『災厄の町』の犯人は誰?

 『災厄の町』(1942年)は、エラリイ・クイーンの代表作のひとつとして知られる。日本でも、江戸川乱歩[i]らによって、第二次大戦後に紹介された作品のうちの傑作として喧伝されてきたが、決定的となったのは、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアによる評伝[ii]で、1940年代の諸長編が1930年代のそれらを上回る評価を得ていたことが知られるようになってからだろう。

 その後、クイーン自身の評価[iii]や各種のベスト表[iv]に採られることで、本書の名声は今や揺るぎないものとなっている(クイーン作品全般の海外における人気の凋落はおくとして)。

 本書の最大の特徴は、作者自身が副題に「小説」と記したように、30年代までのパズルから、人間を描くミステリへと転身したことである。とはいえ、それは文学に近づいた、あるいは近づけたことを意味するのか、文学になることがえらいのか、はなんとも言い難い。果たして、『災厄の町』は文学なのか。筆者の初読時の感想は、アメリカのホーム・ドラマみたいだなあ、というものだった。昭和30年代頃にテレビ放映されていたような、平凡な一家のなかに起こる事件や騒動を描いたコメディである。もちろん、『災厄の町』は喜劇ではなく悲劇で、詩情にあふれた美しい文章(とくにノーラの葬儀の場面など)で書かれ、感情を揺さぶるドラマが描かれている。しかし、いささか通俗的にも映る。主題は、要するに男一人と女二人の三角関係のもつれによる殺人事件で、深遠な心理的葛藤が描かれているわけでもない。クイーンも文学を書こうとまでは思わなかったかもしれないが、目指したのはその方向だったのだろう。果たしてそれはどこまで達成されたのだろうか。

 もうひとつの特徴は、上述したことと関わるが、ライツヴィルというアメリカの地方都市を舞台としたことである。それまでの都市ミステリから、田舎町の、より濃密な人間模様を対象とすることで、確かに登場人物の書き込みは深まり、個々の人物像が明確となった。ただし、やはり類型的であることは否めない。いずれも小市民的な性格の人々による、極めてありふれた言動とそれに対する反応が描かれるばかりで、それがまさに通俗的でもある。無論現実味は増し、それが、クイーンが目指したノヴェルであるとすれば、作者の願望は達成されたと言ってよいだろう。もっと些細な点としては、ライツヴィルを舞台としたミステリがシリーズ化することで、クイーンのファンにとって忘れがたい作品群となった。

 上記のような特徴があるものの、本書がミステリである以上は、ミステリとしての評価が問題となるが、一貫して評価は高かった、といえるだろう。日本では、次の『フォックス家の殺人』(1945年)までが佳作とみられ、続く『十日間の不思議』(1948年)以後になると、クイーンも衰えた、と見なされてきた[v]。その評価が一変したのが、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアの評伝からだが、今はライツヴィル・シリーズ全体については触れない。本書に関しては、恐らく真相の意外性が、日本でも大いに受けたのだろう。夫による妻の殺害未遂とみられていた事件が、最後のエラリイの推理によって、だまし絵のようにがらりと様相を変えるラストは衝撃的であった。

 その一方で、本書でのエラリイの推理が、これまでのような論理的な理詰めの推理とは異なるものという印象を受けた読者も多いと思われる。アガサ・クリスティのように、関係者の何気ない言葉や行動を組み合わせることで事件の真相を再構成する方法で、とくに本書では、「○〇に見えていたが、実は○〇だった」、というアイディアが中心となっている。しかし、クイーン研究の第一人者である飯城勇三は、クリスティなどとは全く異なる、と言う。「この手の作品では、結末の意外性は、『AはBを嫌っているように見せかけていたが、実は愛していた』・・・といった″嘘″によりかかっている」が、本書では登場人物の心理や言葉に嘘はない、「全員が本心をさらけだしているのだ」、と指摘している[vi]。全員は言い過ぎだろうが、言いたいことはよくわかる。飯城は、続けて、本書では「事件の構図が″嘘″なのである」、「エラリーは、推理によって、真の構図を明らかにする――。これこそが中期以降のクイーン作品のパズル」[vii]である、と結論している。

 なるほど、と思わせる分析だが、それでは、「真の構図」を明らかにするエラリイの推理の中身については、どうであろうか。(以下、真相を明らかにする。)

