横溝正史『女王蜂』

 『女王蜂』は横溝正史の代表作のひとつだが、言及されることは少ない。

 本作は、『犬神家の一族』(1950-51年)に続いて雑誌『キング』に1951年6月号から翌年5月号まで1年間連載された。前作の好評による連続連載だったと推察されるが、事実『犬神家の一族』は横溝正史の傑作と評価が高い。映画化・テレビドラマ化された数多の横溝作品のなかでも飛びぬけてよく知られており、恐らく日本のミステリで最も有名な作品だろう。

 その『犬神家』に続いて連載された本作は、引き比べると、実に地味な扱いしか受けていない。二上洋一は労作「横溝正史作品事典」で本作を取り上げた際、「『本陣殺人事件』や『獄門島』の系列に属しながら後位に置かれる」、と断定し、「強烈な惹句が見当たらない」ことを理由に挙げている。具体的には、犯人と金田一耕助の対決が描かれなかったことで、それが本作の印象を弱くした、と結論づけた[i]。しかしこれはパズル・ミステリとしての出来栄えに直接関わるものではない。

 都筑道夫は、本作の映画化に対する批評ではあるが、次のように述べている。

 

  それでいながら、傑作を見たという気がしないのは、なぜだろう。事件の背景にな 

 った過去の出来ごとに気をとられて、現在の連続殺人の説明が、意をつくしていない

 せいらしい。大道寺家の娘に、なぜ三人の求婚者が現れたか、犯人がなぜ次つぎにそ

 れを殺さなければならなかったか、のっぴきならない理由が、どうもよく呑み込めな 

 いのだ。

  第一にこの求婚者たち、画面では殺されようがどうしようが、かまわないような扱

 いかたをされていて、助かったひとりは、いつの間にか消えている。三人目に変な行

 者が殺されるのは、突発的な犯行だから、理由はわかるけれど、・・・[ii]

 

 映画評だが、原作に対する批評と見てもよいだろう。そしてこれが、『女王蜂』に対する大方の評価と思われる。すなわち連続殺人の必然性がない。19年前の殺人と現在(昭和26年)の連続殺人が結びつく、というのが本作の趣向だが、現在の殺人のほうに「のっぴきならない理由」がないのだ。実際は、最初の二重殺人には必然の理由があるが、続く第二の殺人には、確かにこれといった動機がない。単なる激情による犯行で、名探偵の金田一耕助自身がそう認めている。実は、連続殺人の動機が本作の基本プロットに大きく関わっていると思われるのだが、それについては後述する。三人のうちの一人が助かってしまう、というのも作者のストーリー上の工夫と考えられるが、これも後で検討しよう。

 表面的には、都筑の指摘通り、連続殺人の必然性のなさが本作の大きな弱点にみえる。『犬神家』と比較しても、それは明白である。後者は、作者自身が説明しているように[iii]、遺産相続がテーマで、従って、相続権者の間で殺人が起こるというプロットは、殺人の動機が明瞭かつ必然的である。続編ともいえる[iv]『女王蜂』が、枚数は多くなっているのに、必然性のない連続殺人が繰り返されるのだから、構成の緊密性に低評価が下されるのも無理はない。

 本作の評価が高くないのは、作者自身にとっても同じだったらしい。自選ベストを挙げた際に、わざわざ「ベスト10に入れるとなると躊躇せざるをえない」[v]、として、除いているくらいである。ただし、同様のことは、実は『犬神家』についても当てはまる。もともと作者自身は『犬神家』をそれほど買ってはいなかった。本人が最も自信をもっていたのは『悪魔の手毬唄』で、『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』の三作に加えて、『八つ墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』が横溝の自信作だったことが種々の発言からわかる[vi]。横溝は、掲載誌によって作風を変えたことで知られるが、実際、力の入れ方が目に見えてわかるタイプの作家である。苦労して書いた作品を代表作と自負するのは、作者としては当然であろうが、とりわけ戦後、雑誌『宝石』を最も重要な発表の場と考えて、(『蝶々殺人事件』を除いて)ここに連載する長編に精力を傾注する傾向があった[vii]浜田知明が書いている通り、横溝の『犬神家』に対する評価は、都筑道夫田中潤司からの称賛に影響された、多分に他律的なものだった[viii]。『女王蜂』の場合、そのような評価が寄せられなかったことが、同作に対する自己評価にも影響しているのだろう。

