エラリイ・クイーン『Yの悲劇』

 『Yの悲劇』(1932年)は今読まれているのだろうか。

 『Yの悲劇』といえば、本格ミステリの最高峰として知られてきた。日本では常にベスト10、ベスト100の上位を占め、あまりの根強い人気に「いつまでも『Yの悲劇』でもないだろう」、という声も多かったように思う。

 そうした意見は、ハードボイルド・ミステリのファンのように本格ミステリを好まない人達からだけではなく、本格愛好者からもしばしば出されていた。

 代表的なのは、瀬戸川猛資の「そんなに傑作ですか?――『Yの悲劇』」[i]というエッセイだろう。もともとクイーン・ファンである同氏ならではの分析で、『Y』のもっとも評価されている(と思われる)犯人の意外性が、実は「意外ではない」ことを論証している。実際、その指摘には説得力がある。誰もが、同氏のような読み方をするとは思えないが、確かに言っていることは当たっている。

 江戸川乱歩[ii]を初めとして、『Y』を読んだ読者がまず驚き、絶賛するのがこの犯人の意外性なのだから、瀬戸川の主張は『Y』の根本的な評価を揺るがすものである。

 ちなみに『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』が1991年に「読者が選ぶ海外ミステリ・ベスト100」を発表したとき、その結果について、池上冬樹瀬戸川猛資長谷部史親による鼎談も公表された。このときは7位に選ばれた『Y』に対して、瀬戸川は改めて「なんか知らないけど、『Y』はとにかく強い(笑)。たたいても死なない」[iii]と発言して笑いを誘っている(マンドリンで叩けばよかったかも)。

 実は、瀬戸川の指摘を待つまでもなく、『Y』の犯人は、途中でばれてしまう。本作のパズル・ミステリとしてのメイン・アイディアは、作中人物の書いた(作品世界の現実に即した)ミステリの梗概のとおりに事件が進行する、という「筋書き殺人」であることで、作中作、いわゆるメタ・フィクション的な構成を取っていることである。この梗概のなかで、犯人はある行動をとるように指定されている。そして実際に登場人物のひとりがそのとおりに行動する。従って、素直に読めば、梗概が名探偵のドルリー・レーンによって発見された段階で犯人は明らかになってしまう。

 瀬戸川の書いていることとは異なるが、確かに本作は、途中で作者が犯人を明かしてしまっているのである。しかし、だから犯人は意外ではなかった、という声は聞かない。上記の人物(実際に犯人である)が取った行動はあくまで偶然で、犯人は別にいるはずだ、と大半の読者が思い込むからだろう。あるいは、ただ梗概に従えば自ら犯人であると暴露することになるから、真犯人ならそんな行動はとらない、と多くの読者が考えるからだろう[iv]。その意味では、本書の犯人は、作者がそこまで手の内をさらけ出しても、読者が予想しづらい意外な人物だった、といえる。そして、もちろん作者もそう考えている。

 解決編で、(もったいぶってなかなか犯人の名前を明かさない)レーンに対して、ブルーノ地方検事とサム警部は自分たちが考える犯人を名指ししていくが、ブルーノ検事が挙げるのが被害者の一人ルイーザ・キャンピオン、サム警部が挙げるのが梗概の作者で死亡したとみられていたヨーク・ハッタ―(タイトルのYは彼の名前のイニシャル)である。ヨーク・ハッタ―はともかく、眼と耳が不自由なルイーザを犯人呼ばわりするブルーノ検事は非常識を通り越して、とんでもなく頭がぶっ飛んでいる。確かに、このような犯人を設定した作品は日本にあるが[v]、ほとんど前代未聞の、しかも無理無体なアイディアである。しかし重要なことは、作者が、本作の真犯人はルイーザよりも意外な人物だと考えていることである。つまり、それほど作者自身が本作の犯人の意外性に自信を持っていたということに他ならない。だからこそ、梗概のなかにあれほどあからさまな手掛かりを残しているのである。そう考えれば、瀬戸川の指摘にも関わらず、本書の犯人は、読者が名指しを躊躇う、容易に想定しえないという意味で、やはり意外な犯人といえるだろう。

 犯人の意外性だけが、『Y』の長所ではないが、それでは昨今の評価はどうだろうか。『週刊文春』が1985年と2012年に実施した「東西ミステリーベスト100」を見ると、『Y』は、1985年に1位、2012年に2位となっている[vi]。2012年の1位はアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』である。どうやら、『Y』の地位は依然安泰なようである。

