カーター・ディクスン『孔雀の羽根』

(本書のトリックに触れています。)

 

 ヘンリ・メリヴェル卿のシリーズとしては、やや異色作だった『パンチとジュディ』に続いて、カーがカーター・ディクスン名義で発表した『孔雀の羽根』(1937年)は、まさに王道の不可能犯罪ミステリだった。

 何十年ぶりかで再読したが、そしてトリックもちゃんと覚えていたのだが、読後の感想は一言でいえる。「なんて面白いんだ!」

 二階堂黎人は、本書冒頭の密室殺人の場面で、「思わず喚声を上げて拍手をしてしまった」[i]、と書いているが、その気持ちは実によくわかる。いきなり開巻劈頭から、これこれの日時にこれこれの場所に十個のティーカップが出現します、と奇怪な予告状が警察に届く。マスターズ主任警部が刑事らを派遣すると、その面前で、カー作品ではおなじみの傲慢な有閑青年が至近距離から銃で撃ち殺され、部屋のなかには誰一人いない。開いた窓の外は小路に面しているが、部屋は3階(4階?どっちでもいいか)で、向かいの家までは20メートルはある。さあ、犯人はどうやって逃亡したか、という文句のつけようのない不可能状況を最初にぶちかましてくる。

 実は、数年前にも、十個のティーカップが並べられた部屋で男が殺害される、という事件が起きていたことが知らされるのだが、殺人事件に至る細かないきさつなどは後回し、とにかく最初に密室殺人を出しときゃいい、という潔さが素晴らしい。

 これも二階堂が指摘しているように[ii]、途中少しだれるが、その間に、人物関係などが整理され、数年前に殺人があった家の前所有者の弁護士が今回の事件でもまた、問題の家の前の持ち主だったことがわかる。当然のごとく、その人物と今回の被害者は知り合いで、かつての事件の証拠品だったティーカップの売り主だった古物商の息子がやはり関係している、など、例によって例のとおりのカー的展開となっていく。被害者の婚約者の娘が心を寄せているらしい冒険家青年(これもいかにもカー作品らしい)が、弁護士の妖艶な妻に魅かれていたり、さらに被害者の兄弟も容疑者となるので、これまた例によって、男どもの見分けがつかなくなってくる。

 しかし、後半、またしても事件を予告するかのような手紙が届けられると、一気に事件はクライマックスへと雪崩れ込む。さらに面白くなるのはここからで、警察が予告状にあった家を監視していると、正体不明の三人が家に入っていくのが目撃される。ヘンリ卿らが乗り込むと、訪問者のひとりは弁護士で、もう一人は古物商の息子と判明。実は、当該の家は後者の購入したものだとわかる。これを知らされたマスターズはあっけにとられるが、やたら登場人物に引っ越しさせるのは、これもまたカーお得意の暗合なのか、それとも繰り返しのギャグなのか。

 それはともかく、第三の訪問者が何者か不明のまま、弁護士がかつてのティーカップ事件の真相を語りだす。最後の予告状は彼が仕組んだものだったことがわかるが、そこに、弁護士夫人やら冒険家青年やら、登場人物が一堂に会し、ヘンリ卿は、被害者の秘密結婚を暴露して、遺産相続人に指定されていた弁護士夫人にヒステリーを起こさせる。このあたりの展開もいかにもカーといったところ。そうこうするうちに、警察が家探しを終えるが、三人目の訪問者の姿は見つからない。人間消失の謎というわけだが、そこで、見せ場を弁護士にさらわれていたヘンリ卿が満を持して(文字通り、よっこらしょと)立ち上がり、第三の訪問者がすでに死んでいること、そしてその死体がどこにあるかを明らかにする。

 ここで明かされる死体の隠し場所は、確かに前代未聞の奇想天外なトリックで、無論、現実だったら、こんなことはまずありえないが、小説としては、びっくりすること請け合いである。しかも、死体が見つかると、今度は密室状況下での殺人の謎が生まれる、という二重底の構成で、読者を大いに楽しませてくれる(もっとも、こちらのトリックはがっかりするくらいありふれている[iii])。