 一方、角川文庫版『女王蜂』の解説を書いた大坪直行は、当然のことながら、絶賛している。「鬼火」を想起させるという感想はともかく、「島という大きな密室の中にもうひとつ密室をおいている」ことが「この作品の最大の魅力の一つ」という指摘は的を射ているし、被害者が残した「蝙蝠」という言葉の謎の面白さについても、そのとおりだろう[ix]

 また本作の「過去の殺人と現在の殺人が結びつく」という構想は『悪魔の手毬唄』に先行し、三人の関連のある人々が次々に殺される、という筋立ては、『獄門島』で確立されたもので、『犬神家』でも踏襲され、本作の後は『悪魔が来りて笛を吹く』『悪魔の手毬唄』に引き継がれる。島を舞台とするのも、『獄門島』に続き、後年の『悪霊島』(1979-80年)へと受け継がれる。こうして見てくると、本作は確かに横溝の主要長編の系列に位置づけられるし、手のこんだ構想と伏線、そしてヴォリューム(『悪魔が来りて笛を吹く』『悪魔の手毬唄』などに比肩する)を備えている。

 『本陣殺人事件』『獄門島』を完結させて、パズル・ミステリの骨法を自家薬籠中のものとした横溝正史が、自身の疾病や出版界の不況により執筆に困難を抱えながらも、一つひとつの作品に持てる技能を注ぎ込んだ1949年から1953年にかけては、作者の最も脂ののった時期でもあった。その時代に書かれた『女王蜂』を簡単に失敗作として片づけてよいはずはない。以下、解析作業に入ろう。

 この時期の作者は、1946-47年頃の『本陣殺人事件』や『蝶々殺人事件』以来、再び密室に興味を示している。『女王蜂』のほかに、同時期の『悪魔が来りて笛を吹く』(1951-53年)でも密室殺人が描かれている。もっとも、本作の密室トリックは、心理的トリックと言えば聞こえはよいが、種明かしされると、拍子抜けするようなたわいないものである。それをカヴァーしているのが、大坪が指摘した「二重密室」のアイディアだろう。人目につかず島を出入りするトリックは、チェスタトンの短編に類例があるが[x]、イソップの蝙蝠の寓話と結び付けて謎としたところに創意がある。被害者の「蝙蝠を撮影した」という言葉や死の直前の奇妙に陽気な振る舞いが「殺害されたとき、微笑していた」という描写と相まって、全編に不思議な明るさを漂わせているところが印象的である。問題の写真が関係者によって検分されたときの、ある人物の反応[xi]や、金田一が犯人の部屋を訪ねる直前の何気ない描写[xii]など、巧みな伏線もミステリの醍醐味といえるだろう。最初の二重殺人における被害者同士の会話から犯人を推定する推理も巧みである[xiii]

 パズル・ミステリの細部の工夫という点で優れている、というのが、本作の第一の特徴である。

 しかし、さらに興味深いのは本作の基本テーマだろう。前作の『犬神家』が「遺産相続」をテーマとするミステリであることは、前述のように、筆者自身の解説がある。では、続編ともいえる本作のテーマは何だろう。それは「予告殺人」である。

