パトリシア・ハイスミスとトム・リプリー

 

(『太陽がいっぱい』、『贋作』、『アメリカの友人』、『イーディスの日記』、『リプリーをまねた少年』、『扉の向こう側』、『孤独の街角』、『死者と踊るリプリー』の内容に触れています。)

 

 パトリシア・ハイスミスの『キャロル』を除く全長編を読み終わった。

 1990年代以降、突如日本でもハイスミスの翻訳が雪崩のごとく奔出して、一種のブームになった。そのときに丹念に本を買い揃えておいたのだが、最近まで読む機会がなかったのだ。あまり好きなタイプの小説ではなかったこともあった(じゃ、なんで集めたんだよ、と突っ込まないでほしい)。

 で、全巻読破した感想は、というと、大変面白かった。

 読む前はそれほど気が乗らないのだが、読み始めると、段々と引き込まれて、後半は巻置く能わざる、という経験を何度も味わった。

 やはり、文章の力だろう。ハイスミスの代名詞となっている、何かがはずれたような登場人物たちの心理描写はもちろんだが、何気ない日常描写であっても飽かせない。主人公の何ということのない生活の描写が、ストーリーの展開により緊迫したひりひりするサスペンスに変わり、また日常に戻る。その緩急の繰り返しが無駄のない硬質な文章で語られるので、やめられなくなるのだ。

 ハイスミスが基本的に貴族趣味な作家であることも、性に合っていたようだ。主人公はおおむね知的で内攻的な青年で、決して下品でも粗暴でもない。金がなくとも、彼らの生活スタイルは優雅で下卑たところがない。それはハイスミス自身の生活スタイルでもあるのだろうが、暴力が描かれても、作品は暴力的ではない。そこが、筆者のような「知的な」読者を引きつける所以であろう(ここは笑うところです)。

 しかし、評価の高い後期の作品については、少々物足りないものも感じた。『イーディスの日記』(1977年)[i]が、ハイスミス作品でももっとも後味が悪い、という評言を目にしていたので、恐る恐る読んでみたのだが、あまりそういう感じは受けなかった。むしろハイスミスにしては甘い結末だな、と思った。登場人物で一番胸糞悪いドラ息子が上手くやったかのような結末は確かに不愉快だが、私は、てっきり、最後は狂った主人公が病院に閉じ込められ、それでも嬉々として日記を綴る場面で終わるかと思っていたのだ。ところが、イーディスはあっさり退場し、日記はそのまま誰の眼にも止まらず忘れ去られる。このラストを悲惨と感じる読者もいるのだろうが、むしろ私には、主人公は苦しみから解放されて穏やかな結末を迎えたとしか思えなかった(妄想日記も世間に晒されずに済んだし)。

 『扉の向こう側』(1983年)[ii]も、最後に主人公がキレて一家全員を撲殺するのではないか、と半ば恐れ、半ば期待していたが、こちらも実にハイスミス的な偏執狂親父を殺したのは弟のほうで、主人公は新しい生活へと歩み出す青春小説になっていた。傑作と聞いていた『孤独の街角』(1986年)[iii]も、確かにハイスミス的粘着質イカレ男が主人公につきまとうところはいつもどおりだが、ヒロインの少女の死がもたらす衝撃は、かつての長編のような暴力的カタストロフィには繋がらず、淡々とした結末は文学的ともいえる。言葉を変えると、ハイスミスも年を経て優しくなった、というのが感想だった。

 しかし、ここで取り上げたいのは、これらの作品ではない。ハイスミス唯一のシリーズ作品であるトム・リプリーの諸長編である。

 もっとも、上記の後期作品との関係は無視できない。リプリーものは、1970年代以降にシリーズ化し、ハイスミスの晩年に行くにしたがって、長編に占める割合が増えていったからである。リプリーのシリーズの比重が後になるほど増していくのは、後期作品の変化とも関係しているだろう。

