J・D・カー『死時計』

 何かと言えばG・K・チェスタトンの影響が云々されるジョン・ディクスン・カーであるが、江戸川乱歩がその典型例として挙げたのが、『死者はよみがえる』(1938年)とこの『死時計』(1935年)である[i]

 カーの「チェスタトン流の味」が苦手だという二階堂黎人は、本作におけるメイン・プロットとサブ・プロット-とくにデパートでの万引き殺人事件-の組み合わせ方を称賛する一方で、あまり好まない作品の六作に入れている[ii]

 このチェスタトンの影響というか、チェスタトン流のミステリというのは、結局のところ、どういうものなのか、乱歩も説明が難しいようで、あまり明快な定義をしていない。「非現実」[iii]とか「合理主義にはずれた」[iv]とか、具体的には「不可能興味」[v]だという。二階堂は、「抽象的な概念で犯人捜しをしている」[vi]と表現するが、要するに「直感的」ないし「感覚的」[vii]、ということのようだ。乱歩は、謎の提示の仕方について、二階堂は、その解決手法に関しての言及だが、やはり一言では言い表せないもののようである。

 しかし、乱歩が挙げた二作に関して言えば、端的にミステリのトリックなりアイディアが非現実的である、ということになるのではないだろうか。同じくチェスタトン流の代表格と見なされている『帽子収集狂事件』(1933年)は、トリック自体は、必ずしも非現実的ではない。かつて隆盛を誇った我が国の社会派推理小説でも使用可能だと思うが、『死者はよみがえる』と『死時計』は無理だろう。

 

 

さらに言えば、非現実的であると同時に、人を食ったアイディアがチェスタトンの本質を言い当てているように思える。人を食った、といっても「二瓶のソース」ではない。いや、逆に、まさにそのものずばりかもしれないが、同じく乱歩の卓抜な造語である「奇妙な味」に通じるともいえるだろう。「人を食ったアイディア」をブラック・ユーモアに寄せていけば、「奇妙な味」と重なる。

 長々と述べてきたが、『死時計』のトリックが非現実的であると同時に、人を食っているのは確かだ。何しろ、殺人があった部屋には秘密の出口があって、それが最後まで発見されない、というのだから、それなら何でもありだろ、と思う読者がいても不思議ではない(ただし、事件の起こる屋敷には、こうした秘密の通路や隠し場所のようなものがあちこちにある、という情報が前もって読者に明かされる。だからフェアだ、というのもどうかと思うが)。

 しかも殺人のあった時刻に、部屋には二人の人物がいたが、そのうちの一人がこっそり秘密の通路を出て、殺人を済ませて(トイレに立ったみたいだが)戻ってくるまで、残ったほうは気づかなかった、というのだから(もちろん、犯人は見られないように細工していた、と説明される)、益々、「嘘だろ」という怒りの声があがってもおかしくない。このように本作のトリックは、非常に危なっかしい綱渡りで、現実の殺人者なら怖くて到底実行できない。しかも、作者はそれを堂々と、読者に解いて見ろ、と挑戦している。その点では、実にもって非現実的で人を食っている、といえる。

 しかし、だからつまらない、というわけではない。本書の犯人は意外性充分だ[viii]が、この犯人のアイディアは、いわゆる「一番疑わしい人物が犯人」という逆説的な発想によるものである。あるいは、「疑いをかけられたが、それが一旦解けた人物が犯人」という着想で、こうしたアイディアは、意外な犯人の一類型として、多くのミステリ作家により繰り返し用いられている。とくに1920年代の長編時代以降、有名作家が次々にこのアイディアで作品を書いた。一度疑いをかけられて、その後疑いは晴れるが、結局最後に犯人とわかる、というプロセスは長編でないと書ききれないし、効果もないからだろう(具体例を注で挙げる)[ix]。『死時計』の特色は、この犯人のアイディアを奇抜な脱出トリックで活かそうとしたところにある。

 目の前で殺人を実行してみせる、と友人に豪語していた人物が待ちかまえている部屋に、すでに致命傷を受けた被害者が転げ込んでくる。ところが、犯人に利用されたかにみえる、この人物が実は真犯人だった、というのは確かに意外性がある。しかし、さすがにこのアイディアを秘密の出口を用いて実行するというのは苦しかった。その結果が、上記のような現実離れした殺人計画となって現れている。

