J・D・カー『亡霊たちの真昼』

(本書の犯人、トリックのほかに、『墓場貸します』およびエラリイ・クイーン『十日間の不思議』のトリックに触れています。)

 

 「ニュー・オーリンズ三部作」の第二作である本書[i]は、翻訳されたのも二番目だったが、なんと、最終作の『死の館の謎』(1971年)[ii]の次だった。どういうこと?『死の館の謎』は、出版から四年で翻訳されるという、ある意味、快挙だったが、本書は1983年。原書から14年たっていた。しかし、第一作の『ヴードゥーの悪魔』(1968年)[iii]が38年かかっていることを思えば、全然ましである。

 結局、第三作、第二作、第一作の順に訳されて、三冊が完訳されるまで三十年を費やしたとあっては、三部作も何もあったものではない。もっとも、どれも独立した作品なので、順番に読まなければならないということもない(なら、文句を言うな?)。ニュー・オーリンズの歴史に興味のある日本人も、恐らく全国で十人といないだろう。

 そうはいっても、本書には前作に登場した重要人物二人-トム・クレイトンとマーゴ・ド・サンセール-の半世紀後の消息が語られ、前者は作中にも登場する[iv]。連作ならではの趣向で、作者としても、読者サーヴィスのつもりで登場させたのだろうが、台無しでしたね。

 題名は怪奇ムードいっぱいで、前作同様の歴史怪奇ミステリかと思わせるが、いろいろ不可思議な事件は起こるものの、アメリカ南部の明るい雰囲気のなかで、割と動きの多い冒険活劇風である。

 しかし、ミステリの謎となるのは、この期に及んでもなお不可能犯罪で、ただし、自動車が登場し謎の中心となるのが、こちらも本書ならではの趣向である。つまり、前作では馬車からの人間消失だったのに対し、五十年後の本作では、納屋のような建物に突っ込んだ自動車の運転手が頭を撃ちぬかれて死んでいる。自殺とも見えるが、銃は見つからず、他に誰も同乗者はいなかったことがわかる。かつての『絞首台の謎』のようなシチュエイションだが、あれよりむしろトリックは上出来かもしれない。しかし、あまり期待すると失望する(どっちだ!)。こういっては何だが、エドワード・D・ホックの短編に出てきそうなトリックで、手堅くまとまっているが、長編ミステリとして見ると、やっぱりあっけない。あっけないが、まあ、この時期のカー作品としてはまずまずか(どっちなんだ!)。

 時代背景は、『ヴードゥーの悪魔』が1858年で、本書が1912年。上記のとおり、不可能犯罪の小道具(大道具?)が、馬車から車に変わっているのも、歴史ミステリの連作らしく、続けて読めば、時代の移り変わりが味わえるということだろう。もう一つの対比は、前作が南北戦争の直前で、本作が第一次世界大戦の直前ということで、本格ミステリの黄金時代が第二次世界大戦前(ないしは大戦間時代)であることを思うと、ちょっと意味深ではある。もっとも、アメリカの第一次大戦への参戦は1917年なので、カーも、とくに意識してこの時代を選んだのではないのかもしれない。

 本書の犯人は、けっこう意外だが、何だか騙されたような気もする。というのも、上記の不可能トリック、誰が怪しいのかは明白で、要するに、被害者のジャーナリスト、レオ・シュプリーを敬愛しているはずのピーター・レアードという若者と従者のラウールである。二人は、レオの車を追跡して、続けて建物に飛び込み、遺体を発見する。その直後に、主人公のジム・ブレイクとヒロインのジル・マシュウズが到着し、二人に合流する。ここからしても、トリックが可能なのはピーターたちだけで、またこれが、カー作品では見飽きた、小生意気で頭の悪そうなしゃべり方をする青年なのだ。どう見ても、こいつが犯人でラウールを共犯に使っている、と思われるのだが、でも違うのである。犯人は、従兄に当たるアレック・レアードで、当地の新聞社の社主。こちらも、カー作品に頻出する、少々、いや大変頭のおかしいサイコ的人物とわかるのだが、なんでこっちが犯人なの?実際、トリックを実行するのはピーターなのだから、そのままこいつがクロでいいじゃん、と読者は思うのだが、ピーターがアレックに命じられて、トリックを実行する動機も、わけがわからないし。アレックを犯人にする必然性は、彼が作半ばで主人公に仕掛けるトリック[v]ぐらいしかなさそうなのだが、なんで?・・・と、しつこく詰め寄りたい。

 もう一つ気になるのが、不可能犯罪の場面で、レオらしき人物が運転する自動車をジムとジル-なんだか、童話のタイトルみたいだ-が目撃する。そのシーン、「レオは憑かれたように前方を凝視していた」[vi]、と書かれている。さらに続けて、後を追う(ラウールらが乗る)キャデラックは、「レオにも劣らぬ勢いで激しく追い迫った」、「レオはスピードを落とさなかった」[vii]、などとも描写されている。何が問題かというと、実際には車を運転しているのはレオではないのだ。運転しているのはピーターで、追跡するキャデラックにラウールとともに同乗しているかに見えたのが、レオの死体だった、というのがトリックなのである。

 かつて、20年前の長編[viii]で、カーは、Aに変装しているBを客観描写でAと書きながら、Cの主観描写だと強弁する(!)ことで、まんまと読者を煙に巻いた。しかし、本書の場合は、こりゃアウトでしょ。さすがのカーも、寄る年波でやきがまわったか。・・・ただ、そうとも決めつけがたい気が残るのは、この場面、一応、主人公のジムの視点で描かれているからである。あるいは、カーは、例によって、アンフェアとフェアのぎりぎりのところを攻めたつもりなのだろうか。エラリイ・クイーンにも同様の作例があって、鮎川哲也がアンフェアだと断定した[ix]のは、ファンには有名だろうが、あの場合も、カーと同様の反則すれすれの技巧だったのか。果たして、カーとクイーン、これらのケースは完全アウトなのか、それとも叙述トリックへの果敢な挑戦なのか。判定は読者に委ねられている。あたしゃ、アウトだと思うけどね(筆者の解釈は誤りだったので、以上の発言は撤回します。2024年2月4日)。

 最後に付け加えたいのは、本書でも、やっぱりカーはカーでした、というわけで、主人公のジムは、冒頭立ち寄った新聞社の入り口で、階段を転げ落ちる美女を抱き止めて、途端に恋に落ちる。まさに「フォール・イン・ラヴ」ですか、・・・って、言ってる場合か!この後も、ジムは、ずっこけ美女のジルを、またしても列車の入り口でつまずいたところを受け止めるが、いつもほどには、このカップルは読者をいらつかせない。理由ははっきりしていて、ジルが、章が変わるたびに、ジムの前から姿をくらましてしまうからなのだが、おかげで無用な言い争いも少なく、私たちも、おとぼけカップルの言動にうんざりすることなく、二人の幸福を祈ってあげられるというものだ。

 

[i] 『亡霊たちの真昼』(池 央耿訳、創元推理文庫、1983年)。

[ii] 『死の館の謎』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1975年)。

[iii]ヴードゥーの悪魔』(村上和久訳、原書房、2006年)。

[iv] 『亡霊たちの真昼』、153、271、297-98頁。ちゃんと、前作の事件のことも語られて、ベンジャミン探偵にも言及される。

[v] 同、130-31頁。

[vi] 同、174頁。

[vii] 同、175頁。

[viii] 『墓場貸します』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、89-90頁。

[ix] エラリイ・クイーン『十日間の不思議』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、417-18頁(鮎川哲也による解説)。