J・D・カー『ヴードゥーの悪魔』

(本書の犯人およびトリックは明かしていませんが、ほのめかしてはいます。)

 

 『ヴードゥーの悪魔』(1968年)は、2006年に翻訳出版された[i]。実に38年かかっている。しかし、『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(1936年)に至っては55年かかっているので[ii]、大したことはない。

 それよりも、本書が(Devil Kinsmereを除き)カーの最後に残された未訳長編で、本書刊行により、ついにすべてのカーの長編ミステリが翻訳されたことになる[iii]。なんと目出たいことか。天国のカーも喜んでくれているに違いない(江戸川乱歩も、我が国におけるカーの完全制覇に、今頃になって、と吃驚しているに相違ない)。

 それにしても、本書は、『亡霊たちの真昼』(1969年)[iv]、『死の館の謎』(1971年)[v]と続く「ニュー・オーリンズ三部作」の最初の一冊なのに、何で第一作の翻訳がこれほど後回しになったのだろうか。『死の館の謎』は、今にして思えば、原書出版から、わずか四年しかたっていない。本書の出版をためらう事情でもあったのだろうか。ひょっとして、ヴードゥー教のことを「悪魔崇拝」などと書いているせいか[vi]?何しろ、原題のPapa Là-basヴードゥーの悪魔のことだという。タイトル、そのままじゃん。直訳すると、「地獄の親父」。もしかして、ヘンリ・メリヴェル卿のこと?もっとも、ヴードゥー教にはカトリックが交じり合っているそうなので、papaは教皇の意味なのだろう。

 のっけから脱線気味だが、本書の発表された1968年は、「プラハの春」の年。政治の季節で、ロバート・ケネディキング牧師が暗殺され、日本でも、「安保闘争」や「東大紛争」で国中が揺れていた時代だった。そんなときに、のんきに不可能犯罪ミステリなぞ書いていたディクスン・カーって・・・。

 素晴らしい!いや、それでこそ、パズル・ミステリの巨匠の名に恥じない、潔い態度だ。もっとも、『ヴードゥーの悪魔』が政治や社会制度と無縁というわけではない。舞台となる1858年のニュー・オーリンズは、言うまでもなく「南北戦争」直前のアメリカ南部で、まだ奴隷制度が社会に根付いていた時代である。作中には、奴隷制に関する言及もあって、登場人物の言葉を借りた格好ではあるが、保守的なカーは社会制度の変革には消極的だったようだ[vii]。もっとも、奴隷制度は作品のアイディアとも重要な関りをもっているので、別に個人的見解を述べることが目的というわけではなかったのだろう。

 その場面で熱弁をふるうのは、実在したジューダ・ベンジャミンで、他にも、本書では比較的多くの実在の人物が取り込まれていて、とくに、1834年に奴隷を拷問したとして大騒動を巻き起こしたというデルフィーン・ラローリーと、「ヴードゥー・クイーン」の異名をとるマリー・ラヴォーが、上記のとおり、事件の要因となる重要な役割を割り振られている(もっとも、作中には登場しない)。

 事件は、ラローリーがニュー・オーリンズを追われることになった暴動の指揮をとったとされる青年たちで、その後、地方の名士となった三人-判事のホレス・ラザフォード、銀行頭取のジョージ・ストーンマン、歴史家のバーナビー・ジェファーズ-が、ラローリーの養子であるステファン・ルブランと名乗る謎の人物に狙われる、というストーリーで、途中、疾走する小型馬車からドレスで着飾った令嬢が消失するという不可能犯罪(実際は犯罪ではないが)が起こる。

 すなわち、イギリス領事の主人公リチャード・マクレイには、トム・クレイトンという親友がいて、トムは、クレオール出身の地元の名士であるジュール・ド・サンセールと妻のイザベルの間の娘マーゴと結婚することになっている。そのマーゴがラローリーやマリー・ラヴォーに憑かれたようになっている、とイザベルが相談にやってくるところから物語は始まる。マクレイはクレイトンとともに、新しく赴任した領事補のハリー・ラドロウという青年を連れて舞踏会に出かける。実は、マクレイは、以前一度だけ出会ったことのある見知らぬ美女に恋していて、舞踏会場に着いた途端、その麗しの佳人を見つけてしまう。彼女は、マーゴの友人であるアーシュラ・イードという将軍の娘だった。プププッ、と思わず笑いが漏れそうになるお約束のラヴ・ロマンスだが、到着早々、クレイトンがマーゴをめぐって、ナット・ランボールドという、例によって例のごとき悪役の賭博師と乱闘になる。その隙に、マーゴは二輪馬車に乗って、会場を出て行ってしまう。それを追うのが、マクレイとアーシュラ、クレイトンとラドロウの二組が乗り込む二台の馬車で、突如として西部劇の追跡シーンのようになる。先頭のマーゴの馬車がサンセール家に駆け込むと、彼女の姿は消え失せている。そのうえ、驚く追跡者たちが屋敷の中に入っていくと、同家を訪問していたラザフォード判事が、二階の階段のてっぺんから転落して死亡する、という惨事まで起こる。そこに居合わせたベンジャミン上院議員は、これは殺人だ、と宣言して、いよいよ殺人劇の幕があがる。

 というわけで、馬車からの人間消失と不可解な転落死の謎、というお馴染みのメイン・メニューで読者の御機嫌をうかがう。ヴェテラン・シェフの腕の見せ所だが、人間消失のトリックは、意外に、といっては失礼だが、面白い。あっけらかんとした大技で、エラリイ・クイーンあたりが考えつきそうな、ある意味単純極まりないトリックでもある。日本だったら、久生十蘭の「顎十郎捕物帳」とか、「人形佐七捕物帳」にでも出てきそうな、つまり歴史ミステリならではの、おおらかな奇術的トリックという印象である。

 一方の不可解な転落死のトリックは、トリックというほどでもなく、『時計の中の骸骨』(1948年)を思わせるが、あれより、もっとたわいない。子どもじみた、というか、本当に子どものおもちゃを使ったアイディア-あ、言い過ぎた-である。

 犯人については、いわばカーの定型的な犯人で、これまでに名前を挙げたなかに犯人が潜んでいる。当然、主人公のマクレイやヒロインのアーシュラは除外され、マクレイの親友のクレイトンや婚約者のマーゴも、まあ、犯人にはならない。となると、大体、残りは見当がつくので、そう難しくはないのだろうが、犯人を暗示する幾つかの手がかりは、なかなか上手く考えられている。

 探偵役はベンジャミン上院議員で、歴史上の人物が探偵を務めるのは、『ハイチムニー荘の醜聞』以来だが、この人物、見た目も話し方もフェル博士によく似ている。歴史ミステリでは、さすがにタイム・スリップでも使わない限り-いや、使っているんだった-、フェル博士を登場させるわけにもいかないだろうが、結局、こういうキャラクターが好きなんだろうな。