 伊豆沖の月琴島に住む大道寺家の娘である智子を、東京に居を構える義理の父親の大道寺欣造が引き取ることになる。彼女の結婚のためだが、花婿候補として三人の求婚者がすでに選ばれている。そこに、欣造宛てに奇妙な脅迫状が届く。「警告。月琴島からあの娘をよびよせることをやめよ」に始まる謎の手紙は「彼女は女王蜂である。慕いよる男どもをかたっぱしから死にいたらしめる運命にある」、と連続殺人の勃発を予言して締めくくられる。いかにも横溝らしい、おどろおどろしい手紙であるが、そこにはさらに、19年前の智子の実の父親の死が殺人であったことが示唆されており、早くも過去と現在が結びついた事件の謎が暗示される冒頭になっている。そこで大道寺家の弁護士から金田一に捜査の依頼がもたらされる。

 本作のテーマが「予告殺人」であるとした場合、注目したい文章がある。前述の『犬神家』の構想を解説した作者のエッセイに、最近読んだ面白いミステリとして、アガサ・クリスティの『予告殺人』が挙げられているのである[xiv]。『予告殺人』の翻訳は1951年に出版されており、作者がいつ読んだのかまではわからないが、『女王蜂』の連載開始が同年6月。実際の執筆はもっと早く、構想を立てたのはさらに前だったとすれば、直接の関係はないのかもしれない。しかし、『予告殺人』が『女王蜂』の構想に影響を与えたかもしれないと考えると、興味深い。

 というのも、本作の「予告殺人」テーマに関する工夫は、犯人には殺人の意図がない、というひねりにあるからである。すなわち「予告殺人の偽装」(実際は、意図的な偽装ではないが)というプロットである。脅迫状の書き手、すなわち犯人の意図は、智子を東京に来させないことにあり、殺人ではない。ところが、事件が進展していくにつれ、やむにやまれぬ事情から、殺人を犯さざるをえなくなってしまう。実は、というほどでもなく、あるいは当然の設定だが、脅迫状の書き手は19年前の事件の犯人でもある。しかも都合のよいこと(?)に、かつて月琴島での殺人に関わった旅役者の一人が最初の二重殺人の舞台となる伊豆のホテルの使用人となっていた。犯人は、彼が求婚者のひとりに19年前の殺人の犯人を教えようとしているところを、たまたま(!)盗み聞きしてしまったのだ。こうして犯人は、19年前の事件に続いて、第二、第三の殺人に手を染めていくことになる。

 このように、遺産相続という殺人動機が明白な『犬神家』に対し、「予告殺人」といいながら、単なる脅しに過ぎなかった手紙が意図せざる連続殺人に発展していく、という対照的なプロットを試みたのが『女王蜂』だった、とみることができる。

 さらに推測を重ねれば、予告殺人テーマと絡めて、最初の二重殺人に動機のトリックを仕掛けるのが当初の狙いだったのではないか。

 すなわち、最初の二重殺人では、求婚者の一人とかつて旅役者だったホテルの使用人が密談しているところが(犯人とは別の人物に)目撃されており、まず求婚者の死体が発見される。次いで使用人の死体がホテルの庭から発見され、死亡時刻が求婚者よりも先だったことがわかる[xv]。しかしこの展開は、使用人の死体の発見を遅らせて、二人の密談が19年前の事件についてであることを伏せておけば、求婚者の殺人がメインで使用人は巻き添えを食って殺害された、とみせることもできたはずである。そのほうが脅迫状の「慕いよる男どもをかたっぱしから死にいたらしめる運命にある」という文言にも合致して、読者をミスリードすることができただろう。つまり最初の二重殺人の主従を錯覚させることで、予告殺人テーマをより活かすことができたはずなのである。

 けれども実際は、作者は、すぐに使用人の死体を発見させ、死亡時刻が求婚者よりも先であることを知らせたうえで、二人が19年前の事件の話をしていたことを目撃者に語らせている。二重殺人の動機が19年前の事件にあることを早い段階で読者にも知らせてしまっているのである。もちろん読者は、知らされるまでもなく、過去と現在の殺人の関連性を予想しているだろうが、せっかくのアイディア-同じアイディアで書かれた鮎川哲也の長編がある(注で作品名を挙げる)[xvi]-がもったいない気がする。

