(本書のほか、エラリイ・クイーンの『九尾の猫』の内容に立ち入っていますので、未読の方は、ご注意ください。)
『メグレ罠を張る』[i]を再読した。1955年の作で、初読も再読もハヤカワ・ミステリ文庫版だが、内容は、ほとんど覚えていなかった。『メグレと火曜の朝の訪問者』(1957年)―再読-や『メグレ推理を楽しむ』(1957年)-初読-が面白かったので、同時期の長編を選んで、読み直してみたのだ。
本当は、初期から順序だてて読み直そうと思ったのだが、『男の首』(1931年)と『サン=フォリアン教会の首吊り男』(1931年)を再読したものの、読後の印象がさほど変わらなかった(はっきりいうと、あまり面白くなかった)ので、方針転換して、1950年代の諸作品に手をつけてみた。都筑道夫が、メグレ・シリーズは1950年代から60年代のものがいい、と書いていたのに多少影響されている[ii]。というわけで、上記二冊に続けて、本書を選んだ次第である。
都筑は『罠を張る』についても簡単に触れていて、それは1990年代以降に人気だった、いわゆるサイコ・スリラーとの関連においてなのだが[iii]、つまりは、ジャック・ザ・リッパーのフランス版である。
冒頭、刑事部屋の前に、新聞記者たちが詰めかけている。そこに、男がひとり、刑事に連行されて、メグレの部屋へと消えていく。しばらくして姿を現わしたメグレに、記者たちが一斉に群がると、男の正体を問うが、警視は答えようとしない。
実は、半年前からパリの特定街区で、月に一件のペースで女を殺して回る殺人鬼が跳梁跋扈している。女の年齢は、十代から五十歳代まで様々で、職業も、娼婦から助産婦や郵便局員、家庭の主婦とばらばらで、特定の傾向は見られない。共通するのは、小柄で太り気味といった身体的特徴のみである。
手がかりひとつ見つからない難事件に頭を痛めるメグレは、数日前、知り合いの医者の紹介で、ディソオという精神科医と連続殺人事件に関して議論を交わしていた。その対話のなかから犯人逮捕の策略を思いついたのである。
『火曜の朝の訪問者』でもそうだったが、この時期のシムノンは、精神病理学に興味があったものか、かなりのページをメグレとディソオの会話に割いて、犯人のパーソナリティについて語らせている。それまで普通の市民として生活してきた人間が、何をきっかけに猟奇殺人を犯すようになるのか、どのような衝動が起きたときに犯行へといたるのか、メグレの問いかけは、そのままシムノン自身の問いでもあるらしい。実際に、切り裂きジャックについての言及[iv]も見られる。
ディソオが指摘するのは、狂気の殺人者には自己主張の強い傾向があり、自らを誇示し、認知されたいという欲求に打ち勝てないということ[v]で、そこから、メグレは、犯人逮捕の偽装を思いつく。見せかけの犯人逮捕劇を演じて、それが報道されれば、犯人はなにかしらの反応をみせるのではないか。それが冒頭のあからさまな小芝居で、メグレの張った罠というわけである。
メグレは、新たな犯行に備えて警戒態勢をさらに強化し、おとりの婦人警官を配置する。作戦は成功して、おとりが襲われるが、彼女は逃走する犯人の服からボタンを引きちぎり、ついに警察は、有力な物的証拠を手に入れる。服飾店等をしらみつぶしに調査し、容疑者を絞り出していくと、浮かび上がってきたのは、室内装飾を手掛けるモンサンという三十二歳の男だった。妻のイヴォンヌとともにパリの瀟洒なアパートメントに住み、近くには、母親の住まいがあって、マダム・モンサンは息子を溺愛していること、イヴォンヌと義理の母親とは、ひどく折り合いが悪いらしいことなどが、わかってくる。メグレは、モンサンの周囲の女たちや、モンサン自身の性格を推し量りながら、証拠固めに精力的に取り組む。しかし、捕らえたモンサンは、無口で物静かな、一見無害な青年ともみえる。果たして、本当に連続殺人鬼なのか・・・。
ジャック・ザ・リッパー事件が主題とはいえ、本書の被害者たちは、衣服を切り裂かれてはいるものの、性的な暴行を受けているわけではない。そこは、切り裂きジャック事件とも、近年の多くのサイコ・スリラーとも異なっていて、似たような作品を探すと、浮かんできたのは、エラリイ・クイーンの『九尾の猫』(1949年)である。限られた読書の範囲で安易な推測は慎むべきだが、どうも、あまりにもよく似ている。発表年を見ても、『九尾の猫』の六年後に本書が出版されており、それに、1955年というのは、シムノンがアメリカに居住して、探偵作家クラブ会長を務めていた時期でもある。これらの状況証拠(?)から推測すると、明らかに『九尾の猫』に触発されて書かれたように見えるのだが、本当のところは、どうなのだろう。
