カーター・ディクスン『ユダの窓』

 『虚無への供物』(1964年)で、日本ミステリ史上に名を残す中井英夫のエッセイに、『虚無』を書くきっかけとなったミステリについて語ったものがある。鎌倉まで所用があって、車中で時間をつぶすために分厚いミステリを貸本屋で借りた、という話である。読み始めると、期待にたがわぬ面白さで夢中になったが、何と、結末の部分が落丁になっていた。お預けを食わされて歯噛みした中井は、それでも密室のトリックを自分であれこれ想像して、とうとう解決方法をひとつ思いつく。

 

  「それは、まさかこんなくだらないトリックじゃないだろうなというほどのお粗末 

 なものだったから、私はなお期待をこめて完本を探し、お目当ての箇所を読んだ。そ

 して何と!トリックはそのお粗末そのものだったのである。」[i]

 

 その後、怒り心頭の中井は「自分の手で完全な密室殺人譚を書き上げるという久しい悲願」[ii]を達成すべく『虚無』を執筆する、という内容だが、いうまでもなく、このミステリが『ユダの窓』だった、というオチである(いや、別に、中井がタイトルを伏せておいて最後に明かした、ということではない)。

 自身の頭の良さを自慢しているようにしか思えないが、『ユダの窓』のトリックを「こんなくだらないトリック」呼ばわりするとは、カー信者(そんな人たちがまだいるとして)を卒倒させるような恐ろしい発言だ。

 『ユダの窓』(1938年)と言えば、江戸川乱歩が、「密室殺人の最も奇抜な着想の一つ」、と讃嘆し、続けて、

 

  「どんな洋室にもあるが、大抵の人にはどうしても気付き得ない四角な窓、作者は

 それを「ユダの窓」と名づけて読者を五里霧中に彷徨せしめる。この窓を通じての殺

 人事件。私は諸方の講演などで数回この小説の筋を話し、聴衆に「ユダの窓」がどこ

 にあるか当ててごらんなさいと挑戦したが、どの場合も云い当てる人はなかった」[iii]

 

、と記したほどのカーの傑作である。今、読みかえすと、他人の考えたトリックを滔々と得意気に話す乱歩もどうかと思うが、『ユダの窓』が絶版の時代、この文章を読んだ私は、読めない悔しさに切歯扼腕(表現が古いなあ)したことを思い出す。

 カーに対し、意外に辛口だった中島河太郎も、本書を代表作とすることには異存はないようだし[iv]、最近では、二階堂黎人が、「この密室は、カーの発明したトリックの中でも一、二を争う傑作である。作品自体、古典的名作という位置づけに恥じない」[v]、と大絶賛である。この辺が、まあ、平均的な評価だろう。

 ただし、横溝正史は、あまり感心しなかったようであり[vi]、ダグラス・G・グリーンも殺人方法には懐疑的だ[vii]

 (以下、トリックを開示する。)

 本書の謎は、いしゆみで射殺された被害者(ヒューム)と同じ部屋で意識を失って発見された主人公を殺人容疑から救出する、という法廷ミステリである。被告の弁護に(文字通り)立ち上がるのがヘンリ・メリヴェル卿というわけである。

 部屋は内部から密閉されており、凶器も発見されないが、被告以外に殺人可能な人間はいない、と思われる。ヘンリ卿は、殺人は眼には見えない「窓」を使って外部から行われた、と主張し、それを「ユダの窓」(刑務所の独房の窓のことをこう言うらしい)と呼ぶ。

 謎の答えは、ドア・ノブを取り付けている金具をはずした四角い穴で、そこから矢を射込むというものである。この解決を読んで、「カーの発明したトリックの中でも一、二を争う」と思うか、「こんなくだらないトリック」と思うかは、まあ、人それぞれだろう。筆者は、なるほどなあ、と感心したが、こうして文章にすると、何とはなし、間抜けなような気もする。しかし、問題は、実際に、この「ユダの窓」を使った殺人が可能か、ということである。グリーンの疑問もそこにある。

 

