エラリイ・クイーン『Zの悲劇』

(内容に触れています。)

 

 『Zの悲劇』(1933年)は、ドルリー・レーン四部作のなかでも、ある意味、一番論議を呼んできた作品である。

 『Xの悲劇』、『Yの悲劇』は、「〇幕〇場」の演劇仕立ての章構成、シェイクスピア俳優だった主人公にちなんだ舞台劇っぽい演出で、堂々たる本格ミステリという風情だったが、『Z』は一転して、一人称小説、それも妙齢の女性による手記という体裁で、従って、幾分軽くスピーディな雰囲気になった。サスペンス・ミステリのごときスタイルに変わったともいえる。

 クイーンの作家としての器用さを感じさせるが、前二作に比べて、変わりすぎだろう、という気もする。このことについても様々な考察があり、最終作の『ドルリー・レーン最後の事件』(1933年)が、ああいう結末なので、レーンの代役となる探偵が必要である。そこで、むしろレーンとは対照的な、若い女性探偵のペイシェンス・サムを登場させたのだろう、といわれてきた。

 さらに近年では、レーン四部作は当初三部作として構想されたのではないか、『Z』はエラリイ・クイーン用のプロットを転用したのでは、という異説が現れた[i]が、これも、『X』、『Y』と『Z』とが、あまりに違い過ぎることに着目した仮説だろう。

 もっとも、『最後の事件』が『Z』のプロットになるはずだった、という三部作説は、にわかには吞み込みにくい。一年目に二冊、二年目に一冊、という出版契約の仕方があるのだろうか。それとも、二年間で三冊か。契約としては変則すぎるのでは。あるいは、ドルリー・レーン・シリーズを三作書いた後、別シリーズでもう一冊執筆する予定だったというのだろうか。ジョン・ディクスン・カーの評伝などを読むと、毎年二冊ずつ、といった契約が普通のようだが[ii]

 それはともかく、まだ20代だったクイーンが、女性一人称の小説を書いたのは、正直感心する(それとも、若かったからこそ書けたのだろうか)。クイーンの執筆方法は、フレデリック・ダネイがプロットを考えて、マンフレッド・リーが小説化する、と明らかになっている[iii]が、1930年代にすでに、この方式が確立していたのだろうか。一人称小説というのは、ダネイが指定してきたのか。それとも、リーが自分で選んだスタイルだったのだろうか。興味深い問いだが、残念ながら、今となっては知るすべはなさそうだ。一人称小説にしなければならないプロット上の理由はないから、ダネイの提案というより、小説家としての野心をもっていたリーの判断だった気がしないでもないが。

 若く行動的な女性の手記という形式なので、上述のようにサスペンス・ミステリ風の筋立てかと思いきや、どちらかといえば、ハードボイルド・ミステリ風のストーリーである。地方都市を牛耳る悪徳政治家と悪徳医者の兄弟を、刑務所を脱獄した犯罪者が脅迫し、そこに、娼家を経営する女傑が絡む。近々議員選挙を控える街では、兄弟に敵対する検事や、彼らの不正を疑う共同経営者らの思惑が絡み、ダシル・ハメットの小説のようだ。終盤、殺人の罪を着せられた脱獄囚を主人公が説得する場面などは、まるでアクション小説だが、確かに、レーンが主人公では考えられない光景だろう。

 しかし、さすがに勝手が違ったのか、選挙をめぐって対立する諸勢力間の駆け引きを描くあたりや、ペイシェンスが悪徳医師のしっぽをつかまえようとスパイを試みるところなどは、いささか駆け足気味で筋を追うだけなので、あまり緊迫感もスリルも感じられない[iv]。全体的に、やや重厚感に欠けるのは、一人称小説のせいばかりではなさそうだ。

 肝心のパズル・ミステリの部分については、クイーンが消去法推理を試みた作品ということで、ファンの間では知られている。直接犯人を特定するのではなく、犯人の条件を複数挙げて、それに該当しないものを省いていく方法で、考えるほうは大変だろうが、サスペンスを生み出すには効果的だ。本書でも、死刑執行室におけるレーンの犯人指摘の場面が最大の見所になっている[v]。このクライマックスの演出のために、消去法推理を考えたのだとすれば、大変な労力だ。

 しかし、この場面、犯人が動転して逃亡をはかるのは、お約束だからよいとして、前半の裁判シーンで陪審員を説得できなかった「右利き左きき」の推理を再度持ち出しているのは、またこんなこと言い出して大丈夫なの、という気もする。これは登場人物の立場からの感想だが、もちろん、レーンの推理ははるかに複雑に体系的になっている。が、読者としてみると、一部とはいえ、そもそも、なぜ、中盤で推理の一端を明かしてしまったのか、ということが気になる。単純に考えれば、ペイシェンスの推理能力の高さを見せておかなければならないので、一番軽い推理を彼女に割り振ったということなのだろうし、また、プロットの都合上、本作の主役であるエアロン・ドウを有罪にしなければならない。そうしないと、この後脱獄して、再び殺人の罪を着せられる、という展開にもっていけない。従って、ペイシェンスとレーンの推理が功を奏さないというプロットにする必要がある、と、こういうことになるのだろう。

