エラリイ・クイーンとマルクス

 表題のマルクスマルクス兄弟ではない。

 

 エラリイ・クイーンは、パズル・ミステリ作家のなかでもひときわ異彩を放っている。彼(ら)ほど、論理に拘った推理作家は英米でもまれだろう。同時代のアガサ・クリスティやジョン・ディクスン・カーらに比しても、また現代作家を見回しても、あそこまで論理的推論を追求した例は他に思い浮かばない。それは、作風が変わったとされる1940年代以降でも基本的に同じである。推論に割く割合が減ったとしても、最後までそこに拘泥したのは、最終作の『心地よく秘密めいた場所』(1971年)を見てもわかる。その姿はいささか偏執的ですらある。

 実際、クイーンの推理には、他の英米作家にはない独特の特性があるように思える。それは、むしろ後期の作品に、より強く現われている、というか、よりわかりやすく表現されているように感じられる。ミステリを書き続けることで、当然のことながらアイディアは枯渇し、作風はマンネリ化する。作家も大変だが、しかし、そのなかでその作家の本質が露呈してくるとはいえるだろう。クイーンのミステリ作家としてのコアな部分を明らかにするには、後期の作品をこそ見ていくべきだろう。

 

 ところで、論理的推理をクイーン・ミステリの真髄と考えるとき、筆者が連想するのはカール・マルクスである。

 唐突なようだが、カール・マルクスの資本主義分析の有名な理論として価値形態論というのがある。経済学部の学生なら常識だが、何分、はるか昔に習ったことで、偉そうなことは言えない。そもそも難解過ぎてよく理解できなかった。しかし、経済学者の岩井克人による『貨幣論[i]を読むと、難解な理論をかなりわかりやすく説明してくれている。以下、岩井に従って、価値形態論について見ていくが、経済理論の話をしたいのではない。マルクスの理論的思考の特性について考えてみたいのだ。

 価値形態論とは、手っ取り早く言えば、貨幣がいかにして出現するかを説明したものだ(合ってるかな)。アダム・スミス以来の古典派経済学では、経済の単位である商品の価値を使用価値(その商品を消費することで得られる満足)と交換価値(他の商品と交換可能であることで得られる満足)に分類したが、通常商品が持っている2つの価値のうち、交換価値しか持たないのが貨幣である。

 マルクスは、以上の前提のもとで、次のように価値の形態を展開していく。

 まず、一つの商品が他の一つの商品と交換可能である社会を想定する。

 

20エレのリンネル = 1着の上着[ii]

 

 リンネル(亜麻布)を相対的価値形態と言い、上着と交換可能であることによって自身の価値を表現している。上着を等価形態と言い、リンネルと交換可能であることによってリンネルの価値を表現している。リンネルは、自分(主体)だけではその価値を表現できないので、他の商品(客体)によって価値を表現しているわけである。もしリンネルが他の無数の商品とも交換可能であれば、次のような価値形態(全体的な価値形態)が可能となる。

 

1着の上着

10ポンドの茶

20エレのリンネル =  40ポンドのコーヒー

1クォーターの小麦

2オンスの金[iii]

 

 この等式は逆にすることも可能であるので、さらに次の価値形態(一般的な価値形態)が成立する。

 

1着の上着

10ポンドの茶

40ポンドのコーヒー = 20エレのリンネル[iv]

1クォーターの小麦

2オンスの金

 

 こうしてすべての商品はたった一つの商品によって価値を決定されることになる。この唯一の等価形態の商品が貨幣の役割を果たすことは明白だろう。ただし、この役割は、携帯することが容易で耐久性がある、などの特徴を持ち合わせていなければならない。そこで、最終的にはそれに相応しい商品が貨幣形態として選ばれる。

 

1着の上着

10ポンドの茶

40ポンドのコーヒー = 2オンスの金[v]

1クォーターの小麦

20エレのリンネル

 

 かくして貨幣すなわち金(貨)が経済社会に出現するというのである。めでたし、めでたし。

 マルクスの論理展開は完璧で、非の打ちどころがない。こうしてわかりやすく解説してもらえば、経済学に疎い人でも理解できる単純さが素晴らしい。しかし、だがまてよ、と引っ掛かるところがあるのも事実だ。岩井は、そこのところをこう書いている。

 

  全体的な価値形態Bを逆にすると一般的な価値形態Cがえられる――マルクスのこの 

 説明のあまりの「安易」さに、従来のマルクス解釈者はほぼ例外なく狼狽し、なんと

 かより「深淵」な「解釈」をあたえようとつとめてきた[vi]

 

 どうやら、経済学者もとまどったらしいが、素人でもおろおろする。マルクスの理論展開は確かに見事ではある。このアイディアがひらめいたとき、多分マルクスは飛びあがったのだろう。ついに俺は真理にたどり着いたぞ、と歓喜の叫びをあげたに相違ない。しかし、等式だから左右を入れ替えても大丈夫、という理屈は、いわれてみればそうかもしれないが、でも、ここで扱われているのは数理の世界ではなく、人間社会のことだし・・・。

