(本書の犯人およびトリックは明かしていませんが、ほのめかしてはいます。)
『ヴードゥーの悪魔』(1968年)は、2006年に翻訳出版された[i]。実に38年かかっている。しかし、『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(1936年)に至っては55年かかっているので[ii]、大したことはない。
それよりも、本書が(Devil Kinsmereを除き)カーの最後に残された未訳長編で、本書刊行により、ついにすべてのカーの長編ミステリが翻訳されたことになる[iii]。なんと目出たいことか。天国のカーも喜んでくれているに違いない(江戸川乱歩も、我が国におけるカーの完全制覇に、今頃になって、と吃驚しているに相違ない)。
それにしても、本書は、『亡霊たちの真昼』(1969年)[iv]、『死の館の謎』(1971年)[v]と続く「ニュー・オーリンズ三部作」の最初の一冊なのに、何で第一作の翻訳がこれほど後回しになったのだろうか。『死の館の謎』は、今にして思えば、原書出版から、わずか四年しかたっていない。本書の出版をためらう事情でもあったのだろうか。ひょっとして、ヴードゥー教のことを「悪魔崇拝」などと書いているせいか[vi]?何しろ、原題のPapa Là-bas はヴードゥーの悪魔のことだという。タイトル、そのままじゃん。直訳すると、「地獄の親父」。もしかして、ヘンリ・メリヴェル卿のこと?もっとも、ヴードゥー教にはカトリックが交じり合っているそうなので、papaは教皇の意味なのだろう。
のっけから脱線気味だが、本書の発表された1968年は、「プラハの春」の年。政治の季節で、ロバート・ケネディやキング牧師が暗殺され、日本でも、「安保闘争」や「東大紛争」で国中が揺れていた時代だった。そんなときに、のんきに不可能犯罪ミステリなぞ書いていたディクスン・カーって・・・。
素晴らしい!いや、それでこそ、パズル・ミステリの巨匠の名に恥じない、潔い態度だ。もっとも、『ヴードゥーの悪魔』が政治や社会制度と無縁というわけではない。舞台となる1858年のニュー・オーリンズは、言うまでもなく「南北戦争」直前のアメリカ南部で、まだ奴隷制度が社会に根付いていた時代である。作中には、奴隷制に関する言及もあって、登場人物の言葉を借りた格好ではあるが、保守的なカーは社会制度の変革には消極的だったようだ[vii]。もっとも、奴隷制度は作品のアイディアとも重要な関りをもっているので、別に個人的見解を述べることが目的というわけではなかったのだろう。
その場面で熱弁をふるうのは、実在したジューダ・ベンジャミンで、他にも、本書では比較的多くの実在の人物が取り込まれていて、とくに、1834年に奴隷を拷問したとして大騒動を巻き起こしたというデルフィーン・ラローリーと、「ヴードゥー・クイーン」の異名をとるマリー・ラヴォーが、上記のとおり、事件の要因となる重要な役割を割り振られている(もっとも、作中には登場しない)。
事件は、ラローリーがニュー・オーリンズを追われることになった暴動の指揮をとったとされる青年たちで、その後、地方の名士となった三人-判事のホレス・ラザフォード、銀行頭取のジョージ・ストーンマン、歴史家のバーナビー・ジェファーズ-が、ラローリーの養子であるステファン・ルブランと名乗る謎の人物に狙われる、というストーリーで、途中、疾走する小型馬車からドレスで着飾った令嬢が消失するという不可能犯罪(実際は犯罪ではないが)が起こる。
すなわち、イギリス領事の主人公リチャード・マクレイには、トム・クレイトンという親友がいて、トムは、クレオール出身の地元の名士であるジュール・ド・サンセールと妻のイザベルの間の娘マーゴと結婚することになっている。そのマーゴがラローリーやマリー・ラヴォーに憑かれたようになっている、とイザベルが相談にやってくるところから物語は始まる。マクレイはクレイトンとともに、新しく赴任した領事補のハリー・ラドロウという青年を連れて舞踏会に出かける。実は、マクレイは、以前一度だけ出会ったことのある見知らぬ美女に恋していて、舞踏会場に着いた途端、その麗しの佳人を見つけてしまう。彼女は、マーゴの友人であるアーシュラ・イードという将軍の娘だった。プププッ、と思わず笑いが漏れそうになるお約束のラヴ・ロマンスだが、到着早々、クレイトンがマーゴをめぐって、ナット・ランボールドという、例によって例のごとき悪役の賭博師と乱闘になる。その隙に、マーゴは二輪馬車に乗って、会場を出て行ってしまう。それを追うのが、マクレイとアーシュラ、クレイトンとラドロウの二組が乗り込む二台の馬車で、突如として西部劇の追跡シーンのようになる。先頭のマーゴの馬車がサンセール家に駆け込むと、彼女の姿は消え失せている。そのうえ、驚く追跡者たちが屋敷の中に入っていくと、同家を訪問していたラザフォード判事が、二階の階段のてっぺんから転落して死亡する、という惨事まで起こる。そこに居合わせたベンジャミン上院議員は、これは殺人だ、と宣言して、いよいよ殺人劇の幕があがる。
