『緑のカプセルの謎』(1939年)は、ジョン・ディクスン・カーの作品中、比較的読まれてきた長編のひとつであろう。創元推理文庫で版を重ねてきて[i]、近年新訳も出た[ii]。創元社が、カーの改訳に熱を入れている恩恵を受けた格好である。
なぜ本作が版を重ねてきたのかは、正直、よくわからない。江戸川乱歩の「カー問答」にも取り上げられていないし、密室ミステリでもない。本書のトリックは、オーソドックスな人間入れ替わりで、独創的というわけでもない。そこで、旧版の中島河太郎の解説を読んでみると、過不足なく本書の特徴をまとめており、遺漏がない。本書の特徴は、まず「心理学者の殺人事件」[iii]の副題が示すように、心理的錯覚をテーマにしていること、そのために作中に心理学のテスト、というより、むしろ観察力テストの場面が大胆に取り入れられていることである。また、もう一つのテーマが「毒殺」で、『三つの棺』(1935年)の「密室講義」ならぬ、フェル博士による「毒殺講義」が織り込まれている。中島の解説は、これらに満遍なく触れながら[iv]、最終的に、「全体としてストーリーの起伏に乏しいのが難であって、カーの作品の装飾のオカルティズムがまったく見れない。私などがカーに心酔する魅力の半ばは、そのオカルティズムにあるが、本書では思い切ってそれを捨て、謎を全面的に押し出したものである。彼の抱負をおして知るべきだろう」[v]と締めくくっている。的確に本作の特質を言い当てているのはさすがである。とはいえ、『緑のカプセルの謎』はカーの傑作である、という論調ではない。
本書の評価を一気に引き上げたのは、やはり松田道弘の「新カー問答」だろう。松田は本書について、「・・・『緑のカプセルの謎』にでてくる奇妙な実験劇は、その構成自体が見事な奇術的趣向になっている。マニアにはこたえられない」[vi]、と奇術に造詣の深い著者らしい視点でとらえ、この心理テストの場面に関するカーの技巧を詳しく分析している[vii]。さらに、カーのベスト6のひとつに挙げている[viii]のだから、松田の本作への熱の入れ方が伝わってくる。
さらに、松田は、もうひとつ重要な指摘をしている。
「この作品のみどころは、犯人がなぜ殺人現場を撮影したフィルムを処分せずに放
置しておいたのかという謎だろう。」[ix]
まさにそのとおりで、この謎を解けば犯人が判明するようにつくられている。前年の『五つの箱の死』などもそうだが、1930年代後半から40年代前半のカーの作品は、犯人を特定するためのデータと結びついた謎の考案に、抜群の冴えを見せるようになる。本書などは、その代表的な例である。
上記以外にも、それまでそこかしこにばらまかれていた関係者の証言や行動の謎が、すべて最終章で説明される。読者が疑問に思うようなことをフェル博士が自問したり、あるいは登場人物が代わりに質問してくれて、それらの謎にことごとく答えが出されていく様は圧巻である。かゆい所に手が届くというか、中島が示唆したように、謎解きの解説部分の面白さではカー作品中でも群を抜いている。
ところが、その一方で、本書を読み終わると、犯人は最初から明らかだったような印象を受けるところが面白い(得てして、ミステリは読了後にそういった感想を持ちがちだが、それとはちょっと違う)。
真犯人以外に犯人たりうる登場人物はいなかったように感じるのである。
本書の犯人は、カーの作品では定番ともいうべき(?)犯人である。えらい人間の言いなりになるくせに裏がありそうで、人を見下すような尊大さが垣間見える。おまけに、主人公格のエリオット警部(『曲がった蝶番』でおなじみ)の恋敵でもある。こういった傲慢な美青年もしくは主人公の恋のライヴァルというのは、カー長編では高確率で犯人である(暴論か)。しかもこういった連中が、初期のカー長編ではうじゃうじゃ出て来た(『アラビアンナイトの殺人』や『孔雀の羽根』みたいに)。それで、カーの小説は人物の見分けがつかない、などの批判も多かった。
しかし、本書ではこのタイプの登場人物はひとりだけで、その人物が犯人である。いつものカーらしくない、ともいえる。犯人を当てさせないために、似たようなキャラクターをぞろぞろ出すのがカー流だ(偏見か)。
しかし、犯人が最初から明らかだったように感じるのは、上述の理由だけではなさそうだ。本書のもうひとつの特徴である「毒殺講義」と関係があるように思える。18章で開陳される「毒殺講義」は、「密室講義」とは異なり、毒殺トリックの分類ではない。現実の(とくに男性の)毒殺者に共通な特徴を抜き出し、毒殺者のタイプを明らかにする作業である。その狙いは、いうまでもなく本書の犯人がその類型に属する、と主張するためである(もちろん、毒殺者のタイプに合わせて、犯人のキャラクター造形をしているわけだ)。「人に取り入るのが上手い」「女性に対する絶大な魅力がある」「人好きがして感じがよい」などの現実の毒殺者の観察から導き出された人間類型が、本書の犯人を特定するためのデータになっている、ということである。『三つの棺』における「密室講義」は小説上の技巧の話であるのに対し、本書の「毒殺講義」は現実の犯罪に関する分析で、両者はまったく異なる。しかも、前者は、ミスディレクションとして用いられているのに対し、後者は、真相解明のためのストレートな手掛かりになっている。というより、「毒殺講義」が指し示す犯人像に当てはまる登場人物は(カーがそう描写しているのだから当然だが)一人しかおらず、作者が名前を挙げずとも、読者には誰のことか見当がつく。それが、真相が明らかになる前から犯人がわかっていたように錯覚する要因になっているようだ。
本書での「毒殺講義」の狙いは、いってみれば、ヴァン・ダインなどが初期の作品で試みた心理学的探偵法を思わせる。あるいは、近年におけるプロファイリングのようなものか。本書で、カーがやたら心理学を持ち出して、副題にも使用しているのは、作中の心理学実験のほかに、こうした、いわば心理学的な探偵法を試みたことによるもののようだ。
その意味で、本書において、犯人を特定するための最大の手がかりは「毒殺講義」にあるといえる。結果的に、いかにも犯人らしい人物がそのまま犯人だった、というカーにしては珍しい趣向の作品であるが、それでも「毒殺講義」の手前まで、容易に犯人を当てさせない技巧はさすがである。ありふれたトリックを用いながら、的を絞らせない手練の技はやはりカーである。同時に本書は、彼の本領が、密室トリックなどよりも、むしろこうしたオーソドックスな一人二役トリックの使いたかたのうまさにあることを再確認させてくれる。
1940年代前半のカーの作品は、巧妙なアイディアと小味なトリックの組み合わせで新たな黄金期を迎えるが、本書がその皮切りとなる秀作であることは間違いないだろう。
[i] 『緑のカプセルの謎』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1961年)。
[ii] 『緑のカプセルの謎』(三角和代訳、創元推理文庫、2016年)。
[iii] 同、328頁。三橋 暁による解説。
[iv] 『緑のカプセルの謎』(1961年)、364-66頁。
[v] 同、367頁。
[vi] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、225頁。
[vii] 同、225-27頁。
[viii] 同、209頁。
[ix] 同、225頁。