 改めて、本書の概要を記すと、エラリイが偽名で滞在することになったライツヴィルのライト家で、一家の一大事が起こる。次女ノーラと仲たがいして町を去っていた婚約者のジム・ヘイトが突如戻ってきて、ノーラと結婚する、と宣言したのだ。二人は無事式を挙げるが、ジムの姉[viii]が彼らを訪問する頃から、夫婦の関係に亀裂が見え始める。そして、ノーラの殺害予告ともとれるジムの書いた三通の手紙を、エラリイと三女のパットが発見する。事件の阻止をパットに約束したエラリイは、予告された新年のパーティで二人を監視するが、予想に反し、ジムがつくったカクテルを飲んで毒死したのは、ノーラではなく、ノーラからグラスを受け取った義理の姉ローズマリーだった。

 ジムとノーラ、そして姉のローズマリー。この三人の関係、というより、姉と思われていたローズマリーが実はジムの妻だった、というのが隠されていた真の構図の核心である。この真相を推理する直接のデータは、エラリイたちが発見した三通の手紙が、ノーラと結婚する前にジムが梱包した荷物のなかに入っていた、という情報である。この情報をもとに、手紙に書かれていた「妻」はノーラではない、という推理が導かれ、エラリイは、「妻」とは自称ローズマリーである、と結論する。が、その直接証拠はない(というか、エラリイは突き止めようとしない)。ノーラが命を狙われていた「妻」でない以上、「犯人が誰かは明らかなので」[ix]、殺害されたローズマリーは「妻」以外ではありえない、というのがエラリイの推理である。これが論理的なのか、それとも言いくるめられているだけなのか、よくわからないが、問題は、「犯人が誰かは明らかだ」、という点である。

 エラリイの推理では、最初から狙われていたのはローズマリーだった、と仮定すると、ジムには、ノーラがカクテルをローズマリーに渡すことは予見できない。従って、ジムは犯人ではない。従って、犯人はローズマリーにカクテルを渡した人物、すなわちノーラである。

 しかし、ノーラは、自分が渡されたカクテルをローズマリーに渡すことができる、と確信できただろうか。この疑問は、すでに指摘されたことがあるが[x]、その後、『災厄の町』について、この点に関するエラリイの推理が問題になったとは聞かない。しかし、このことは決定的に重要である。エラリイ・クイーンのミステリなら、なおさら、なおざりにはできない問題だろう。エラリイは、犯人はローズマリーに直接カクテルを渡した人物以外ではありえない、と断定して、それ以上説明していない。しかし、どうすれば、殺害しようとしている相手に、確実に自分のグラスを渡すことができるだろう。

 この疑問について、ノーラの立場に立てば、いくつかの可能性が考えられる。

1 ノーラは精神を病んでいたため冷静な判断ができず、何とかなるだろう、と楽観していた。

2 パーティの間、何度もカクテルを持ってローズマリーのまわりをうろうろして誘っており、ようやくローズマリーが、グラスをよこせ、と言ってくれた。

3 新年のパーティでローズマリーを殺害できなくとも、別の日にでもまた試みればよい、と考えていた。

4 いざとなれば、力づくでローズマリーに毒入りカクテルを飲ませるつもりだった。

 1の可能性では、そもそもパズルが成立しない。犯人が理性的に行動してくれなければ、推理もなにもあったものではない。2は、いわゆるプロバビリティの犯罪(絶対確実ではないが、成功すれば儲けもの、という犯罪)に似ているが、パーティの間、ずっと毒入りのグラスをもって、うろうろしていたのだろうか(他の誰かに、頂戴、といわれたら、どうするのだろう。あるいは、なんで飲まないの、と聞かれたら)。それとも、カクテルを渡すときに、とっさに毒を入れようとしたのだろうか(手品師?)。カード・マジックで、相手に自分が取らせたいカードを誘導して取らせる手品に似ているが、うまくいくのか? 3は、その2が上手くいかなかった場合の対処策ともいえるが、機会がこなければ断念して、また次の機会を待つ、という頭のよいやり方である。しかし、それでは殺人予告に反することになってしまう。4も2の追加的対処案だが、論外。

 つまり、行き当たりばったりの犯行としか思えないのだ。それまでの計画性はどこに行ったのか。(もっとも、手紙を書いたのはジムであって、ノーラではないが、それを利用したノーラは、予告の手紙通りに、自分が狙われていたかのような事件を計画的に起こしている。)