 思わせぶりな会話もいつもどおりで、ベンジャミン探偵も例外ではない。「きみたちはみんな、わたしがこのまま話をつづけて、いますぐ解決に移ることを要求しているのかね?」[viii]などと言い放つ。いや、読者は皆そう思ってますよ。そんなところまで、フェル博士を見習わないでください・・・。

 さらに、クレイトンもマクレイに向かって、「なにかをあとで説明するといってぜったいに説明しないのは、きみのいつもの癖なのかな?」[ix]と文句をつける。いや、それを言いたいのは我々のほうですから・・・。

 読者の先回りをして、作中人物に突っ込ませるのは、やめてもらえませんか、カー先生。

 それでも、この時期の歴史ミステリとしては、なかなか面白いのは、「パパ・ラ=バ」などの怪しげなワードが登場して、怪奇なムードを全編に漂わせているせいだろうか。これは、いってみれば、カーが得意としてきた初期の怪奇ミステリと後期の歴史ミステリの弁証法的統一であるのだろうか。

 ついでだが、謎解きの最後に、ベンジャミン探偵が、Q.E.D.[x]とつぶやく。前作の『月明かりの闇』(1967年)にも出て来たが、急にエラリイ・クイーン気取りで驚く。19世紀にも流行ってたのか、この言葉。

 

[i]ヴードゥーの悪魔』(村上和久訳、原書房、2006年)。

[ii]エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(岡 照雄訳、国書刊行会、1991年)。

[iii]ヴードゥーの悪魔』、森 英俊「ニューオーリンズ三部作」、381-82頁。

[iv] 『亡霊たちの真昼』(池 央耿訳、創元推理文庫、1983年)。

[v] 『死の館の謎』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1975年)。

[vi]ヴードゥーの悪魔』、38頁。John Dickson Carr, Papa Là-bas (New York, 1989), p.27.

[vii] 同、287-88頁。

[viii] 同、221頁。

[ix] 同、252頁。

[x] 同、357頁。Papa Là-bas, p.262. ちなみに、本書は三部構成になっていて、第一部「黄昏(Dusk)」、第二部「闇(Darkness)」、第三部「夜明け(Daybreak)」で、すべてDで始まる。悪魔(Devil)のDにちなんでいるのかと思ったが、そちらはSatanだった。じゃ、死(Death)のDかな。

J・D・カー『月明かりの闇』

(本書の犯人、トリック等について言及しています。)

 

 2000年に翻訳出版された『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(1967年)[i]は、副題どおり、フェル博士シリーズの最後の長編である。しかし、別に原題に「最後の事件」と謳っているわけではないのだから、副題は余計だったのではないか。『ドルリー・レーン最後の事件』とはわけが違うし、いちいち付記するのも面倒くさい。

 それにしても、原題はThe Dark of the Moonピンク・フロイドみたいですね。でも考えてみると、『狂気(The Dark Side of the Moon)』が発表されたのは1972年だから、本書から五年しかたっていない。ほぼ同時代というのが信じられない(しかもピンク・フロイドは1967年にデビューしている)のは、ディクスン・カーの作品がロック音楽の時代に書かれていたというのが、どうにもピンとこないからか。

 The Dark of the Moonという言葉は、文庫版では300頁に出てきて、「新月」と訳されている[ii]。あるいは満月に近い月の暗い部分で、隠された秘密を暗示している[iii]、ともいう。実際、本書では、冒頭から月が描写されていて、その後も、恒例の雷が鳴るのと並行して、月明かりの情景が繰り返し描かれる。本書の中心の謎を象徴しているのは確かなのだろう。その謎というのは、戦後のカーが執拗に作中で取り上げてきた男女の性愛に関わる秘密で、それがとくに本書では、人倫にもとる不道徳な男女関係であるところが、まさに隠されたほの暗い秘密というわけで、カーにこのようなタイトルを選ばせたのだろう。

 こういうと、何だか、横溝正史みたいだが、あんなえげつない(と言っては失礼だが)ものではなく、年上の男が若い娘に惚れて、法律上は彼女を自分の娘として養育しながら関係を続けている。カーの初期長編にも、実は同じような設定の作品がある[iv]。しかし、後者は、単に意外な犯人と動機が強調されていただけだったが、本書では、この秘密がプロットの中心となっており、(事実はそうではないのだが)暗に近親相姦を連想させるエロティックな側面が強調されているのが、戦前のカーとは異なる点だろう。表題の「月」には、そうしたエロティシズムも含意されているものと思われる。

 舞台は、再びアメリカのサウス・カロライナはチャールストンにあるメイナード邸で始まる。冒頭から、娘のマッジが男の腕に抱かれて、その睦言から、秘密の恋であることがうかがい知れる。そこに、彼女の求婚者の一人であるヤンシー・ビールが現れて声をかけると、正体不明の男は密かに姿を消す。このマッジの隠された恋人が何者かが、本書の謎のひとつになっている。メイナード邸に暮らすのは、当主のヘンリー・メイナードとマッジ、そして使用人たちだが、以上のエピソードがあった数週間後には、メイナードの旧友のロバート・クランドール、彼に恋い焦がれているヴァレリー・ヒューレット、ヤンシーともうひとりの求婚者リップ・ヒルボロ、マッジの友人のカミラ・ブルースといった面々が集まってくる。そこに、メイナードに請われてやってきたフェル博士に同行するのが、主人公格のアラン・グランサムで、彼は長いことカミラに恋心を抱き続けている、という-もはや突っ込む気力も失せたが-判で押したような、お馴染みの設定である。

 メイナード邸では、すでに、案山子が盗まれるという奇妙な盗難事件や、怪しい人影が邸内や、屋敷が見晴らす浜辺で目撃されるなど、気味悪い出来事が頻発している。そして、とうとうある夕暮れ、砕いた牡蠣の貝殻が細かく敷きつめられたテラスの中央で、椅子に腰を下ろしたメイナードが頭部の片側を打ち砕かれた死体となって発見される。周りには被害者の靴跡のみで、凶器も、そして犯人の足跡さえ残ってはいなかった。

 というわけで、『悪魔のひじの家』の密室に続き、カーの十八番の「足跡のない殺人』の謎である。面白いのは-いや、トリックは一向面白くないのだが-、この不可能犯罪が、カーには珍しい機械トリックであることだ。カミラが数学の専門家という設定[v]なので、彼女が謎解きか、あるいは犯罪計画に関わってくるのかと思うと、全然そんなこともなく、一体なんで数学の専門家なのか、よくわからない。これも本書の謎のひとつ(?)で、カーが数学が嫌いだということを言いたかっただけなのか。・・・話を戻すと、この振り子を応用した幾何学トリックは、なんだか日本の作家が使いそうなアイディアで、実際、島田一男の初期作[vi]によく似たトリックが使われている。もちろん、島田のほうが早い。