 無論、作者が上記のような構想を当初立てていたという証拠はないが、もしそれが最初のアイディアだったとすれば、なぜ断念してしまったのだろうか。

 使用人の死体を隠したままでストーリーを進めるのは困難、と判断したのだろうか。二人の密談の内容を伏せておくと、19年前の事件とのつながりを明らかにするタイミングが難しいと考えたのかもしれない。真相はわからないが、『女王蜂』のプロットが「犯人には不本意ながら連続殺人に発展してしまった予告殺人」[xvii]であったとすれば、第二の殺人の動機をそれらしく工夫することで、その狙いを活かすことができたのではないだろうか。第三の殺人の被害者が最後に残った求婚者ではなく、しかしヒロインに欲情をいだいている行者だったのは、読者の予想をはずすと同時に、この段階で、「予告殺人」がブラフである可能性を読者に提示する効果を持たせられたように思う。いずれにしても、本作の構成の緩さは、「予告殺人のヴァリエーション」「犯人の意図せざる連続殺人」の基本構想を十分に消化できなかったことに起因するのかもしれない。月並みな言い方になるが、傑作になりそこねた意欲作、それが『女王蜂』ではなかろうか。

 

[i]幻影城 横溝正史の世界』(幻影城、1976年)、245頁。

[ii] 都筑道夫『サタデイ・ナイト・ムービー』(奇想天外社、1979年)、104頁。

[iii] 横溝正史「探偵小説の構想」『横溝正史自選集4 犬神家の一族』(出版芸術社、2006年)、321-27頁。

[iv] 絶世の美女をめぐって求婚者が次々と殺害されるストーリーは共通しているし、両作ともいささか通俗的なのは掲載誌を考慮しての読者サーヴィスと思われる。

[v] 横溝正史『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、98頁。文庫本の売り上げからすると、8位から10位は『三つ首塔』『女王蜂』『夜歩く』になる、としたうえでの発言。

[vi]横溝正史自選集4 犬神家の一族』、342-44頁。浜田知明による解説。

[vii] 『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』『悪魔の手毬唄』『仮面舞踏会』。『八つ墓村』は『新青年』連載後に、『宝石』に解決編が載った。

[viii]横溝正史自選集4 犬神家の一族』、345頁。

[ix] 『女王蜂』(角川文庫、1973年)、464-70頁。

[x] G・K・チェスタトン「奇妙な足音」『ブラウン神父の童心』所収。ジョン・ディクスン・カー「B13号船室」(1943)『カー短編全集4/幽霊射手』(創元推理文庫、1982年)、200-227頁、も類似したトリックである。また日本では、島田一男『上を見るな』(1955年)、都筑道夫『やぶにらみの時計』(1961年)も似かよったトリックを使用している。

[xi] 『女王蜂』、211頁。

[xii] 同、109-12頁。

[xiii] この解説部分で、弁護士が金田一に「いつかあんたもいってたとおり」、と、犯人を特定するための重要な前提となる推理について言及しているが、実際は、最後の解決より前に金田一がこの推理を述べている場面は描かれていない。どうやら、作者は伏線を張るのを忘れてしまったようだ。それとも、この推理を提示してしまうと、読者にすぐ見破られてしまう、と警戒したのだろうか。『女王蜂』、440頁。

[xiv]横溝正史自選集4 犬神家の一族』、325-27頁、横溝正史「探偵小説の構想」『横溝正史探偵小説選Ⅲ』(論創社、2008年)、592-94頁。

[xv] 『女王蜂』(角川文庫)、174頁。

[xvi] 鮎川哲也『人それを情死と呼ぶ』(1961年)。

[xvii] このプロットは、エラリイ・クイーンの『ダブル・ダブル』を思わせる。同作は1950年の長編だが、横溝が目を通していたかどうかは、わからない。同書の翻訳刊行は、1957年である。森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、190頁。