 事件はそのまま、ヘンリ卿が犯人を指摘して終わるが、そう長くはない長編とはいえ、そして、いささか通俗的ではあるものの、プロットの面白さは文句の付けようがない。まさに巻置く能わざる、といったところか。それでは、しかし、肝心の密室トリックの出来やいかに。

 被害者は、頭と胸を撃たれているが、髪の毛には焦げた跡が、服にも銃弾によって焼け焦げた跡が残っており、銃が身体に押し付けるようにして発射されたことは明らかと思われる。ひとつしかないドアは警察官が監視していたが、窓が開かれているので、当然読者の疑いはそちらに向けられる。しかし、向かいの家からも警察の監視が続けられていたので、また階上の部屋なので、窓からの脱出はやはり不可能と見える・・・という風に、なかなか絶妙な設定で、絶対的な不可能状況ではないところがミソである。トリックそのものは、チェスタトン風で、しかしチェスタトンほど天衣無縫ではなく、少々ショボいのがカーらしい。よくまあ、こんなことを思いつくなあ、と感嘆するが、現実味という観点からいえば、まったくもってありそうもない。20メートル離れた部屋の中にいる被害者の頭の一点にピンポイントで命中させるなど、ビリー・ザ・キッドかお前は(犯人のこと)、と言いたくなる[iv]。おまけに、致命的な証言をするかもしれない目撃者をほったらかしておいて、殺人を済ませてから、あわててそちらを始末にかかるなど、やることが粗忽すぎる。

 ついでながら、本書で、ヘンリ卿は、犯人が密室犯罪を作り出す理由を分析している[v]。『ホワイト・プライオリの殺人』で、三つ挙げたが、四番目があった、というのだが、重々しく語りだす割には、その理由とは、不可能犯罪が警察に解明されなければ、どんな不利な証拠があっても逮捕されないから、というものである。それは確かにそうだろう。というより、現実に不可能犯罪を実行した犯人の告白なぞ聞いたことがないが、殺人犯人が意図して不可能犯罪を計画するとすれば、上記以外の理由など考えられないだろう。カーが他に挙げている「自殺の偽装」は確かに頷けるが、もう一つの「幽霊の偽装」は、さすがに笑うしかない(残る一つは「偶然」)。すごい発見のようにヘンリ卿は語るが、残念ながら、わざわざ言うほどのことではなさそうだ。

 ついでにちょっと気になったのは、本書は、マスターズの部下のポラード刑事の視点から語られる。これまたカー長編では恒例の、語り手の青年が登場人物の美女に魅かれる、とか、そうした味つけになっているのかと思ったら、まったくそんなことはなく、弁護士夫人の色香にも、被害者の恋人の美貌にも惑わされることなく、最後まで、ほとんど黙ったまま終わってしまう。君、何のために出て来たの(もちろん、警察の仕事のためなのだが)[vi]

 

 細かいところにケチは付けたくなるものの、メインとなる密室トリックのほか、後半の死体の隠し場所や不可能状況の殺人など、本書の面白さは保証できる。が、傑作か、というと、いささか躊躇せざるを得ない。しかし、これだけ面白いのだから、傑作であろうとなかろうと、どうでもよいともいえる。

 あとは、読者ひとりひとりが決めることのようだ。

 

[i] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、364頁。

[ii] 同。

[iii] 横溝正史の戦前の長編によく似たトリックが用いられている。

[iv] 別の視点からの批判については、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、171頁を参照。

[v] 『孔雀の羽根』(厚木 淳訳、創元推理文庫、1980年)、295頁。

[vi] しかし、次の『五つの箱の死』にも登場すると、そちらでは、事件関係者の女性の品定めなどをしている。何で急に色気づいた?『五つの箱の死』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1957年、1993年)、89頁。