 まあ、こんな機械的トリックでも、戦後まもなくなら、まだ江戸川乱歩も感心して、「トリック集成」に採用してくれただろうが、1967年では、話題にもならないのも無理はない。本作のテーマである「男女の隠された関係」もゴシック小説めいているが、不可能犯罪のトリックがこうも機械的では興覚めで、何もかもが実に古色蒼然としている。

 ちなみに、この時期に『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』のコラム「地獄の仏」を書いていた石川喬司が、1967年1月号で絶賛しているのがギャビン・ライアルの『もっとも危険なゲーム』(1963年)で、12月号が、アイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』(1967年)[vii]。これらもすでに古典だが、これじゃあ、早川書房も、カーなど出版する気にならなかったのは当然ですな。

 おまけに、アランとカミラのタッグが、もうもういいかげんにしてくれ、という鬱陶しい組み合わせで、カミラがアランに向かって、「いつもいつも私を馬鹿にして、鼻で笑ったりして、本当に嫌な人」、と散々なのである。まるで、前作の『仮面劇場の殺人』(1966年)に出て来たフィリップ・ノックスとジュディのペアと生き写しで、めまいを起こしそうになるが、最後には「でも、本当は、好きなの♡」って・・・。ふざけんな、お前ら、月の裏側にでも行っちまえ、というのが全ての読者の心の叫びだろう。

 そこに駄目押しするのがフェル博士で、登場して早々にこんなことをのたまう。

 

  「ミスター・メイナードはほとんど何も教えてくれなかった。はぐらかすことにか 

 けては、彼はまさに比類なき才能の持ち主だ。」[viii]

 

 これを読んだ瞬間、すべてのカー・ファンが、いやいやいや、と突っ込んだことだろう。どの口がこんなことを言ってんのか、と。

 しかも、その後には、こんな発言で怒りの火に油を注ぐ。

 

  「きちんと考えさえすれば、私のことばが謎めいていることなど一度もないことが 

 わかるはずだ」[ix]

 

 ああ、そうですか。私が考えなしなのが悪かったのですね、ああ、そうですか。

 カーも気がさして、この際、フェル博士本人に言い訳させたほうがよさそうだ、と思ったらしい。

 このほかに気になったのは、最初のほうで、メイナードとマッジ、ヤンシーの間の会話に、Q.E.D.という言葉が出て来たことだ[x]。カーもエラリイ・クイーンに毒されたのか。それとも、翌年、クイーンの同タイトルの短編集が出版される[xi]ので、友人のよしみでコマーシャルのつもりなのか。

 ついでに、チャールストンという地名は、チャールズ2世にちなんだものだそうだ[xii]。ダグラス・グリーンによると、カーは1967年春に同地を訪れ、この街を舞台にミステリを書く気になったのだ[xiii]、という。絶対、チャールズ2世に由来する街だから、というのが理由だろ。

 あれこれ文句を連ねたが、二十年ぶりに読みかえして、やっぱり楽しかった(犯人もトリックもすっかり忘れていたのだが、珍しく犯人がわかったので、浮かれているらしい)。なんやかんや言っても、カーは面白い。1930年代のような凄味はないが、ちょうどよいかげんの風呂に入っているような心地よさで、長年付き合ってきた読者のみ味わえる快適さである。

 さて、本書の最後、フェル博士は、まごついたように、ぶつぶつつぶやきながら姿を消す[xiv]。果たして、これがフェル博士のラスト・シーンだと、作者は決めていたのだろうか。実際、フェル博士が読者の前に姿を見せるのはこれが最後となった。長編では、1933年の『魔女の隠れ家』から数えて23作。35年間の実働期間は、ヘンリ・メリヴェル卿の20年(中短編を除く)に遥かに優る。途中、ヘンリ卿のほうが作者の寵愛を受けていたように見えることもあったが、結局最後までカーに付き合ったのはフェル博士だった。華々しいファンファーレはないものの、ごきげんよう、フェル博士、私はあなたが好きでした。

 

[i] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(田口俊樹訳、原書房、2000年)、『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(田口俊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2004年)。

[ii] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、300頁。

[iii] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(原書房)、364頁、小森健太朗による解説。

[iv] 『剣の八』(1934年)。

[v] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、126-28頁参照。

[vi] 処女作の『古墳殺人事件』(1948年)。

[vii] 石川喬司『極楽の鬼 マイ・ミステリ採点表(ジャッジ・ペーパー)』(講談社、1981年)、128、162頁。

[viii] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、84頁。

[ix] 同、175頁。

[x] 同、20頁。

[xi] エラリイ・クイーン『クイーン犯罪実験室』(Q. E. D.: Queen‘s Experiments in Detection, 1968)(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)。

[xii] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、37-38頁。

[xiii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、465頁。

[xiv] 『月明かりの闇-フェル博士最後の事件-』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、494頁。

J・D・カー『仮面劇場の殺人』

(本書のトリック等のほか、G・K・チェスタトンの短編小説、E・クイーンの長編小説、横溝正史の長編小説の内容を明かしています。)

 

 1966年、ディクスン・カーは前年に引き続いてフェル博士を主役とした長編ミステリを発表した。『仮面劇場の殺人』[i]は、カーには珍しい劇場ミステリである。これまでも、女優が主要登場人物だったり(『ホワイト・プライオリの殺人』、『雷鳴の中でも』)、劇場が出てくる小説もないわけではない(『青ひげの花嫁』)。しかし、本格的に劇場を舞台とした長編ミステリは初めてだ。

 同時に、フェル博士シリーズが二年続くのも、実に19年ぶりのこと(『囁く影』(1946年)、『眠れるスフィンクス』(1947年))で、1950年代以降は、現代ミステリの翌年は歴史ミステリというのがローテーションになっていた。しかも、このあと、翌1967年にも、フェル博士ものの『月明かりの闇』が刊行されて、三年連続となる。何も、大騒ぎするほどのことでもないが、この心境の変化は何によるものか。

 文庫版の解説[ii]で、三橋 暁は、1963年のエドガー賞巨匠(グランドマスター)賞受賞がきっかけとなったのではないか、と推理しているが、そして、そうかもしれないが、何だか、フェル博士(およびヘンリ・メリヴェル卿)ものの長編のほうこそ、カーが本来書くべき作品であるかのような言い方で、歴史ミステリに逃げるべきではなかった、と暗に言っているようにも聞こえる。

 単純に、久しぶりにフェル博士登場作を書いたら、興が乗って続けて書く気になったのだろうか。あるいは、劇場のボックス席[iii]を利用した殺人トリックを思いついたが、歴史ミステリで劇場を扱うのは、資料集めが大変だと思ったのだろうか。むしろ、エドガー賞受賞の影響をいうなら、出版社がこの機を逃さずに売行きを伸ばそうと、カーにフェル博士登場の現代ミステリを書くよう勧めた、という可能性のほうがありそうだ。少々、興ざめな憶測ではあるが。

