江戸川乱歩「パノラマ島奇談」

(本作品のほか、江戸川乱歩の短編小説数編について、内容に立ち入っています。)

 

 江戸川乱歩の連載小説といえば、「陰獣」と「パノラマ島奇談」が双璧ということになるだろう。

 いずれも文庫本で100頁を少し越えるくらいの長さで、現代の標準でいえば、どちらも中編小説である。しかし、乱歩自身のとらえ方では、「陰獣」は中編だが、「パノラマ島」は長編だったようだ。自身、そう書いているし、最初の平凡社から出た全集でも、後者は「長編」扱いされている[i]。これは、「陰獣」は三か月にわたって分載されたとはいえ、ひと息に書いて編集に渡したもので、乱歩にとっては書き下ろし小説であったこと。一方、「パノラマ島」は、半年以上連載されて[ii]、締め切りに追われた作者の感覚として長編小説であったことが影響しているのだろう。

 ちなみに両作とも、横溝正史が編集担当だった時代の『新青年』に掲載されており、横溝による回想エッセイも有名である[iii]

 長編か中編かはともかく、本作の特色は、いうまでもなく後半部を占める孤島のパノラマ描写にあるが、作者の回想を読むと、意外なことが書いてある。すなわち、「初めの方の人間入れかわりの個所は面白いにしても、この小説の大部分を占めるパノラマ島の描写が退屈がられたようである」[iv]

 確かに、主人公の人見広介が、自分に瓜二つの菰田源三郎に成り代わろうとする前半のプロットは、乱歩が死ぬほど好きな(?)「変身願望」をリアリスティックに描こうとしたもので、汽船からの投身自殺の偽装、源三郎の墓あばきと遺体の隠蔽、蘇生の偽装等々の詳細な記述には、そのあたりの苦心のあとが滲み出ている。しかし、こうした倒叙形式あるいは犯罪小説的な筋書きは、すでに乱歩短編ではおなじみで、新しいものではない。「恐ろしき錯誤」(1923年)や「心理試験」(1925年)とは傾向が違うとしても、「双生児」(1924年)など、類似の着想の作品はあった。「パノラマ島」の独自性は、明らかに後半の島の描写にあるのだが[v]、異なる時期の回顧でも「書き出しは大いに好評であったが、(中略)編集部でも、終りのほうは余り喜んでもいなかったように思われる」[vi]と記して、編集者だった正史を嘆かせている[vii]。しかし、どうやらこれは照れ隠しだったようだ。後半部は、乱歩本人が楽しんで書いたので[viii]、というか、楽しみすぎたので、勝手気ままな空想を吐き散らしたことに少々気がさしていたのだろう。その証拠に、萩原朔太郎に激賞された逸話については、繰り返し書き留めるほど感激していたのだから[ix]。さすがに朔太郎と正史では、褒められるにしても、有難みに多少の差があったのは、やむを得ない。

 ただ、その目玉となるパノラマ島の人工世界の描写は、確かに乱歩らしい筆が冴えて、この手の小説が好きな読者を虜にする魅惑にあふれているが、計算違いといっては恐れ多いけれど、読んでいると若干の不調和を感じる。要するに、乱歩の少年時代の郷愁でもあるパノラマ館を文章で再現しようとしたものであるのだが、その技術的仕組みを、広介が源三郎の妻千代子に得々と解説する場面[x]と、実際に彼女と二人で体験する幻想空間の描写とが、必ずしも嚙み合っていないように感じる。ガラス張りの海底トンネルから湖水を見下ろす渓谷へ、そこから杉の巨木が立ち並ぶ大森林、そして花園のなかの湯池へと、二人が彷徨する場面は圧巻の描写だが、パノラマからパノラマへと一瞬で移動するかのごとくでは、まるで魔法である。人為的なユートピアというよりファンタジー異世界のようだ。つまり、このパノラマ島が人間の手によって建設可能なアトラクションであると強調したい作者の努力にもかかわらず、描かれているのは人の力を越えた空想世界としか思えない。