 以下、リプリーのシリーズに関して、思うところを述べたいが、長編小説は読んだものの、短編小説はまったく読んでいない[iv]ハイスミスに関する評論も一切目を通していない(そんな金はない)。それで、何か語ろうとするのだから、ずうずうしいと承知している。まあ、それほど熱烈なファンというわけではないので大目に見て欲しい(なら、そもそもそんなものを書くな、とは言わないでください、お願いします)。

 まず、シリーズ全編を整理してみよう。

 

太陽がいっぱい』(The Talented Mr Ripley, 1955)[v] 1/5

『贋作』(Ripley Under Ground, 1970) [vi]

アメリカの友人』(Ripley‘s Game, 1974)[vii] 2/4

リプリーをまねた少年』(The Boy Who Followed Ripley, 1980)[viii] 1/3

『死者と踊るリプリー』(Ripley Under Water, 1991)[ix] 1/2

 

 右側の分数は、各ディケイドの長編に占めるリプリーものの割合である(50年代は、『キャロル』を除く)。ちなみに60年代は7長編あるが、リプリーものはない。

 シリーズといっても、5作しかない。しかし、『太陽がいっぱい』が(『キャロル』を除くと)長編第二作、『死者と踊るリプリー』が最後から二番目の長編ということを考えると、いわばハイスミスの作家人生はトム・リプリーとともにあった、といってもよいだろう。

 ハイスミスの作品で、主人公たちは多く成り行きから犯罪に走り、あるいは破滅し、あるいは司直の手から逃れる。しかし、いわゆる常習犯罪者と呼べるのは、トム・リプリーくらいである。もっとも、彼も無論最初はちょっとしたきっかけから殺人者となる。『太陽がいっぱい』は、今でもアラン・ドロン主演の映画(1960年)の印象のほうが強いのだろうか。小説のトム・リプリーは、あんな精悍でぞっとするような美男子のイメージではない。表層的には、道徳心の欠如した自己中心的な人間だが、性格は繊細で傷つきやすく、罪の意識と犯罪の暴露に怯える一面も見せる。その一方で、不意打ちとはいえ、二人の男をあっさり殴り殺すのだから、俊敏で、思った以上に腕っぷしが強いのかもしれない。

 『太陽がいっぱい』は、アラン・ドロンの映画と異なり、リプリーが疑われながらも、最後まで逃げおおせるところで終わっている。このラストの相違も散々指摘されてきたが、ハイスミスに常識的な勧善懲悪に反発する気持ちがあったことは確かだろう。しかし、むしろ犯罪が暴かれないほうが現実味があると思っていたのかもしれない。あるいは、タイトル(『才能豊かなリプリー君』)から明らかなように、トム・リプリーという主人公を描く小説である以上、彼が世界を手玉に取ってピンチを脱するのが当然と考えていたのだろうか。

 『太陽がいっぱい』で、リプリーはミステリの常套手段である一人二役を演じて警察の眼を眩ませようとする。目まぐるしく二つの人格を行き来して演じ分けるので、リプリーも作者も、よく混乱しないものと感心する。その間、リプリーは何度も犯罪発覚の危機に見舞われ、その都度、彼の不安な心情が細かく描かれて、サスペンスを高めていくのだが、それらはすべてリプリーの視点からの描写で、捜査側からの視点は一切省かれている。いわゆる警察ミステリではないのだから、当然ではあるが、なぜヨーロッパの警察はこんなにもたもたしているのだろう、と思わないでもない。フレンチ警部[x]なら、リプリーの犯した細かな失策を見逃したりはしなかっただろう。結局、警察側がどこまで捜査を進めているのか不明のまま、小説も事件も終わる。

 確かに犯罪が成功するという結末のほうがリアルであるという面はある。1931年に書かれたフランシス・アイルズの『殺意』[xi]では、最後主人公の殺人者は逮捕される。勧善懲悪というより、この著者らしい皮肉な結末だが、信じられないようないい加減な容疑で逮捕され、有罪となる。1930年代だから倒叙推理の傑作とされているが、1980年代なら杜撰な結末と見なされただろう(もちろん、著者の狙いはリアリティの追求ではなく、風刺にあったのだが)。

