江戸川乱歩『闇に蠢く』

(本書の内容、結末を明かしています。)

 

 江戸川乱歩の初の連載長篇が本書『闇に蠢く』である。

 雑誌『苦楽』に1926年1月から11月にかけて連載されたのだが、前年に「人間椅子」が掲載されて大評判となり、それを受けて、新たに長編依頼があったらしい[i]。ところが、本作は完結したわけではなく、途中行き詰って、というより、最初から行き詰って(?!)、休載を重ねた末に中絶してしまった[ii]。こんなことをいまだに蒸し返されては、天国の乱歩も苦虫をかみつぶしていることだろうが、彼の「長篇は駄目よ」状態は、実に処女長編小説のときから始まっていたことになる。

 長編が苦手で、短編が得意という作家はいるようで、O・ヘンリーなどは別格としても、サキのように、もっぱらショート・ショート風の短編で名を残した作家もいる。得手不得手というものは、あるようだ。

 もっとも乱歩に長編の代表作がないかと言えば、そんなことはなく、少なくとも発表当時、爆発的な人気を博した作品は数多い。むしろ、長編の評判によってこそ、乱歩の名声は揺るぎないものとなったといえる。国民作家へと昇り詰める決定打となったのも、乱歩があれほど嫌っていた長編群であった。『闇に蠢く』も、別に不評というわけではなかったらしい。それなのに、執筆がつらくて休載を続け、出版社の追及を逃れて温泉地から温泉地へと逃げ回ったという逸話を読むと[iii]、面白いというか、同情するというか、作家も大変である。

 しかし、あれだけ終始一貫、作家生活の最初から最後まで、長編は苦手だ、嫌だと言い続けた作家もまれだろうが、それでいて、長編ミステリを三十前後も書いている。注文があったからと言われれば、それまでだが、本当のところ、乱歩は長編が苦手とは思っていなかったのではなかろうか。なかなか思うように書けなかったのは確かなのだろうし、評論家から芳しい評価を得られず、自信をもてなかったというのも本当なのだろう。だが、実際は、何だかんだいって、書くのが楽しくもあったのではないか。確かに最初の数年間は、上手く書けないことに嫌気がさして、上記のように逃げ回ったかもしれないが、その後は、嫌よ嫌よと言いながら、結構量産している。執筆には苦労しても、注文があれば、想を練る。あれこれストーリーを考えるのが、楽しかったのでは?苦手といいつつも、長編ミステリの構想を数十も立てたのである。本当に苦手なら、そもそもそんなことはできなかったろう。

 従って、最初の長編小説である本書の場合も、大いに意欲をもって取り組んだことと思われる。なかなか、これというアイディアが結晶化しない、しなくとも書き始めなければならないというのが、乱歩にとって苦痛だったらしいが、その割には、意外に上手くまとめてしまう。読み返せば、いろいろ突っ込みどころはあるにしても、読んでいる間は、さほど気にせずに読み進められるのは、それはそれで、たいした才能である。

 本書の場合、構想段階から、はっきりした筋のない幻想的な味わいの作、ということで考えていったようだ[iv]。その後の回想では「何かエロティックなオドロオドロしきもの」[v]を書こうとしたとも語っている。「火星の運河」のようなイメージだったのだろうか。さすがに、あの掌編を長編にするのは無理そうだが、もし、それが実現していたら、どんな作品が生まれていたのだろう。それもまた興味がわくが、もはや想像するべくもない。

 現に存在する『闇に蠢く』に戻ろう。

 冒頭、船の二等船室で雑魚寝をしていた「わたし」が、下船した客が残していった包みのなかから原稿を見つける。それが『闇に蠢く』と題した小説で、つまり作中作というメタ・ミステリ的趣向の小説なのだが、これには別にトリックはなく、そこを当てにして読むと失望する。「わたし」(乱歩?)は二度と登場せず、『闇に蠢く』は最後まで作中作として完結して終わる。現代ミステリなら、絶対に、なにかひっくり返しがあるはずだが、どうやら雰囲気作りが目的で、それ以上の狙いはなかったようだ。それとも、当初は、どんでん返しを考えていたのだろうか。例えば、「全部嘘」というのは、乱歩の得意とする締めくくり方だが、最初から作中作だと明かしていては、駄目か。他にアイディアがあったのだろうか。連載時に完結していれば、現行版とは異なる結末が見られたのかもしれない。

 断るまでもないことだが、本作は中絶したものの、翌年の平凡社発行の大衆文学全集のうち、江戸川乱歩編に収録した際、作者が結末をつけて完成させている[vi]。従って、最初の構想とは違った結末になった可能性もあるわけである。いや、それとも、最初からラストをどうするかなど考えていなかったのか(笑)。しかし、だとすれば、果たして、中絶したのは乱歩の小説なのか、それとも作者不詳の『闇に蠢く』のほうなのだろうか。そんなことを考えてみるのも面白いが、話がちっとも進まないな。

