カーター・ディクスン『五つの箱の死』

 『五つの箱の死』(1938年)は、カーター・ディクスン名義の第九長編で、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの第八作である。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、容易に入手できるようになったが、現在再び幻の長編になろうとしている(ように見える)。

 その理由は、多分評判がよくないのだろう。例えば、「絶対さいしょに読んではいけないカー作品」[ii]、あるいは「ヴァン・ダイン等の推理小説の戒めに挑戦する特殊な犯人を狙っている。ただし、その点はみごとな空振りに終わった」[iii]、そしてまた「私は肯定するが、『五つの箱の死』は反則だと言う読者もいるだろう」[iv]、など。もはやノック・アウト寸前である。

 もともと本作の評価は高くはなかった。江戸川乱歩の「カー問答」では、未読だったためか、取り上げられていない[v]松田道弘の「新カー問答」でも無視されている[vi]。ダグラス・G・グリーンの評価は、「面白いが小粒な作品」で、「殺人犯はきわめて巧妙に隠されているので、少なくとも研究者の一人は、この作品では罪のある人間が演じる役割が小さすぎると不満をもらしている」、と付け加えている[vii]

 以上の諸氏の評価には、共通点があるようだ。「推理小説の戒めに挑戦する特殊な犯人」、「『五つの箱の死』は反則だ」、「罪のある人間が演じる役割が小さすぎる」、これらはいずれも犯人の設定に関する言及である。一言でいえば、「意外だが、フェアかどうか疑問だ」。それが「絶対さいしょに読んではいけないカー作品」という結論に結びついているのだろう。そして、グリーンの発言は別として、これらの批評はいずれも、ある評論に基づいているように思われる。瀬戸川猛資による本作へのコメントである。

 瀬戸川は、「ジョン・ディクスン・カーが好き」というエッセイのなかで、本作について言及していて、「意外性の極致を狙ったのだが、いくらなんでもこればかりは無理だった」、と述べている。これだけでは要領を得ないので、単行本化した際に、次のように追記した。「カーはこの作品で、〈登場人物外の犯人〉という趣向を試みようとしたのだ」[viii]

 瀬戸川は別のエッセイで、「腹立たしいことがひとつある。私がこんなにも好きなのに、世間には『カーなんか大きらいだ』と広言するミステリ・ファンが少なからず存在するという事実だ」[ix]、などと評論家にはあるまじき客観性を著しく欠いた文章を書いているが、お気に入り作家への偏愛ぶりが感じられて微笑ましくもある。

 閑話休題(あだしごとはさておき)。『五つの箱の死』の犯人に関する、上記の瀬戸川の指摘が、その後の本作への評価に影響していることは確かで、グリーンの文章は海外でも同様に考える評論家がいることを示唆している。

 しかしこの指摘は正しくない。『五つの箱の死』の犯人は、ちゃんと登場人物のリストに載っている。もちろん、リストに載っていない人物が犯人だったら、早川書房に苦情が殺到しただろうから、瀬戸川の言いたいことはそういうことではなく、名前が挙がっているが、作中に登場しない人物[x]、という意味なのかもしれない。しかし、そうだとしても、本作には該当しない。犯人はワン・シーンだけだが、姿を見せて、捜査陣と会話も交わす。グリーンが紹介している意見は、登場シーンが少なすぎるということかもしれないが、このワン・シーン・マーダラーは、カー作品では珍しくない。『蝋人形館の殺人』(1932年)、『剣の八』(1934年)、『死者がよみがえる』(1938年)なども、犯人の登場シーンは(逮捕の場面は別として)ひとつだけである。それがアンフェアだとすれば、カーの作品は結構な数が「反則」である。

 要するに、二階堂が引用しているように、ヴァン・ダインの二十則の十番目「犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章でひょっこり登場した人物に罪を着せるのは、その作者の無能を告白するようなものである」[xi]に抵触するということなのだろう。確かに、『蝋人館の殺人』や『剣の八』の犯人は、重要な利害関係者である(注で犯人を明かす)[xii]。しかし、『五つの箱の死』の犯人も、執事や料理人のような明らかな端役ではない。事件の鍵となる証拠品に関わっているし、殺害現場にも出入りしていたことを証言しており、「反則」とまでは言えないだろう。むしろ、二階堂のある意味で好意的な評価を否定するようだが、ミステリの既成概念に挑戦したといえるほどの意図がカーにあったとは思えない。いつもの手を使って、読者の眼をくらまそうとしたのだろう。

 それでは、お前は、本作がカー初心者に勧められる長編だと思うのか、と聞かれれば、正直そうとは思わない。また、カーの傑作だ、ともいうつもりもない。ただし、例えば、同じ1938年作で、トリック以外に(パズル・ミステリとして)あまり読みどころがなく、しかもトリックに重大な欠陥がある『ユダの窓』などよりは面白かった。

