E・クイーン『Xの悲劇』

(犯人および推理内容を明かしていますので、ご注意ください。)

 

 Xと言えばY、ちょっと離れてZ、というのがエラリイ・クイーンのXYZ三部作の日本における評価だろうか。

 『Zの悲劇』も(バーナビー・ロス名義だが)エラリイ・クイーンの傑作とする声は多いが、『X』と『Y』に比べると、旗色が悪いようだ。それほどまでに、『Xの悲劇』と『Yの悲劇』はミステリの名作として並び称されてきた。やっぱり『Y』でしょう、わたしは『X』のほうが好き、と喧々諤々の議論がかまびすしかった(のか?)。今はそんなこともないのだろうか。

 これら二冊は外観が対照的なことも、評価が分かれる要因だった。中島河太郎は、かつて『Yの悲劇』の解説で、「『Xの悲劇』はクイーン名義の系統での最秀作とも見られぬでもないが、『Yの悲劇』は思い切って舞台の雰囲気を変えている」[i]、と述べたが、確かに、ニュー・ヨークの喧騒を描いて、すべて乗り物の中で事件が起こる『X』に対して、『Y』は、どこの都市でもいいような外界から切り離された邸宅の内部でほぼ物語が完結する。派手な連続殺人の『X』では、名探偵ドルリー・レーンが、アルセーヌ・リュパンはだしの変装までして颯爽と駆けまわる。一転、『Y』では、終始沈鬱な表情を浮かべながらハムレット荘とハッター家を往復するのみ。『X』を、アメリカを描いた小説として高く評価したのは、作家の日影丈吉[ii]だったが、さすがに卓見である。一方の『Y』は、むしろイギリス風ともいえる。

 パズル・ミステリとしての特徴も対照的である。『X』は、「一人二役(実際は一人三役もしくは一人四役)」と「顔のない死体」という常套的だが大掛かりなトリックを思い切りよく使っている。それに対し、『Y』では、トリックらしいトリックは用いられず、「凶器がマンドリン」といった異様な謎の解明が焦点となる。

 しかし、無論、クイーン作品である以上、最大の特徴は論理的推理にある。『X』では、何と連続殺人のそれぞれについて犯人を特定する推理が展開される。江戸川乱歩は、横溝正史の『獄門島』を評して、「三つの殺人にそれぞれ異った三つのトリック」[iii]を用いた、と称賛したが、『X』は、「三つの殺人にそれぞれ異なった三つの推理」というわけである。さらに、最後の殺人では、初めてダイイング・メッセージが使われ、それがタイトルの「X」に繋がる(タイトルは、レーンが犯人を「X」と呼称したことから来ている)。小説の最後の一文字が「X」というのも、実にしゃれている。

 加えて、上述のようにレーンがある人物に変装して読者を驚かしたり、小説半ばの裁判シーンでは、いかにもクイーンらしい推理が披露される(まるで長編小説のなかに短編ミステリが入っているようだ)など、これでもか、と言わんばかりのおまけつき。最初から最後まで、これほどパズル・ミステリの楽しみを味わわせてくれる小説は、恐らく他にないだろう。

 この過剰なまでのサーヴィスぶりを見ると、クイーンは、本書で史上最高のパズル・ミステリを書いてやろう、と考えたのだろう。ミステリのあらゆる要素をぶち込み、実際、冗談でなく、三冊分ほどのヴォリュームがある。あまりの大盛りデカ盛りに、お腹一杯になるが、本書に匹敵する密度のミステリを他に探すとすれば、ディクスン・カーの『三つの棺』(1935年)くらいのものだろう。

 とはいえ、本書の読みどころは、前述のとおり、三つの殺人における三つの推理にある。

 

 第一の殺人は、雨中を走る市電のなかで発生する。突如、意識を失って死亡した株式仲買人のポケットから、猛毒を塗った針を無数に植えつけたコルク球、という奇怪な物体が発見される。乗車前に、男性はポケットをまさぐっているのを目撃されており、凶器が投入されたのは市電のなかと判断される。

 以上の状況をサム警部とブルーノ検事から聞かされたレーンは、あっという間に次のような推理を組み立てる。

 

 この奇妙な凶器は、犯人も素手で扱うことはできない。

 犯人は、自分自身が猛毒で倒れるのを避けるために、手袋を使用したはずだ。

 犯行後の警察による現場検証では、手袋は発見されなかった。

 雨中のため、市電の窓は締め切られており、手袋を車外に投棄することは不可能である。

 市電には、たまたま刑事が乗り合わせており、警察への通報を車掌に指示している。

 警察の到着までの間に、市電を離れたのはこの車掌ひとりである。

 手袋を始末したのは車掌であり、犯人もしくは共犯者と推定される。

 