 いずれにせよ、ちゃんと加筆のうえ完成させたのだから、本作のことを、案外気に入っていなくもなかったことが察せられる。少なくとも、気にはなっていたのだろう。

 さて、匿名の著者による『闇に蠢く』は、野崎三郎という洋画家の紹介から始まる。洋画家といっても絵を描いたことはなく(ええっ!・・・シャレではありません)、親が残してくれた財産があって食うに困らない。モデルとふざけることが目的で絵描きをしている(人間のクズです)。

 それでも、人の肉体の各パーツが全体として美を表現する、その人体の神秘に特別の興味を抱くという乱歩的変態、いや芸術家である。その彼が見つけた理想的なモデルがお蝶という女で、しかし、彼女は何か秘密を抱えているらしい。彼女のたっての願いで、野崎は家を引き払い、人里離れた山奥のホテルに逗留することになる。ところが、ホテルの主人が、これまた、滞在客を自らマッサージして興奮する変態で、さらに進藤という、いかがわしい無頼者のごとき男が客のなかにいて、どうやら、お蝶との間に何がしかの因縁を抱えているようなのだ。そして、ある日、お蝶が姿を消して行方知れずとなり、動転した野崎はあたり一帯を探し回るが、女は見つからない。最後に姿の見られたホテル近くの沼の汀には彼女の履いていた草履だけが残されていた。

 ここで物語は一転して、野崎の知り合いで、やはり画家の植村喜八が登場する。彼は、ある夜、男につきまとわれていた女を助けるが、それがお蝶で、男は進藤だった。この奇妙な偶然(?)の邂逅から、二人の秘密を探り始めた植村がホテルに現れ、野崎とともにお蝶の行方を探索することになる。お蝶が消えた沼の近くで怪しい人影を発見した野崎と植村は、あとをつけて森の中の洞窟にたどり着く。怪人物を追って洞窟に入り込んだ二人だったが、入り口の岩が崩されて洞窟内に閉じ込められてしまう。ここまでで、全体の半分程度で、このあと、文庫版で50頁ほどは、地下洞窟内に閉じ込められた野崎と植村、それに、洞窟の天井に開けられた穴(実は、頭上がホテルの地下室だったのだ)から突き落とされた進藤の三人が、暗闇のなかをさ迷い、争い合うさまが描かれる。まさに「闇に蠢く」で、最初から、この場面を想定していたのだとすれば、少なくとも題名に嘘偽りはなかったことになる。まさかそれも考えずに書き始めたなんてことはないだろうが、もしそうであるとすれば、それはそれで、天才的ストーリーテラーの妙技と言わねばならない(皮肉ではない)。

 前半部分をふりかえると、乱歩らしさは、そこここに見えるものの、短編のような緊密さがなく、全体に間延びした印象は免れない。後半、作者自身が「少しも考えていなかった」のに「どぎついものを入れることになった」[vii]という人肉嗜好の話は、そうした筆が乗らない苦境を打開するための劇薬だったのだろうが、編集者も、よくこんな筋書きを許したなと思う。しかし、暗闇のなかで進藤が語る、難破船の生き残りの間で起きた人食いの逸話が、今現在における、進藤、植村、野崎の間の殺し合いと人肉食いの顛末に重なっていく終盤の展開は、やはり異彩を放っている。過去と現在がカニバリズムで結びつく異常なプロットは、苦し紛れに捻りだしたにしては、うまく物語として収斂しており、グロテスクなだけではない小説技巧をうかがわせる。

 単行本のために書き足したというラスト30枚ほどは、ただひとり生き残った野崎が、かつて進藤とともに人肉を食らい、海難事故から生還したホテルの主人と相対するのだが、このクライマックスを読むと、(漠然としたイメージに過ぎなかったとしても)乱歩が書きたかったのはこれだったのだろう、と妙に納得する。最後に来る凄惨なカタストロフィは、確かに胸が悪くなるし、趣味がよくないが、ゾンビ映画スプラッター・ムーヴィに慣れた現代の読者なら面白がりそうだ。それとも、この程度の描写では、刺激が少ないだろうか。

 だが、再度強調するなら、野﨑とホテルの主人の二人が、お蝶の遺体を挟んで対峙するシーン[viii]は、いかにもの乱歩らしい対決を描いて、諧謔と残虐が入り混じった異様な凄味を感じさせる。本書の魅力は、やはり、このラスト数ページの乱歩的語りにあるといえるだろう。

 

[i] 『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、183頁。

[ii] 同、183-84頁。

[iii] 同、197頁。

[iv] 「探偵小説十年」『謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久・山前 譲編『江戸川乱歩コレクションⅥ』、河出書房新社、1995年)、91頁。

[v] 『探偵小説四十年(上)』、184頁。

[vi] 同、197、298頁。

[vii] 同、196頁。

[viii] 『暗黒星・闇に蠢く』(『江戸川乱歩長編全集16』、春陽堂、1972年)、302-303頁。