カーター・ディクスン『青銅ランプの呪』

(本書のほか、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』、エラリイ・クイーンの「ショート氏とロング氏の冒険」、カーの『火刑法廷』、カーおよびエイドリアン・ドイルの「ハイゲイトの奇蹟事件」のトリックに触れています。)

 

 『青銅ランプの呪』(1945年)で、カー(カーター・ディクスン)は久々にオカルティズムを復活させた。しかも古代エジプトのファラオの呪いで、これまでの作品に見られなかったエグゾティシズムが漂う。さらに冒頭には、エラリイ・クイーンに宛てた献辞が載り、そのなかで、人間消失こそがミステリのもっとも魅力的な謎だ、と発言している。初っ端から不可能犯罪を予告する稚気満々の姿勢は、1930年代を彷彿とさせる。あの若かりしカーである。

 そして分量も、意欲に見合った久しぶりの大長編で、翻訳で比較しても、1940年代前半の長編が文庫で300頁前後だったのに比べ、400頁を越える[i]。第二次大戦の終わりが見えて、枚数に気を使う必要がなくなったのだろうか。イギリスでも戦後の物資不足は深刻だったようだが、戦中戦後の日本ほどではなかったのだろうか。

 時代背景はともかく、再び、カーが派手な不可能犯罪ミステリに意欲を見せたことは間違いないようである。

 考古学者セヴァーン伯爵を父にもつヘレン・ローリングはエジプトの遺跡発掘調査を終えて帰国しようとしている(このあたり、アガサ・クリスティを意識しているのか)。出発当日、怪しげな占い師アリム・ベイが現れ、発掘した青銅ランプをエジプトから持ち去れば、彼女は髪の毛一本も残さずに、この世から消え失せるだろう、と予言する。ヘレンは、ヘンリ・メリヴェル卿に相談しようとするが、なぜか急に口ごもる。ヘンリ卿と別れ、イギリスに戻ったヘレンは、彼女に思いを寄せるキット・ファレル、友人のオードリー・ヴェーンとともに、グロスタ近郊のセヴァーン邸に到着する。二人を残して、一足早く屋敷に入ったヘレンだが、キットたちが後を追うと、その姿は見えない。奥から現れた執事と家政婦、たまたま工事をしていた鉛管工の男も、ヘレンの姿を見なかった、という。ホールの床には、ヘレンのレインコートと青銅ランプがポツンと置かれていた。果たして、ヘレンは予言通り、消え失せてしまったのか・・・。

 この後、父親のセヴァーン伯爵も、ヘレンのあとを追うように、屋敷に帰りついてすぐに姿を消してしまい、事態は混迷の度を深めていく、というストーリーで、サスペンスと不可能興味は申し分ない。

 ただ、肝心のトリックとなると、手際よく、無理な機械トリックを用いることもなく、そこはよいのだが[ii]、傑作を読んだ、という気はしない。

 上記の献辞で、カーは、シャーロック・ホームズのジェイムズ・フィリモアの消失事件[iii]に言及しているが、この事件に関しては、カーのパスティーシュがある。エイドリアン・ドイルと共作した「ハイゲイトの奇蹟事件」[iv]である。また、献辞の相手であるクイーンにも、やはりこの事件にひっかけたラジオ・ドラマがある[v]。『青銅ランプの呪』も、もともとラジオ・ドラマの脚本を後半のトリックを付け加えて長編化したもの[vi]で、1944年12月に放送された、という[vii]。クイーンのドラマは、1943年1月放送[viii]で、カーより少し早い。ついでに「ハイゲイトの奇蹟事件」は、1953年の発表[ix]

 発表年もしくは放送年月にこだわったのは、これらの諸作が、基本的に同一の発想によるトリックを用いているからである。端的に言うと、「一人二役」トリックで、とっさに別人に化けて、自分が消え失せたように見せかける。クイーンの脚本は、もうひとつの「隠れ場所」トリックと組み合わせて、二段構えにして新味を出しているが、この手法は、カーの他の作品を連想させる[x]