 あくまで写実主義的なリアリズムにこだわる作家としての乱歩と、ここではない彼方の異界に魅せられ続けた夢想家の乱歩の二面性がそのまま現われてしまったようだ。

 もちろん、探偵小説である以上、現実に基盤を置かないと、それこそ全体が幻想小説になって、読者を置き去りにしてしまうという意識があったのだろう。ただ、そればかりではないとも思う。つまり、乱歩には、できるものならば、実際にパノラマ島の人工楽園を自ら創造したい願望があって、それがあのくだくだしい解説となってあらわれたものであろう。それこそ財力さえ許せば、多分、郷里の三重県の離島あたりに本物のパノラマを建設していたはずだ。乱歩が夢見る空想の楽園を紙上で設計したのが「パノラマ島」で、従って、それは乱歩にとって実現可能なものでなければならなかった。実際家の乱歩と夢想家の乱歩が折り合える妥協点が「パノラマ島奇談」だったのだろう。乱歩のパノラマ島建設の資金を提供する企業や資産家がいなかったのは、残念なことである。もっとも、ディズニーランドやUSJでは、乱歩の夢見るワンダーランドの実現にはほど遠かっただろうが。

 

 ところで、作中で人見広介が執筆した「RAの話」[xi]という短編小説の「RA」とは何を意味しているのだろうか。てっきり、本作を書くにあたってモデルとしたE・A・ポーの「アルンハイムの地所」(1847年)と「ランダーの別荘」(1848-49年)[xii]の頭文字をとったのかと思ったが、アルンハイム(Arnheim)はいいとして、ランダーはLandorだった。単純にRANPOの最初の二文字だろうか(RAはイニシャルなのか[xiii])。

 RAが乱歩自身のことだとすれば、「パノラマ島奇談」は、作中に乱歩の未完の小説「RAの話」を含む、「陰獣」同様、またしてもメタ・ミステリ的構造をもっていたことになる。

 もう一点、本書は、最後に北見小五郎という探偵が登場して、広介の犯罪を暴くことになっている[xiv]。あからさまに明智小五郎を連想させる名前の探偵だが、実際に、創元推理文庫版の解説を書いた中井英夫は、彼を明智と混同している[xv]。ちゃんと読みなさいよ、と言いたいが、実は北見とは明智の変名なのだ、と中井は解釈しているのかもしれない。そのことに、今気がついた。発表当時、北見小五郎は明智小五郎なのですか、という投書などはなかったのだろうか。乱歩は、この探偵の名前について何も言及していないようだが[xvi]、当時の読者はそうした疑問を抱かなかったのか。本作に明智ではない探偵を登場させる理由は、なんとなく想像がつく。「パノラマ島」の場合、あまりにも作品が空想的過ぎて、明智向きではないし(その後、もっと空想的な長編で活躍するようになるが)、そもそもパノラマ島を描くことが目的の小説に明智が出てくれば、「明智小五郎もの」になってしまう。彼が登場することで、明智が主人公になってしまうだろう。その恐れもあって、別の探偵を創造したものと思われる。

 しかし、そうなると、なぜ明智を連想させる「小五郎」という名前にしたのかが不思議である。やはり北見は明智の変名なのか。それとも考えるのが面倒くさくなって、姓だけ変えて別人であるということにしたのだろうか。なんだかトリヴィアルな謎が残ってしまった。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、235-36、452頁。

[ii] 大正15年10月から翌年4月まで。ただし二回休載して、実際は、10月、11月、昭和2年1月、2月、4月の計五回の連載だったようだ。同、235-36頁。

[iii] 横溝正史「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、208-35頁。

[iv] 「『パノラマ島奇談』-わが小説」(1962年)『江戸川乱歩コレクションⅥ 謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久・山前 譲編、河出文庫、1995年)、64頁。

[v] 「パノラマ島」に類する幻想小説としては、「火星の運河」(1926年)がすでにあったが、やはりスケールが違うというべきだろう。しかし、同短編の執筆が、「パノラマ島」の構想へと発展していった可能性はありそうだ。

[vi] 『探偵小説四十年(上)』、236頁。

[vii] 横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、125-29頁。

[viii] 『探偵小説四十年(上)』、236頁。

[ix] 同、217、236頁、「『パノラマ島奇談』-わが小説」、64頁。

[x] 「パノラマ島奇談」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫1984年)、248-54頁。

[xi] 同、277頁。

[xii] 「『パノラマ島奇談』-わが小説」、64頁。

[xiii] 「パノラマ島奇談」、285頁。

[xiv] 同、276頁。

[xv] 同、「解説」、771頁。

[xvi] 『探偵小説四十年(上)』、236頁では、探偵が登場しないほうがよいのだが、と記しているだけで、名前には触れていない。