庫[iii]に新訳が収められ、今後の定番になりそうである。平井呈一南條竹則といった翻訳者の面々からわかるとおり、カーの作品中、もっとも正統的な(というのもおかしいが)怪奇小説風ミステリである。

 古くからカーの代表作として知られ、その評価は一貫して変わっていない。江戸川乱歩の「カー問答」では第一位の六作に含まれ[iv]松田道弘は「新カー問答」で「カーの第二期の代表作のひとつ」と言い、さらに、「ロンドンの雨の夜の、幽霊屋敷のゴースト・ストーリーばりの雰囲気描写は相当なもんだ」[v]、と称賛している。二階堂黎人に至っては、「言うことなしの傑作」[vi]、と述べ、六頁にわたって、メイン・トリックを中心に詳細な分析をしている。

 実際、本作はカーの最高傑作のひとつで、トリック小説としては最初の成功作といってもよいだろう。まさに王道の(というのもおかしいが)不可能犯罪ミステリであり、まったく無駄なく、完璧に組み立てられている。最初の黒死荘(プレーグ・コート)の殺人に全体の頁数の半分以上が割かれ、じっくりと怪奇小説的雰囲気が醸成されていく。その後、ヘンリ・メリヴェル卿が登場すると、第二の殺人から最後の深夜の謎解きまで、一気呵成にクライマックスへとなだれ込む。息も継がせぬ展開は見事である。殺人の謎はシンプルに提示され、鮮やかに解決される。読者に余計なことを考えさせず、不可能犯罪と怪奇な非日常世界に引きずり込む手際は、ついにカーの才能が開花したことを確信させる。

 パズル・ミステリとしても教科書のような折り目正しさ(というのもおかしいが)があり、「密室」「一人二役」「顔のない死体」と、ミステリの三大トリックを一作にぶち込んで、しかも見事なバランスですべてがきれいに収まっている。出来過ぎという感さえある。

 ダグラス・G・グリーンによると、カーター・ディクスン名義の作品は、「使い古された状況を用い」ている、とカー自身が認めており、また「単一的な状況設定」で、「複数でなくただ一つの問題に焦点を絞っている」のが特徴だ、と解説されている[vii]。カー名義の作品が、事件そのものがなかなか掴めないような書き方になっているのに対し、ディクスン名義の作品はわかりやすいプロットが特徴だ、というわけであろう[viii]。確かに1930年代の長編を比較すると、カー名義の長編は、必ずしもフェル博士ものに拘らず、作風も多彩であるが、ディクスン名義では、合作の『エレヴェーター殺人事件』(1939年)を別とすれば、ヘンリ・メリヴェル卿ものに固定化されている。プロットも初めから不可能犯罪を取り扱った小説が多い。どちらがよいというものでもないが、ディクスン名義の作品のほうがとっつきやすいということはあるだろう。

 ところで、乱歩は本作をカーの第一級の傑作と評したが、最初はそうではなかったらしい。『幻影城』のエッセイを読むと、「この作については正当な評価ができない」、と書いている。先に『三つの棺』を読んでいて、「密室講義」のなかに本作のトリックが紹介されていたからだという。しかもトリックの要となるもの(「被害者の体内に喰い入った物質」と苦心の表現だが)が「こんなありふれたものでは困る」と思ったらしい[ix]。その後考え直して、最上位の作品と認めた、ということだが、一方、横溝正史は、乱歩のいう「物質」を密室トリックに応用した点が優れている、と端的に評価している[x]。分類マニアの乱歩と徹頭徹尾探偵小説作家だった正史のミステリの読み方の違いが現れているようで、興味深い。

