横溝正史『死神の矢』

(本書の犯人、トリック等のほか、『獄門島』、『犬神家の一族』、『白と黒』、『仮面舞踏会』、『悪霊島』の基本アイディアに触れていますので、ご注意ください。)

 

 劇的で意表を突く場面から始まるのは娯楽小説なら普通のことで、作家が一番頭をひねるところでもあるだろう。横溝正史の小説も初っ端から突拍子もない場面で読者の度肝を抜く場合が少なくない。しかし、『死神の矢』[i]となると突拍子もないどころではない。常識を超えすぎている。

 美しい令嬢の求婚者たち三人が、波間に漂う的をめがけて弓を射って、見事射止めたものが彼女と結婚することができるというのだから、いつの時代の話だよ、と眼を疑う。

 そんな、とんでもない場面で始まる本書は、最後もとんでもない。第三の被害者がバレエを観劇していると、「舞台の袖から突然奇妙な姿がスルスルと、踊り子たちのあいだをぬってすべりだして」[ii]くる。死神の扮装をした怪人物は弓につがえた矢を被害者めがけて射る。心臓を貫かれ、くたくたとくずおれる被害者。死神もまた毒を呷り倒れ伏す。横たわる二つの死骸の上にフィナーレの幕が下りていく・・・。

 舞台上の犯人が客席にいる被害者を弓で射殺すという前代未聞のトリック!いや、どんな弓の名人ですか。この犯人にそんな特技があるとは、本書のどこにも書いてありませんでしたが。しかも、「スルスルと」って、忍者じゃないんだから。

 「第三の被害者」と記したように、殺されるのは三人の求婚者たち-高見沢康雄、神部大助、伊沢透-である。令嬢の早苗は新進のバレリーナで、父親は考古学(?)だか、古典文学(?)だかの碩学。豪放磊落な横溝作品らしい型破りの学者で、本書でも、もっとも精彩を放っている。金田一耕助は、この古舘博士と、ある事件を通じて知り合い、求婚者たちの矢合戦の立会人に呼ばれている。江の島近くの博士邸には、令嬢のバレエの師である松野田鶴子とバレエ教室の娘たちも招待され、ほかに博士親子の身の回りの世話をしてきた佐伯達子、愛弟子の青白きインテリ青年、加納三郎がいる。

 矢合戦は、人々の予想を覆して、三番目に射た高見沢が的を貫き、早苗との結婚の権利を得る。ところが、その日の夕刻、人々が夕食を待つ間に、勝負に負けた伊沢がバスルームで死体となって発見される。胸には合戦で使われ、そのあと謎の覆面の男によって持ち去られたはずの矢(被害者自身が使用したもの)が突き立っていた。バスルームの窓は開いており、外から矢を射た可能性もあって、現に弓が庭の落ち葉の間で見つかる。

 被害者には、オネスト・ジョンと名乗る人物からの呼び出しの手紙が届いており、どうやら女性をめぐるトラブルに巻き込まれていたらしい。

 そもそも求婚者三人は札付きの不良青年で、高見沢も神部も見境なく女性に手を出す破廉恥漢。弓矢の勝負で娘の結婚相手を決めようとする古舘博士の無鉄砲なふるまいを、金田一を始め周りの人々が危ぶみ諫めていたのだが、博士は聞き入れようとしない。もっとも、波間に浮かぶ的を射ぬく可能性など万に一つもあるはずがないので、皆、たかをくくってはいたのだが、案に相違して、求婚者のひとりが見事(?)命中させてしまったのである。

 それでも平然と結婚を認める発言をする博士を、金田一たちが思いとどまらせようとするさなかに起こったのが伊沢殺しだったのだ。しかし、奇妙なのは、狙われるとすれば勝者の高見沢であると思われたのに、殺されたのは伊沢であること。となると、弓の勝負は殺人とは無関係で、オネスト・ジョンなる人物が犯人なのだろうか。しかし、どうやって凶器の矢を手に入れたのか?矢を持ち去った覆面の男は、明らかにジョンではなかった。