 

 マルクスのこの価値形態論を見て、筆者が連想するのは、エラリイ・クイーンの『悪の起源』(1951年)である。題名からして、マルクス同様、19世紀の知の巨人チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)をもじった、というより、揶揄した作品[vii]だが、ミステリとしても型破りな「怪作」、いや「快作」だ。

 (以下、『悪の起源』の真相を明かす。)

 私が言っているのは、(既読の方はおわかりだろうが)犯人の超人的な精神操作能力のことではない。この作品におけるクイーン的論理は、犯人から送られてきた殺人予告状の分析で発揮される。予告状(のコピー)に奇妙な違和感を抱いた[viii]クイーン探偵は、とんでもない事実に気づく。99語からなる文章のなかに、英語でもっとも頻繁に用いられる文字のひとつである t が一度も使われていない、という事実に-[ix]

 ああ、恐ろしい。なんということでしょう。t の文字を一度も使わずに、こんな長い文章を書くなんて。想像を絶するような犯人のたくらみに、さしもの名探偵エラリイも背筋が凍りつくような恐怖を感じたのです・・・。

 冗談はさておいて、この驚くべき事実から、さらにクイーンは驚天動地の推理を引き出す。すなわち、意識することなく、t を使わない英語の文章を99語にわたって書くことはありえない。しかし、手書きの場合、t を使わずに文章を書かなければならない必然的な理由はない。従って、手紙はもともとタイプライターで書かれた。タイプライターで文章を書くときに、特定の文字を使わない(えない)理由があるとすれば、その文字のキーが折れたからである。ゆえに、t のキーが折れたタイプライターをもっている人物が犯人である[x]

 水も漏らさぬ緻密な推理である。まさにクイーン流論理の真骨頂だろう。そんなの、t のキーを交換してから打てよ、と突っ込んではいけない。実は、この手紙は真犯人がわざと他人に罪をかぶせようとしてつくった偽の手がかりなのだ。しかし、復讐のため-これが犯人の動機-とはいえ、わざわざこんな回りくどい手がかりを案出するものだろうか。上記の「想像を絶する犯人のたくらみ」はまんざら嘘でもない。そしてこのような論理展開を考えついた作者の頭脳も恐ろしく冴えているが、何だか変。

 そしてこのクイーンの推理を読むと、私が連想するのはマルクスの・・・(以下、略)。

 

 冒頭に書いたように、エラリイ・クイーンの推理は、他の英米作家のそれとはどこか違っているような気がしてならない。単に論理が厳密だとか、徹底しているというのとも異なる。何か、地に足がついていないような抽象性。飛翔する論理というか、アングロ・サクソン的な地に足のついた論理とは別な何かを。そしてその特徴は、いわゆる全盛期のクイーンの諸作よりも、一般に衰えたとされる後期の作品のほうに顕著に表れているように感じる。ミステリのアイディアを書き尽くして、ロジックが次第に現実離れ、もしくは突飛になっていく。説得力が低下していく時代の諸作に。しかし、それはクイーンの本質的要素が露わになっていく時期でもあるのではないか。論理に淫している、と、かつてトーマ・ナルスジャックがクイーンを評して言ったというが[xi]、フランス人作家から見ても特異なこのアメリカ人作家(達)の論理愛好癖は、同じく経済を数学というより論理で解析しようとしたカール・マルクスに似ている、と感じるのだ。

 ちなみにマルクスの資本主義分析では、経済恐慌を資本主義の矛盾の爆発ととらえるが、エラリイ・クイーンがデビューしたのは、まさに世界恐慌が勃発した1929年のことだった。別に関係ない?まあ、そうだが、クイーンのミステリを読むとき、私は、ついついマルクスの価値形態論を思い浮かべてしまうのだ(ついでだが、剰余価値論も面白いぞ)。

 

[i] 岩井克人貨幣論』(筑摩書房、1993年、ちくま学芸文庫、1998年)。

[ii] 同、42頁。エレ(Elle)はドイツ語の長さの単位。

[iii] 同、48-49頁。

[iv] 同、49頁。

[v] 同、55頁。

[vi] 同、51頁。

[vii] 登場人物には、アルフレッド・ウォレスなる人物まで出てくる。アーノルド・C・ブラックマン(羽田節子・新妻昭夫訳)『ダーウィンに消された男』(朝日選書、1997年)参照。

[viii] エラリイ・クイーン(青田 勝訳)『悪の起源』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、89頁。

[ix] 同、87頁。

[x] 同、305-14頁。

[xi] 早川書房編『世界ミステリ全集』第3巻(エラリイ・クイーン編)(1972年)の巻末座談会で読んだような記憶があるのだが。典拠は確かではない。