 いずれにしても、本作の密室トリックは、カーの考案したなかでも出色のもののひとつだろう。(以下、トリックを明かす。)読み返してみると、現場に残されていた短剣の特殊な形状の説明がわざとらしいほどだが、読んでいる間はそのことに気づかせない。怪奇ムード満点の手記など、お膳立てと描写の巧みさで押し切ってしまう。もっとも、犯人が具体的にどのように被害者を言いくるめて、どのような手順で殺害したのか。最初密室内で被害者をちくちくやったとして[xi]、その後部屋を出てから、どのように塀に登って、木に飛び移ったのか。そんな軽業師の芸当が本当にできたのか。窓の狭い格子の間から銃を突き出して、被害者に気づかれなかったのか。それでも急所に命中させるほど、銃の名手だったのか、等々、詳しく説明されていないので、やや消化不良気味なところもある。

 しかし、本作の妙味は、むしろ犯人の意外性にあるというべきかもしれない。(以下、犯人を明かす。)一人二役と顔のない死体を組み合わせて、見事に読者の意表を突く犯人を考案している。「顔のない死体」の謎はオーソドックスな解決なので、読み慣れた読者にはさほど難問ではないが、真犯人の正体は、大方の予想を越えているだろう。

 ところで、日本では、カーといえばカラスではなく、瞬間的にエラリイ・クイーンの名が浮かんでくる人が多い(だろう)が、『黒死荘』の犯人の設定は、クイーンのある作品と類似している。(以下、クイーンの代表作の犯人を明かす。)

 『黒死荘』の犯人は、はっきりとした動機をもった人物だが、登場人物のひとりに扮して、正体を隠している。犯人が本来の自分に戻るためには、この架空の人物を消さなければならない。作品中では、最初の殺人を目撃されたことが第二の殺人の動機となっているが、犯人にとっては、いずれ架空の自分を抹消しなければならない(失踪しただけでは、捜索が継続される)ので、そのための新たな犯行が必要となる。そこで第二の殺人を決行し、死体を焼却して身元不明にするのである。

 一方、クイーンの『Xの悲劇』でも、犯人は一人二役(実際は三役、しかもすべて架空の人格)の生活をしている(もちろん、殺人が目的)。事件後も二役を続けることは、捜査の対象となることを考えれば、事実上不可能である。そこで、犯人は、第二の殺人で、被害者に自身の服を着せ、顔が判別できなくなるような手段で殺害する。かくして架空の人格をひとつ抹殺する。

 『黒死荘の殺人』と『Xの悲劇』は、いずれも意外な犯人だが、一人二役と顔のない死体を使ったアイディアはよく似ている。『X』は1932年刊、『黒死荘』は1934年。影響があるとすれば、明らかに『黒死荘』が『X』からヒントを得ている。もちろん偶然かもしれないが、カーに「顔のない死体」を扱った作品が他にないことを考えると、『X』からの影響の可能性は大きいだろう。だからといって、盗作だとか、剽窃だとか言うつもりはない。『黒死荘』は、独自のプロットでこのアイディアをうまく活かしている。非現実的すぎて(一人三役はやりすぎだろう)、人工的な印象を与えかねない『X』よりも、優れているといってもよい。やはり、カーの代表作のひとつという評価は変わることはないようだ。

 

[i] 『黒死荘殺人事件』(平井呈一訳、講談社文庫、1977年)。元々、次の全集に収録されていたもの。カー『黒死荘殺人事件/皇帝の嗅ぎ煙草入れ』(世界推理小説体系10、講談社、1972年)。『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』は宇野利奏訳。この全集の監修は、松本清張横溝正史中島河太郎、今見るとすごい顔ぶれである。

[ii] 『プレーグ・コートの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[iii] 『黒死荘の殺人』(南條竹則・高沢 治訳、創元推理文庫、2012年)。

[iv] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、313頁。

[v] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[vi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、352頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、142-43頁。

[viii] 二階堂前掲書、349-50頁参照。

[ix] 江戸川乱歩幻影城』(講談社文庫、1987年)、136-37頁。

[x] 横溝正史忠臣蔵とカー」、小林信彦編『横溝正史の世界』(角川書店、1976年)、147-51頁。

[xi] ちなみに、この状況設定は、横溝正史の『迷路の花嫁』(1955年)で借用されている。