 理路整然とした推理であるが、ちょっと引っかかるのは、このハリネズミのような凶器を扱うのに手袋で充分だろうか、ということである[iv]。凶器の具体的な形状は図示されていないし、車掌がはめていた手袋がどの程度厚手のものなのかも説明されないので、想像しようもないのだが、こんな物騒な凶器は、たとえ手袋をしていても触りたくない。

 もうひとつ、この猛毒コルク球はミステリ史に残る特異な凶器であるが、作者は、上記の推理を組み立てるために、このような凶器を考案したのだろうか、それとも、(最初にかますために)変わった凶器をまず考えたのか。1979年の座談会(注4参照)で、都筑道夫は次のように語っていた。

 

  「最初にあの凶器を考えたんじゃないのかな。そうしたら、それ、捨てられないで  すよ。」[v]

 

 作家ならではの発言だが、レーン探偵の説明を聞くと、車掌が犯人という推理を成立させるために、あの凶器を考案した風にも見えてくる。そう思わせるところもクイーンらしい。

 ただ、レーンの推理の強度については疑問もある。車掌が犯人だとした場合、犯行後、手袋を始末する理由があるだろうか。レーン自身指摘しているとおり、車掌が夏の日中でも手袋をしているのは不自然ではない。この点を、レーンは、車掌犯人説の補助的推理に用いているが、手袋をしていても不自然ではないのだから始末する必要はない、とも言える。レーンの推理では、手袋をしていること自体が犯人である論拠(あるいは、少なくとも容疑者のひとりである論拠)になるが、これは充分な法的証拠たりえるだろうか。もちろん、名探偵の推理が、(小説中の)裁判で有罪の決め手となる必要はないが、(小説中の)犯人がそう思うかどうかは、重要だろう。まさか、手袋をしているからといって即逮捕されるとは思わないのではないか。むしろ、手袋を始末して車内に戻れば、さっきまではめていた手袋をどうしたんだ、と気づかれる恐れがある。車掌はすべての乗客と料金のやり取りをするのだから、一人や二人は、彼が手袋をしていた、と証言するかもしれない。なかなかに危険である。むしろ車掌が手袋をしていないほうが、不審に思われるかもしれない。従って、車掌が唯一手袋を始末する機会を持ちえたとしても、彼がそうする可能性は低い。

 そもそも、車掌が手袋を始末した、あるいは事件発生時にはめていた手袋を車内に戻った時にははめていなかった、という事実が確認されたのか、というと、それもいささか曖昧である。レーンは、車内に残された、あるいは乗客が身につけていた不審な物の一例として手袋を挙げてサム警部に質問するが、その答えがノーだった[vi]。読者へのデータは、このレーンとサム警部の会話だけで、遺留品のリストなどが示されるわけではない。レーンの質問は、「その場にそぐわないもの」[vii]がなかったか、であって、言い換えれば、その場にあって不自然ではないものは除外される。車掌の手袋などは、当然あってしかるべきものの筆頭だろう。まあ、手袋がなかったかと聞かれれば、サム警部は、「車掌は手袋をしていましたけどね」、と答えるのが自然だから、そう言わなかったとすれば、手袋をしていなかったことを暗示すると解釈できるが、絶対確実というわけではない。作者としては、あまりそこを厳密にしようとすれば、読者に感付かれてしまうので、痛しかゆしではある。とはいえ、『ローマ帽子の謎』でもそうだった[viii]が、肝心なデータの出し方が、やや緩いのは気になる。

 いずれにしても、車掌が犯人だとすれば、手袋を始末するのは、むしろ危険である。とすれば、彼は共犯者である可能性が残るが、その可能性は、第二の事件の推理と矛盾する。やっかいなことである。

 だが、凶器の特性上、手袋に毒が付着するという危険性を考慮した、とすれば話は別である。このリスクを予測するなら、当然手袋は始末しなければならない。しかしそうなると今度は、犯人は、自分が警察への通報を命じられるとは予測できないはずだから、どうやって、手袋を始末するつもりだったのか、という別の疑問が生じる(レーンは、雨が降っていなければ窓から投棄できたというが、それも結構危険な気がする)。さらに考えを進めると、上記の危険性を犯人が予知していたとすれば、替えの手袋を用意していただろう。それまで手袋をはめていたのに、素手になれば怪しまれると考えれば、そこまで準備するはずである。しかし、その場合でも、どちらにせよ手袋を処分しなければならない。身体検査されることも予測しているだろうから。とすると、結局、どんなに良い条件でも、少なくとも雨中に決行するはずはない、ということになる。

