カーター・ディクスン『墓場貸します』

(本書のほか、『青銅ランプの呪』、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』、マージェリー・アリンガムの長編小説のトリックに言及しています。)

 

 題名からして、どこかユーモラスだが、内容も、のっけからヘンリ・メリヴェル卿が演じるニュー・ヨーク地下鉄でのドタバタ劇から始まる。そう、ヘンリ卿がアメリカで活躍する、というのが『墓場貸します』(1949年)[i]の特徴のひとつで、草野球で、元プロ野球選手からホームランをかっ飛ばすという、面白いのかなんなのか、よくわからないギャグでも有名だ[ii]。というか、そこが一番よく知られている?

 背景には、もちろん、カー自身が、十数年ぶりにアメリカに戻って、一家で新生活を始めたことがある[iii]。ヘンリ卿が、さかんにイギリス英語とアメリカ英語を比較するのも、自身感じたままを書いているのだろう。主人公格のサイ・ノートンが四十代のアメリカ人で、十数年間イギリスで特派員を務めてきたという設定も、まさにカーをそのまま投影しているとわかる[iv]ノートンが、「アメリカ的観察眼を失いつつある」[v]、という理由で解雇されたとぼやくのも、カー自身の愚痴を聞いているようだ。恒例のロマンス展開で、事件で知り合った24歳の美女とキスしたりするが、さほど進展しないのは、クラリスの手前、熱烈な恋愛シーンは抑えめにしたのだろうか[vi]

 事件のほうは、これまた恒例の不可能犯罪で、もはやカーにとって、この手のトリックを考えるのが一番楽になっているのかもしれない。前記の美女クリスタル・マニングの父親であるフレッド・マニングが、自宅のプールに服を着たまま飛び込んで、そのまま姿を消してしまう。水中での人間消失というとびきりの謎である。プールの中では、次女のジーンとその婚約者ハンティントン・デーヴィス、それから一家の弁護士のハワード・ベタートンが泳いでいて、周囲には、ノートンとヘンリ卿のほかに、クリスタルが家のテラスからプールに向かって歩いてくるところだった。無論、父親がプールから出たところは目撃していない。このテーマの不可能犯罪ミステリといえば、ヴァン・ダインの『ドラゴン殺人事件』(1933年)が有名だが、無論(といってしまっては、ヴァン・ダインに失礼だが)、カーのトリックのほうが、はるかに巧妙である。巧妙ではあるが、感嘆するかというと、そうでもない。そうでもないのは、結局、カー自身の旧作『青銅ランプの呪』(1945年)と基本的な原理が同じだからである。要するに、とっさに別人に成りすまして消えたように見せかける、一人二役のトリックの応用である。もちろん、応用の仕方によっては、傑作になることもあるが、本作の場合、そこまでいっているかというと疑問だ。『青銅ランプの呪』について書いたことだが、この手のトリックは、どうやっても『黄色い部屋の謎』(1907年)の二番煎じになってしまうからでもある。そうでないとすれば、マージェリー・アリンガムの某長編[vii]のように、えいやっと塀を飛び越える、というような忍術まがいのトリックしか考えられない。

 むしろ、再読して印象的だったのは、カーの叙述のテクニックである。プールでの人間消失の場面で、「プールの反対側に、ジーンとデーヴィスが並んで浮び上がり、手すりにつかまって、楽しそうにおでこをくっつけ合っていた」[viii]、という描写が出てくる。ところが、実際は、デーヴィスと見えたのは、父親のマニングだったのである。すでに、デーヴィスはこっそりプールから上がって、マニングが彼とすり替わって、娘と抱き合ったふりをしていたのだ。従って、「デーヴィス」とはっきり書いているのはアンフェアとも見えるのだが、さすがカーです、抜かりはない。直前に、「この種の事件の記録には、誰か第三者が真実を語るという形式が常道だから、ここでは、サイ・ノートンの熟練した目を通して経過を見て行くことにしよう」[ix]、と記している。つまり、「デーヴィス」と思ったのは、あくまでノートンの主観だというわけ。・・・ずるいなあ。しかし、何だよ、このわざとらしい文章は(種明かしされた後になって悔しがる読者の典型ですね)。

 もう一つ、草野球の茶番劇のあと、球拾いに行った選手たちが、球場に隣接した墓地の建物のなかで、瀕死のマニングを発見する。どうやら、人間消失の手品のあと、誰かと会う約束をして、その相手に刺されたのだ、とヘンリ卿は推測するが、ショックで錯乱したジーンが、自分を、でなければデーヴィスを疑っているのでしょう、とヘンリ卿を詰る。いやいやどちらも違う、と卿は、こともなげに否定する[x]のだが、しかし、結局、犯人はデーヴィスなのである。この青年は、これも恒例のカー(ディクスン)的犯人の典型で、気取った態度でえらそうな傲慢男。こいつが犯人でも読者は誰も驚かないのだが(さすがに言い過ぎ?)、ヘンリ卿がこうもはっきり言い切るので、おや、と思わないでもない。

 ところが、デーヴィスが捕まったあと、最前の発言について問われると、ヘンリ卿はシャーシャーとして、あのときジーンに真実を告げていたら、あの子はショックで、生きていけないとさえ思いこみかねない、だから嘘を言ったんだ、と開き直る。なあ、諸君、まさか、わしが君たちをわざと間違った方向に導いたなどとは思わんだろうな[xi]

 出たよ、また、すごい言い訳が。

 ファイロ・ヴァンスやエラリイ・クイーンがこんなことをほざいたら、顰蹙ものだが、いや、ヘンリ・メリヴェル卿だとて、こんなインチキが許されていいのか、と思わないでもない。カーのだましのテクニックも、いよいよ見境がなくなってきたらしい。

 小説冒頭の、マニングとジーン、それとデーヴィスの三人が会話する場面もそうだが、こうなると、アガサ・クリスティも顔負けで、ディクスン・カーは不可能犯罪の巨匠というより、叙述トリックの大家といったほうがよさそうな気がする。

 

[i] カーター・ディクスン『墓場貸します』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)。

[ii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、381頁。

[iii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、345頁。

[iv] 同、346-47頁。

[v] 『墓場貸します』、26頁。

[vi] もっとも、小説の最後では、二ヶ月のヴァカンスを過ごそうなどといって、二人抱き合う。いい気なものである。同、333頁。

[vii] マージェリー・アリンガム『判事への花束』(1936年)。他に、ユニークなものとして、クレイトン・ロースンの「天外消失」があった。

[viii] 『墓場貸します』、90頁。

[ix] 同、89頁。

[x] 同、199頁。

[xi] 同、323-24頁。