 これでは、やはりノーラが渡されたグラスにははじめから毒が入れられており、入れたのはノーラではない[xi]、という解釈もなりたちそうである。ノーラが犯人である以上、ローズマリーはジムの妻以外ではありえない、とエラリイはいうが、ローズマリーが妻であるという具体的証拠(結婚証明書など)が提出されているわけではない。従って、ノーラにはローズマリーを殺害する動機はない、とも言いうる。どうも、推理がはなはだ危なっかしいのだ。

 また、エラリイは、ジムにはノーラを殺害する意思がなかった証拠として、次のように説明する。ジムが「妻を殺してやる」、と人前で叫んだ[xii]ことがあるが、そのときの「妻」とは、法的に結婚が継続しているローズマリーのことだ、と。しかし、法的にはそうだとしても、実際に結婚式まで挙げたノーラを、法律上の妻ではないから、妻とは呼ばないはずだ、と断定するのもどうなのか。心理的に不自然だと思わないのだろうか[xiii]。論理的にはともかく、こうした心理面へのエラリイの洞察力の程度をみると、本当に本書で人間を描こうとしているのか、疑問視したくなる。

 

 『災厄の町』は、確かに余韻を残すドラマの魅力があり、真相も意外である。エラリイ・クイーンの代表作に相応しい作品だと思うが、推理の肝心なところが説明不足、あるいは説得力がない。

 最初に読んだとき、首を傾げたが、以来、傾げっぱなしで、もとに戻らなくなりそうだ。

 誰か、この疑問を納得できるように説明してくれませんか。

 

(追記)グラス手渡し問題について、さらに以下のような可能性に思い至った。

1 ノーラは、ローズマリーにグラスを渡すチャンスがない場合は、自ら毒入りカクテルを飲んで、ジムが殺人未遂で逮捕されるように仕向ける計画だった。殺人予告は未遂で終わったように見せかける。ローズマリーに対する復讐は、また日を改めて。ただし、ジムが逮捕投獄されてしまうと、ローズマリー殺害の罪を着せる相手がいなくなる、という問題が生じる。

2 ローズマリーがグラスを要求しない場合は、自分からローズマリーに、もう飲めないから、どうぞ、とかなんとかいって、グラスを渡すつもりだった。こうすると、自分も容疑者になることは免れないが、それまでの事前工作で、ジムのほうに疑いがかかる、と予測できる。しかし、ローズマリーが拒否する可能性も、依然として払拭できない。

 

[i] 乱歩は、戦後間もない時期のエッセイで、クイーンがバーナビー・ロスと同一人物と知った驚きや、戦後の作風の変化について述べた後、次のような表現で賛辞を贈っている。「彼等は最早単なる手品師ではない。その奥底の知れない、変転自在の実力は気味が悪いほどである。」「推理小説随想」(1946年)『随筆探偵小説』所収、『鬼の言葉』(光文社文庫、2005年)、328頁。

[ii] フランシス・ネヴィンズ・ジュニア『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)。

[iii] 『災厄の町』(越前敏弥訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2014年)、飯城勇三による解説、503頁。

[iv] 同。

[v] 『Yの悲劇』(鮎川信夫訳、創元推理文庫、1959年)、中島河太郎による解説、429頁。

[vi] 飯城勇三エラリー・クイーン・パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、58頁。

[vii] 同。

[viii] 『災厄の町』、訳者あとがき、499-502頁を参照。

[ix] 同、471頁。Ellery Queen, The Dragon’s Teeth and Calamity Town (Signet Books, 1980), p.208. 実際の文章は、「(ローズマリーが妻であることを)ぼくが知っているのは、あの女を殺した真犯人がだれかを知っているからだ(I know that because I know who really killed her.)」。

[x] 早川書房編『世界ミステリ全集』第3巻(エラリイ・クイーン編)(1972年)の巻末座談会より。

[xi] ノーラは、ジムに罪を着せるために自殺しようとした、という解釈も可能だが、その場合「ローズマリーがジムの妻だった」という、エラリイの解釈も根拠を失う。「ローズマリーにグラスを渡せなかった場合は、自殺するつもりだった」、とすれば、どうか。それではローズマリーへの復讐は果たせないし、それまでの事前の計画の執念深さとは矛盾する。

[xii] 『災厄の町』、136-37頁。

[xiii] ジムは、ローズマリーもノーラも、二人とも妻と呼んでいて(考えていて)、この時はローズマリーのことを言っていた、と考えることはできるが、ノーラのことではない、という確証もないだろう。