 大騒ぎするほどのことでもない、と言いながら、話が長くなったが、いずれにせよ、『悪魔のひじの家』でも書いたように、フェル博士ものも、歴史ミステリも、回顧的なミステリという意味では共通している。冒頭、イリュリア号という船に乗り合わせた一行の間で、銃の発砲騒ぎが起こるトラヴェル・ミステリで始まり、すぐに舞台がアメリカに移ると、カーが一時暮らしていたママロネック近郊のリッチヴィルという架空の地方都市で事件が展開する。主人公格のフィリップ・ノックスのように、実際に講演旅行に出かけていたという[iv]カーにしてみれば、イメージが湧きやすい、書くのが楽しい作品だったのだろう。

 エラリイ・クイーンの処女作が劇場ミステリ[v]だったので、つい比較したくなるが、クイーンの小説が、劇場を舞台にしている割に、警察の捜査ばかりで、俳優や関係者間の人間模様がほとんどまったく描かれていないのに対し、さすがに、30年以上書き続けてきたカーの本作は、主演男優のバリー・プランケットを中心とした登場人物の会話や行動が事細かに描写されている。といっても、例によって例のとおりのカー流儀なので、登場人物の個性は表面的なものにとどまっているし、彼らの間の心理的な軋轢が生むサスペンスなどは薬にしたくともない(曖昧な会話の応酬による腹の探り合いは、いつも通りだが)。

 事件のほうは、仮面劇場に資金提供をしている、往年の大女優マージョリー・ヴェインが開演前日のリハーサル中、一人で観劇していた二階ボックス席で、劇で使用される石弓の矢で刺し殺されていた、というもの。ボックス席は内部から被害者が施錠していたが、もちろん舞台に向かって開かれているので、密室ではない。しかし、石弓を発射できる場所や方角は限定されるので、自ずと容疑者は限られてくる。が、実は・・・、というトリックで、短編の旧作「銀色のカーテン」[vi]の焼き直しである。前作の『悪魔のひじの家』といい、この時期のカーは、自作を読み直して、使えそうなトリックを渉猟していたのだろうか。さすがのカーも、新しいアイディアを考案することは難しく、しんどくなっていたようだ。とはいえ、それなりによく考えられており、途中で、出演中の俳優が舞台から石弓を発射したのでは、という仮説が持ち出されたりして、G・K・チェスタトンのブラウン神父ものの短編[vii]や上記のクイーン作を連想させる[viii]。上演中の舞台から犯人が観客を射殺する仰天トリック(横溝正史にも、そんなトンでもトリックを使った長編がありました[ix])と思わせて裏をかく、カーらしいひねくれた技を見せてくれる。

 本作の犯人は、二階堂黎人が「フーダニットとしてはよくできている」[x]、と評価するように、ある意味定型的だが、読者にあれこれ考えさせて的を絞らせないプロットは健在だ。あれこれ考えさせるというのは、例えば、マージョリーには、取り巻きのローレンス・ポーターという胡散臭い青年がいて、カー作品では、十中八九、こういうやつが犯人なのだ(無茶な発言ですな)。しかし、さすがにカーも自覚しているのか、作品半ばで、こんなメタ・ミステリ風モノローグをノックスにさせている。

 

  犯人は誰なのか。

  ノックスは待つのに焦れながらも考えた。

  これが探偵小説なら、犯人はラリー(ローレンス)・ポーターと相場が決まってい 

 る。(後略)[xi]

 

 私は、この文章を読んだとたん、犯人はポーターだ、と確信した。「ポーターが犯人なんてありえないよね」、と言っておきながら、最後にまたあれこれたちの悪い言い訳をして、こっそり舌を出す、カー一流の汚いテクニックに違いない、と思い込んでしまったのだ。どうせまた、最後に、「あれは、あくまでノックスの独白に過ぎなかったのだ。これは読者を惑わす正当なテクニックである」、とか何とかいうに決まっている、と。・・・どうやら、筆者も、カーを読み過ぎたらしい。

 ただ、犯人が工作したアリバイは、証人を脅して偽証させるという荒っぽさで、感心できない。最初の船上での発砲騒ぎで、犯人の見当が付いていながら、それを被害者のマージョリーにも、他の誰にも言わないのも、いささか不可解だ。本気で殺すつもりはなかったと推測したにしても、普通言うだろう。この発砲事件の犯人の動機も不明瞭で、何だかよくわからない。作者もわからないのかもしれないが。

 もうひとつ、これも相変わらずで、いちいち取り上げるのも気がさすが、ノックスと二十年間音信不通だった妻のジュディとのやり取りも、まったく理解の程度を越えている。ノックスがジュディに未練たらたらであることはわかるが、ジュディのノックスに対する態度は、かんしゃくを通り越して、もはや狂乱状態。離婚寸前というより、家庭裁判所での、ののしり合いみたいなのだが、結局、最後には、お互いに対する愛情を確認してキスをする。これが夫婦というものなのですか、カー先生。

 もっと気楽な話題としては、作中に「現在活躍中の007」[xii]という発言が出てくる。今となっては時代を感じさせるが、1960年代はスパイ小説花盛りで、まこと、ディクスン・カーなどはおよびでなかった。そのあとのページで、今度は「イギリスでも1215年のマグナ・カルタで、石弓を使う外国人の傭兵を雇うことを禁じている」[xiii]などと、いかにもカーらしい歴史豆知識が出てくる。ジェイムズ・ボンドや『寒い国から帰ってきたスパイ』[xiv]の時代に、駄目だ、こりゃ、と思うが、雀百まで、というところでしょうか。

 

[i] 『仮面劇場の殺人』(田口俊樹訳、原書房、1997年)。

[ii] 『仮面劇場の殺人』(田口俊樹訳、創元推理文庫、2003年)、460頁。

[iii] 原題のPanic in Box C は、最初見たとき、意味がわからなくて、『五つの箱の死(Death in Five Boxes)』みたいな話かな、と思ったが、我ながら間抜けな話ですね。

[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、453-54頁。

[v] 『ローマ帽子の謎』(1929年)。

[vi] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1970年)、129-58頁。

[vii] G・K・チェスタトン「俳優とアリバイ」『ブラウン神父の秘密』(1927年)所収。

[viii] 『ローマ帽子の謎』では、舞台に出演中の俳優が犯人。前注のチェスタトンの短編も同じアイディア。

[ix] 本当はトリックではないのだが、『死神の矢』(1958年)。(犯人の行動に突拍子がなさ過ぎて、笑えます。)

[x] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、390頁。

[xi] 『仮面劇場の殺人』(創元推理文庫)、320頁。

[xii] 同、54頁。

[xiii] 同、94頁。該当するのは、マグナ・カルタの第51条のようだ。正確には、国王(ジョン)と反国王派諸侯との抗争に際し、王が雇い入れた外国人の傭兵や弩兵をイングランド王国から退去させることを約束したものである。G・R・C・デーヴィス『マグナ・カルタ』(城戸 毅訳、ほるぷ教育開発研究所、1990年)、32頁、W・S・マッケクニ『マグナ・カルタ-イギリス封建制度の法と歴史-』(禿氏好文訳、ミネルヴァ書房、1993年)、478頁。

