横溝正史『白蠟変化』と『吸血蛾』

(『白蠟変化』、『吸血蛾』のほか、『犬神家の一族』、『白と黒』、『仮面舞踏会』、『悪霊島』の内容に触れています。)

 

 『白蠟変化』(1936年)[i]と『吸血蛾』(1955年)[ii]は、横溝正史のいわゆるB級作品に位置づけられる。あるいは通俗長編といえばよいだろうか。ジャンルとしては、猟奇ミステリもしくは怪奇スリラーに分類できるだろう。とくに後者は、同時期の『幽霊男』(1954年)や『悪魔の寵児』(1958-59年)などとともに「エロ・グロ」(エロティックでグロテスク)と酷評されることが多かった作品である。現在でも、これらの評価にはあまり変化は見られないように思える。『僕たちの好きな金田一耕助』でも、「『名探偵VS怪人』という構図を内包した、乱歩の『蜘蛛男』『吸血鬼』などを想起させるB級スリラー」[iii]と評価されているが、同じ解説に「それまでの伏線めいた数々の描写を振り捨て、最後の最後にいきなり5秒で思いついたような犯人像を設定する力技には唖然となる」[iv]とあったのには吹きだした。

 本作の特徴を挙げれば、犯人の意外性にちょっとした工夫がこらされているところだろうが、確かに上のような評価が下されても仕方のない強引さである。同じく、「殺される寸前のモデルたちが正体が露見した殺人者によって『最後に友人に電話をかける自由』を与えられながら、結局その犯人の名前を言わないというヘンな描写」[v]という指摘もごもっともである。

 しかし『吸血蛾』は、パズル・ミステリとしては構成が弱く、犯人の設定が無理やりだとしても、面白いことは面白い。その面白さは、やはりストーリーテリングの妙によるもので、そうした作者の腕前は戦前の『白蠟変化』を始めとする、これまたいわゆる通俗長編にも顕著に見られる。場面展開の速さと派手な殺人描写は作者の独壇場で、たわいないと言えばたわいないが、面白さは無類である。

 その面白さの源は、奇怪あるいは奇矯な登場人物が入り乱れ、絡み合う筋立てにある。『白蠟変化』も『吸血蛾』も、主軸となる殺人事件の犯人のほかに、白蠟三郎だとか狼男だとかの怪人物が物語の進展とともに、場をかき回して暗躍するが、そこが横溝流ストーリーテリングの特徴であり、江戸川乱歩と異なるところである。その意味で、上記の「乱歩の『蜘蛛男』『吸血鬼』などを想起させる」[vi]という評言は、厳密には当たっていない。乱歩の通俗長編は、確かに、基本的に上記のような「探偵対怪人(犯人)」の構図になっていて、それが特徴なのだが、乱歩は本来そうした「知的決闘」を好む作家だった。「恐ろしき錯誤」(1923年)や「二廃人」(1924年)などの初期短編にはそうした嗜好が如実に現れている。「心理試験」(1925年)や「屋根裏の散歩者」(同)の明智小五郎ものでも、探偵と犯人の対決場面が最も生き生きと描かれているのは、乱歩がそうした場面を書くことに無上の喜びを感じる作家だったからである。

 しかしこうした「決闘」小説が好きという乱歩の嗜好は、長編を書くことには向いていなかったようである。一対一の対決だけでは、長編のプロットは支えきれない。乱歩の長編に代表作が少なかった、あるいは乱歩が長編が苦手だったのは、こうした彼の嗜好がひとつ影響していたように思える。

 これに対し、横溝の場合は、決して単純な探偵対犯人の対決にならない。中島河太郎は、『吸血蛾』の解説で、金田一が犯人を罠にかける結末について「作者はこのクライマックスを描きたいために、金田一を隠忍自重させていたと思わせるほどだ」[vii]、と述べ、確かに本作ラストの金田一は、らしからぬ大見えをきって犯人にすごんで見せるが、そこに至るまでのストーリーは、狼男に加えて、ムッシューQやら、二人組の麻薬中毒者やらの怪しの者たちが大暴れして、筋を複雑化させ、長編小説を支えるために機能している。それでいて、彼らは自分たちの役割を果たすことによってストーリーに矛盾をきたすことなく、途中で、いつのまにか、いなくなってしまうなどということはない。『白蠟変化』にしても、妻殺しの罪をかけられた男に思いを寄せる女性とそれを助ける男が、主人公を脱獄させようとして、そこに白蠟三郎という怪人が絡むという筋になっており、このように、善玉悪玉が幾重にも入り乱れて、様々な対決を生みながら、最後には名探偵の推理によって破綻なく事件が解決する、というのが横溝の小説作法だったといえる。