 だが、右利きの人間が利き腕を使えなくなって左利きになると、足も左利きになる、という理屈、というより医学的見地に基づく推論は、小説中の陪審も納得させられないが、読んでいるこちらも、どこまで信用してよいのか迷う(もっとも、陪審が受け入れなかったのは、レーンが事前にドウに稽古をつけた、と疑われたからではあるのだが)。というのも、この推理、単純に犯人が左ききだとか、右利きだとかいうものではないからである。例えば、サッカー選手に利き足があるということはわかるが、本書の推理は、犯人が左ききを装って殺人を犯すが、別の動作でうっかり右足を使ったために、右利きであることを暴露してしまう、そこまで推理する複雑なものなのである。

 詳しくいうと、犯人は、右利きなのに、わざわざ左手を使って被害者を刺し殺すが、暖炉で燃やした紙片をとっさに右足で踏み消してしまい、馬脚を露す、という寸法。しかし、自分より体格のよい巨漢[vi]相手に利き腕を使わずに攻撃することなど、本当に可能だろうか。しかも、左手を使ったという事実は、被害者が襲撃を避けようと、とっさに腕を振りかざしたため、犯人のカフス・ボタンが掠って傷をつけたから推理できたことで、故意の動作であるようには描かれていないし、そもそも、意図してできることではないだろう。とすれば、むしろ、燃やした紙片をわざと右足で踏み消して[vii]、右利きを装うほうが容易なのではないか。つまり右利きであることを示す証拠が偽で、左ききを示す被害者の腕の傷あとのほうが真の証拠だと考えるのが理に適っていないか。

 こう推理すると、死刑執行人が左ききなので[viii]、無名の登場人物が犯人。なかなか斬新な結末だが、冗談はさておき、犯人が左ききだとすると、ドウに罪を着せる目的はなかったということになって、従って、犯人はドウが左ききになった事実を知っている人物、つまり刑務所の関係者、という次の推理[ix]が導けなくなってしまう。ただし、この「刑務所の関係者」という条件-初期の国名シリーズ作品を思い出させる-は、二か所のクリップあとのある封筒の推理[x]から引き出せるので、「右利き左きき」の推理がなくともよい。

 いずれにしても、『シャム双子の謎』でもそうだったが、どうもこういう利き腕や利き足(?)に関する推理は、水も漏らさぬというにはほど遠い気がする。

 もうひとつ、細かいことで気になるのは、犯人が燃やして踏み消した紙片は、デスクの上にのっていた便箋の束の一枚で、現場の状況では、被害者の血をかぶったはずなのに、一番上の紙は、真っ白なまま。そこから、犯人が一番上の血にまみれた一枚をはぎ取って燃やした、とわかる、というのだが、そして、それはよいのだが、犯人がなぜ血のついた便箋をはぎ取って燃やしたのか、ペイシェンスもサム元警視も、誰も問おうとしないのはなぜ?最後、犯人の告白から、そこに重要な情報が書かれていたことがわかる[xi]、言い換えれば、推理できることではないのだが、それにしても、発見現場で誰もその理由を問題にしないのは解せない。

 そうはいっても、レーンの推理の勘所である、ドウの脱獄日を水曜から木曜に変更した偽の手紙から引き出される推論は見事で、この手がかりが、一見プロットと無関係と思われた死刑執行場面と抜き差しならぬ関係にあったとわかる瞬間は、熟練の読者をもうならせる。

 そのほかにも、死刑執行までぎりぎりという時間に、ついに雲隠れしていた女傑が現れ、犯人はドウではない、と被害者が言い残したことを明かす。それを聞いたレーンが、心から安堵した表情を浮かべるので、読者は、ドウの無実が証明されたことにほっとしたのだろう、と思うが、実はそうではなかったことが、その後のレーンの推理でわかる。作者が、いかにも感動を誘うような書き方をしているので、つい、そう思い込むのだが、レーンの真意は別なところにあった。彼の頭を占めていたのは、ドウが無実であるかどうかなどではなく、誰が犯人か、ということだけだったのだ。

 人間としての豊かな感情を持ち合わせる名探偵、レーンはそう描かれているが、その一方で、彼の頭脳は常に超高速の推理マシーンとして稼働し続けていたのだ。なるほど、ドルリー・レーンとはそのようなキャラクターだった。

 

[i] 『レーン最後の事件』(越前敏弥訳、角川文庫、2011年)、「訳者あとがき」、399頁。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、100、148-49頁。

[iii] まだ、この裏話が明らかになっていない前に、都筑道夫が、文体から、リーが執筆担当だと言い当てているのはさすがである。というか、都筑の発言が、ものすごく自信満々で、青田勝や中島河太郎があっけに取られているようなのが、なんともおかしい。都筑道夫・二木悦子・中島河太郎・青田 勝「回顧座談会 クイーンの遺産」『ミステリマガジン』No.320(エラリイ・クイーン追悼特集、1982年)、132頁。

[iv] 『Zの悲劇』(越前敏弥訳、角川文庫、2011年)、「12 余波」の章。

[v] しかし、ここに集められた人々のうち、十二人の市民は、そもそも前回執行日の十二人と重複しているわけではないのだから、容疑者扱いされて、いい迷惑ではないのか。レーンも、「心配なさることはありません」などと、余計なお世話だろう。同、332-33頁。

[vi] 同、40頁。犯人の体格についての詳しい描写はないが、少なくとも巨体ではないようだ。同、100頁。

[vii] 同、168頁。ペイシェンスは、踏み消したのは絶対に無意識の行為だ、とむきになって断言するが、なんでそんなに確信があるのか理解できない。

[viii] 同、334頁。

[ix] 同、323-24頁。

[x] 同、325-28頁。

[xi] 同、339-40頁。