[xiv] ジョン・ル・カレによるスパイ・ミステリの歴史的名作。1963年作。

J・D・カー『悪魔のひじの家』

(本書の犯人、トリックのほか、『孔雀の羽根』、『第三の銃弾』の内容に言及しています。)

 

 1965年、ディクスン・カーは、突然、五年ぶりにフェル博士が登場するミステリ長編を発表した。それが『悪魔のひじの家』(1965年)である。しかし、翻訳が出たのは1998年[i]。実に、30年以上かかったことになる。『雷鳴の中でも』(1960年)[ii]が、原著と同年に日本でも翻訳刊行されていることを考えると、1960年代におけるカーの不人気ぶりと、1990年代以降における狂い咲き状態のあまりにも大きな落差が見て取れる。

 本書以後、カーは、フェル博士シリーズを三作続けて執筆して、その後、またローテーションからはずしてしまう。そのまま博士は引退、カーも1972年を最後に筆を折った。フェル博士が、カーに最後まで付き合った名探偵となった。

 『悪魔のひじの家』では、カーはもはや何か新しいことをやってやろうという意欲は持ち合わせていなかったようだ。むしろ、意図的にこれまでの諸作をなぞるような小説を書こうとしている。舞台は、イギリス南部の海沿いに立つ屋敷。その一帯は「悪魔のひじ」と呼ばれている。そこに住むバークリー家の当主クロヴィス(古代ゲルマン人の王と同じ名なのは、何か意味があるのだろうか)が亡くなって、ほぼ時を同じくして、父と衝突してアメリカに移住した長男ニコラスも死去する。他に、バークリー家に住んでいるのは、父と折り合いの悪い次男のペニントン・バークリーと年下の妻ディードル、そして独身の長女エステル・バークリーだが、クロヴィスが全財産を遺したのは長男のニコラスで、彼が死去したため、相続人はその息子で同名のニコラスとなった。アメリカから戻ったニック(ニコラス)には、しかし、「悪魔のひじの家」を相続するつもりはなく、伯父のペニントンに譲る考えでいる。そのことを告げにバークリー邸に向かうニックが同行を求めたのが、友人の歴史家ガレット・アンダーソンで、彼には、パリで知り合い、再会を約束しながら連絡が取れなくなったフェイ・ウォーダーという恋焦がれる相手がいる。というわけで、またまた、おまけで、さらにまたお馴染みの人物配置が完成して、物語はガレット・アンダーソンの視点で語られる。

 そしてまたまたまたまた恒例のように、「悪魔のひじの家」に向かう列車の中で、アンダーソンはフェイと再会する。実は、彼女はディードルの友人で、今はペニントンの秘書をしていることがわかる。何という驚くべき偶然!などと感心している場合ではないが、これがカーの小説作法だから仕方がない。突っ込まないで、先に進もう。

 フェイと一旦別れたガレットが、ニック、そして一家の弁護士であるアンドリュー・ドーリッシュとともに、彼らを迎えにきたディードルの車に同乗して、バークリー邸に到着すると、突如、銃声が轟く。現場とおぼしき図書室に一行が駆けつけると、ペニントンがぐったりと椅子にもたれかかっている。彼の話では、ヴェールをかぶった幽霊のような男が彼に向って空包を発射した、という。しかも、その幽霊-以前住んでいた老判事のそれだという-は数日前、さらに数十年も前にも現れたことがある、と。信じがたい話だが、現に、幽霊が姿を消したはずの窓には、内側から鍵がかかっていた。

 そこに、フェル博士と、懐かしや、『緑のカプセルの謎』(1939年)に登場したエリオット(今では副警視長に出世している)が調査に訪れるが、ペニントンは、皆を部屋から追い出すと、再び図書室に閉じこもってしまう。

 数時間たっても部屋から出てこないペニントンを怪しんで、ニックとガレット、それにフェイらが図書室に入ろうとすると、ドアにも窓にも鍵がかかっている。窓ガラスを打ち破って侵入した彼らが見たのは、再び胸を、今度は実弾で撃たれ、倒れているペニントンだった。この辺りの展開は、数年前の『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)を連想させる。

 こうして、事件は、こちらも懐かしのメロディ、密室の謎ということになる。

 ダグラス・グリーンが指摘しているとおり[iii]、トリックの原理は『孔雀の羽根』(1937年)に基づいている。また、犯行の手順は『第三の銃弾』(1937年)を思わせる。つまり、自作の二次活用だが、それなりによく考えられており、失望させるということはない。大傑作ということもないが。

 このトリックに関連して、事件前の歓談中に、被害者のジャケットに蜂蜜がどっぷりかかって、潔癖な彼が絶句する場面があるが、明らかに伏線だと分かる書き方になっている。これほどわざとらしく露骨な手掛かりは、これまでの、目立たぬよう、気づかれぬように伏線を張る面倒な作業に、カーも疲れてきたということだろうか。それとも、このくらいあからさまな手掛かりでないと、読者には難しい、と考えたのか。どちらでもいいようなことだが、そんなことを考えさせる書きぶりである。

 犯人は、例によって、見栄坊で自信家の男。ただし、かつてのような傲岸不遜な青年ではなく、弁護士のドーリッシュなのだが、この犯人は結構意外だ。というか、動機が意外なのだが、つまり、ペニントンを殺せば、ディードルと一緒になって、財産を相続できる、というもの。しかし、ドーリッシュがディードルに横恋慕しているというはっきりした描写はなく-もっとも、あれば一目瞭然になってしまうが-、しかも、そもそもこのような誇大妄想気味の動機で殺人を犯すだろうか。それも、れっきとした弁護士が。おまけに、実は、ニックとディードルは初対面ではなく、密かに恋し合っていることが、後半で暴露される。なんだか、しっちゃかめっちゃかな人物関係で、何でこんなにややこしくしたのだろう。ドーリッシュの動機を隠すためかもしれないが、こんなレッド・へリングを泳がせなくとも、ドーリッシュの動機を言い当てられる読者はほとんどいないだろう。大体、この二人の秘密の関係は不自然極まりなく、筋の上で何の意味もないように見えてしまう。しかも、最後に、ニックはディードルと一緒になるつもりはない、と言って、アメリカに去っていくのである。まさか、かつてのような安易なハッピー・エンドではない-結局ペニントンは死なないので、もし二人が一緒になろうとしたら、駆け落ちか、あるいは、今度は、ニックがペニントンを殺すしかない-ことを強調して、大人の恋愛を描こうとしたのだろうか。カーが?まさかね。

