横溝正史『悪魔の手毬唄』

(本書のほか、『獄門島』、アガサ・クリスティおよび高木彬光の長編小説のアイディアを明かしています。)

 

 『悪魔の手毬唄』は、横溝正史が自作のベストと考えていた長編小説だったようだ。

 昭和37年の雑誌記事で「これが一番僕の作品では文章の嫌味もなくよく出来たと思っている」[i]、と語っている。元『宝石』編集長である大坪直行の回顧でも、同様の発言が記録されている[ii]

 「文章の嫌味もなく」という簡潔な言葉のなかに、作者の自負が込められているといえるだろう。「円熟した筆致」というのが、本書に対する常套的な誉め言葉で[iii]、確かに、文章に気を使って、代表作と誇れる作品を書こうと努力した跡がみえる。一番わかりやすいのは、舞台となる岡山の方言を登場人物にしゃべらせていることである。私は関西人でもないので、どこまで正確に再現されているのかわからないが、『獄門島』や『八つ墓村』では、登場人物は普通に標準語をしゃべっていた。何より、おなじみ磯川警部が、『獄門島』では、金田一耕助の挨拶に応えて「うん、まあ、おかげさんで、・・・・・・あんたはちっとも変っていないね」[iv]と、すまして返すのに、『悪魔の手毬唄』では、いきなり「どうしたんです。金田一さん、いつおいでんさったんです」[v]などと口走るのである。

 小説全編を通して、岡山の山村の風景、様々な世代の人々、村の生活風習などが、これまで以上にきめ細かく活写され、昭和30年代の日本の一地方の姿がリアルな筆致で描かれている。本書が書かれたのは、作者が岡山を去って、すでに十年ほどが過ぎた頃で、方言もだが、村世界の雰囲気を描写するには苦労もあったはずだが、それを感じさせない悠然たる筆さばきが特徴である。本書を読む読者は、たとえ若い世代でも、どこか懐かしい日本の原風景を感じることだろう。作者なりの「文学としての探偵小説」を目指したものと思われる。

 そうした意味でも、横溝正史の集大成的な作品であること[vi]は間違いない。

 しかし、作者の自負、あるいは作品の完成度に比べて、パズル・ミステリとしての本書の評価は、それほど高くないように思える。知名度では、圧倒的に『犬神家の一族』や『八つ墓村』が勝っているだろうし、本格探偵小説としては、『本陣殺人事件』や『獄門島』の名声に及ばないように見える。

 『獄門島』との関連については、著者自身が、同書の「童謡(見立て)殺人」の構想に「まだまだ物足りない思いをもっていた」[vii]ので、本書で、再度取り組んだ、と打ち明けている。つまり、『獄門島』以上の作を、というのが横溝の意気込みであったようだ。

 しかし、こうした著者の思いに対し、都筑道夫は、そっけなく「失敗作」と断定して、その理由を次のように論じている。「(前略)犯人が見立て殺人をおこなう強力な理由も、説明されてはいない。(中略)ただのオブセッションであったのでは、狂人ということになって、・・・常人の必然性がほしいところですが、それはないのです。」、「なぜ古い手毬唄にのっとって、なん人ものひとを殺したのか、ついに犯人の口からは聞かれないまま、小説は終わります」[viii]。こう批判したうえで、次のように結論する。「タイトルにまでなっている重要な問題が、ただ読者の興味をそそるための道具立てにしかなっていないのですから、黄金時代末期の奇に走りすぎて論理の一貫をわすれた本格、といわれても、しかたないでしょう」[ix]

 言われた当人が、わかりました、もう勘弁してください、と降参したくなるような手厳しさだが、この後、横溝は都筑との対談で機嫌よく相手をしている[x]。さすが懐が深い。

 もうひとつの特徴として、本書のメイン・トリックの「顔のない死体」があるが、これは作者がずっと温めていたものだったという[xi]。生憎、高木彬光に前例がある(注で作品名を挙げています)[xii]。もちろん、最初でないからといって価値がないものでもないし、本書のほうがうまく使われていると思うが、高木の作品が先鞭をつけていることは認めなくてはならないだろう。

 以上のように、メイン・テーマの「童謡(見立て)殺人」に必然性がなく、メイン・トリックもオリジナリティに欠けるとなると、本作のパズル・ミステリとしての評価が、そう高くならないのもやむを得ない。やはり、本書は、横溝ミステリの集大成として、熟練の語り口による物語世界を味わうべき作品なのだろうか。