 そしてこうした小説作法は、実は横溝の代表的なパズル・ミステリにおいても共通してみられるところである。

 冒険小説味の強い『八つ墓村』などだけではなく、『悪魔の手毬唄』のようなパズル性の勝った長編でも、実に多くの登場人物がそれぞれに思惑を持って行動する。何かを隠していたり、計画したりしているのは犯人だけではない。もちろん、いかなる著者であっても、パズル・ミステリの長編というのは、多くの容疑者を登場させて、読者の注意をそらそうとするものである。しかし、横溝の場合、その作品はいずれも物語性が強く、多くの登場人物を縦横に動かしてストーリーを組み立てることに長けていた。そうした特徴がよく出ているのが、『犬神家の一族』(1950-51年)である。

 都筑道夫によって「モダーン・ディティクティヴ・ストーリイ」と評価され[viii]横溝正史の代表的傑作とされる同作の特徴は、トリックをこらすのが犯人ではなく、第三者の事後工作者だという点である。しかも工作者は二人いて、彼らはそれぞれ利害を異にしており、むしろ対立する関係にある。それでも協力しながら、一人は犯人をかばおうとし、もう一人は犯人に復讐しようとさえ考えているのである。彼らが二度にわたって犯人の犯行を目撃するというとてつもない偶然が批判されるところでもあるが、こうした事後工作者の設定が、同作を「限定された登場人物のなかでの犯人当てミステリ」として成功に導いた要因である。

 同時にこの趣向は、横溝が本来持っていた上記の小説作法から生まれたものと考えられる。それぞれの思惑をもった複数の登場人物がひとつの犯罪に関与する、というアイディアは、『犬神家』以降、長編では頻繁に用いられるようになる。『白と黒』(1960-61年)、『仮面舞踏会』(1962-63、1974年)、『悪霊島』(1979-80年)など、後期の代表的長編は、いずれも事後工作者を用いた『犬神家』のヴァリエーションといってもよい。

 戦後すぐの諸長編はいずれも多彩なトリックを中心とした作品だった。『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』など、戦時中トリック考案に熱中した著者が温めていたものを一気に吐き出した、という趣だった。しかし1946-48年頃までに、貯めていたストックを使い果たすと、1949年頃からやや方向性が変わり、物語要素が前面に出てくるようになる。もちろん、そうそう創意のあるトリックを案出し続けられるものでもない。幾つものトリックを一作に投入するのではなく、細かな伏線や犯人を特定する推理に力を注ぐようになるのがこの頃からである。

 その時期に書かれた『犬神家の一族』は、トリックよりも、遺産相続という明快な動機によって限定された容疑者のなかで、いかに読者を迷わせられるか、に狙いを絞って成功した作品である。そのための方法が、複数の事後工作者を動かして読み手を幻惑する、というものだった。そしてそのようなパズル・ミステリの創意工夫は、横溝正史の物語作家としての特質から生まれたものだった、といえる。『犬神家の一族』や『仮面舞踏会』のような長編群と『白蠟変化』や『吸血蛾』のような長編群とは、横溝ミステリの大山脈の底を流れる地下水脈といえる「物語性」によって結び付けられているのである。

 

[i] 横溝正史日下三蔵編)『由利・三津木探偵小説集成1 真珠郎』(柏書房、2018年)33-165頁。

[ii] 横溝正史『吸血蛾』(角川文庫、1975年)。

[iii]別冊宝島1375号 僕たちの好きな金田一耕助』(宝島社、2007年)、64頁。

[iv] 同。

[v] 同。

[vi] 同。

[vii] 『吸血蛾』、334頁。

[viii] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、55-63頁。