 このような推論に対しては、この殺人方法では手袋が必要で、それを処分できたのは車掌しかいないのだから、彼が犯人もしくは共犯者であるとする推理は揺るがない、という反論が来るだろうが、色々と疑念が生じるのも事実である。

 結局、車掌が犯人の場合(あるいは他の誰であってもそうかもしれないが)、こうしたリスクの高い殺人方法を選択するだろうか、という根本的な疑念に漂着する。もし車掌が手袋を始末したとすれば、それは、手袋をしていれば疑われる、と犯人が考えた(つまり名探偵レーンの推理をすでに予想している)ことを示しているが、その危険を察知していたのなら、そもそもこのような凶器を用いた殺人計画など立てないだろう。そんなことを言ったって、実際に計画を実行したから事件になったんだろ、と開き直られればそれまでだが、どうもこの犯人は、慎重なのか、無謀なのか、計りかねる。

 雑然と述べてきたが、これまでにも、乗車前に被害者がポケットをまさぐった、という描写だけでは、凶器がすでにポケットに投入されていた可能性を排除できない、という指摘があったように記憶している[ix]。何より、自分自身が毒にやられて死んでしまうかもしれないような物騒な凶器を選ぶだろうか、という素朴な疑問がどうしてもつきまとう。ちょっと電車が揺れた瞬間、凶器をぐっと握りしめてしまって、犯人自身があの世行き、では、しゃれにならない。

 あれこれと突っ込みどころを探すのも、クイーンを読む楽しみではあるが。

 

 次に第二の殺人における第二の推理に移ろう。

 第二の殺人は、渡し船のなかで起こり、投げ落とされた死体が船と桟橋の間に挟まれて、顔がつぶされて発見される。その衣服から、被害者は、第一の殺人に登場した車掌のチャールズ・ウッドと判定される。

 レーンの推理は、今回は、死体の検死報告書[x]とウッドの勤務記録[xi]という具体的な証拠に基づく。この二つを、エド・マクベインの87分署シリーズのように、資料として並べれば、誰でも、おやっ、と気づきそうな単純な、しかし巧みな手掛かりである。推理自体よりも、手がかりの巧妙さが際立つ、と言えそうだ。ちなみに、1982年に行われた『ミステリマガジン』のアンケートで、『X』のこの手がかりに、いたく感心した、と回答しているのが、山田風太郎[xii]である。意外な発言のようだが、風太郎の愛読者なら納得するだろう。(私見だが)日本ミステリ史上最高の短編作家である山田風太郎[xiii]らしい意見である。

 ところで、これは推理には関係ないが、近年、虫垂炎の手術数は減少している、とも聞く。高木彬光の『人形はなぜ殺される』(1955年)のトリックが現代の鉄道事情と合わなくなっているように、本書の検死報告書の手がかりも、若い読者にはピンとこなくなっている、ということはないのだろうか。

 もうひとつ気になるのは、死体の指紋がまったく問題にされていないことである。衣服から身元を確認したとはいえ、この時代、顔のつぶされた死体の指紋を採取照合しないものだろうか。本書で、指紋が無視されているわけではない。犯人逮捕の場面では、指紋が取られて一人二役が明らかとなる[xiv]。第二の殺人で、死体の両手指も損傷していた、という描写はない。確かに、ここで指紋照合してしまっては、死体がウッドのものではないことがばれてしまうから、無視するしかない、というのはわかる。しかし、ウッドの住居の監視にちゃんと刑事が配置されているのに、指紋を一切採取していないとすれば、ニュー・ヨーク市警も随分ずぼらだと思わないでもない。

 

 第三の殺人は、列車内が舞台である。

 被害者とその取り巻き達と同乗したレーンの目前で、最後の殺人が実行される。被害者は、シャツの胸ポケットを貫通して心臓を撃たれ、死亡していた。右利きなのに、左手の人差し指と中指を交差させ、奇妙な印(Xの形)をつくっている。また、乗車前に購入した列車の回数券が胸ポケットから上着のポケットに移動していることが判明する。

 以上の事実から、レーンが組み上げた推理はこうである。

 

 回数券が移動しているのは、被害者が一旦、胸ポケットから取り出したことを意味する。

 死の瞬間、被害者は右利きでありながら、左手で奇妙な印をつくっていた。これは、右手がふさがっていたことを示す。

 右手に回数券を持っていたとすれば、回数券が移動していた理由の前半が説明できる。

 回数券を取り出したのは、車掌が検札に来たからである。

 死体発見時に回数券が上着のポケットに移っていたのは、車掌が殺害後に入れたものと考えられる(回数券を持ったまま発見されれば、車掌が犯人とばれてしまう)。

 シャツの胸ポケットに戻さなかったのは、どこから取り出したかわからなかったからであり、またわかっていたとしても、銃弾によって撃ち抜かれていたので、そうしたくてもできなかったからである(さらに期限切れの古い回数券が上着のポケットに入っていた)。