 しかし、「見立て殺人」テーマと「顔のない死体」トリックは、別個にみていくと評価は低くなるかもしれないが、組み合わせによる効果も考えるべきだろう。

 冒頭、手毬唄が読者に提示され、唄そのものは謎でも何でもないことが明らかになるが、さらに唄の文句から、殺されるのが桝屋、秤屋、錠前屋の三人の娘であることが最初から明示されている。物語が進むと、桝屋が由良家、秤屋が仁礼家、錠前屋が別所家の屋号であることが明かされ[xiii]、つまり、被害者となるのは、由良泰子、仁礼文子、別所千恵子こと大空ゆかりであると、あらかじめ読者に情報が提供されている。三人が三人とも、23年前に殺人を犯して失踪したとみられる恩田幾三の娘であることも、登場人物の暴露によって明らかになる[xiv]。手の内を明かしすぎているとも見えるが、彼女たちに恨みを抱きそうな人物となると、(三人のうちの一人だけが目的で、動機を隠すために他の二人も殺そうとしたという常套的なトリックでないとすれば[xv])夫を殺され、死体を見たショックで痣をもった娘を産んでしまった青池リカということになる[xvi]。つまり、手毬唄を冒頭に掲げたおかげで、作中探偵に先んじて動機から真犯人を推測しやすくなっている。ところが、それを打ち消すのが「顔のない死体」のトリックである。恩田が犯人で青池源治郎が被害者というのが表面的な事実だが、当然、読者の多くは、実は源治郎が犯人で、恩田を殺して逃亡したと推測するだろう。あるいは、掲載誌の『宝石』の読者なら「顔のない死体」トリックを熟知しているだろうから、上記のように推理すると作者自身想定していたはずで、実際に磯川警部にそう推測させている[xvii]。源治郎が犯人とすれば、リカには、被害者である恩田の娘たちを憎む理由はなくなる。すなわち、「見立て殺人」と「顔のない死体」を組み合わせることで、読者の予想をミスリードする組み立てになっている。被害者=犯人のすり替えの手がかりとなる遺体の足指の特徴(実は真相究明の決定的な手がかりでもある)を明らかにするタイミングも絶妙である[xviii]

 

 しかしながら、「見立て殺人」に必然性がないという都筑の批判は依然有効であって、こうした評価を踏まえてか、『横溝正史自選集』版の「解説」を書いた浜田知明は、『手毬唄』を「動機の異常性」という観点で捉え直している。都筑も「狂人」という言葉を用いているが、「見立て」に必然性がないとすれば狂人の殺人ということになって、それでは謎解きミステリとして問題だ、という論調だった。浜田は、むしろ「狂気の殺人」であることを積極的に肯定する立場のようだ。このジャンルの嚆矢である『僧正殺人事件』が、「『童謡殺人』の動機の〝異常性〝を焦点としていた」のに対し、『獄門島』は「『見立て』に〝合理性〝-実行犯には犯行が行えないかのように見せかけるための状況づくり-を絡ませたことが抜きん出ていた」とし、そのうえで、「『悪魔の手毬唄』で追及されているのは、『僧正殺人事件』に先祖返りをしたかのような〝異常性〝である」と主張している[xix]

 確かに、理由もなく童謡の歌詞のとおりに殺人を繰り返す犯人というのは、狂人としか言いようがないだろう。1990年代以降、サイコ・キラーをテーマとしたミステリが輩出したことも、こうした浜田の見方に論拠を与えているのかもしれない。しかし、困るのは、本書の犯人が一向そんな風に見えないことである。無論、見るからに異常性格の登場人物では、すぐにそれとわかってしまう。しかし、本書の犯人は、それよりも何よりも、そもそも連続殺人など、実行しそうもないような描かれ方なのである。それが犯人だというのでは、まあ、エラリイ・クイーンの狂気の殺人ものである『九尾の猫』なども同じような印象を受けるから、サイコ・スリラー全盛期以前の「狂気の殺人者」というのは、こんなものでいいのかもしれない。

 とはいえ、もちろん、横溝自身は、本書の犯人を狂人だとは思っていなかったはずである。「狂気の殺人」と言われても、えっ、そんなつもりじゃなかったんだが、と不審な顔をしそうだ。

 それに、都筑や浜田の主張には反するが、『悪魔の手毬唄』と『獄門島』とで、「見立て」の必然性という点では、さほど違いはないというのが筆者の見方である。浜田は、『獄門島』について、犯人には犯行不可能と見せかける状況づくりがされている点で『手毬唄』と異なるとみているわけだが、上記のように『手毬唄』でも、「顔のない死体」トリックを絡ませることで、犯人には動機がないように見せる工夫がこらされている。作者は、どちらの作でも、犯人から疑いをそらす仕掛けを施していると自覚しているはずである、というか、ミステリ作家なのだから、当然読者を瞞着する企みをもって執筆している。