 2010年には新訳も出版された[vii]。日本の読者は、まだまだ『Y』に飽きていないらしい。

 以下、改めて『Yの悲劇』のパズル・ミステリとしての特徴について見ていきたい。(いまさらだが、以下、『Xの悲劇』『Yの悲劇』の犯人その他を明かす。)

 

 本作の第一の特徴は、ミステリの組み立てが極めてシンプルなことである。すべての伏線やそれに基づく推理が、犯人の設定から導き出されている。

 もっともこの点は、前作の『Xの悲劇』でも同様で、「路面電車および列車の車掌が犯人」という設定からすべての手がかりが案出されている。第一の殺人の凶器、第三の殺人の回数券とダイイング・メッセージなど。しかし、『X』では、この設定を必要以上に活かそうとして、すなわち複数の殺人で車掌が犯人というアイディアを使おうとしたため、途中で顔のない死体のトリックを用いて犯人の一人二役を整理する、などの操作が必要となり[viii]、やや複雑になりすぎたという側面がある(とはいえ、『X』はその過剰さからくる贅沢感がいいのだが)。

 『Y』の場合は、「少年が犯人」というのが基本構想である。上記のミステリの梗概というアイディアも、本来、少年には不可能なはずの複雑な計画犯罪の犯人として成立させるための工夫であり、本作における犯人の意外性を担保し補強する仕掛けとなっている。単純な犯罪なら子どもが犯人という設定にもさほど無理はなく、他方、意外性は逓減する[ix]。綿密に計画された犯罪であるからこそ、この犯人の意外性が際立つわけである。梗概を最後まで伏せておくわけにはいかなかっただろう-梗概のとおりに起こる殺人事件というアイディアそのものが、まさにミステリの面白さといえるから、効果的な箇所でその存在を読者にも示したい-が、少なくとも途中までは、この犯人が読者の疑惑の対象となる可能性は限りなく低い。

 この犯人の設定がうまく活かされているのが、本作における犯人を特定する推理である。犯人特定の推理はエラリイ・クイーンの真骨頂といえる部分だが、名探偵ドルリー・レーンは、ルイーザが犯人に触れたという証言と実験室の棚に残された手指によるほこりのあとから犯人の身長を推定して、犯人を確定する。この推理が興味深いのは、身長の推定というのは、ミステリの名探偵がまま得意気に披露するお馴染みの芸であるが、しかし、普通は決定的な証拠にはならないからである。それはそうで、犯人の身長が170cmです、といっても、それで犯人が明らかになるわけもない。そんな身長の人間はいくらでもいるからである。

 『Y』の場合、屋敷内の殺人という関係者が限定される枠組みをつくって、(身長が大人より低い)子どもが犯人というアイディアを投入したことによって、身長を推定するという推理に意味をもたせている。もっとも、犯人を特定するためには、犯人が屋敷内のいずれの大人よりも身長が低いことを証明できればよいので、レーンがやったような厳密に身長を推定しようとする推理は、むしろ「そんなに正確に推定できるのか」という、サム警部たちが抱いたような疑問を読者にも抱かせてしまい、必ずしも有効ではない。しかし、クイーンは、ただ「大人より身長の低い犯人」というだけでは満足できなかったのだろう。犯人の身長は何フィート何インチ、と、そこまで証明してみせなければ、エラリイ・クイーンの、いやバーナビー・ロスの標榜するミステリとはならない、と考えたに違いない。推理自体は、クイーンの作品のなかで最良のものとまでは言えないが、しかしシチュエーションとの組み合わせは見事である。

 本作の第二の特徴は、上記の梗概というアイディアにみられるメタ・ミステリとしての側面で、近年メタ・ミステリの作品が増加したことによって、改めて『Y』のそうした面が注目されるようになった。実際には、作品中で創作ミステリが描かれる、というほど徹底したものではない-単なる梗概に過ぎない-し、作中作であることを伏せておいて、後で驚かす、といった仕掛けがあるわけでもないが、オーソドックスな、あるいは「陳腐な」トリックをメインとしたことで[x]、古臭いイメージを与えかねない『X』に比べて、『Y』がモダンな印象を与えている要因といえる。