 さらに、上記のように、ペニントンは死亡せず、事件が殺害未遂で終わる理由もよくわからない。ペニントンに愛着が湧いたのだろうか。カーも年を取って、やたらと登場人物を殺すことに気が咎めるようになったのか。それとも最初の殺害未遂事件は、ペニントンのひとり芝居なので、彼の告白がないと、読者を納得させられないと判断したのだろうか。フェル博士の推理も、そう冴えたものではないし。

 そういえば、本作でのフェル博士は、『死者のノック』や『雷鳴の中でも』に比べると、はぐらかし発言を連発して、読者をイライラさせることは比較的少ない。途中、エリオット副警視長が、今ならハドリーの気持ちがよくわかる、と言い、「結論を聞かせてくださるのですか、それとも曖昧なことをぶつぶついって、お茶を濁すおつもりですか?」[iv]とフェル博士に詰め寄る-まるでカー自身のノリ突込みのようだ-が、作者もちゃんと自覚はしていたようだ。

 いずれにしても、イギリス地方の旧家に住む奇矯な人々の間で起こる密室ミステリ。スパイ・スリラー全盛の1960年代に発表するには、クラシックすぎるお膳立てだが、これがカーであることも確かで、グリーンも繰り返し書いているように、カーが現代という時代を描くことにうんざりしていて、過去のなかでしかミステリを書く意欲が生まれなかったのだとすれば、この期に及んで、フェル博士が復活したのもよくわかる。カーにとっては、もはや現代ミステリも、歴史ミステリも区別する意味がなくなっていたのだろう。せいぜい、歴史ミステリでは時代考証の手間、あるいは楽しみがあるという違いだけで、すべては「古きよき時代のミステリ」だったに相違ない。読み手である我々も、同じ気分で本書を読むのが正しい態度であるようだ。その意味では、原著の発表から30年もたって、ようやく本書を読んだ日本人読者は、案外正しい選択をしたといえるのかもしれない。

 

[i] ジョン・ディクスン・カー『悪魔のひじの家』(白須清美訳、新樹社、1998年)。

[ii] 『雷鳴の中でも』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)。

[iii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、453頁。

[iv] 『悪魔のひじの家』、209頁。

J・D・カー『深夜の密使』

(本書の犯人やアイディアを明かしていますが、わかっていても、あまり差支えはないと思われます。)

 

 1962年に『ロンドン橋が落ちる』を発表した翌年、ディクスン・カー脳卒中の発作で倒れ、療養を余儀なくされた[i]。このことは当時の日本で紹介されたのかどうか、知らないが、多分、否だろう。1960年代に、カーの消息に興味を抱く日本の読者は多くなかったと思われる。

 いずれにせよ、この病は、戦後のカーの小説執筆に対する熱意の低下に、さらに駄目押しした格好に映る。二年間、新作長編の刊行はなく、短編集[ii]と旧作の改訂出版でお茶を濁すかたちになった。

 その旧作、すなわち1934年にロジャ・フェアベーン名義で出版された『デヴィル・キンズミア』を、1964年に改題したのが本書『深夜の密使』[iii]である。

 旧作の『デヴィル・キンズミア』は、カー名義の作品元と同じだが、ダグラス・グリーンによると、出版社が別名義での刊行を提案した[iv]、という。本名での小説の売り上げに悪影響が及ぶ、と判断したのだろうが、とんだお荷物扱いで不憫な話だ。グリーンもグリーンで、売れなかった事実を証明しようとするあまり、発売後二ヶ月の時点で「『デヴィル・キンズミア』の販売部数は・・・、わずか566部だった」[v]って。そんなはっきり書かなくても・・・。

 内容は、歴史ミステリ、というより、歴史ロマンスで、カーの歴史趣味が初めて一編の小説として形をなした記念すべき作品である。しかも時代は1670年、王政復古から十年後、そう、カーのヒーロー、チャールズ2世(1660年戴冠)治世である。

 1670年5月、サマセットシャ出身のロデリック・キンズミアというジェントルマン(郷紳)が、母親からの遺産を受け取るためにロンドンへと上京する。国王に伺候するために王宮に赴いたキンズミアは、途端にトラブルに巻き込まれ、ペンブルック・ハーカーという、例によって例のごとき悪党紳士に決闘を申し込まれ、同じくハーカーと決闘を約束していたバイゴンズ・エイブラハムという人物とともに、ハーカーの動静を探りに酒場に向かう。隣の部屋から二人が盗み見しているとも知らず、ハーカーは女優のドリー・ランディスという美女に重大な秘密をしゃべりちらす(何という粗忽な悪党だ)が、一方、キンズミアのほうは、ドリーを一目見た瞬間に恋に落ちる。・・・またですか・・・。まあ、いいでしょう。

 こうして事態は一気に国家規模の「大秘密(Most Secret)」へと発展し、キンズミアはエイブラハムとともに、チャールズ2世より、フランスのルイ14世王との間の秘密協定に関する極秘文書[vi]を託される。ドーヴァへと向かったキンズミアとエイブラハムは、それぞれが帆船に乗って、一路フランスのカレーを目指す、という、わずか二日間の冒険を描く歴史エンターテインメントである。

 とはいえ、カーらしく、ハーカーとドリーが密談する部屋に突入したキンズミアは、ハーカーと剣を交えて、これを倒す-というか、ハーカーが急所を打って悶絶する-が、縛り上げたハーカーを隣室に放置したまま、実はチャールズの命を受けた密使でもあるとわかったドリーを交えて三人で相談していると、その隙に、ハーカーはナイフを首に打ち込まれて殺されてしまう。つまり、一応、殺人事件の謎が出てくるのだが、これはあっけなく犯人が明らかとなる。むしろ、物語の興味は、キンズミアとエイブラハムが王から託された秘密文書を果たして無事にフランス王妃に届けることができるのか、という冒険小説さながらの主題にある。しかも、帆船の船長が敵に寝返っていたとわかって、キンズミアは絶体絶命の窮地に陥る。何しろ、海の上で、船員全員が敵に回ってしまうので、打開のしようがないと思われるが、その危機をどうやって脱するか。さらに、秘密文書に関しても、どんでん返しがあって、これらのプロットとアイディアは、あっと驚くほどのものではないが、歴史ロマンスとして読めば、定型通りとはいえ、十分楽しませてくれる。

 全体の印象としては、やはり1950年代の歴史ミステリと比べても、謎解きの要素は薄く、ちょうど、日本のミステリ作家が書く時代小説のような感じである。主役のロデリック・キンズミアは、いかにものカー的主人公で、信義を重んじる愛国的ヒーローだが、後年の歴史ミステリの主人公たちほど好戦的ではないし、やたらと尊大でもない。つまり、まだカー的主人公としては、それほど、あくが強くない。一瞬でドリーに一目ぼれするのは、大概にしてほしいが。