 都筑は、同じ批評文のなかで『獄門島』にも論及していて、『手毬唄』同様、「見立て」の必然性はないが、構成の論理がその穴を埋めているのだ、と言っている。すなわち、偶然の重なりが実行犯に運命の重みを感じさせて犯行に至らしめた。そこに「見立て」の必然性に代わる構成の論理の必然性が生まれるという論旨である[xx]

 だが、こうした「構成の論理」としての「偶然の積み重なり」は、実は『手毬唄』にもみることができる。都筑は、横溝の作品全般について、思考のトラックが狭いと批評している(けっこう、ひどい言い方だなあ)が、そして、それとは意味がちょっと異なるけれど、確かに横溝の発想には一定の法則性があるようである。

 改めて人物関係を整理すると、『手毬唄』の犯人青池リカには、23年前に殺害した夫源治郎との間にできた息子と娘がいる。当時妊娠していた彼女は、殺人のショックの影響からか、醜い痣を持った里子を産む。一方、夫は恩田に扮して村の女たちと肉体関係をもち、三人の女がそろって犯人と同じ頃に娘を出産する。無論、源治郎の子であることは犯人しか知らない。三人のうち、千恵子は村を離れるが、泰子と文子は、村の権力者である由良と仁礼の娘なので、そのまま村で成長する。時が過ぎて、犯人が古い手毬唄の存在を知ったのとほぼ時を同じくして、夫が生ませた娘たちの親から犯人の息子に縁談話が持ち込まれる(対立する由良家と仁礼家が張り合って、両方から結婚を申し込まれるという設定。もちろん、実の兄妹なので、結婚させるわけにはいかない)。さらに、村を去った千恵子が、国民的な人気歌手大空ゆかりとなって村に錦を飾る。手毬唄で三人娘が殺されることを知った犯人は、憎い娘たち(とその母親たち)への憎悪を押さえきれず(自分の娘は痣をもって生まれたのに、夫の浮気相手の娘たちは皆美しい)、三人を手毬唄どおりに殺そうとする。

 要するに、『手毬唄』も『獄門島』も、「偶然の積み重なり」が、犯行に踏み切らせる動因になるという構成で、そこは同じなのである。都筑が、『獄門島』に対しては、構成の論理という論法で評価しながら、『手毬唄』については批判的だったのは、前者が、計画者と実行者が異なり、しかも実行者が複数という複雑な犯人設定であり、むしろ、計画者と実行者および実行者同士の重層的な関係性に「構成の論理」という分析道具を適用しやすかったからなのだろう。また、実行者間の葛藤や対立を、伏線として客観的に描写できるという利点もあった[xxi]。『手毬唄』の場合、犯人は単独なので、偶然の積み重ねに運命を感じ犯行にいたる心理を、主観にしろ、客観にしろ、描写するのが困難である(事件解決後に、犯人の一人称視点で内面を描くことは可能だったろうが)。しかし、現実と手毬唄の歌詞との一致、村を去った娘の帰郷、そして息子の結婚話という偶然の重なりが、犯人の動機となったことは、ちゃんと解決編で説明されている[xxii]。そして、恐らく作者にしてみれば、動機としては、これで十分だったのだろう。そもそも、横溝は、自分の小説の犯人は、金銭的利害などでは殺人をしてくれそうもない、と公言しているくらいである[xxiii]。他人には些細なことに見える恨みや憎しみであっても、それらが人を殺人へと駆り立てる動力となるというのが横溝の発想の源にあったようだ。

 以上のように、『獄門島』と『手毬唄』を識別しようとする都筑や浜田の議論には反するが、両作は、基本的に同一構造を有するというのが筆者の理解である。どっちもどっちだということで、悪くいえば、都筑が指摘したとおり、思考のトラックが狭いということになる。