  「殺人犯には、矢が致命的な場所に当たるような場所にヒュームが立つという確信

 は持てなかったはずだ。被害者を見ることができなかったから、なおさらだ。かりに

 見る余地があったとしても、ドアの厚さで矢の狙いを定めることはできなかったろ

 う。」[viii]

 

 カーの評伝中の文章なので、この後気を使ってか、上記の困難を軽減する方策をグリーンは提案しているが、もっともな疑問である。しかし、これより早く、都筑道夫が同趣旨の批判を行っていた。

 

  「つまり、成功の可能性の実に少ないトリックなのです。密室にする必然はあって

 も、密室にするには無理なシチュエイションなのです。こんなあやふやなことで、ひ

 とは殺人計画を実行に移すでしょうか。」[ix]

 

 はっきり言って、この都筑の指摘がすべてである。

 犯人は被害者と共謀(と見せかけるだけだが)して、主人公を罠にかけようとする(実は人間違いだった、というひどい話)。お互い、見知った者同士である。もし、最初の一射がはずれたら、一巻の終わりなのだ。被害者が鍵をかけて閉じこもっている以上、もはやチャンスはない。「やあ、ごめんごめん。冗談なんだ」では済まないだろう。高木彬光に本作のトリックを堂々とパクった長編があるが、実行可能性に関しては、はるかに優っている[x]

 こういった批判もあってか(?)、近年の本作への評価は、密室トリックそのものより、それを含むミステリとしての結構、もしくは法廷推理である点を評価する論調が目立つ。ハヤカワ・ミステリ文庫版の解説で、山口雅也は、「カーにとって密室とは、そのストーリー・テリングという屋台骨を支える柱のひとつだったのではないでしょうか。あるいは、オカルティズムやユーモアとともに、美味しい御馳走にかけて食欲をそそる、一種のスパイスだったのではないでしょうか」、と述べて、続けて、「本書においても、圧巻は全編にわたって展開されるスリリングな法廷場面で、・・・そのストーリー・テリングの妙を引き出すためには、冒頭の密室の謎がどうしても必要な要素となってくる」[xi]、と結論付けている。創元推理文庫版の解説を書いている戸川安宣も、訳者の高沢 治の言葉を引いて、「本書の傑作たる所以は、その密室トリックにあるのではない。・・・カーの本当のねらいは、犯人の正体を含む事件の真相-二重三重に織りなされ、錯綜した様々な企みにあるのではないだろうか」[xii]、と主張する。

 戸川の言にある「犯人の正体」に関する本作の特質とは、二階堂が端的に説明している「密室以外の犯人隠蔽に関するとてつもないトリック」に集約できるだろう。

 

  「つまり、強烈な殺人方法に読者の目を釘付けにすることで、犯人捜索をまったく

 忘れさせ、その意識から犯人の存在を完璧に隠蔽してしまうというのである。これは

 前代未聞の方法だ。この作品を読んだ読者は、H・Mによる密室の解明が終わった

 後、まだ犯人追求が残っていたことを思い出して愕然とするのではないか(私はそう

 だった)。」[xiii]

 

 随分面白いところに眼をつけるなあ、と感心するが、戸川も同様の趣旨の発言をしている[xiv]。(なんだか、一所懸命持ち上げようとしているように感じられなくもないが・・・。)

 二階堂や戸川の解釈には感嘆するが、問題は、本作の犯人が大して意外ではないということなのだ。当然、最後には、犯人は〇〇だ、とわかるのだが、ああ、そうですか、という程度なのだ(私はそうだった)。犯人を特定する推理にもあまり見るべきものがない(スタンプ台に関する推理がちょっと面白いが)。

 法廷推理としての評価も理解できるが、それはやはりミステリの本質的な部分ではなく、小説スタイルの問題だろう。もちろん面白く読ませることが作家としてもっとも力を注ぐところだろうが、『ユダの窓』が面白いからといって、カーにはもっと法廷推理を書いてほしかった、という声は耳にしない。誰もがペリ・メイスンを好むわけでもない。カーにも面白い法廷ミステリを書ける才能がある、という主張はわかるが、評論であまり強調すべき点でもないように思う。