 以上を鑑みるに、本書の意義は、「疑わしい人物が実は犯人」という意外な犯人の類型にトリッキーな捻りを加えたところにある。しかし、やや捻りすぎて腸捻転を起している、といったところか。

 ところで、本書には、プロットやトリック以外に、色々と興味深い点がある。例えば、日本の作家への影響と作品の類似である。横溝正史がカーの愛読者だったことは周知のことだが、本書のデパートでの万引き殺人と天窓から事件を目撃する場面は、それぞれ中短編小説で拝借している[x]。類似のほうは、犯人の動機の部分に関連する。カー作品では、傲慢の裏返しの劣等意識が憎悪に至るケースがままあるが、本作はその極北ともいえる。犯人は、ある女性に尊大な態度で結婚を申し込むが、あっさり振られる。それどころか、声を立てて笑われる(さすがにこれはきつそうだ)。可愛さ余って憎さ百倍(古臭いな)となった犯人は、彼女を罪に陥れるためだけに殺人を計画するのである[xi]

 

  「・・・彼女はいつまでも、いつまでも、さもおかしそうに笑い続けていた。だ  

 が、彼女が笑っただけなれば、まだ忍べた。最もいけないのは、彼女の笑いにつれ 

 て、柾木自身が笑ったことである。ああ、それがいかに唾棄すべき笑いであった

 か。・・・それがかれを撃った激しさは、のちにかれがあの恐ろしい殺人罪を犯すに

 いたった、最初の動機が、実にこの笑いにあった、といってもさしつかえないほどで

 あった。」[xii]

 

 引用したのは、よく読めばわかるが、『死時計』ではない。江戸川乱歩の「虫」(1929年)という小説である。カーは、これほどねちねちと書いてはいないが、発想はよく似ている。そして書かれたのは、「虫」のほうが先である。と、どちらが先かを言うまでもなく、これはいかにも乱歩的というか、乱歩でなければ書けない文章であろう。カーと乱歩、思った以上に相通じる感性を持ち合わせていたようだ。

 もうひとつ、興味ある文章が『死時計』にはある。中盤、デパートでの万引き殺人の謎に関して、ハドリー警視が犯人は左ききであるという推理を披露するが、それに対し、フェル博士が次のように述べる。

 

  「・・・いや、ハドリー、そうした混沌としたもののなかから、このわしが引き出 

 せたのは、だれかが左ききだなどという、そんな論拠は警戒してかかれという戒めだ

 けだ。そんなのはみんな眉つばものだ。・・・」[xiii]

 

 さらに、その前のところでは、登場人物のひとりが病的盗癖(クレプトマニア)であることが明らかとなる[xiv]。「左きき」に「病的盗癖(クレプトマニア)」?どこかで聞いたような。いや、明らかにエラリイ・クイーンの『〇〇〇〇〇の謎』をパクっている、というか、おちょくっている?

 上記クイーン長編は、実は、犯人の基本アイディアでも『死時計』に先行している(注9を参照)。こうなってくると、どうも『死時計』はあからさまにクイーンに喧嘩を売って・・・、いや、挑戦状を叩きつけた、としか思えないのだが、どうだろう。

 

[i] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(『江戸川乱歩全集』第27巻、光文社、2004年)、338頁。

[ii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、349、357-58頁。

[iii] 「J・D・カー問答」、332頁。

[iv] 同、337頁。

[v] 同、334頁。

[vi] 二階堂前掲書、350頁。

[vii] 同。

[viii] 解説を書いている戸川安宣は、「フーダニット」の意欲作、と評価している。『死時計』(吉田誠一訳、創元推理文庫、1982年)、382頁。

[ix] アガサ・クリスティ『スタイルズの怪事件』(1920年)、ヴァン・ダイン『甲虫殺人事件』(1930年)、エラリイ・クイーン『シャム双子の謎』(1933年)など。少し遅れるが、クリスティアナ・ブランドにこの手の作品が多くある。『はなれわざ』(1955年)その他。

[x] 横溝正史「女写真師」(1946年)および「黒蘭姫」(1948年)。

[xi] 『死時計』、364頁。

[xii] 江戸川乱歩「虫」『江戸川乱歩名作集3 屋根裏の散歩者』(春陽堂、1962年)、100-101頁。この描写には、元ネタとなる小説があったので、追記する。江戸川乱歩「スリルの説」『鬼の言葉』(光文社文庫、2005年)、91頁。

[xiii] 『死時計』、296頁。

[xiv] 同、238頁。