J・D・カー『雷鳴の中でも』

(本書および『ハイチムニー荘の醜聞』の内容に触れています。)

 

 ディクスン・カーの小説技法というか、悪癖というか、演出のひとつに、緊迫感を高めるために天候を利用する、というのがある。事態が急転したり、登場人物のひとりが「明日までに、私たちのうちの誰かが殺されるでしょう」、などと口走ったりしようものなら、突然、雷が轟いて嵐に見舞われる、という例のやつである。このマンネリズムは、我が国のカー評論でも散々馬鹿にされてきた[i]のだが、カー存命中にも言われ続けていて、ついに開き直ったのか、それとも、「ふん、私は気にしてないもんね」というポーズなのか、ついにタイトルにまで雷が出て来たのが本書である[ii]

 かつて人気映画女優だったイヴ・イーデンが婚約者とともに、アドルフ・ヒトラー(!)の山荘に招かれたとき、絶壁を見下ろすバルコニーから、婚約者が墜落死するという「事故」が起きる。それから二十年ほどたった1958年、元映画俳優のデズモンド・フェリアと結婚していたイヴは、巷間密かに囁かれていた、イヴが婚約者を突き落とした、という噂を打ち消すために、当時、同じく山荘に招かれていた画家でもあるジェラルド・ハサウェイ卿とジャーナリストのポーラ・キャトフォードをジュネーヴの自宅に招待する。

 同じく、フェリア家に招待された富豪令嬢のオードリー・ペイジは、デズモンドの先妻の子フィリップに求愛されているが、彼女には、ジェラルド卿の友人である画家のブライアン・イネス(例によって、アイルランド出身で46歳の頑固者、主人公)も密かに思いを寄せている。イネスは、オードリーの父親が、何かと悪い噂のあるイヴの屋敷に娘が招かれて心配しているのをよいことに、オードリーを説得してイギリスに連れ戻そうとする。

 ところが、説得に応じたはずのオードリーが、結局、フェリア邸に出かけて行った、と知ったイネスは、翌朝、急いで同家に向かう。イヴの書斎で、オードリーと彼女が口論しているのを耳にしたイネスが書斎に面したバルコニーに駆けつけると、イヴがふらふらと手摺に寄りかかり、そのまま真下の樹海の中に転落してしまう。呆然とするイネスとオードリー。彼女に殺人の疑いがかけられるのを阻止しようとして、やはり同家に招かれていたフェル博士や探偵マニアのジェラルド卿、そしてジュネーヴ警察を向こうに回し、イネスが策を練る、というお話。

 どうやら、フィリップだけではなく、父親のデズモンドまでがオードリーに懸想していて、オードリーが誘惑したからだと誤解したイヴが彼女を詰ったらしい、と判明するが、彼女が墜落したとき、周囲には誰もおらず、突き落とされた可能性はない。果たして、イヴの死は事故なのか、自殺なのか、それとも殺人か、という不可能状況における墜落死がテーマである。

 墜落死テーマというと、トリックではないが『髑髏城』(1931年)、それから、密室トリックと組み合わせた『連続殺人事件』(1941年)が連想されるが、後者に近いと言えば近いだろうか。結局、墜落したのは偶然で、死因はニトロベンゼンという薬品、気化したガスを吸って死亡したことがわかる。そこで今度は、どのようにしてガスを吸わせたのか、という毒殺トリック・テーマに転化する。その方法は、まあ、二階堂黎人は褒めている[iii]が、なあんだ、という類のもので、短編ネタ程度の出来である。

 それに対して、犯人の隠し方は、なかなかうまくいっている。といっても、カー作品では、まさにマンネリズムそのものの犯人なので、こう言えば、誰しも見当がつく、つまりフィリップ・フェリアである。大抵のカー愛読者は、登場人物がひととおり紹介された瞬間に、こいつが犯人だ、と直感するだろう(やはり、言い過ぎ?)。が、動機がわからない。いや、真相が明らかになると、やっぱり、という、カー作品では、毎度お馴染みの下司な野郎だったことが判明するが、動機の隠蔽というところに本作の読みどころがあるようだ。