例えば、『九尾の猫』にも、名探偵エラリイ・クイーンが精神科医と議論する場面が出てきて、それはまあ、このジャンルのミステリなら当然かもしれないが、本書のクライマックスでは、メグレはモンサンに向かって、彼の精神分析を試みながら、彼には珍しく、感情的にモンサンを追い詰めていく(メグレの語る犯人の性格分析は、現在の眼からは、ありふれていて驚きはないが、当時は斬新だったのだろう)[vi]。『九尾の猫』でも、最後は、名探偵と高名な精神分析医の対話を通して、犯人の精神が細かく解剖されていく。
ただし、もちろんストーリーは異なっていて、そこで、クイーンとシムノンの作家的個性の違いが明瞭になるともいえる。本書には、クイーン長編のようなどんでん返しはないが、一方で、『九尾の猫』以上に意表を突く展開が待っている。なんと、モンサン逮捕のあとに、再び、同じ手口の殺人事件が起こるのである。
六人目の被害者の発生に、世間は激高し、メグレは窮地に追い込まれるのだが、読者の大半は、ははーん、と真相を予感するだろう。メグレも、当然察していて、つまり、モンサンを救うための偽装の殺人なのである。
果たして、彼のためなら殺人まで厭わない者とは誰か。容疑は、母親のモンサン夫人、もしくは妻のイヴォンヌにかかる。しかし、この展開も、ある意味『九尾の猫』と類似しているというべきかもしれない。後者でも、最後に殺人未遂が起きるが、犯人をかばう見せかけの芝居なのだ。とすれば、両作品は、やはり、思った以上に似ているのだろう。
ただ、本書のこのプロットは、本当にとんでもない。息子または夫を救うために、無関係な女性を殺害するとは、あまりにも常軌を逸している。しかも、かばう目的は、息子または夫への愛情というより、嫁もしくは姑に対する敵愾心、つまり意地の張り合いらしいのだ。本書の、このとんでもなさに比べると、『九尾の猫』は、随分生真面目で折り目正しい小説だったのだな、と思い知った。同書では、犯人をかばうといっても、殺人のふりをするだけである。少なくとも、本書と『九尾の猫』を比較する限り、クイーンよりシムノンのほうが非常識である。
ミステリというジャンルにおいて、メグレ・シリーズは、登場人物が生き生きと描かれるところに定評があると思っていたが、そして確かにイヴォンヌもマダム・モンサンも生き生きとしているが、しかし、これは生き生きしているというより、いかれているというべきだろう。狂気の連続殺人がテーマだが、一番狂っているのは、犯人のモンサンより、彼をかばう女たちのほうだったというのが本書のオチ(?)である。最後まで読むと、モンサンの影がすっかり薄くなって、むしろ、彼が、意外に、まともに(?)見えてくる。
本書や『男の首』などを読んで改めて実感したが、メグレものにリアリティはあるかもしれないが、アクチュアリティは、そうでもない。現実味のある舞台と現実味のある登場人物がシムノンの特色で、そこが、いわゆる文学派たるゆえんだと思っていたが、プロットに現実味は求めていないらしい。
もっとも、だから、つまらないと言っているわけではない。いや、むしろ、面白いと断言する。六番目の殺人を犯したのは、母親なのか、妻なのか、追い詰められたメグレは、ふたりを一つの部屋に放り込んで衝突させる。最後に明らかになる犯人が、むしろ勝者の笑みを浮かべる姿[vii]には、本当に怖いのは女のほうだというシムノンの愚痴が聞こえてくるようだ。
シムノンの描く人間たちはリアルでも、その小説は、ときに現実を飛び越え、登場人物の行動は常識を超える。その意外性のあるプロットこそが、メグレのミステリの醍醐味である。
[i] 『メグレ罠を張る』(峯岸 久訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。
[ii] 『都筑道夫の読ホリデイ(上巻)』(小森 収編、フリースタイル、2009年)、77頁。
[iii] 同、67頁。
[iv] 『メグレ罠を張る』、53頁。作中では「腹裂きジャック」と訳されていて、この時期(1976年)は、まだ「切り裂きジャック」というのは、定訳ではなかったのだろうか。
[v] 同、51-52頁。
[vi] 同、207-216頁。
[vii] 同、222頁。