江戸川乱歩「二銭銅貨」と「一枚の切符」

(「二銭銅貨」、「一枚の切符」の結末のほか、「赤い部屋」、「陰獣」の結末についても触れていますので、ご注意ください。)

 

 我が国の最初の探偵小説として挙げられることも多い「二銭銅貨」だが、無論、本作が日本初の創作探偵小説と言うわけではない。作者の江戸川乱歩自身が書いているように、「二銭銅貨」以前に、八重野潮路(西田政治、1920年)、横溝正史1921年)、角田喜久雄(1922年)、水谷準(同)が『新青年』誌に短編を発表している[i]。乱歩の登場は、角田・水谷作の翌年の1923年(大正12年)のことである[ii]

 しかし、乱歩以前の四人は、いずれも懸賞当選作が載ったもので、「二銭銅貨」のように、投稿原稿を編集部が認めて、大々的に掲載するというようなものではなかった。わたしが読んでいるのは横溝の「恐ろしき四月馬鹿」だけだが、「二銭銅貨」とは、明らかな差がある。そもそも作者名を見なければ、横溝正史とは気づかないだろう。文章は生硬で、いかにものアマチュアっぽい作品で、それに比べると、というのも失礼なくらい、「二銭銅貨」は完成度が高い。すでに、あの乱歩の文体が確立しており、それは当然「屋根裏の散歩者」や「人間椅子」のような味はまだないが、小説としても十分以上の出来ばえである。

 横溝のために弁明しておくと、探偵小説でデビューしたのが19歳のときで、一方、乱歩は既に29歳であった。デビュー時点で十歳(年齢は八歳差)の違いがあるのだから、小説の出来に差があるのは当然だが、探偵小説としても、「二銭銅貨」は非常によく練れている。語り手の「わたし」と同居する友人との平凡な生活描写から初めて、たまたま手に入れた二銭銅貨の秘密から思いがけない盗難事件との繋がりが推理され、最後の落ちまで軽妙に綴られた文章は間然するところがない。同作が『新青年』に掲載されるや話題沸騰、我が国における探偵小説興隆の旗印となったのも当然である。

 しかし、乱歩が『新青年』の刊行に刺激され、筆を執ったのは「二銭銅貨」だけではなく、もう一編あって、それが「一枚の切符」である。「二銭銅貨」から三か月遅れて、1923年の『新青年』7月号に掲載されたが、乱歩の回想によると、どちらの作も、執筆の数年以前に案はできていたという[iii]。戦後の回想では、乱歩自身、これら二作の間に差はなく、むしろ謎解きとしては「一枚の切符」のほうが上だと考えていたようだ。しかし、「やはり「二銭銅貨」の方がいろいろな意味で面白い」とも書いていて、その面白さとは「身辺小説的」面白さということだった[iv]

 確かに、「二銭銅貨」冒頭に描かれる二人の若者の暮らしぶりや会話などは、乱歩自身の体験に基づくのだろうが、いかにも大正末期から昭和初期にかけての都会の青年の日常がリアルに描かれていて、それだけでも興味をひく。

 一方の「一枚の切符」のほうは、乱歩のいうとおり、殺人を扱っているので、事件そのものは派手で、「一枚の切符」を手がかりに組み立てられる推理は、現在の眼から見れば平凡だが、機知に富んで、乱歩の理屈好きの一面がよく表われている。ただ、作中の事件以外の部分の面白さが希薄で、松村と左右田という登場人物ふたりの会話と投書文のみで語られるせいか、人物像がまるで浮かんでこない。その分推理が中心で、欧米のミステリに近い雰囲気があるともいえ、そこは個性かも知れないのだが、「二銭銅貨」に比べて、印象の薄さは否定できないようだ。

 実は、個人的には、乱歩の回想のように「一枚の切符」のほうを面白いと思っていて、その理由は、「二銭銅貨」のような「暗号小説」があまり好みでないということもあるが、それこそ「身辺小説」より、名探偵の謎解きのほうに惹かれるからである。「一枚の切符」に登場する左右田は、もじゃもじゃ頭をかき回す仕草が、すでにして明智小五郎を彷彿とさせて、いろいろ想像したくなる。最後、名推理で時の人となった左右田が、含みのある言葉で松村を煙に巻くあたりも初期の明智のキャラクターに合致しており、案外、明智小五郎のイメージは、自覚していなかったにせよ、乱歩の頭の中で、すでに出来上がっていたのかもしれない。明智のモデルが、講談の五代目神田伯龍であることは、乱歩自身の発言からも明らかだが[v]、要するに、乱歩が好む名探偵のイメージに、伯龍がぴったり重なったということだろう。「あのいささか気障な味が、私には何とも好もしい」[vi]とも書いていて、明智もまた、最初から、どことなく気障で底が知れない気味悪さを備えているのは、そもそも乱歩がそういう主人公が好きだったからに相違ない。本作の左右田を見ると、それが確信できる。

 

 以上は、両短篇の対照的な側面だが、これら二作には、無論、共通の要素もある。結末の落ちのつけ方がそれである。乱歩作品に特徴的な終わらせ方として二つのタイプがあって、乱歩自身が自己分析し弁明しているとおり、「みんな嘘でした」と「真相は藪の中」の二通りである。前者の代表例が「赤い部屋」(1925年)、後者が「陰獣」(1928年)だろう。