 第三の特徴は、エラリイ・クイーンの一連の作品のなかで見た場合、とくに興味深い。クイーン名義のいわゆる国名シリーズ同様、バーナビィ・ロス名義の作品でも、最大の特長となるのは論理的推理である。上記の身長の推定などもまさにクイーン流であって、うるさいくらい理屈っぽい。しかし、本作における「最大の謎」の解明はそれを裏切るものだ。いうまでもなく、凶器のマンドリンをめぐる謎である。犯人の意外性とともに、『Y』の名声を一躍高めたのが、この「なぜマンドリンが凶器に選ばれたのか」という、ミステリの醍醐味ともいえる不可解な謎である。そのあまりの意外性が、『Y』といえばマンドリン、という強烈なイメージを植え付けてきた。だが、よく考えると、この謎解きは論理的でも何でもない。「なぜマンドリンを凶器に使ったのか」という問いの答えが、「理由はない」だからである。もちろん犯人が少年だから、梗概の「鈍器」を「楽器」と取り違えた、という説明はなされるのだが(この解釈も、13歳にしては馬鹿すぎる、という指摘が見受けられる[xi]。確かに、日本の14歳は人型巨大兵器に乗って世界を守るために戦っている)、これは要するに、子どもなので理屈は通じない、といっているようなものである。

 本作におけるもう一つの不条理な謎が、小説の中盤で起こる実験室の放火である。この場合も、レーンの結論は、「放火の動機はない」である。要するに、犯人が子どもなので、梗概に書かれていることにわけもわからず従ったのだ、ということになる。確かに謎解きとしては逆説的でなんとも意外だが、これもまた論理が通用しない謎である。

 ただし、だから犯人の行動に合理性がないということにはならない。本作の犯人は、ミステリの梗概にわけもわからず従って行動するだけだが、その結果、大人たちが慌てふためく。その様が面白くてたまらないのだ。自分が満足する行動を選択する、という人間の合理的な行動原理は貫かれている。ただ、大人とはその判断基準が異なるだけである。従って、本当は、ドルリー・レーンは、犯人が少年であることを突き止めた時点で、マンドリンの謎や実験室の放火の謎の答えを推察していなければならなかったのだ。子どもの心理に立てば、レーンほどの名探偵なら可能だったはずだ。「正直言って、わたしもあらすじを読むまでは、ジャッキーがなぜマンドリンを凶器に選んだのか、皆目見当もつきませんでした」[xii]、などと言っているようでは、やはりレーンも年のせいで頭が固くなっていたのだろう。それとも、頭が良すぎて、ジャッキーがこれほど馬鹿だとは思わなかったのだろうか。

 とはいえ、『Y』の規格外の面白さが、論理がすべてを支配するはずの作品世界で、論理を越えた謎が名探偵を立ち往生させる、という点にあることは確かである。小説の最後、レーンが見せる苦渋の表情は、犯人を死なせたことによるのではなく、論理が崩壊した世界の混沌に直面した苦悩を表している、とは言えないか。

 

[i] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、198-202頁。

[ii] 江戸川乱歩「Yの悲劇」(『随筆探偵小説』所収)『鬼の言葉』(光文社文庫、2005年)、436-41頁。

[iii] 早川書房編集部編『ミステリ・ハンドブック』(早川書房、1991年)、164頁。

[iv] 無論、この推測は、梗概が発見されるはずがないと犯人が考えている場合には当てはまらない。事実、本作の犯人はそのように思っている(はずだ)。しかし、「普通の」犯人ならこのような楽観的な考えは持たないだろう。

[v] 横溝正史『仮面劇場』(1939年)。

[vi] Wikipedia 「東西ミステリーベスト100」。

[vii] 『Yの悲劇』(越前敏弥訳、角川文庫、2010年)。

[viii] 一人二役を続けたまま容疑者として捜査の対象となるのは、犯人からしても危険すぎる。もちろん、作者の狙いは、被害者が犯人だった、という意外性にある。

[ix] シャーロック・ホームズものの短編「サセックスの吸血鬼」(1927年)などの先行例を参照。

[x] 「顔のない死体」や「一人二役」のトリックのこと。

[xi] 飯城勇三『エラリイ・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社、2005年)、271-72頁。北村 薫によるアンケート回答より。

[xii] 『Yの悲劇』(角川文庫)、410頁。