カーター・ディクスン『騎士の盃』

(犯人やトリックを明かしてはいませんが、そもそも本書は、たいした結末ではありません。)

 

 『騎士の盃』[i](1953年)は、ヘンリ・メリヴェル卿の登場する22作目の、そして最後の長編となった。デビューが1934年の『プレーグ・コートの殺人』だったので、ちょうど丸二十年、お勤めご苦労様でした(まだ中編小説に登場するけど)。

 当時、ディクスン・カーは46歳。シリーズ探偵を見限るには早すぎる気もする。お気に入りの主人公と見えていたヘンリ卿のシリーズを、なぜ終わらせてしまったのだろう。評伝を読むと、1954年以降も、何度かH・Mシリーズの再開を目論んでいた、という[ii]。しかし、その都度、計画は頓挫して、ヘンリ卿が長編ミステリに戻ってくることはなかった。自身がそうであるように、ヘンリ卿が時代にそぐわない、と実感するようになったのだろうか。卿の滑稽なギャグ・シーンを描くことが楽しくなくなった、むしろ、つらくなってきたのかもしれない。もっと現実的な理由としては、二つのペン・ネームで、毎年二作以上書き続けることが困難になったからか[iii]。残すとすれば、当然本名のカー名義だろうから、それでヘンリ卿は退場ということになったのかもしれない。もっとも、フェル博士の方も、1949年の『疑惑の影』以来、休養が続いていた。カー名義でも、歴史ミステリ中心で行こうと決心して、もう現代もののシリーズ探偵は止めるつもりだった、とも考えられる。

 してみると、本書でH・Mシリーズを打ち止めとする気も幾分かあったのだろうか。結果論だが、振り返ってみると、そんな気配がなくもないように見える。シリーズの特徴であるファースを書くことが嫌になったのでは、と書いたが、訳者があとがきで述べているとおり、本作は最初から最後まで喜劇的なミステリになっている[iv]。シリーズの有終の美を飾るために、ユーモアを基調とした長編に徹しようとしたのか。『青銅ランプの呪』(1945年)に登場した執事のベンスンを再度起用しているのも暗示的だ。以前の作品に出て来たキャラクターを再登場させるというのは、シリーズ最終作にありがちな演出だろう。もっとも、シリーズ完結記念で再登場させるなら、ケン・ブレイクあたりのほうが相応しかっただろうが。それに、本作はファース・ミステリ色が濃厚だが、ヘンリ卿自身はさほど滑稽ではない。例によって、傍若無人に振る舞い、女性相手には「別嬪さん」を連発する一方、マスターズ主任警部には、「うすのろ」、「蛇」、と言いたい放題だが。今回は、イタリア人の音楽教師を相手に、われ鐘のような歌声を披露するくらいで、ギャグ・シーンは、他の登場人物に任せたようだ。ヘンリ卿が、比較的おとなしく、他の男女の暴走をはたから眺めているのも、シリーズの終わりを予測させる徴候といえるかもしれない。

 本書は、無論、歴史ミステリではないが、謎解きの要に歴史的背景が関係しており、この時期のカー作品らしい。歴史というより伝説だが、冒頭に、またロビン・フッドへの言及[v]があって、前作の最後でロビン・フッドが出てくる[vi]のに対応している。しかし、事件の鍵となるのは、ピューリタン革命時代の史実に基づく伝説で、ステュアート王家びいきのカーらしく、例によって例のごとく、王党派の騎士が革命派との激戦のあと、サセックスのテルフォード館に住む恋人に一目会いに逃れてくる。騎士は追撃してきた敵の兵士と戦って死んでしまうが、その前に屋敷の窓ガラスに「国王チャールズ[vii]万歳」の言葉を書き残して(刻んで)いった。その文字が今も残る一室で、かつての騒乱[viii]を記念して作らせた、ダイヤをちりばめた純金製の騎士の盃が、鍵をかけてしまっていた金庫から取り出され、寝ずの番をしていたはずの当主の目の前に置かれていた。部屋は内部から鍵をかけられ、侵入することは不可能、という事件が起こる。

 この事件のことを、当主の妻から聞かされたマスターズ警部は現地に派遣されると、その夜、同じように騎士の盃を保管する部屋で一夜を過ごすはめになる。翌朝、人々が発見したのは、頭を殴られて失神している警部と、やはり、金庫から取り出されて、警部の目の前のテーブルに置かれている騎士の盃だった。

 騎士の盃は、いかにして誰も侵入できないはずの部屋の金庫から取り出されたのか。そして、犯人の目的は?騎士の盃の盗難なら、なぜ持ち去らずに、残していったのか。そしてまた、同じ犯行(?)が二晩に渡って繰り返されたことには、一体どのような意味があるのか。

 大変魅力的な謎だが、それに相応しい解決かというと・・・。がっかりすること間違いなしである。もちろん、マスターズ主任警部が想定したように、夢遊病で知らない間に当主が自分で取り出していた、などという解決ではない。とはいっても、実際の謎解きも、カーとは思えないような平凡さで、さすがにもうトリックに期待してはいけない、と覚悟させられる。しかし、後半の、同じ事件が繰り返された理由については、(推理できるようなものではないが)意外に面白い。そもそも犯罪とも言えないような事件なので(マスターズは殴られているので、犯罪でないというのも気の毒だが)、それを前提とすれば、動機の説明に無理がない。

 結局、上に述べたように、本書の事件は密室といっても、密室殺人どころか、犯罪でもなく、未遂でしかない(マスターズに対する暴行は犯罪です)。まったくの家庭内の事件なのだが、それもH・Mシリーズの最後に相応しかったのかもしれない。ヘンリ卿の住まいも紹介されて、生活ぶりが描かれるのも、締めくくりの演出めいている。

 ただひとり、マスターズ主任警部だけが、何だか憎まれ役を押し付けられて可哀そうな気もする。殴られて安静にしたまま、最期の謎解きにも参加せず、和気あいあいとしたエンディングにも不在とは、カー先生、ちょっとひどいんじゃありませんか。

 

[i] 『騎士の盃』(島田三蔵訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、405-409頁。

[iii] 『騎士の盃』は、ディクスン名義の最終作ではない。この後、1956年に最終作の歴史ミステリ『恐怖は同じ』が出版されている。

[iv] 『騎士の盃』、342-43頁。

[v] 同、49頁。おまけに、ヘリワード・ウェイクという登場人物が、敵役として登場する。この名は、ヘリワード・ザ・ウェイクをもじったように思えるが、後者については、ロビン・フッド伝説関連の書籍を参照。例えば、上野美子『ロビン・フッド伝説』(岩波新書、1998年)、221頁。

[vi] 『赤い鎧戸のかげで』(恩地三保子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、431頁。

[vii] カーお気に入りのチャールズ2世の父親のチャールズ1世。ステュアート朝は、ジェイムズ1世、チャールズ1世、チャールズ2世、ジェイムズ2世の順だが、高校生の頃、世界史の先生から、(サンドイッチとは逆に)ジャムでチャールズを挟んでいる、と覚えろ、と教わった記憶がある。今、考えると、意味不明だなあ。

[viii] カーは、ピューリタン革命などとは言わず、「大反乱時代」(これも正しい歴史的表記)と書いているが、いかにも、である。同、61頁。