 乱歩の弁明というのは、こうした結末には批判も多かったので、それらに対するものなのだが、要するに現実的な作風なのに、話が空想的過ぎる。そのアンバランスを解消するために、最後で全部嘘だったとしたり、曖昧に濁したりするのだ、というのである[vii]

 「二銭銅貨」と「一枚の切符」を、上記の自己解析に照らして見直すと、すでにして、この二通りの結末に対応していることがわかる。「二銭銅貨」は、「みんな嘘でーす」であるし、「一枚の切符」は、「本当は違うかもよ」である。つまり、最初から乱歩の小説の構造は、白けた現実と奔放な空想をいかに擦り合わせるかという観点から考えられていて、それは処女作からして、すでにそうなのである。乱歩の考えつく物語とは、すべてこうした視点から考えられていたともいえる。別の機会に、このような小説の締めくくり方というのは、現実世界に懐疑的で、夢想世界に生きた(かった)乱歩の人生観(というより世界観)を反映しているのではないか、と、適当な思い付きを並べたが、本当にそんな気がしてきた。

 

 しかし、これら二作には、結末の付け方から生じたと思われる対照的な特徴もあるので、それについて考えてみよう。上記で書いたことを敷衍すると、これら二編の対照的性格には、どうやら乱歩の計算が働いていたらしい。

 「二銭銅貨」は、身近な、乱歩自身の体験を綴ったかのような身辺雑記で始まり、それが二銭銅貨を介して紳士強盗による大金盗難事件と結びつく。確かに、非常に空想的な展開で現実離れしている。盗まれた金の発見で終わっていたら、それこそご都合主義を非難されていただろう。それを再度現実に引き戻すのが最後のどんでん返しであって、乱歩のいうように、非現実に傾いた作品世界を、もう一度現実世界に引き戻す役割を果たしている。冒頭で描かれた日常が取り戻されるといってもよい。すなわち、作品の首尾一貫性を考えるならば、やはり「みな嘘でした」という結末が必要なのである。

 一方、「一枚の切符」では、もともと非日常的な左右田と松村の対話が、最後の左右田の一言で、さらに現実味を失う。無名の一青年の推理が、警察も翻弄された難事件を解決するという、これも現実離れした物語が、それでも事件そのものの現実味によって、かろうじて現実との接点を保っていたのに、名探偵の意味ありげな最後の一言で、もう一度、非現実へと舵を切る。「真相は藪の中」という結末が、むしろ「二銭銅貨」とは真逆の効果をもたらしているところに「一枚の切符」の特徴がある。そういう意味で、本作の青年ふたりの存在がまるで記号のようで人物像が不明瞭なのも、作品全体の非日常性からして当然なのだろう。

 以上の比較から言えることは、「みんな嘘」という結末は、それまでのすべてをひっくり返すわけだが、物語として完結はしている。あとに疑問を残さない完璧な終わり方である。一方、「真相は藪の中」の場合は、完結していない。すべてが曖昧に宙づりのまま、終わりが確定せずに物語は打ち切られる。まるで中絶した小説のように(そうか、乱歩が中絶するのが好き(?)なのは、それも乱歩流の締めくくり方だからなのか!-いや、そんなはずないだろ)。すなわち、どちらの結末も、ストーリーが空想的であることに対する帳尻合わせであるというのが乱歩の言い分だが、その効果は異なる。日常に戻るのか、さらに混沌とした非日常に落ちていくのか。どの作品に、どちらの結末がふさわしいのか、すでにデビューの時点から、乱歩は、常に考えを巡らせていたといえそうである。

 

 ところで、「一枚の切符」に出てくる松村は、「二銭銅貨」に登場する「わたし」の同居人の姓でもある。松村という存在を介して両作は繋がっているので、文字通りの姉妹編ともいえる(初出から、そうだったのかまではわからない。乱歩は、しょっちゅう改稿するので)。対照的なようで似通っていて、やっぱり対照的なのが、「二銭銅貨」と「一枚の切符」ということのようだ。

 これら二編は、従って、並べて読まなければならない。乱歩の短編集というと、「二銭銅貨」ばかりが取り上げられて、「一枚の切符」のほうは外されることが多い。創元推理文庫の『江戸川乱歩集』[viii]などもそうである。しかし、これではいけない。「二銭銅貨」と「一枚の切符」は、続けて読むべきで、もちろん単独ではつまらないからというわけではない。そうではなく、並べることで、これら対照的な二作品を双生児のように描いた乱歩の狙いも伝わり、面白さは二倍、いや四倍となる(かもしれない)。乱歩作品を今後刊行予定の出版社には、以上のことを強く訴えたい(全集は別である)。

 

[i] 古くは、黒岩涙香の「無惨」(1889年)などがある。

[ii] 江戸川乱歩『探偵小説四十年』(上巻、光文社、2006年)、75頁。

[iii] 同、49頁。「一枚の切符」の旧題は「石塊の秘密」だったようだ。

[iv] 『謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久・山前 譲編、「江戸川乱歩コレクション・Ⅵ」、河出文庫、1995年)、300-301頁。

[v] 同、「探偵小説十年」(1932年)、81頁。

[vi] 同、82頁。

[vii] 江戸川乱歩「楽屋噺」『謎と魔法の物語』、43-44,60頁。

[viii] 『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫1984年)。