『三つの棺』

 (文中で、モーリス・ルブランの短編小説と鮎川哲也の長編小説の内容に触れています。)

 

 『三つの棺』(1935年)は、ジョン・ディクスン・カーの代表作の一つとして知られている。そればかりではなく、密室小説としても専門作家による投票で一位になったことがあるほどの有名作である[i]。ただし、トリック自体はさほど優れているとはいいがたい。ルブランの短編小説[ii]の応用に過ぎないし、応用の仕方もやや奇術的ないし機械的に過ぎる。やはりこの小説の魅力は、もうひとつの足跡のない殺人のトリックと組み合わせて、いささか無理はあるものの、犯行の順序を逆転させる大きなアイディア[iii]に統合させたこと、さらに、「カメレオンのコート」や被害者が自室に持ち込んだ奇怪な絵などの無数の伏線が最後にすべて解き明かされる鮮やかさにある、といえるだろう。

 本作のもう一つの特徴は、言うまでもなく「密室講義」にある。第17章で、フェル博士がまるまる一章を費やして説明する密室のトリックの解説は、本作の内容以上に、よく知られているといってよい。この「密室講義」が含まれていることが、本作の評価を高めているという面もある。仁賀克維は、『プレーグ・コートの殺人』のあとがきで本作に言及して、「これは作中の密室よりも、密室講義のほうに比重がかかっている」[iv]、と述べている。

 だが、この評価は、ミステリの翻訳批評の重鎮のものにしては表層的である。なぜ「密室講義」が『三つの棺』に含まれているのか、を問うていないからだ。

 

 カーは、『三つの棺』の前に、『夜歩く』(1930年)、『弓弦城の殺人』(1933年)、『プレーグ・コートの殺人』(1934年)といった密室ミステリを書いている。同年にも『赤後家の殺人』(1935年)が、その後も『孔雀の羽』(1937年)、『ユダの窓』(1938年)などがある。『プレーグ・コートの殺人』のトリックは、「密室講義」の中で種明かしされているから、同作に密室講義を入れるわけにはいかなかっただろうが、他の長編でこれをやってもよかったはずである。なぜ他の長編ではなく、『三つの棺』だったのだろうか。

 あるいは、単にタイミングの問題だったのかもしれない。何作か密室ミステリを書いた作者が、系統立てて密室トリックを分類する気になり、それがたまたま『三つの棺』の執筆時期に重なっただけなのかもしれない。

 しかし、カーほどの作家が、単に興が乗ったというだけで、あるいはマニアを喜ばせるだけのために、わざわざ一章をこのような、ある種の「脱線」に使うはずがない。

 そのことは、「密室講義」を読めば、おのずとわかることである。

 「密室講義」では、密室トリックが大きく二つに分類されている。「殺人者が密室内にいなかったケース」と「ドアと窓に細工する方法」すなわち「殺人者が密室内にいたケース」である。この大分類に従って、ときに具体的な作品名を挙げながら(考えてみると、かなりルール違反だが)、従来のミステリで用いられた密室構成のトリックを系統立てて論じている。

 「密室講義」が置かれているのは、文庫本で288頁から308頁[v]で、ひととおり事件が起こって手掛かりが出尽くしたあたりで、本作の密室トリックについて、改めて読者に考えさせ、挑戦しようという狙いなのは明白である。しかし、この「密室講義」なるものは、実はとんでもないペテンである。なぜなら、この「密室講義」に頼っていては、絶対に本作のトリックは解決できないからだ。というのも、この小説のトリックは、第一の「殺人者が密室内にいなかったケース」を第二の「殺人者が密室内にいたケース」に見せかけるというものだからである。実際、カーはハドリー警視に「あなたは、さまざまなからくりの方法を述べることによって手がかりが得られると言った。・・・ですが、それぞれの見出しを今回の事件に当てはめて考えると、どれも除外せざるをえない。あなたのリスト全体の見出しは、“殺人者は外に出てこなかった。なぜなら、殺人者はその部屋にいなかったから”だ。それじゃお話にならない!いまはっきりわかっているのは、ミルズとデュモンが嘘つきでないかぎり、殺人者は部屋のなかにいたということです!」[vi]、と言わせている。

 しかし、真相は、被害者の部屋に侵入した怪人物は、実は被害者自身で、被害者と怪人物の二人が同時に目撃されたのは、鏡のトリックに過ぎなかった。被害者は、実は加害者でもあり、彼は密かに目撃者(上記のミルズ)の目を盗んで、自室を脱出し、出かけた先で殺人を犯していた。ところが、彼自身も殺害した相手に反撃され、致命傷を負ってしまう。なんとか自宅に戻った被害者は、架空の怪人物になりすまし、ミルズを目撃者に仕立てて、自室に入り込む(その共犯者が、上記のデュモン)。そして、変装を解いた後、絶命するのである。こうして、怪人物が消失した密室内に被害者が死んで横たわっている、という密室殺人が成立するというわけである[vii]

 上記のハドリー警視のセリフから明らかなように、カーは、意図的に読者を誤導させるために「密室講義」を入れているのである。つまりミスディレクションに用いているのだ。「密室講義」はたまたま『三つの棺』に入れられたのではない。『三つの棺』でなければならなかったのである。本作の密室トリックはさほど独創的なものではない、と冒頭に述べたが、それはカーもよくわかっていたことで、だからこそ彼は「密室講義」と組み合わせることで独創性を出そうとしたのである。

 してみると、仁賀克維が指摘したとおり、やはり本書は「作中の密室よりも、密室講義のほうに比重がかかっている」、といえるだろうか。

 

[i] エドワード・D・ホック編『密室大集合』(1981年、早川書房1984年)、「まえがき」5-9頁。

[ii] モーリス・ルブラン「テレーズとジェルメーヌ」『八点鐘』(1923年)。多くの作家に様々に応用されている古典的トリックである。

[iii] 日本では、鮎川哲也『りら荘事件』(1957-58年)が同種のアイディアを用いている。犯行順序を錯覚させるアイディアは、やはり相当きわどいが、『三つの棺』のように、3人の目撃者(警官を含む!)がいずれも犯行時刻の誤認に気づかないという無理な設定に比べれば、はるかによい。

[iv] 『プレーグ・コートの殺人』(仁賀克雄訳、早川書房、1977年)、301頁。

[v] 『三つの棺』(加賀山卓朗訳、早川書房、2014年)。

[vi] 同、301頁。

[vii] 見方を変えると、『三つの棺』の真相は、決闘で相打ちになったようなものだろう。解決法は異なるが、カーが本作のヒントを得たのは、G・K・チェスタトンの「マーン城の喪主」(1925年。『ブラウン神父の秘密』所収)からだったような気がする。