 『太陽がいっぱい』は逆の結末だが、リプリーがあまりにも強運であるようにも見える。The Talented Mr Ripleyは、まさに天与の才に恵まれたリプリーの物語で、運の良さも才能に含まれているのかもしれない。

 しかし、リプリーのシリーズが本当に面白くなるのは、続く『贋作』を挟んだ『アメリカの友人』からである。『贋作』で犯罪集団に加わったリプリーは、再び一人二役で謎の画家に扮して、贋作を疑うアメリカ人マーチソンを騙そうとするが、疑いが晴れぬまま男をフランスの自宅に招くと、例によって(?)ワインの瓶で殴り殺す。その後、仲間の贋作者であるバーナードが罪の意識に駆られて失踪すると、彼を追いかけてドイツまで赴くが、なぜか彼の口をふさごうとはしない。この辺りは、友人に手をかけることはできないが、自分を脅かす赤の他人なら躊躇なく始末するリプリー君の素敵な人生哲学が披瀝される。

 『アメリカの友人』でも、リプリーの悪意なき憎悪は健在で、あるパーティであてつけがましい(とリプリーが感じた)発言をした男トレヴァニーに人殺しをさせようと画策する。彼は難病で余命わずか、家族に金を残したいと思っている。そこに付け込んだリプリーは、敵対するギャングを抹殺するために金で雇える暗殺者を探している犯罪者仲間に、トレヴァニーの情報を伝える。トレヴァニーは逡巡したものの、仕事を引き受けることを決意し、何とか最初の殺人を決行するが、次の列車内での暗殺では窮地に陥る。ここまでは、リプリーのクズっぷりがいかんなく発揮され、読者の嫌悪感はマックスとなる。しかし、列車内で、トレヴァニーがもう駄目だと思った瞬間、突如としてリプリーが現れるのである。そして彼に代わってギャングを手際よく片付ける。以後、リプリートレヴァニーを助けて、自ら事件の渦中に飛び込んでいく。

 この列車内にリプリーが登場した瞬間が本作のクライマックスで、彼は陰湿な性格破綻者から天翔けるヒーロー(もっとも理不尽な犯罪者であることに変わりはないが)へと変貌を遂げる。作者は、彼の心情を、こう描写する。「巻き込んだのはこっちだから、助けてやるのが義務だと思った」[xii]。まことに身勝手で、はた迷惑な男だが、作品後半のリプリーは、捕われの姫を救出に現れた白面の騎士のごとく、颯爽とトレヴァニーを助けて次々と降りかかる難局を切り抜けていく。最後の苦い結末に至るまで、『アメリカの友人』はリプリーの物語(Ripley‘s Game)となるのである。

 『アメリカの友人』を読んで感じ、続く諸作を読んで確信したのは、リプリーものの醍醐味は、彼の突拍子もない行動を楽しむところにある、ということである。

 『リプリーをまねた少年』では、もはやリプリーは犯罪者ではない。ひとりのアメリカ人少年がフランスのリプリーの自宅を訊ねてくる。父親の死を目撃したショックで少年は失踪し、家族が彼を捜索している、とわかる。リプリーは少年を匿うが、どうやら、彼は父を殺したのかもしれない。リプリーは無関係にもかかわらず少年の世話をし、ドイツに旅行に連れていきさえするが、そこで、少年の身元を知る犯罪者グループに誘拐されてしまう。責任を感じたリプリーは少年の父親や彼に雇われた探偵と落ちあい、誘拐団に身代金を渡す役を買って出る。

 リプリーの本領が発揮されるのはここからで、深夜取引き場所に現れた誘拐団の男に、リプリーは突如として襲いかかり、殺害してしまう。

 身代金の引き渡しに現れた誘拐犯を撲殺する小説というのを寡聞にして聞かないが、この展開は斬新というより、はちゃめちゃである。少年の生命を考えないのか、非理性的な軽率な行動だ、などと常識を言っても始まらない。しかも、この無茶な行動は事態打開の動因となる。あまりのことに右往左往する誘拐団の混乱に乗じて、リプリーと仲間は少年を救い出し、誘拐団を壊滅させる。ジェイムズ・ボンドかよ、といいたくなる展開には唖然とする。

