カーター・ディクスン『読者よ、欺かるるなかれ』

 『読者よ欺かるるなかれ』(1939年)は、カーター・ディクスン名義の異色長編である。といっても、カーには異色長編が多い。

 例によって、カー作品ではおなじみの怪奇な謎が全編を覆っている。今回いささか異なるのは、SF的な超能力(テレフォース)による遠隔殺人だという点である。しかも、超能力者の怪人物は殺人を予告したうえ、死体には一切傷あとも毒物の痕跡も残っていないという、ものすごい不可能犯罪である。

 作品は、『五つの箱の死』にも登場したサンダーズ博士の視点で語られる。作家のマイナ・コンスタブルの屋敷に招かれたサンダーズは、読心術師のハーマン・ペニイクを紹介される。彼の力を信じないマイナの夫サムに対し、ペニイクは、彼の死を予言する。その直後、サムは、マイナの目前で不審な死を遂げてしまう。錯乱してペニイクをインチキ呼ばわりするマイナに、再びペニイクが死を予言すると、今度はサンダーズの監視下にあったにもかかわらず、マイナもまた予言通りに死体となって発見される。

 とまあ、カー長編のなかでも、飛びきりの不可能犯罪小説といえるだろう。ただ、アイディアはごくシンプルで月並みともいえるものだが、それを手の込んだシチュエイション(主に犯人の事後工作)でカヴァーしている。従って、真相を見抜くのは難しいし、十分なデータが提示されているわけでもない。というより、事件を再構成できるための伏線を揃えること自体不可能に近い。ほとんどの読者は、ヘンリ卿の謎解きを拝聴するしかないだろう。

 江戸川乱歩は、本作を「このトリックは一般智識を越えているからアンフェアだという人もあるが、私には面白かった」[i]、とベストの七作に入れているが、いかにも乱歩らしい率直な評価である。二階堂黎人は、「犯人の正体と動機において優れた傑作とみるか、簡単な殺害方法を仰々しく飾り立てただけの凡作とみるか、難しいところである」[ii]、と評価を保留したかたちである。動機(というより、プロットといったほうがよいかもしれない)については、ハヤカワ・ミステリ文庫版の解説を担当している泡坂妻夫も注目している[iii]。二階堂は、本書の脚注を用いた読者への挑戦の趣向についても、「単なる引っ掛けとも言える」、と手厳しい。ダグラス・G・グリーンは、本書を「実に興味深い作品だ」と述べるが、その興味深さは、黒人との混血というペニイクに対するカーの人種観に向けられている[iv]

 やはり、カー作品には恒例の、評価が割れる作品のひとつといえそうである。

 しかし、本書はまぎれもなく、カーの全作品中最大の異色長編といえる。

 本書の狙いそのものが従来の長編と異なるのである。

 どういうことかというと、どうも本書で、カーは本気で超能力が実在すると読者に信じ込ませたがっているようなのである。

 カーの作品は、毎回、人狼だの幽霊屋敷だの、怪奇小説風の味つけが売り物になっている。しかしもちろん、本当に人外や幽霊による殺人だと思わせようとはしていないし、読者にそう思ってくれることを期待しているわけでもない(、と思う。例外はあるが[v])。

 ところが、本書の場合は、超能力による殺人としかみえない、とやけに強調するのである。そのあたりのことを、グリーンは、「(本書では)カーが犯罪の不可能性をあまりにも強調しオカルト的雰囲気をかきたてる」と表現している[vi]。泡坂も、「ここに至っては、おいおいカー先生、そんなことを書いてしまって大丈夫なのか、と言いたくなるような不可能趣味満点のストーリーである」[vii]、と述べている。

 これは、それほどの迫真のトリックを作り出せた、という自信の表れなのだろうか。それとも、前々年の長編小説[viii]の結末と同じ、と読者に思わせて、裏を書こうとしたのだろうか。

 そうではなさそうだ。

 二階堂は上記の引用に続けて、「戦時の社会風潮を筋書に大胆に織り込んでいる」[ix]と解説しているが、事実、本書では、事件が社会的問題となる、というストーリー展開をとっている。各章の最初に再三にわたって「新聞報道」として記事を差し込んだり、群衆が検死審問に詰めかける描写を作中に折り込んだりしている。こうしたいつものカーらしからぬ手法は何に起因するのだろうか。それを解く鍵は最後のヘンリ卿の言葉にありそうだ。

 

  「あの騒ぎを起こしたのは、実はこのわしの筋書だったのだ。起こした理由かね? 