 結局、二階堂や戸川、山口らが指摘する諸点(ストーリー・テリングやプロット)は、カーの他の作品の多くについても言えることなのだ。『ユダの窓』がパズル・ミステリの傑作である、と言おうとすれば、やはり密室トリックの評価如何に依存するのではないか。

 無論、本作のトリックの実行可能性が低いから駄作だ、とはいえない。そんなことを言ったら、カーのミステリはことごとく駄作になってしまう。

 問題はそこではなく、本作が、カーの作品中でも、より現実的な書き方がされているのに、トリックが現実的でないことにある。

 現実的な書き方がされている、というのは、まさに法廷推理だからである。法廷推理である以上、当然具体的な犯行の手順や段取りが検討の対象となる。『不思議な国のアリス』の「首を切っておしまい」のような、ファンタジーのふわっとした法廷描写では困る。

 本書では、実際に法廷にドアが持ち出されて、ヘンリ卿がトリックを説明する(そこが横溝が性に合わなかったところのようだ)が、どうも、カー自身は、本作の密室トリックは現実味がある、と自信を持っていたらしい(評伝によると、実際にドアを使って実験した、という[xv])。カーも、自分が書くミステリが非現実な絵空事だ、と批判されるのを気にしていたのだろうか。本書で法廷推理の体裁を取ったのは、日常的な実行可能性の高いトリックを案出した、という自負が要因のひとつだったのかもしれない。

 しかし、トリックの発想の卓抜さはともかく、現実的かどうか、という点に関しては、カーの感覚はやはりずれている。都筑やグリーンが批判したポイントは、現代ミステリだったら致命的だろう。現実的なプロットとトリックがちぐはぐなのだ。

 そうはいっても、本書の謎が魅力的なことに変わりはない。以下の文章などは、何度読みかえしてもぞくぞくする。

 

  「どこまでも続く街並みのどの部屋も、夜になれば明かりのともる平和な部屋なの

 だ。だのに、その部屋の一つ一つに、殺人犯にしか見えないユダの窓があるというの

 だ。」[xvi]

 

  「ロンドンに建つ何千何万の家、何百万の部屋。数限りない街路の両側に並び、ど

 れもがちゃんとしていて、夜ともなれば平和な明かりがともる。それでいて、どの部

 屋にも殺人犯にしか見えないユダの窓があるというのだ。」[xvii]

 

 カーが書いた、最高に心躍らせる文章ではないだろうか。そして、「ユダの窓」という絶妙なタイトル。そうだ、本作の傑作たる所以は、この文章とタイトルにあるのだ。

 

[i] 中井英夫「カーの欠陥本」『地下鉄の与太者たち』(白水社1984年)、165-66頁。今、気づいたが、このエッセイのタイトルは、落丁のことだけではなく、内容についての評価も含んでいるようだ。

[ii] 同、166頁。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(1951年、講談社文庫、1987年)、137頁。

[iv]アラビアン・ナイトの殺人』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1960年)、「解説」、518頁。

[v] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、367頁。

[vi] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、235-36頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、175頁。

[viii] 同。

[ix] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、116頁。

[x] 高木彬光『死を開く扉』(1958年)。トリックがよりシンプルで、しかも犯人が被害者に正体を知られることなく、殺人を実行できる設定になっている。

[xi] 『ユダの窓』(砧 一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)、394-95頁。

[xii] 『ユダの窓』(高沢 治訳、創元推理文庫、2015年)、414頁。

[xiii] 二階堂前掲書、368頁。

[xiv] 『ユダの窓』(創元推理文庫版)、413頁。

[xv] グリーン前掲書、175頁。都筑も、本書を批評するに際して、ドアで実験してみたらしい(皆さん、熱心ですな)。こうした実験が簡単にできるという点では、本書のトリックは現実的だった、といえるだろうか(?)。都筑前掲書、115頁。

[xvi] 『ユダの窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、96頁。

[xvii] 『ユダの窓』(創元推理文庫)、97頁。