 シリーズ最終作となった『死者と踊るリプリー』でも、彼の非論理的かつ非理性的な行動原理は全開である。同作では、かつての『贋作』事件でリプリーが殺害したアメリカ人マーチソンの亡霊が悪夢のようにリプリーに襲いかかる。いかにもハイスミス的な、何の得もないのにリプリーの旧悪を暴こうとする男プリッチャードが現れ、執拗にリプリーに付きまとい、脅しをかける。他のハイスミス作品の主人公のような立場にリプリーが置かれるのだが、リプリーに共感するようになった読者はハラハラしながら、彼の運命を案じるまでになる。

 ついにマーチソンの死体を発見したプリッチャードは、何とリプリーの家の玄関にこれ見よがしに放置していく。リプリーに負けず劣らずクレージーなキャラクターであるが、リプリーだって負けてはいない。いや、プリッチャードなど所詮リプリーの敵ではないぶっ飛んだ反撃を開始する。玄関前に放置された死体を、今度は相手の家の庭にある池に投げ込んで逃げ去るのである。子どもの喧嘩か、と思うが、自分が殺害した死体を相手につき返すなど、現実ならありえない、などというのもあほらしい。自暴自棄というか、やけくそな行動である。ところが、物音に気付いたプリッチャードが妻とともに池を調べに出てくると、足を滑らせて転落し、そのまま事故死してしまう。

 なんともご都合主義な結末とも映るが、かくしてリプリーはまたしても危機を脱し、妻とともに暮らす穏やかな生活に戻るのである。

 こうしてみると、リプリーのシリーズは、作者であるハイスミスの恩寵(タレント)を受けたトム・リプリーがあらゆる困難に打ち勝っていく英雄譚に見えてくる。リプリーには、どんな脅威に直面しても、それに打ち勝つ才覚があるが、その結果は、最後に作者という神によって報われるのである。

 ハイスミスによれば、トム・リプリーは、「とっておきのアイディアが浮かんだときのためのキャラクター」[xiii]、ということだそうだが、これはリプリーを活躍させられるアイディア、という意味だろう。トム・リプリーは、ハイスミスにとって、まぎれもないヒーローだったのだ。

 同時に、月並みだが、老境に向かう作者にとり、リプリーは最愛の息子のような存在だったのだろう。後期になるにつれ、リプリーものが増えていくのは、この悪辣だが憎めない青年を、ハイスミスが心から愛していた証左にみえる。後期作品に見られる(と、筆者が思う)ハイスミスの優しさは、リプリーの場合は、彼を甘やかし、好きなように振る舞わせる母親のそれであるように思われる。

 ともあれ、ハイスミスが亡くなってすでに久しい。(くどいようだが、『キャロル』を除く)全長編を読み終えて、改めて思うのは、トム・リプリーが今度は何をしでかしてくれるのか、そんなわくわくする気持ちをもう味わうことができないとは、何と残念なことだろう。

 

[i] 『イーディスの日記』(上下)(柿沼瑛子訳、河出文庫、1992年)。

[ii] 『扉の向こう側』(岡田葉子訳、扶桑社ミステリー、1992年)。

[iii] 『孤独の街角』(榊優子訳、扶桑社ミステリー、1992年)。

[iv] その後、『11の物語』を読みかけたが、まだ読み終わっていない。

[v]太陽がいっぱい』(佐宗鈴夫訳、河出文庫、1993年)。

[vi] 『贋作』(上田公子訳、河出文庫、1993年)。

[vii]アメリカの友人』佐宗鈴夫訳、河出文庫、1992年)。

[viii]リプリーをまねた少年』(柿沼瑛子訳、河出文庫、1996年)。

[ix] 『死者と踊るリプリー』(佐宗鈴夫訳、2003年)。

[x] F・W・クロフツフレンチ警部最大の事件』(1924年創元推理文庫、1959年)ほかで活躍するイギリス人警察官。

[xi] F・アイルズ(A・バークリー)『殺意』(創元推理文庫、1971年)。

[xii]アメリカの友人』、174頁。

[xiii] 『贋作』「訳者あとがき」、441頁。