 ミステリ的趣向というわけではないが、物語の枠組みはかなり複雑で、一人称で書かれているのに、語り手はロデリック・キンズミアではない。その孫に当たるリチャード・キンズミア大佐が、1815年のワーテルローの戦いを目前に控えて、自宅の書斎で(全体で18章なので)十八日間にわたって語り続けた話を、同じキンズミア家の婦人が書き留めた、という体裁になっている。再びグリーンによると、こうした入れ子構造となったのは、『デヴィル・キンズミア』執筆の頃、カーは、17世紀のイギリス人のしゃべり方の正確な再現にまだ自信がなく、19世紀人の話し方に見えてしまうのを気にして、このような複雑な構成を採用した[vii]、という。

 しかし、『深夜の密使』を発表した1960年代ともなると、カーは「キンズミア大佐が登場させている人物たちの話し方は完全に十七世紀風」[viii]である、と、わざわざ序文に書いて、自分の小説の主人公達のように自信満々である。それなら、こんな煩瑣な構成はやめにして、ロデリック・キンズミアの一人称小説にしてしまえばよかったのに、とも思うが、書き直すのが面倒くさかったのだろうか。あるいは、語り手のキンズミア大佐が語る1815年という年が重要だったのか。チャールズ2世時代とナポレオン戦争期とは、カーが歴史ミステリに繰り返し選んだお気に入りの時代である。前者は、『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(1936年)、『ビロードの悪魔』(1951年)があり、後者では、『ニューゲイトの花嫁』(1950年)、『喉切り隊長』(1955年)が書かれている。この二つの時代を結び付けた本書の趣向を捨てる気にはなれなかったのだろう。

 本書は、ある意味、カーの語りの技芸がもっとも純粋に発揮された小説なのかもしれない。最初の章は、キンズミア家の人々の来歴と性格が、脱線を交えて詳細に描かれ、第二章では、ロデリック・キンズミアが見た17世紀のロンドンの様子が、カーらしく、学究的な精密な観察に基づいて描写されている。正直、読むのに難渋するので、この調子では読了するまで何日もかかりそうだ、とげんなりするが、本筋に入ると、筋立てがシンプルなだけにすいすいと読めるようになる。カー作品中でも、もっともストレートな娯楽読み物といってよさそうだ。

 それにしても、最後まで読むと、結局、本書の主役はロデリック・キンズミアではなく、チャールズ2世であったことが明らかとなる。どんだけ好きなんだ、と呆れてしまうが、本書と『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』、『ビロードの悪魔』は、いっそ、チャールズ2世三部作とでも呼ぶことにしようか。

 ところで、本書の234頁に、ルイ14世と並べて、唐突にプレスター・ジョンの名前が出てくる[ix]。カーは、ロビン・フッドには何度か言及しているが、プレスター・ジョンとは珍しい。実は、前作に当たる『ロンドン橋が落ちる』にも、この伝説上の君主の名が出てくる[x]。本書で、この名が引用されているのは、『デヴィル・キンズミア』に手を入れた際に、新しく書き加えたのだろうか。それとも、元から書かれていたのか。どうでもよいことだが、ちょっと気になる(『デヴィル・キンズミア』の翻訳は出ないでしょうねえ)。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、441頁。

[ii] The Man Who Explained Miracles (1963). 『カー短編全集3/パリから来た紳士』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1974年)にほぼ相当。ただし、日本版には、目玉の『パリから来た紳士』が含まれている。さすが、商売がうまいですな。

[iii] 『深夜の密使』(吉田誠一訳、創元推理文庫、1988年)。

[iv] グリーン前掲書、198頁。

[v] 同、199頁。

[vi] ドーヴァの秘密条約については、今井 宏編『世界歴史体系 イギリス史2 近世』(山川出版社、1990年)、245頁等を参照。

[vii] グリーン前掲書、199-200頁。

[viii] 『深夜の密使』、9頁。

[ix] 同、234頁。プレスター・ジョンに関しては、『ロンドン橋が落ちる』のほうにカッコ注がついています。

[x] 『ロンドン橋が落ちる』、214頁。

横溝正史『蝶々殺人事件』

(本書の犯人、トリック等に触れています。またG・K・チェスタトンの短編小説に言及しています。)

 

 『蝶々殺人事件』(1946-47年)は日本ミステリ史の里程標の一つに数えられるとともに、現在でもその質の高さから、パズル・ミステリの傑作に位置づけられている。

 本書と言えば、常に『本陣殺人事件』(1946年)との比較が話題となるが、密室テーマを核に、長めの中編小説といった外観の『本陣』に対し、『蝶々』は、枚数にも多少のゆとりがあり、ミステリの様々なエレメントが詰め込まれている。前者が、骨格だけのフランス風パズル・ミステリ(というのは偏見でしょうか)の風情であるのに対し、本書は、人物の動きも多く、イギリス風と言えるだろう。

 本書にはミステリのエレメントが多く含まれている、と述べたが、それらは次のようなものである。

 東京と大阪の間の鉄道アリバイ・トリック。

 楽譜を使った暗号。

 意外な死体の隠し場所としてのコントラバス・ケース。

 密室トリック。

 記述者=犯人アイディアのヴァリエーション。

 これらの要素が、文庫本で300頁足らずの小説中に盛り込まれているのだから、ミステリ密度は極めて高い。それでいて、筋だけを追ったせせこましさを感じさせないところが、老練作家の腕の冴えであろう。この時代の横溝作品に共通する特徴だが、本書の最も優れた点として、二十年来のヴェテラン作家が、清新なアイディアでパズル・ミステリに取り組んだという組み合わせの妙が挙げられる。つまり、パズル・ミステリとしても優れているが、小説としても完成されている。昭和20年の敗戦直後に横溝ミステリが出現した事実は、我が国ミステリ史における奇跡のひとつに数えられるだろう。

 メイン・トリックの鉄道アリバイは、批判的な意見[i]もあるが、手本にしたというF・W・クロフツの『樽』[ii]以上にトリッキーで、確かに善意の共犯者を使わなければならないなどの危うさはあるものの、この後の日本における鉄道ミステリの原型となった点においても秀逸といえる。

 楽譜を用いた暗号は、暗号自体の出来不出来よりも、これが犯人による偽の手がかりとして提示され、探偵の推理に取り入れられるところが巧妙である。

 密室トリックは、同時連載の『本陣』のトリックが、ねちねちと企んだ、鉄道模型でも組み立てるようなマニアックなものだったのに対し、横溝らしからぬ一発アイディアの豪快なトリックであるところが面白い。このようなクルクル密室をどこから思いついたのか、興味深いが、『本陣』とは別の意味で非現実的なところはG・K・チェスタトンを思わせる。そういえば、チェスタトンの「ムーン・クレサントの奇跡」[iii]に発想が似ているだろうか。