 ただし、『手毬唄』と『獄門島』では、ある一点において大きく異なっており、そこに決定的な違いがあるともいえる。前者には、後者にはない、とんでもない偶然が根本にあるからである。『手毬唄』に出てくる童謡では、桝屋、秤屋、錠前屋の娘たちが殺されることになっているが、これらの屋号が、犯人の夫が生ませた三人の娘の生家のそれらと完全に一致しているのである。さらに加えて、被害者が村の女たちに産ませた子どもが、全員娘であるという偶然がおまけにつく。いくら小さな山中の寒村だからといって、こんな天文学的な確率(!)の偶然があるだろうか。恐るべき暗合、で済ませるには、あんまりな話である。『獄門島』では、俳句のとおりに殺人が起こるが、例えば「むざんやな冑の下のきりぎりす」の見立てで、鐘のなかでくびり殺されているのは娘であって、キリギリスの殺害事件ではない。『僧正殺人事件』で、「コック・ロビンを殺したのはだあれ?」[xxiv]といっても、殺されたのはコマドリではなくロビン青年である。『そして誰もいなくなった』の被害者はネイティヴ・アメリカンではない[xxv]。「見立て殺人」といっても、その程度の相似に過ぎないのである。しかし、本書では、繰り返すが、童謡と同じ屋号をもった三家にそろって娘がいて、三人とも父親が同じというのだから、さすがにないわー、と言いたくもなる。既存の手毬唄に適当なものがなく、やむなく著者が創作したことによる「落とし穴」にはまったというほかない。あまりにもプロットに都合よく作りすぎてしまい、その結果、常識では考えられない偶然の一致が生じてしまった。そこが『手毬唄』の最大の問題点である。昔から伝えられてきた手毬唄のとおり、屋号も一致する三人娘(実は姉妹)が次々に殺される?もはや偶然どころではない、数百年以前から定められていた予言の実現としか思えない。ノストラダムスもびっくりである。

 だが、ひとたび、この途方もない偶然を受け入れてしまえば、本書の見立て殺人に動機の必然性がないという批判も雲散霧消する。これほどの偶然の一致がもし現実に起きたならば、誰でも、何か目に見えぬ力が働いていると感じることだろう。もはや個人の恨みつらみなど、どうでもよい。狂人でなくとも、人のひとりやふたり、いや、四人でも五人でも、そりゃあ、殺しちゃうよなあ、と思うほどの奇跡的偶然である(さすがに、それはないか)。

 『悪魔の手毬唄』は、数百年の時を超えて童謡の歌詞が新たな現実を創り出すという奇跡の物語である(皮肉ではありません)。犯人が童謡の通りに殺人を犯したのではない。童謡が犯人を操って殺人へと至らしめたのである。これこそ究極の「童謡殺人」といえるだろう。

 

[i] 「ある作家の周囲」(『宝石』1962年3月号)『悪魔の手毬唄』(『横溝正史自選集6』、出版芸術社、2007年)、「附録資料」、341頁。

[ii]悪魔の手毬唄』(出版芸術社)、「特別インタビュー 戦後探偵小説の歩み その1」、351頁。(自作のなかで、何が好きかという質問に対して)「横溝先生は『本陣殺人事件』と『悪魔の手毬唄』だとおっしゃったのを鮮明に覚えていますね」。この発言は、渡辺啓介が日本探偵作家クラブ会長に就任した後のことだと述べられているので、昭和35年頃のことのようだ。渡辺啓介「思い出の回路」『横溝正史の世界』(『幻影城』5月増刊、1976年)、180-81頁参照。

[iii]悪魔の手毬唄』(角川書店、1971年)、「解説」(大坪直行)、494頁。

[iv] 『獄門島』(角川書店、1971年)、184頁。

[v]悪魔の手毬唄』(角川書店)、11頁。

[vi] 同、「解説」、494頁、仁賀克維「横溝正史論」(1962年)『幻影城 横溝正史の世界』(18号、1976年)、77-78頁。

[vii] 「『悪魔の手毬唄』楽屋話」『探偵小説五十年』、講談社、1977年)、261頁。

[viii] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、59-60頁。

[ix] 同、60頁。

[x]横溝正史の世界』(徳間書店、1976年)、201-20頁。対談は、『別冊問題小説冬季号』(1976年1月)掲載のもの。

[xi] 「『悪魔の手毬唄』楽屋話」、264頁。ただし、横溝は、具体的にどのトリックのことか、言明していない。

[xii] 高木彬光『魔弾の射手』(1950年)。

[xiii]悪魔の手毬唄』(角川書店)、38、138、151頁。

[xiv] 同、262-68、352-57頁。

[xv] いわゆる『ABC殺人事件』のトリックである。

[xvi] 解決編で、実際に、この推論が持ち出される。『悪魔の手毬唄』(角川書店)、436頁。

[xvii] 同、25、180、183-84、360-62、380-83頁。

[xviii] 同、371-72、389-91頁。

[xix]悪魔の手毬唄』(出版芸術社)、「解説」(浜田知明)、358-59頁。

[xx] 『黄色い部屋はいかに改装されたか?』、60-62頁。

[xxi] 『獄門島』(角川文庫、1971年)、9、10、11、13、25、52-53、96頁など。

[xxii]悪魔の手毬唄』(角川書店)、458頁。

[xxiii] 横溝正史「探偵小説の構想」(1951年)『犬神家の一族』(『横溝正史自選集4』、出版芸術社、2006年)、323-24頁。

[xxiv] ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』(井上 勇訳、創元推理文庫、1959年)。

[xxv] アガサ・クリスティーそして誰もいなくなった』(清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。