 警察がジョンの行方を追って数日が過ぎたころ、今度は、神部がアパートの自室で、やはり矢で心臓を刺し貫かれて死んでいるのが見つかる。しかも、被害者は、刺殺される前に首を絞められた痕跡があった。一方、等々力警部たちは、金田一の働きによって、キャバレーに潜伏していたオネスト・ジョンの身柄を拘束することに成功する。ところが、神部の殺害時刻には完全なアリバイがあることが判明し、再び、疑惑は古舘博士の周辺に向けられることになる。

 古舘博士には、明らかに疑わしい点があり、博士が提案した矢合戦にも何か思惑がありそうなのだが、娘に求婚したという理由で男たちを殺してまわるとも思われないし、いずれの事件でもアリバイがある。早苗の友人でバレエ仲間だった三田村文代という女性が、少し前に睡眠薬を飲んで死亡しており、自殺だった可能性もある。三人の求婚者たちが文代の死に関わっていたとの噂もあるのだが、その復讐だとしても、早苗や松野に殺人が可能とも考えられない。

 この動機とアリバイに関する工夫に本書の特徴があるといえるだろう。

 改めて指摘するまでもないが、本書は、横溝作品に恒例の長編化作品のひとつで、刊行年(1956年5月)の3月に雑誌に掲載された同名の短編小説が原型である[iii]。さらに、冒頭の弓矢勝負の場面は、捕り物帳の「三本の矢」(1938年)に基づいている[iv]。どうりで、現代ミステリとは思えない突飛な幕開けだったわけである。

 原型版の「死神の矢」は、オネスト・ジョンのくだりがカットされているほか、第一の殺人における事後工作の部分が割愛されている。

 つまり、長編版の『死神の矢』の第一の仕掛けは、いわゆる「犬神方式」、第三者が事後工作することで事件が複雑化するというトリックにある。晩年の横溝が繰り返し用いた手で、『白と黒』(1960‐61年)、『仮面舞踏会』(1974年)、『悪霊島』(1979‐80年)と、主要長編で使用している。

 もうひとつのアイディアが「計画者と実行者の分離」で、こちらは「獄門方式」といえよう。ただし、本書の場合、「分離」といっても、実際は計画者に実行の意志がないわけではない。実行者が計画者の先回りをして殺人を「代行する」(?)のである。これまた前代未聞というか、突拍子もないアイディアで、犯人は計画者(古舘博士)が殺人の罪を犯すのを阻止しようとして、自ら殺しを買って出るのである。その挙句が「スルスルと」忍び出てくるのだが、こんな利他的というか、自己犠牲的な殺人者は横溝作品でも、なかなかお目にかかれない。何度でも言いますが、いったいどこで、あんな超絶的な弓の技術を身に着けたのでしょうか?

 それにしても、本書では、被害者三人が悪党である以外は、すべての登場人物が(オネスト・ジョンを含めて)善人という予定調和的世界で、犯人をかばう事後工作者も、犯人に同情した、ただそれだけの理由で共犯の危険を冒すのである。

 最後の謎解きで、金田一探偵は、最初に伊沢が殺されたのは、犯人(計画者)にとっては、初めから誰が勝者になろうが関係なく、三人とも殺すつもりだったからだ、と説明する。「どうせ五十歩百歩の人間なのだ」[v]、と。驚くじゃありませんか。客観的であるべきはずの探偵の言葉とは思えない。本当に殺したいのは三人のなかのひとりだが、誰がその一人かわからない。えーい、五十歩百歩の人間だから全員殺しちまえ、とはすごいですな。ミステリ史に残る殺害動機だ。

 しかし、上記のとおり、被害者三人が清々しいほどのクズ人間なので、第三の前代未聞の殺人場面も痛快ではある。『死神の矢』は、ひたすら不埒な悪人ばらを成敗するためだけに作品世界がつくられていて、これはもう謎解き小説ではない。勧善懲悪の伝奇時代小説である。やはり本書は、どこまでも突拍子もないミステリであるようだ。

 

[i] 『死神の矢』(角川文庫、1976年)。

[ii] 同、201頁。

[iii] 「死神の矢」、『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社、1996年)、49-87頁、『金田一耕助の新冒険』(光文社、2002年)、83-149頁。

[iv] 「三本の矢」『定本 人形佐七捕物帳一』(春陽堂書店、2019年)、127-56頁。『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社)、251頁、同(光文社)、434頁(浜田知明による「作品解説」)。

[v] 『死神の矢』(角川文庫)、210頁。