 以上から、犯人は車掌と推定される。

 

 この推理に対しても、回数券が移動していたのは、被害者がとくに理由なく移したからに過ぎない(人はよくそういうことをする)。右利きだとしても、すべての動作で右手を優先するとは限らない(よほど複雑な動作でなければ、左手を使うかもしれない)、あるいは、犯人から見えないように、わざと左手を使ったのかもしれない、といった反論が可能である。しかし、三つの推理のなかでは、もっとも想像力に富んだ面白い推論だと思う。他にも、凶器の拳銃が、殺害推定時刻の数分後に通過する鉄橋から川に投げ込まれ、レーンの進言によって後に発見される。犯行後に通過する川に投棄して処分するという発想は、列車の運行を熟知していなければできない。すなわち、これも車掌犯人説を強力に補強する手がかりとなる。

 以上のとおり、三つの殺人にそれぞれ異なる三つの推理によって、犯人を明らかにする。クイーン長編でも、これほど多彩な推理の饗宴が供される豪華な作品は他にない。『X』がクイーンの最傑作とする意見には、強力な根拠がある。

 まあ、こんな回りくどい殺人計画を長年かけて考えなくとも、一番安全なのは、闇夜に紛れて後ろからポカリとやって、さっさと逃げ出すことだろうし、もし復讐相手に思い知らせてやりたいなら、監禁拘束して、少しずついたぶってやればいい。自分が傷つくかもしれないような危険な凶器をわざわざ作る必要はまったくない。

 そもそも、この犯人は、復讐を果たすのに、何で車掌になろうと思ったのだろう。それも二重生活、いや三重生活などというしちめんどくさい、そして危険な事前工作を何年もかけて準備したのか。常軌を逸している。確かに復讐の一念で常軌を逸しているのだが、しかし、それを言っちゃあおしまいよ、というのも確かである。犯人が車掌になって復讐しようと思ったのも、要するに、作者が、車掌が犯人のミステリを書きたかったからなので、つまるところ、『Xの悲劇』(あるいは大半のパズル・ミステリ)は、現実の常識に何ら基盤を持たない、まったくの作り物に他ならない。

 しかし、この作り物は、数あるミステリのなかでも飛びきり精巧に出来ている。中盤の渡船の殺人を挟んで、市電の殺人と列車の殺人、それぞれ手の込んだ推理がシンメトリックに対比される。作り物ならではの均衡の取れた美しさがそこにはある。

(一部、文章を追加しました。2023年10月21日)

 

[i] 『Yの悲劇』(鮎川信夫訳、創元推理文庫、1959年)、中島河太郎による解説、428頁。

[ii] 日影丈吉アメリカの夢と現実(クイーン管見)」『ミステリマガジン』(エラリイ・クイーン追悼特集号)No.320(1982年12月)、162-63頁。

[iii] 江戸川乱歩「『俳諧殺人』の創意-『獄門島』を評す」(1949年)中島河太郎編『名探偵読本-8 金田一耕助』(パシフィカ、1979年)、145頁。

[iv] 1979年の座談会で、評論家の権田萬治が同様の疑念を述べているが、凶器をポケットに忍ばせるところを目撃される危険性なのか、凶器を扱う危険性のことなのか、はっきりしない。都筑道夫赤川次郎・権田萬治「アメリカを代表する探偵作家」『ミステリマガジン』(エラリイ・クイーン生誕50周年記念号)No.283(1979年11月)、81-82頁。

[v] 同、82頁。

[vi] 『Xの悲劇』(越前敏弥訳、角川文庫、2009年)、98頁。

[vii] 同。

[viii] 『ローマ帽子の秘密』(越前敏弥青木 創訳、角川文庫、2012年)、飯城勇三による解説、492-94頁参照。

[ix] この発言は、小林秀雄によるものだった。江戸川乱歩『書簡 対談 座談』(講談社文庫、1989年)、238-39頁。乱歩とのこの対談は、『アクロイド殺し』などにも触れていて、めっぽう面白い。瀬戸川猛資「誰がアクロイドを殺したって?-『アクロイド殺し』」『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、221-22頁を参照。

[x] 『Xの悲劇』、163頁。

[xi] 同、184-85頁。

[xii] 『ミステリマガジン』No.320、143-44頁。

[xiii] 初期短編のことを言っているのだろう、と思われるかもしれないが、風太郎小説特有の(そしてミステリの本質でもある)奇想天外なアイディアと結末の意外性は、忍法小説と明治小説にこそ発揮されている。話が逸れた。

[xiv] 『Xの悲劇』、387-88頁。