『爬虫類館の殺人』

 『爬虫類館の殺人』(1944年)は、ジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスン)の中期の代表作のひとつに挙げられている。『連続殺人事件』(1941年)や『皇帝のかぎ煙草入れ』(1942年)などとともに、創元推理文庫で版を重ねたこともあり、カーの長編でも比較的よく読まれた作品といえる。得意の密室ミステリだが、飛びぬけて見事なトリックとまではいえない。しかし、シンプルでわかりやすく、いささか奇術趣味が強いが、視覚的にイメージしやすい。これが本作をカーの中期の長編のなかでも人気のある作品にしてきた要因だろう。

 中島河太郎の解説もその長所をとらえて、「この至難な密室を、カーはみごとに解いてみせる。読者のだれもが気づいてしかるべきもので、盲点をつく手ぎわには、彼の奇術趣味が横溢している」[i]、と称賛を惜しまない。

 ダグラス・G・グリーンの評価は、「人物はくっきり描かれているし、密室も劇的だ」、と簡潔だが、もうひとつカーのファンならば周知の逸話を紹介している。クレイトン・ロースンとカーが、扉や窓が内部からガムテープで密閉された密室の謎にそれぞれ異なった解決方法を考案した、というものである[ii]

 面白い視点から本作を批評しているのが瀬戸川猛資だ。本作が書かれた1944年は、いうまでもなく第二次世界大戦中である。瀬戸川は、本作のトリックが大戦中ならではの社会習慣を前提としている点に注目して、カーのミステリ作家としてのプロ意識を絶賛している。「その彼方に彼は異次元のトリック郷を夢想していたのである」、と最後に締めくくっているが、カーの熱心なファンらしい賛辞である[iii]

 瀬戸川に張り合うわけではないが、本稿でも、本作が大戦中に書かれたという点を踏まえて、私見を述べたい。それは本作のタイトルについてである。

 解説で中島も書いているように、本作の原題は「彼がヘビを殺すはずはない」で、英語ではHe Wouldn’t Kill Patience。Patienceは被害者の動物園長が愛玩していたヘビの名前で、「小さいくせに、こいつの辛抱強さ(ペイシェンス)ときたら・・・・・・わしはこいつにペイシェンスと名をつけるつもりですよ」、と被害者が語る場面がある[iv]。この後、被害者は、部屋のすべての隙間にテープを張り付けた密室内で、ガスによる死を遂げているのが発見される。自殺とも見える状況に反論して、被害者の娘が発したのが上記の言葉、すなわち、「彼(父)がペイシェンスを殺すはずはない」[v]、である。ペイシェンスをかわいがっていた父親が、たとえ自分が自殺しようとも、ヘビを巻き添えにするはずがない、というのである。この言葉は、この後も何度も繰り返されて、謎を深める働きをしている[vi]。印象的で、しゃれたタイトルである。

 しかし、このタイトルは、本作のプロットを考慮すると、別の読み方ができるのではないかと思う。「ペイシェンスを殺す(kill patience)」とは「辛抱しない、辛抱できない」と解釈することもできる(慣用句にあるのかどうかは知らないが)。そしてこれは、本作における殺人者の動機を暗示している。なぜなら、この犯人は、被害者から珍しい外国の動物や爬虫類を現地で買い付けて、イギリスに移送する依頼を受けていた。ところが戦争の開始とともに、そうした積み荷のイギリスへの入港が制限されてしまう。被害者は、入港を許可するよう政府に働きかけて、ようやく許可が下りた時に殺されたのである。実は、犯人は入港許可が下りないと見越して、動物を集める仕事をせずに、前金を詐取していたのだった。殺人の動機は、この詐欺の罪が明るみに出ないようにするためである。つまり、犯人は、被害者が我慢できずに、一刻も早く集めた動物たちを移送するよう要求してくるものと思い、殺人に踏み切ってしまったのだ。本長編のタイトルは、「(うまく言い訳すれば、)被害者はもう少し辛抱してくれていたはずなのに」、と犯人に語りかけている、と読むことができる。

 こうした読み方が妥当かどうかは、もはや確かめるすべはないが、本作の犯人は、カーの作品中でもずばぬけて「卑劣な」犯人である。そのように人物造形されているのだが、カー自身がこういうタイプの人間を嫌っているのがあからさまにわかるような描写をしている。だとすれば、タイトルにも犯人を揶揄するかのような暗喩を含ませたとみるのは、穿ちすぎだろうか。

 

[i] 『爬虫類館の殺人』(中村能三訳、創元推理文庫、1960年)、336頁。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、305頁。

[iii] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』(早川書房、1987年)、231-38頁。

[iv] 『爬虫類館の殺人』、59頁。

[v] 同、126頁。

[vi] 同、142頁。