 『ユダの窓』より『五つの箱の死』のトリックのほうが面白かったというのか、正気なのか、とさらに突っ込まれそうだが、そうではない。

 『五つの箱の死』のトリックは、推理クイズ本などに必ず出てくるような、例のあれで、はっきり言ってしまうと、-(以下、トリックを明かす)

 

氷を使ったトリックである。

 

 事件は、被害者の自宅に招かれた人々が、ハイボールやカクテルを飲むと、入れられるはずのない毒が入っている、という不可能犯罪で、真相は、飲み物ではなく、あらかじめ凍らせてあった氷に毒が仕込んであった、というものである。飲酒の際の習慣に着目した、酒飲みのカーらしいトリックと言えるが、氷を使用する、というのは、当時でもすでに陳腐なアイディアだと作者も考えたのだろう。『ユダの窓』について悪口を言ったが、カー自身は同作のトリックには絶大な自信を持っていたようだ。反対に、『五つの箱の死』では、メイン・トリックに自信がなかったからか、ほかにいろいろとミステリの仕掛けを施している。本作で面白いのは、それらメイン・トリック以外の部分である。一番面白い工夫は、上記の犯人の設定と関わっている。

 本作で被害者となるのは、社会的地位がありながら犯罪を犯した人物を見つけて、強請るでもなく、単にいたぶって快感を覚えるという、いかにもカー的なトンでも性癖の持ち主である。彼は、わざわざ犯罪の証拠品を箱に詰め、外側に当該人物の名前を記して顧問弁護士事務所に預けている。そのうえで、犠牲者(犯罪者)たちを自宅に招いてパーティを開くと、その席上で毒を飲まされたうえ、刺殺される。自業自得である。招かれた客たちも毒を飲まされたところを発見されるが、同じ夜に弁護士事務所に賊が入り、証拠の五つの箱(これが原題)は盗まれているのがわかる。当然、毒を盛られた人々には殺人の動機があるので、そのうちの一人が毒を飲んだと見せかけて殺人を実行し、弁護士事務所から証拠の品を奪った後、また戻ってきたものと推定される。ところが、奪われた五つの箱のなかに、招待客以外の名前が記されたものがあった。犯人は、自分の犯罪の証拠だけを持ち去れば、直ちに疑われることを知っているので、当然、すべての箱の中身がなくなっているのだが、この該当者のいない五番目の箱が一体誰の犯罪の証拠を納めていたのか、そもそもなぜひとつだけ無関係と見える名前が記されていたのか。これが、この作品の一番大きな謎になっている。その答えは、単純だが、言われてみればなるほど、と膝を叩きたくなるような鮮やかさがある。

 このほかにも、殺人の現場に、もう一人、謎の人物が潜んでいたことがわかる。その人物はこの後殺害されてしまうが、彼は、犯罪現場で目撃したことを手記に残していた。そのことを種に真犯人を脅迫しようとして殺されたとわかるが、手記には思わせぶりな記述が散見され、実はアクロイド的な叙述トリックになっていることが最後に明かされる。この辺りも、カーらしい手練れの技を見せてくれる。

 このように、『五つの箱の死』は、メイン・トリック以外に、題名にちなんだ謎や手記を用いた叙述トリックが組み合わされて、読み応えのある長編に仕上げられている。最初に読まなくてもよいが、もっとも脂ののった時期に書かれた、パズル・ミステリの愛好者を充分楽しませてくれる作品である。

 ただ、さすがに西田政治訳は古くなったので、新訳が望まれる。

 

[i] 『五つの箱の死』(西田政治訳、早川書房、1957年、第3版、1993年)。

[ii] 『死が二人をわかつまで』(仁賀克維訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2005年)、若竹七海による解説「やっぱりカーが好き」、328頁。

[iii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、370頁。

[iv] 『貴婦人として死す』(高沢 治訳、創元推理文庫、2016年)、山口雅也による解説「結カー問答」、309頁。もっとも、山口が面白いと思うカー作品6作のなかに本書も選ばれている。

[v] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、300-35頁。

[vi] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、201-41頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、175-76頁。

[viii] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、46-47頁。

[ix] 同「異次元の夢想」、『夜明けの睡魔』、232頁。

[x] 実際にこのアイディアで書かれた作品がある。しかし、当然というか、傑作とは見なされていない。横溝正史『扉の影の女』(1961年)。

[xi] ヴァン・ダインの二十則ウィキペディア」。

[xii] 前者では、被害者の父親、後者では、被害者の娘(だが、実際は愛人)。