というわけで、馬車からの人間消失と不可解な転落死の謎、というお馴染みのメイン・メニューで読者の御機嫌をうかがう。ヴェテラン・シェフの腕の見せ所だが、人間消失のトリックは、意外に、といっては失礼だが、面白い。あっけらかんとした大技で、エラリイ・クイーンあたりが考えつきそうな、ある意味単純極まりないトリックでもある。日本だったら、久生十蘭の「顎十郎捕物帳」とか、「人形佐七捕物帳」にでも出てきそうな、つまり歴史ミステリならではの、おおらかな奇術的トリックという印象である。
一方の不可解な転落死のトリックは、トリックというほどでもなく、『時計の中の骸骨』(1948年)を思わせるが、あれより、もっとたわいない。子どもじみた、というか、本当に子どものおもちゃを使ったアイディア-あ、言い過ぎた-である。
犯人については、いわばカーの定型的な犯人で、これまでに名前を挙げたなかに犯人が潜んでいる。当然、主人公のマクレイやヒロインのアーシュラは除外され、マクレイの親友のクレイトンや婚約者のマーゴも、まあ、犯人にはならない。となると、大体、残りは見当がつくので、そう難しくはないのだろうが、犯人を暗示する幾つかの手がかりは、なかなか上手く考えられている。
探偵役はベンジャミン上院議員で、歴史上の人物が探偵を務めるのは、『ハイチムニー荘の醜聞』以来だが、この人物、見た目も話し方もフェル博士によく似ている。歴史ミステリでは、さすがにタイム・スリップでも使わない限り-いや、使っているんだった-、フェル博士を登場させるわけにもいかないだろうが、結局、こういうキャラクターが好きなんだろうな。
思わせぶりな会話もいつもどおりで、ベンジャミン探偵も例外ではない。「きみたちはみんな、わたしがこのまま話をつづけて、いますぐ解決に移ることを要求しているのかね?」[viii]などと言い放つ。いや、読者は皆そう思ってますよ。そんなところまで、フェル博士を見習わないでください・・・。
さらに、クレイトンもマクレイに向かって、「なにかをあとで説明するといってぜったいに説明しないのは、きみのいつもの癖なのかな?」[ix]と文句をつける。いや、それを言いたいのは我々のほうですから・・・。
読者の先回りをして、作中人物に突っ込ませるのは、やめてもらえませんか、カー先生。
それでも、この時期の歴史ミステリとしては、なかなか面白いのは、「パパ・ラ=バ」などの怪しげなワードが登場して、怪奇なムードを全編に漂わせているせいだろうか。これは、いってみれば、カーが得意としてきた初期の怪奇ミステリと後期の歴史ミステリの弁証法的統一であるのだろうか。
ついでだが、謎解きの最後に、ベンジャミン探偵が、Q.E.D.[x]とつぶやく。前作の『月明かりの闇』(1967年)にも出て来たが、急にエラリイ・クイーン気取りで驚く。19世紀にも流行ってたのか、この言葉。
[i] 『ヴードゥーの悪魔』(村上和久訳、原書房、2006年)。
[ii] 『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(岡 照雄訳、国書刊行会、1991年)。
[iii] 『ヴードゥーの悪魔』、森 英俊「ニューオーリンズ三部作」、381-82頁。
[iv] 『亡霊たちの真昼』(池 央耿訳、創元推理文庫、1983年)。
[v] 『死の館の謎』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1975年)。
[vi] 『ヴードゥーの悪魔』、38頁。John Dickson Carr, Papa Là-bas (New York, 1989), p.27.
[vii] 同、287-88頁。
[viii] 同、221頁。
[ix] 同、252頁。
[x] 同、357頁。Papa Là-bas, p.262. ちなみに、本書は三部構成になっていて、第一部「黄昏(Dusk)」、第二部「闇(Darkness)」、第三部「夜明け(Daybreak)」で、すべてDで始まる。悪魔(Devil)のDにちなんでいるのかと思ったが、そちらはSatanだった。じゃ、死(Death)のDかな。