 チェスタトンといえば、本書の鉄道アリバイ・トリックで一番面白いところは、トランクとコントラバス・ケースを自在に動かす犯罪工作そのものよりも、トランクから発見された砂がもたらす錯誤にある。砂嚢で殴り殺されたかに見えた死体が実は、・・・という謎解きで、由利先生が語る言葉には、こちらもチェスタトン風の逆説の香りがする。

 

  「・・・死体の砂が先きではなく、トランクの砂が先ではなかったか。」[iv]

 

 さらにまた、犯人の殺人動機も、具体的かつ物質的な利害得失ではなく、芸術家同士の抽象的ないし観念的憎悪によるもので、高踏派ミステリというか、そのあたりも、何やらチェスタトン風といえなくもない。

 推理に、いわば心理的な探偵法が使用されているところも特徴のひとつで、被害者との関係から犯人の心理を読み解いて推論を進めていく経路はなかなか巧みである。心理的探偵法というと、江戸川乱歩がS・S・ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』(1926年)における野心的取り組み[v]として取り上げ、本書と同時期では、高木彬光の『刺青殺人事件』の特質のひとつに挙げている[vi]が、『蝶々』と比較すると、全体としては『刺青』に軍配が上がるものの、心理的探偵法に関しては、本書のほうが上のようだ。あるいは、本書のほうがまし?『刺青』の場合、松下捜査一課長のセリフではないが、「あなた(神津恭介-筆者)を将棋で負かしたという理由では、人間一人を殺人犯として送検はできません」[vii]

 それにしても、解決編を読みかえすと、由利麟太郎が順序だてて述べていく明晰な論証過程は見事である。『本陣』の金田一耕助が、いきなり密室のトリックを得意気に解き明かすのに対し、由利の推理は、疑わしいのは誰か、というところから始めて、実に理路整然としている。まるで大学教授の講義のようで、どうやら、金田一より由利のほうが頭が良いらしい。

 いずれにせよ、『蝶々殺人事件』は、クロフツやクリスティ[viii]ばかりではなく、作者が意識していなかったにしても、意外にチェスタトンを思わせるところもあり、横溝長編のなかで、もっとも英米ミステリに近い作品だった、といえる。これは要するに、当時の横溝のずば抜けた発想力のほかに、ミステリ・センス、すなわち、前人未到のトリックを産み出そうと目を血走らせるのではなく、いっちょう読者をからかってやろうか、ぐらいの稚気とゆとりがチェスタトンと共通していたということだろう。

 上述の様々なアイディアやトリックに加え、スタイリッシュな探偵と探偵法とが相まって、本書は、今なお横溝ミステリの一方の頂きとして屹立している。

 

[i] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、56-57、63頁。都筑は、「昨日の本格」、「今日の本格」という独特の表現で、『蝶々殺人事件』、『獄門島』、『犬神家の一族』、『悪魔の手毬唄』を分析仕分けしている。その着眼点はさすがに鋭い。

[ii] 横溝正史「『蝶々殺人事件』あとがき」(1947年)『新版横溝正史全集18 探偵小説昔話』(講談社、1975年)、49-54頁。

[iii] G・K・チェスタトン「ムーン・クレサントの奇跡」(1924年)『ブラウン神父の不信』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)114-54頁。

[iv] 『蝶々殺人事件』(角川文庫、1973年)、264頁。

[v] 江戸川乱歩「探偵小説論争(江戸川乱歩井上良夫)」(1943年)『書簡 対談 座談』(講談社文庫、1989年)、131-32頁。

[vi] 江戸川乱歩「『刺青殺人事件』序」高木彬光『初稿・刺青殺人事件』(扶桑社文庫、2002年)、487-88頁。

[vii] 高木彬光『刺青殺人事件』(光文社、2005年)、387頁。

[viii] 横溝正史小林信彦横溝正史の秘密」小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、49-50頁。

横溝正史「神楽太夫」

(本作のトリックに言及しています。)

 

 「神楽太夫」は、横溝正史の戦後第一作として知られる。『週刊河北』からの依頼で、最初「探偵小説」を書き始めたが、枚数が超過したため、代わりに本作を書いて送った、という[i]。以上の逸話は、何度も繰り返し紹介されて、ファンならお馴染みだろう。

 舞台は岡山で、この後の金田一耕助を主役とする「岡山もの」のパイロット・フィルム的作品という言い方もできる。

 また、作者自身が作中に登場するメタ・ミステリ的趣向の短編でもある。「黒猫亭事件」や後年の『白と黒』などもそうだが、戦後の横溝は、閉所恐怖症のため極端に外出を控えるようになるが、その分、作品中にやたらと登場するようになった。外出できない鬱憤を晴らしていたのだろうか。

 話がそれたが、本作は戦後の中短編小説の五指に入る傑作で、ミステリが書ける、ミステリを書くぞ、という清新な気概と、それとは対照的な円熟した語り口がこの時期の横溝作品らしい。他の四作はといえば、「探偵小説」、「黒猫亭事件」、「百日紅の下にて」、・・・もうひとつは適当に選んでください。

 メイン・テーマとなるのは「顔のない死体」で、物語は、茸狩りに出かけた作者が、切り立った断崖に臨む台地で、謎の語り手と遭遇し、彼から、かつてその場所で発見された死体とそれをめぐる殺人事件について聞かされる、というもの。短編だけに、二人の対話で終始するシンプルな構成となっている。江戸川乱歩などが好んだスタイルである。トリックのほうは、顔をつぶされた死体が発見され、犯人らしき容疑者は失踪、と定型通りの展開だが、このテーマの常套的解決である、犯人と被害者が入れ替わっていたという結末ではなく、実は二人とも殺害されていて、犯人は別にいた、という捻りを加えているところが工夫である。短編小説なので、細かい事件の検討などは端折って、ある意味、肩透かし的な解決であるトリックをオチのように用いている。さらに最後にもうひと捻り、語り手の正体が明かされる締めまで、軽妙さが際立つ。

 本作での「顔のない死体」のヴァリエーションは、恐らく、思いつき程度のものだったのだろうが、書いてみて、短編では惜しい、と思い直したのだろう。この後、長編小説のメイン・トリックとして再使用している[ii]。確かに、欧米の著名作には作例が見当たらない創意のある解決法だった。同じ「顔のない死体」を扱った「黒猫亭事件」などとともに、オリジナリティのあるトリックといえるだろう。

 しかし、本作の評価を高めているのは、パズル・ミステリとしての側面よりも、作者自身が認めているとおり[iii]、神楽という伝統芸能を通じて、戦後の農村社会の一面を浮かび上がらせた点にある。ラストは皮肉でほろ苦いが、全体としては、何ら深刻さを感じさせない軽やかな筆致が、いっそう郷愁を深めている。間然するところのない名品である。

 

[i] 横溝正史日下三蔵編)『横溝正史ミステリ短編コレクション3 刺青された男』(柏書房、2018年)、編者解説、441-42頁。

[ii] 『夜歩く』(1948-49年)。

[iii] 『刺青された男』、442頁。