J・D・カー『皇帝のかぎ煙草入れ』

(本書のほか、江戸川乱歩『偉大なる夢』、『化人幻戯』、「月と手袋」、横溝正史「廃園の鬼」の内容に触れています。)

 

 『皇帝のかぎ煙草入れ』(1942年)[i]は、1940年代に書かれたディクスン・カーの代表的傑作との定評を得てきた。

 またしても張本人は江戸川乱歩である。

 

  「このトリックはアリバイに関する不可能興味の最もズバ抜けたものである。不可

 能中の不可能が可能にされている。又ナポレオン皇帝の嗅ぎ煙草入れが極めて巧みな

 小道具として使われているが、この品についての一つの盲点が犯罪発覚の端緒となる

 あたり、実に心憎き妙技である。」[ii]

 

 それはもう手放しのほめようである。この背景には、乱歩が実作者として類似のトリックを考案していたことも影響しているようだ[iii]。『かぎ煙草入れ』を読んだ後になっても、同様のトリックを長中編小説[iv]で使用しているところを見ると、このトリックへの執着ぶりがみてとれる。もっとも外見は同じでも発想は異なる。自分が考えに考えて編み出したトリックを、カーが、もっと単純なアイディアで実現していることに、してやられた、という実感が加わって、乱歩の評価を実際以上に高めたものかもしれない。現に、その後のエッセイでは、多少割り引きされて、「もっとも、それは少々苦しい手段ではあった。悪くいえばごまかしである」[v]、と、だいぶ熱が冷めている。

 とにもかくにも、本書はカーの代表作のひとつとして親しまれてきた。創元推理文庫版の扉文には、「このトリックにはさすがの私も脱帽すると,アガサ・クリスティを驚嘆せしめた不朽の本格編!」[vi]と麗々しく謳われており、読んだ私は、これは大変だ、と意味もなく机の上を片付け始めた。しかし、クリスティが「さすがの私も」とか、言うだろうか。

 ところが、例によってというか、近年の評価は下落の一歩を辿ってきた。これまた、きっかけは松田道弘の「新カー問答」であろう。「探偵役のキンロスも精彩がないし、よみものとしてはあまり魅力のない作品だと思う。どういうわけか、わが国では、カーの手すさびのようなこの小品がカーの代表作のように思われ、あちこちの文庫にも入っている」[vii]、と遠慮がない(「どういうわけか」、と言われても、乱歩のおかげですが、それは)。

 かわいそうなキンロス博士。ご冥福を祈ります・・・。いや、そうじゃなくて。

 ところで、上記の松田の意見のうち、「手すさびのような」というところは、(松田はそんなつもりではないだろうが)40年代前半のカー作品の一面を言い当てている。この時期の諸作の無駄のない、こじんまりまとまった作風は、確かに手すさびのような印象を与える。それは『かぎ煙草入れ』に限らない。

 二階堂黎人になると、さらに厳しく、「私見では、カーの作品の中で最もつまらない部類だと思う」[viii]、と容赦なくパンチを繰り出す。誰か、タオルを投げてやって。

 二階堂もまた、「物語と登場人物に精彩」[ix]がない、と指摘しているのを見ると、このあたりに不人気の原因があるように思える。心理的な錯覚を基本アイディアとしているためか、シリーズ探偵ではなく、心理学者のダーモット・キンロス博士を起用したのだが、これがまずかった。心理学といっても、そもそもカーに心理学の専門的素養があるわけもなく、この程度の内容なら、フェル博士でもよかったろう(ヘンリ・メリヴェル卿向きではないかもだが)。もうひとつ、いつものカーらしくないのは、主人公役の青年が不在であることだろう。本来、カー長編には、ワトソン役を務めるアメリカ人青年などが登場して、ヒロインと恋愛遊戯にふける(なんだか、いやらしい言い方だなあ)。その構図が本作にはない。それには理由があって、主人公が女性のイヴ・ニールで、彼女の視点で物語が進行し[x]、彼女の心理や感情がミステリのアイディアに直結しているためである。いつものワン・パターン(?)の人間関係を使えないのだ。主人公の青年が無意味にヒロインに恋をする。ひどいときには、エリオット(『緑のカプセルの謎』)やウッド(『メッキの神像』)のような警察官までが、任務そっちのけで恋愛にうつつをぬかす。探偵の仕事しろよ、といいたいが、これがカーの伝統芸で、あればあったで、うっとおしいが、ないとやっぱり口淋しい。カーらしくない、ということになる。恐るべきカーのロマンス。

 もちろん、本作でもイヴとネッド・アトウッド、トビイ・ロウズとの三角関係が描かれ、その意味で恋愛の要素は含まれているのだが、むしろ本作では、この三人の恋愛関係こそがプロットに不可欠のもので、作品の彩りに収まらない。舞台の関係もあってか、フランスのサスペンス・ミステリの雰囲気で、それもカーらしさを感じない理由のようだ。カーに深刻な恋愛は似合わない。いや、そんなことはないが、やはりもっと能天気な、本筋とまるで関係ない(?)ラヴ・コメディが、カー作品にはお似合いだ(作者に怒られそうだ)。

