J・D・カー(カーター・ディクスン)『白い僧院の殺人』

 『白い僧院の殺人』(1934年)は、カーター・ディクスン名義の第二長編で、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの第二作でもある。

 かつては、『修道院殺人事件』の表題で、長谷川修二訳がハヤカワ・ポケット・ミステリに収録[i]され、『修道院の殺人』の書名で、宮西豊逸訳が東京創元社の全集[ii]に収められた。現在では、厚木 淳訳が上記タイトルで創元推理文庫[iii]から出ている。いずれの題名もあまりしっくりこないのは、本当に修道院で殺人が起こるわけではないからで、とくに近年歴史ミステリの翻訳が増えるようになって、カーの歴史ものと誤解されかねないような気もする。固有名詞だから『ホワイト・プライオリの殺人』でよいのではないか(プライオリだと附属修道院と訳すほうがよさそうだし[iv])。

 ちなみに、私は、宮西豊逸訳を国立国会図書館で読んだ。借り出しはさすがにできなかったので、昼食もとらず館内で大急ぎで読了した(と、さりげなく自慢する)。

 本書はディクスン・カーの代表作のひとつとして知られる。江戸川乱歩の「カー問答」では、『三つの棺』や『曲がった蝶番』とともに第二位の七作のうちのひとつに挙げられている[v]松田道弘の「新カー問答」でも、かなり頁数を割いて、「雪の上の足跡がひと組しかないという謎もかなり見事にときあかしてくれる」「パズル趣向の小説としてはトリックの構成がじつによく出来ているし、何よりも不可能状況の設定が水際立っている」、と称賛を惜しまない。ただし、「・・・登場人物の描きわけが十分でないので読みかえすのは正直いってかなり苦痛だったね。会話がまずいせいだろうな」、と苦言も呈している[vi]二階堂黎人は、やはり「多数出てくる作中人物の性格描写がやや交錯している」とするものの、「《足跡のない殺人》トリックを用いた犯行は雄大」、と評価する。「この作品で、《足跡のない殺人》という不可能犯罪がかもし出す謎の面白さを知った人も多いはず」というコメントも大いに同感できる[vii]

 以上の諸氏の評価はいずれも肯綮に当たっており、あまり付け加えることもない。前作の『プレーグ・コートの殺人』もそうだが、まるでミステリの教科書のような作品で、周囲を薄い雪で覆われた居館の入り口まで死体発見者の足跡だけが残され、犯人は空中に消失したかのような冒頭から、ほぼ、この不可能な謎をどう説くかだけを追求する長編ミステリである。途中、二度にわたって、作中人物が仮説を提示するが、その解決法だけでも充分面白いので、それらが否定されるたびにさらに不可能興味が深まるという絶妙な展開となっている。最終的な解決は、それまでの上をいく見事なもので、カーのミステリのなかでも、もっとも鮮やかな謎解きのひとつと言えるだろう。

 ただし、トリックの原理は既存のもので、カー自身の先行作品を応用したものである。

(以下、本書および別のカー長編のトリックを明かす。)

 本書のクライマックスで、ヘンリ・メリヴェル卿は次のように喝破して、聴き手を(読者も)驚かす。

 

  「・・・いいか、間抜けども、マーシャ・テートはこの部屋で殺されたんだぞ」[viii]

 

 一方、『帽子収集狂事件』では、フェル博士がこう叫ぶ。

 

  「そう、ドリスコルはロンドン塔で殺されたんではない。自分のフラットで殺され 

 たんだよ」[ix]

 

 これ以前にも、カーは『夜歩く』のトリックを『弓弦城の殺人』で応用しているが、有効活用というか、省エネというか、まあ、本作の場合、これぐらい上手く使っていれば文句は出ないだろう。しかし、いずれもカー名義の作品をディクスン名義、つまり別名義で応用しているのは、さすがに気がとがめたのだろうか。果たしてカーター・ディクスンディクスン・カーが別人だと思う英米の読者は、何人いたのだろう?それと、この使いまわし方は、ディクスン名義のほうを軽く見ていたことを意味しているのだろうか。

 話を戻すと、犯罪の細かい段取りに関しても、本作は、よく考えられ、書き込まれている。「彼女はなぜ犬が吠えかかってくるのに、別館を出ていったのか」「犯人はなぜ被害者の居場所がわかったのか」など。前作の『プレーグ・コート』が、どちらかというと、「細けえことはいいんだよ」的な大雑把さがあったのに比べると、非常に丁寧にトリックの手順が説明されているのも好ましい。犯人を特定する推理はあまり目立たないが、電話を利用した「犯人の失言」の手がかりは、後年のエラリイ・クイーンの作品[x]を思わせる、なかなか巧妙なアイディアである。

 他方、明快かつ巧緻なトリックに比して、読みづらいというのも、多くの評論が認めるところだが、これは、会話の巧拙や性格描写というより、登場人物が皆、思わせぶりに腹に一物あるような話し方をするせいであるようだ。しゃべり方のリズムというか、癖が皆一緒なのである。また、プロットの捻り方にも癖がある。作中、ある人物が殺人を告白して、自殺を図る。ところが、その直後に、殺されたはずの人物から電話がかかってくる。作中人物も、読者も唖然とするところだが、さらにそのすぐあと、今度は別の人物が殺人を告白する。こうなると、スリリングというより、ファースに近くなる。いや、作者はそのつもりなのだろうか。

 「黒」の『プレーグ・コート』が怪奇小説風の語り口で読者を作品世界に引きずり込むのに対し、「白」の本書では、純白の殺人舞台に、被害者は華やかな映画スターと、明るいとまではいわないまでも、対比の妙を狙っているのは明らかだが、前者の怖がらせに対し、本作では、かけひきめいた会話劇とショッキングな告白の連続で読者を引きつけようとしたらしい。

 ところで、『プレーグ・コート』も『ホワイト・プライオリ』も、夫婦間の殺人を取り上げているところも共通している。前者は、妻が夫を殺し、後者は、夫が妻を殺す。1932年に結婚したばかりのカー夫妻だが、早くも倦怠期を迎えていたのだろうか。それとも、ジョンには、いつかクラリスに捨てられるのでは、という無意識の(カーが大嫌いだったという)「心理学」[xi]的恐怖が潜んでいたのだろうか。

 

[i]修道院殺人事件』(長谷川修二訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1956年)。1995年に復刊されている。

[ii]修道院の殺人』(宮西豊逸訳、東京創元社、1959年)。

[iii] 『白い僧院の殺人』(厚木 淳訳、創元推理文庫、1977年)。

[iv]修道院」は本来、ウェストミンスタ・アベイのように、Abbeyである。

[v] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、314頁。

[vi] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、217-18頁。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、351頁。

[viii] 『白い僧院の殺人』、306頁。

[ix] 『帽子収集狂事件』(三角和代訳)創元推理文庫、2011年)、364頁。

[x] エラリイ・クイーン「菊花殺人事件」(1968年)『クイーン犯罪実験室』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)所収。

[xi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、142頁。