 一番大きな作者の仕掛けは、殺人直前のイヴとオードリーの会話で、ちょうど前作の『ハイチムニー荘の醜聞』[iv]がそうであったように、登場人物の間の会話が嚙み合わない。二人がそれぞれ別の人物のことをしゃぺっている[v]ので、読者も惑わされる、というもので、まるで、すれ違いコントのような引っ掛けである(ア〇〇〇〇シュか!)。要するに、動機となるのは義理の母と息子の不倫で、セクシュアルな面が強調されるようになった戦後のカー作品の特徴が現れている。それを、前作に続き、登場人物の会話を通じて作者が仕掛ける錯覚トリックで隠蔽した作品である。

 本書は、ディクスン・カーの作家生活三十周年を記念して巻末を封印して発売された[vi]、という。しかも、フェル博士シリーズの20作目の長編ミステリである。それだけ、カーも、出版社も、犯人の意外性に自信があったらしい。村崎敏郎による旧訳は、本国での出版直後の刊行で、カーの最新作が英米とほぼ同時に読める、という、現代のカーのファンなら狂喜しそうな早さだった。村崎の解説は、巻末封印のことから、上記の叙述トリック、近年のカー作品の変貌の傾向まで、漏れなく論じており、至れり尽くせりといえる。ただ、ジュネーヴ[vii]といえば、ジャン・カルヴァン宗教改革だが、小説中で、カルビン、カルビンと訳されているのは違和感があった。-と思ったら、村崎の解説を読むと、「我が国の通称」[viii]と書いてある。へえ~、そうだったの。でも、新訳では、カルヴァンにしたほうが良かったんじゃないの(英語表記だと言われれば、それまでだが)。

 それと、本書でも、例によって、(何度同じことを言わせるのか)主人公イネスとオードリーの痴話喧嘩が小説を進める動力となっているのだが、彼が最初からフィリップ・フェリアに対して喧嘩腰なのは、どうにかならんものか。読了すれば、犯人とわかって、しかもオードリーの財産目当ての最低男と判明するのだが、そうはいっても、イネスの態度は四十過ぎた、いい大人のものではない。まして、相手は二十歳以上年下の若造だ。さらに、オードリーのほうも、何度も何度もイネスに念を押されたにもかかわらず、男の気を引く手管かなんか知らないが、約束を破って勝手な行動を繰り返す。惚れた弱みとはいえ、よくイネスも我慢して、オードリーをバルコニーから突き落としたりしないものだと感心する。フェル博士もフェル博士で、相変わらず、いいところで話をやめてしまい、「いや、それはまだ言えない」などと、能書きを垂れ流す。本書では、ジェラルド・ハサウェイ卿がフェル博士の敵役で、傍若無人で図々しい貴族。得意気に真相の一部を明かすが、最後はフェル博士にやり込められて、道化を演じる。しかし、他の連中を見渡すと、一番裏表がなくて好感がもてるのは彼じゃないかと思えてくる。

 

[i] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、239頁、芦辺 拓/有栖川有栖/小森健太郎二階堂黎人編緒『本格ミステリーを語ろう![海外編]』(原書房、1999年)、215頁、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、429頁も参照。グリーンは、結構褒めている。

[ii]マクベス』からの引用らしいので、シェイクスピアだぞ、恐れ入ったか、という怒りの反論なのかもしれない。『雷鳴の中でも』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、219頁、『雷鳴の中でも』(永来重明訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、281頁。

[iii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、388頁。

[iv] 『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、73-77頁。

[v] 『雷鳴の中でも』(永来重明訳)、134頁。

[vi] グリーン前掲書、429頁。

[vii] これまた、カーが休暇で訪れた体験に基づく舞台設定だったそうだ。同、429頁。

[viii] 『雷鳴の中でも』(村崎敏郎訳)、286頁。