 それでも最後は、やっぱりヒロインが幸せな恋をして終了、ということで、何と!キンロス博士がイヴとくっつく。イギリスに戻ってからの関係の深まりを匂わせるぐらいにしておけばよいものを。ヒロインと会ったあたりから、ちょくちょく博士の挙動がおかしいが、まさか本当にゴール・インとは。この人、こんなキャラだったの、という印象。惚れた女性を手に入れるために、恋敵を始末したようにしか見えませんが。もう一人の良家の御曹司風ぼんくら青年もコテンパンにやっつけるは、で、大人げないというか・・・。どうも、カー的な予定調和世界がうまく機能していないようで、結局そこが精彩のなさ、ということだろう。

 とにかく、これではいかん、と思ったのか、『かぎ煙草入れ』をドル箱として(でもないか)売ってきた創元社が、てこ入れのための新訳を、戸川安宣の力の入った解説をつけて投下してきた[xi]。果たして、巻き返しなったのか、お立合い。

 しかし、アメリカでは、よく売れたらしい。ダグラス・グリーンが売り上げを細かく書いている[xii]。むしろ、カーの体臭が強くない本作のような小説が一般的には人気を博した、ということだろうか。もちろん、そこはパズル・ミステリとしての面白さがあったことに間違いないのだが。

 パズルとしての話、そっちのけになったが、『かぎ煙草入れ』のパズル・ミステリとしての肝は、乱歩が簡潔に述べたように、意外な犯人とかぎ煙草入れの手がかりに尽きる。本書の犯人は、いろいろと定義できるようだ[xiii]が、要するに、「目撃者が犯人」という不可能興味である。このパターンは、例えば、横溝正史の中編[xiv]のように、共犯者が被害者に扮して殺されたように装い、それを犯人が他の証人とともに目撃する、といった手法で可能である(カーの長編にも作例がある)。しかし、本作でカーが用いた手法は、もっとシンプルな、というか、お手軽な小手先芸によるものである。言い換えれば、口先三寸の詐欺のようなもので、心理的錯覚といえば聞こえはよいが、乱歩の言う通り、文章でごまかしている。そのあたりの手管は、むしろアクロイド的叙述トリックの一種であるともいえる。

 そして、この単純さと小技感が、40年代前半のカーである。30年代の大スペクタクルを好むか、40年代前半のお座敷手妻を好むか、あとは読者の好みの問題だ(まあ、私はどちらも好きだが)。

 もうひとつの売りのかぎ煙草入れの手がかりも、なんだかんだ言って素晴らしい。こちらも同様に単純明快な推理で、エラリイ・クイーンの『エジプト十字架の謎』のヨードチンキの瓶を思い出す。この二作、誰でもわかる意外な推理という観点では、双璧だろう。

 さらに『皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s Sunff-Box)』というタイトルもこすからい。すでに題名からして、読者をたぶらかす気満々である。「問題の品は、時計型となってますが、あくまでかぎ煙草入れですよ、かぎ煙草入れ」、と読む前から読者の頭に刷り込もうと連呼してくる。それも、ただの『かぎ煙草入れ(The Snuff-Box)』では、タイトルになりにくいし、反面、読者の疑惑を招くが、「皇帝」と付けば、へえ、ヴィルヘルム1世、それともナポレオン、まさかローマ皇帝じゃないよね、とイメージがわいて、そちらに興味が向く。実に、狡猾だ、カーという作家は。

 つい、松田や二階堂の尻馬にのって、ぼろくそ叩いてしまったが、ごめんね、キンロス博士。『皇帝のかぎ煙草入れ』は、意外な犯人と秀逸な手掛かりで、1940年代のカーを代表するパズル・ミステリですよ。

 

[i] 『皇帝のかぎ煙草入れ』(井上一夫訳、創元推理文庫、1961年)、『皇帝のかぎ煙草入れ』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)。

[ii] 江戸川乱歩「イギリス新本格派の諸作」『幻影城』(光文社文庫、1987年)、136頁。

[iii] 江戸川乱歩『偉大なる夢』(1943-44年)。

[iv] 江戸川乱歩『化人幻戯』(1954-55年)、「月と手袋」(1955年)。

[v] 『皇帝のかぎ煙草入れ』(創元推理文庫)、中島河太郎による解説、293頁。

[vi] 同。

[vii] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、232頁。

[viii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、377-78頁。

[ix] 同、378頁。

[x] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、285頁参照。

[xi] 『皇帝のかぎ煙草入れ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2012年)。

[xii] グリーン前掲書、287頁。

[xiii] 二階堂前掲書、378頁、『皇帝のかぎ煙草入れ』(2012年)、310頁を参照。

[xiv] 横溝正史「廃園の鬼」(1955年)。