カーター・ディクスン『一角獣の殺人』

(犯人その他に触れています。)

 

 『一角獣の殺人』(1935年)は、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの第四作で、『黒』、『白』、『赤』の三部作に続く異色の長編ミステリである。

 現在では、創元推理文庫から新訳[i]が刊行されて、簡単に読めるようになったが、それ以前は、1995年に国書刊行会から『一角獣殺人事件』として出版される[ii]まで、やはり幻の長編だった。初訳は、宝石社から出ていた『世界探偵小説全集』第22巻収録[iii]のものだろうか。面白いのは、これら三つの版がいずれも田中潤司訳であることである。これは珍しいことだ。最初の訳が完訳なのかどうか知らないが、冒頭部分を読み比べてみると、文章は大きく変わっている。相当手を入れているようだが、50年たっても同じ訳者が起用されているのは、訳が古びていないということだろう。いずれにしても、『一角獣』といえば田中潤司訳が定番となっているわけだ。

 本書が異色作であることは一読すれば明らかだが、文庫版解説で山口雅也は、「マザーグース・ミステリ」[iv]と表現し、二階堂黎人は、スパイ小説のパロディ[v]、と評している。しかし、単純に考えると、やはり本作はモーリス・ルブランのアルセーヌ・リュパンもののパロディだろう(実際、『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』が作中に登場する[vi])。全体的にユーモラスな雰囲気が漂い、何より、名高い怪盗(フラマンド)と令名はせる名探偵(ガスケ)が腕を競い、それにヘンリ・メリヴェル卿が絡むというのだから、通俗スリラー風になるのは当然だろう(リュパンものが通俗だというのではない。まあ、どちらかといえば通俗ではあるだろうが)。

 事実、前三作がひとつの屋敷にほぼ限定されたパズル・ミステリだったのとは対照的に、(『プレーグ・コート』でお馴染みの)ケン・ブレイクが、五月のパリの街角でイギリス諜報部員のイブリン・チェインと出会い、同僚と間違えられたまま、大物外交官の護衛に向かう、という素っ頓狂な冒頭からしてユーモア冒険小説的展開を予感させる。二人は、途中フランス警察との小競り合いを切り抜けると、嵐の中、周囲から孤絶した古城にたどり着く。折しも、マルセイユから飛び立った、怪盗フラマンドを乗せていると思しき航空機が不時着し、嵐を避けて搭乗客たちも古城へと招かれる。こうして、登場人物が一か所に集められ、以後は、それまでのH・Mものに近いプロットになるのだが、現実的な捜査はほとんど無視され、奇天烈な出来事が次々に起こる、一種幻想的なミステリとなっていく。前作の『赤後家の殺人』では、バンコランのシリーズのようなエキゾティックなムードが甦っていたが、どうもカーは、非現実なプロットと非日常的雰囲気のミステリは、フランスを舞台にするに限る、と考えていたふしがある(それはそれで、失敬な話だが)。城が登場するのは『弓弦城の殺人』と一緒だが、様子はえらく違う。城に入る唯一の通路である橋が落とされ、文字通り、城は孤立して、クローズド・サークルにおける殺人事件となってしまう。そのなかで、怪盗フラマンドと探偵ガスケの正体探しが始まるのだが、これはもうルブランの『813』あたりを連想させる。

 続いて、ガスケであることを告白した搭乗者のひとりが、その直後に、目撃者が見守るなか、突然階段から転落し、人々が駆け寄ると、額に一角獣の角に刺されたかのような奇怪な傷跡を残してこと切れている。実は、同様の殺人がマルセイユでも起きていて、フラマンドが犯人だとわかっている。それでは、フラマンドは誰に扮装しているのか。そして、殺された男は本当にガスケなのか・・・、というところで、ミステリの導入は完成する。

 本作は、江戸川乱歩も「風変り」と評していて、「三人一役や一人二役が二重三重にこんぐらかって、実に奇々怪々を極める」[vii]、と簡潔に解説してくれている。ただし、順位は第三位[viii]なので、傑作とまでは考えていなかったらしい。確かに、イギリス人の兄弟とフラマンドがよく似ているという都合のよい設定で、乱歩が評したように、誰がどこでどう入れ替わっているのか、それはもう目まぐるしい。しかもガスケがフラマンドの書簡を偽造したり、それに応答して自分の名で手紙を書いたりと、非常にややこしい。登場人物も、マルセイユとパリの間を自由自在に飛び回るので、誰がいつどこにいたのかが何回読んでもよくわからない(こちらの頭が悪いだけか)。

 一角獣の角で刺し殺されたかのような傷あとは特殊な道具によるもので、はあ、そんなのあるの、というようなものだが、姿の見えない殺人者による犯行とみえた不可能犯罪の謎は、まずまず面白い。『ホワイト・プライオリの殺人』や『レッド・ウィドウの殺人』同様、偽の解決方法がまず提示され、それが否定された後、さらに巧妙なトリックが明かされて、楽しませてくれる。

 しかし、本作で一番面白いのは、意外な犯人のアイディアだろう。周囲から孤絶した古城での殺人で、一見、犯人の範囲は限られているように見える。ところが、そこにいないはずの人物が犯人だった、という真相は相当に意表を突いている。ガスケの正体はさほど意外ではないが、フラマンドのほうは、なるほど意外である。カーには、「登場人物以外の犯人」を狙った作品がある[ix]、とされているが、本作もある意味「登場人物以外の犯人」といってよさそうである。

 ところが、この犯人のアイディアは、他作家の作品からヒントを得ているのではないかという気がする。毎回、エラリイ・クイーンを引き合いに出すのは恐縮だが、プロットは異なるものの、本作の舞台設定は、クイーンの『シャム双子の謎』(1933年)によく似ている。クイーンの場合、山火事が発生した山頂の屋敷が舞台で、四方を火に囲まれた犯罪現場なので、犯人は完全に限定される。その限られた容疑者のなかで、どう読者の眼を逸らしていくかが読みどころとなっており、本当に意外性を狙うとすれば、エラリイ・クイーンかクイーン警視を犯人にするほかはない。それに対して、本作の場合は、犯罪現場が孤立していると見せて、実は孤立する前に犯人が潜入していた、という、ずるいと言えばずるい、盲点を突くアイディアを考案している。『シャム双子の謎』をアクロバティックにひねったかたちになっているのである。

 カーとクイーン(とくにフレデリック・ダネイ)との交流は、よく知られているが、双方がまだよく知り合う以前に、どのような影響を与えあっていたのか。カーも、クイーンのあの小説をヒントにした、などとは書き残していないだろうが、あれこれ想像して楽しむのも、読者の特権のうちだろう。

 

[i] 『一角獣の殺人』(田中潤司訳、創元推理文庫、2009年)。

[ii] 『世界探偵小説全集4 一角獣殺人事件』(田中潤司訳、国書刊行会、1995年)。

[iii] 『世界探偵小説全集第22巻 ディクソン・カー篇(第三集)』(『別冊宝石』第十巻第二号、宝石社、1957年)。『一角獣殺人事件』(田中潤司訳)、235-388頁。『この眼で見たんだ』(長谷川修二訳)、『盲目の理髪師』(後篇、北村栄三訳)を併録。前者は『殺人者と恐喝者』の旧訳。

[iv] 『一角獣の殺人』、346-47頁。

[v] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、361頁。

[vi] 『一角獣の殺人』、131頁。

[vii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、316頁。

[viii] 同、315頁。

[ix] 『五つの箱の死』(1938年)。