 本書では、ラジオ・ドラマ版に、別のやり方を用いた人間消失トリックを付け加えているが、そちらも、基本的に「一人二役」トリックによるものである。ぶっちゃけていえば、人間消失の謎というのは、この「一人二役」トリックの応用ぐらいしか方法がない、ともいえる。そして類似のトリックを用いたカーの作品は、ほかにもある[xi]

 さらに言えば、こうした人間消失トリックの模範となるのは、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』(1908年)である。同作が最初かどうかは知らないが、もっとも巧妙に使われている作品だろう(奇術的に過ぎるかもしれないが)。クイーンやカーの諸作も、所詮は『黄色い部屋』の焼き直しに過ぎない。

 それを言えば、カーの密室ミステリのいくつかも、『黄色い部屋』のパクリだ、ということになってしまいそうだが、『青銅ランプの呪』を読んで、あー、なるほど、と思っても、びっくりして息を呑む、とはならないのは、どうしたって『黄色い部屋』の先例を思い浮かべてしまうからだろう。

 後半のトリックは、メイン・トリックに輪をかけて平凡なので、トリックのみを取り出せば、このような評価になってしまう。乱歩の「カー問答」でも、本書は最低ランクの第四位。『髑髏城』や『毒のたわむれ』などと同じである[xii]。一言、「創意が乏しい」。二階堂黎人によれば、「事件が小粒なわりにだらだらと長い」[xiii]。あちゃーっ。

 これらの評価は大体において当たっている。二つの人間消失のほかには、動きのあまりない「だらだらと」したストーリーで、カーのオカルティズムも、最後に、非合理な迷妄を論難することに重きが置かれているようで、サスペンスとか、恐怖とかが一向に迫ってこない。冗漫で退屈という印象は否定できないようだ。

 ただ、40年代前半の、まとまってはいるが、あまりにまとまりすぎているともいえる小味な長編を読んでくると、本書は、久しぶりにカーのしつこい情景描写が堪能でき、また、とくに主人公格のキット・ファレルの内面の焦燥が書き込まれていて、深みはないが、あのカーを読んだ、という満足感を与えてくれる。

 時間があるときにじっくり読むなら、実に楽しい、と付け加えておこう。

 

[i] 原書を見ると、そこまで厚くないので、結局、ページ数で比較してもしょうがないかもしれないが。Carter Dickson, The Curse of the Bronze Lamp (Caroll & Graf Publishers, 1984), 192pp.

[ii] ダグラス・グリーンは、「カーの考案した不可能な消失に関するもっとも巧妙な方法」、と述べている。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、313頁。

[iii] いうまでもないことだが、この事件を描いた短編小説があるわけではなく、シャーロック・ホームズものの短編「ソア橋の怪事件」で言及されているに過ぎないのだが、架空の短編ミステリで、これぐらい有名なものはないだろう。ボルヘスもびっくりである。コナン・ドイル深町眞理子訳)『シャーロック・ホームズの事件簿』(創元推理文庫、1991年)、244頁。

[iv] アドリアンコナン・ドイル/ジョン・ディクスン・カーシャーロック・ホームズの功績』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)、97-130頁。

[v] エラリイ・クイーン「ジェイムズ・フィリモア氏の失踪」、エラリイ・クイーン編『シャーロック・ホームズの災難〔上〕』(中川裕朗・乾信一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1984年)、177-208頁、「ショート氏とロング氏の冒険」『ナポレオンの剃刀の冒険 聴取者への挑戦』(飯城勇三訳、論創社、2008年)、151-80頁。

[vi] グリーン前掲書、311-13頁。

[vii] 同、「ジョン・ディクスン・カー書誌」、39頁。

[viii] 『ナポレオンの剃刀の冒険 聴取者への挑戦』、152頁。

[ix] グリーン前掲書、「ジョン・ディクスン・カー書誌」、31頁。

[x] 『火刑法廷』のこと。

[xi] グリーン前掲書、312頁参照。

[xii] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、344頁。

[xiii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、380頁。