J・D・カー『眠れるスフィンクス』

 (本書の内容に触れているほか、『時計のなかの骸骨』およびアガサ・クリスティの長編小説に言及しています。)

 

 1940年代後半になると、ディクスン・カーの創作力もめっきり衰えて、長編小説は急減する。数え方にもよるが、1930年代には、共作を含めて30冊(カー名義19冊、ディクスン名義11冊)もの長編小説が出版されているのに対し、1940年代前半には、11冊(カー名義5冊、ディクスン名義6冊)と、大きく減少した。後半になると、それがさらに7冊(カー名義3冊、ディクスン名義4冊)にまで落ち込んだ。

 作量の低下に伴い、注目作も減ったというか、わが国でとりあげられることも少なくなった。江戸川乱歩の熱も冷めたのか、「J・D・カー問答」で取り上げられた1940年代半ばまでの作品以降は、言及されることもまれになった。松田道弘の「新カー問答」でも、この時期の諸作にはコメントがない。この後、1950年代になると、いよいよ歴史ミステリの執筆が始まり、それなりに注目度が上がるので、この40年代後半は、まさにカー評価の空白期に近い。

 『眠れるスフィンクス』(1947年)は、その空白期の一冊で、二階堂黎人は、短いながら「恋愛的事件としては、なかなかの悪意を描いている。墓場のトリックも小粒だがなかなか良い」[i]、と記して、多少投げやり感はあるが、評価は悪くない。

 氏の言っているとおり、例によって、恋愛が事件を動かす要因となっている。そして、密閉された納骨堂のなかで棺が何ものかによって移動させられている、という不可能トリックも登場する。『火刑法廷』を彷彿させる、胸ときめかせる謎だが、あんないいものではない。ディクスン名義の『青ひげの花嫁』もそうだったが、ミステリとしてはなんとも地味な印象で、犯人の意外性に関しても、さしたることもない。

 ただ、本書で、カーはあえて普通小説風のプロットと描写を試みているようにも感じられる。ストーリーは、例によって、大戦後、諜報機関の任務を解かれた主人公が、莫大な遺産を相続して、昔、魅かれていた女性にもう一度思いを伝えようと、力んでロンドンの街路を歩むところから始まる。またですか、というような幕開けだが、『死が二人をわかつまで』や『囁く影』で顕著となってきたように、主人公の恋愛はノンキな一目ぼれではなく、なかなかシリアスなもので、とくに本書では、主人公の恋愛に関する疑惑と不安が、全編にわたって、じわじわと緊張感を持続させる。カーとしては珍しい展開である。

 主人公が思いを寄せる娘は、姉妹の妹のほうで、姉は社交的な美女だったのに対し、彼女は無口で内向的。姉は、富裕な実業家と結婚して幸せそうだったが、主人公が音信不通になっている間に、毒を飲んで死んだことがわかる。妹はそれ以来、義兄の実業家を恨みに思って、姉は彼に殺された、と信じているらしい。しかも、かつて主人公は、二人の祖母から、姉妹の一人は精神的に問題があり、心配だ、と漏らすのを聞いていた。妹のほうが、いささか偏執的に、亡き姉の夫を攻撃するさまをみた主人公は、彼女に対する不安を隠せない。このような、第二次大戦後に流行したニューロティック・サスペンスのようなムードで物語は進んでいく。

 フェル博士が登場すると、二階堂がこれまた指摘しているように[ii]、相変わらずの韜晦趣味的発言が続いて、主人公もキレそうになる[iii]。怒りを抑えながら、博士に同行した主人公とヒロインが地下墓地を開くと、敷きつめられた砂に一つの足跡もないのに、重い棺がいくつも散乱して、宙に浮く何モノかが動かしたようにしか見えない。果たして、密室状態の石室に侵入して棺を放り投げ、放り出したのは悪霊なのか・・・。

 実に嬉しくなる不可能状況だが、解決はあっけない。二階堂の評価のように、悪くはないが、自然現象なので、なんとなく拍子抜けする。そもそも、フェル博士達が、何のために墓を開いたのか、一応理由は述べられるが、わかったような、わからないような説明で、カーがこのトリックを入れたかったから、というのが理由、ということしか頭に残らない。つまり、筋に関係のないおまけとしか見えないのだ。

 もっとも、本書の特色は、少しずつサスペンスが高まっていく語り口にあるので、フェル博士の思わせぶりなセリフや、「本当のことを話そう」、というと、とたんに玄関のベルや電話が鳴りだすマンネリズムも、確かに、初読のときはいらいらさせられたが、再読すると、そうでもない。ゆとりがあるときなら、これはこれで、もどかしさも癖になる(好意的過ぎるか)。

 姉と妹、どちらが精神に問題を抱えていたのか、という問いは、謎というほどの謎でもなく、誰でも見当がつくとおり、答えは姉だが、彼女には、ヒステリーの症状と性的な特性があり、結婚生活が破綻していた、と明かされる。このあたりも、40年代半ば以降のカーに顕著となる特徴だが、その結果、本作の犯人は、カー作品ではお馴染みの、ともいえるし、少しそこからはずれている、ともいえる。自尊心丸出しの美青年だが、これまでのカー作品に比べると若い。まだ自我が確立していないような未熟な若者、という設定である。この犯人は、翌年のディクスン名義の『時計のなかの骸骨』に近いものがあり、なにかしら作者にこうした犯人像に対する思い入れがあったのか、と考えさせる。

 犯人に関する手がかりとして、門が閉じられ周囲を濠に囲まれた屋敷に、深夜、侵入するために、濠を泳いで渡らなければならない。しかし、体や服がずぶぬれになれば、家族に怪しまれる。そこで、あらかじめ、誤って濠に転落したようにふるまい、それで、その後水に濡れることをごまかそうとする、というトリックが出てきて、なかなか面白い。後年、アガサ・クリスティがある長編で、この手がかりを使っている[iv]

 本書は、かつてのような一大スペクタクルでもないし、かといって、小気味よいカード・マジック・ショーというわけでもないが、そのサスペンス・ミステリ風の語り口や、犯人の設定、手がかりなど、マンネリズムに陥らないように(実際は、陥っているのだが)、作者も結構工夫をこらしている。その細かな工夫と変化を楽しめるならば、読んで損はない、といっておこう(やっぱり、好意的過ぎるかな)。

 

[i] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、381頁。

[ii] 同。

[iii] 『眠れぬスフィンクス』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、169-72頁。

[iv] アガサ・クリスティハロウィーン・パーティ』(1969年)。