 もっぱら国民に、健全な良識を植えつけてやるためさ。テレフォースの脅威だなど

 と、一時は、ロンドン中がひっくり返るような騒ぎになろうと、これを冷静に、白日

 下にさらしだせば、他愛ないナンセンスにすぎん、科学の仮面をかぶった戯言だとい

 うことを理解させるのだ。

  新聞社に、デカデカと報道させたのもわしだ。テレフォースの威力と、駆使する男

 の評判を、一度書かせただけでも、この騒ぎなんだ。いまに戦争がもっと烈しくなっ

 てみい。あわてものは、街中を駆けまわって、やれ、敵の爆撃機の空襲だ、ロンドン

 中は火の海に化そう。やれ、敵は毒ガスを撒くそうだ。ハムステッドからラムベスま

 で、人っ子ひとりいなくなる、なんてことをいい触らして歩くじゃろう。」[x]

  

 つまり、ここでカーは珍しくも、社会的なメッセージを発している。トレードマークの怪奇趣味を自ら否定しても、読者に、非科学的な根拠のないニュースを信じたりしてはいけない、と呼びかけているわけだ。こうしたメッセージを効果的たらしめるには、ひょっとしたら本当に超能力による殺人という結末なのかも、と読者に思わせる必要がある。もっとも、それほどの不可能トリックを案出できたので、こうしたメッセージを付け加える気になった、という解釈も考えられるが、第二次世界大戦の勃発前後という当時のヨーロッパの社会情勢を踏まえれば、上記のヘンリ卿の言葉はカーの本心を代弁しているのだろう。

 そして、そう考えると、本書のタイトルにも別な意味を読み取れる。

 「読者よ、欺かるるなかれ」とは、ミステリを読者とのゲームと心得るカーらしいタイトルで、脚注を使って読者を煙に巻こうとするギミックも、いかにも、と思わせる。だが、上記の引用が本書でカーが言いたいことであったとしたら、このタイトルも、「デマや風評に惑わされるな」、という「読者(国民)への警告(The Reader is warned)」、と受け取れる。

 そう考えれば、脚注を使った「読者への警告」という本書の重要な趣向が、取って付けたようであまり効果的でないのも納得がいく。むしろ、本書のメッセージを隠すためのレッド・へリングなのだろう。

 もっともカーのことだから、真面目なメッセージとみせて、実は単なるパズル・ミステリだよ、という洒落の可能性もある。もし、カーに直接訊ねることができたとしても、いやいや、私はただのミステリ作家だからね、と笑って答えそうだ。そもそもプロパガンダなどとは縁のなさそうなカーではあるが、実は熱血漢であった彼のこと。声高ではないメッセージをこっそりタイトルに忍ばせていたとすれば、そのさりげなさも、まことにカーらしい。

 

[i] 江戸川乱歩幻影城』(1951年、講談社文庫、1987年)、138頁。

[ii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、370頁。

[iii] 『読者よ欺かるるなかれ』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)、406-407頁。中心となる殺人のひとつは事故で、もうひとつは、殺人の障害となる人物をあらかじめ除去しておくことと超能力による遠隔殺人が事実であると世間に知らしめることが目的。実際に犯人が狙う殺人は最後になるまで実行されない。

[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、177頁。

[v] 『火刑法廷』(1937年)。

[vi] グリーン前掲書、176頁。

[vii] 『読者よ欺かるるなかれ』、404-405頁。泡坂を解説に起用したのをみると、早川書房編集部も充分そのことを理解していたのだろう。泡坂のとくに『妖女の眠り』(1983年)は、まさに輪廻転生をテーマにした幻想小説だと読者に思わせてしまうパズル・ミステリである。

[viii] 註5参照。

[ix] 二階堂前掲書、370頁。

[x] 『読者よ欺かるるなかれ』、398頁。