ニコラス・ブレイク『雪だるまの殺人』

(本書のほかに『死の殻』の真相に触れています。)

 

 ニコラス・ブレイクの第七長編『雪だるまの殺人』(1941年)[i]は、一見すると、前作『ワンダーランドの悪意』、前々作『短刀を忍ばせ微笑む者』と比べて、オーソドックスなパズル・ミステリに戻った感がある。

 奇妙な猫の振る舞いを調査してほしい、ジョージアの従弟の老婦人クラリッサが寄こした手紙に誘われて、ナイジェル・ストレンジウェイズは、エセックスのある屋敷へとやってくる。屋敷の住人レストリック家の飼い猫が、クリスマス・イヴの晩に、ミルクを舐めたとたん、狂ったように周囲を飛び回り、壁に何度も頭を打ち付けたという不気味な事件である。当主のヒューワード、妻のシャーロット、ヒューワードの弟アンドルーらから事情を聴くナイジェルだったが、ひとりだけ、アンドルーの妹のエリザベスは体調が悪く、会えないという。翌日、再び同家を訪ねたナイジェルとジョージアは、驚くべき事態を知らされる。昨晩のうちに、エリザベスが自室で全裸のまま首をくくって死んだというのだ。

 遺体を検分したナイジェルは、ロープの結び目から、エリザベスの体が誰かの手で引き上げられた可能性に気づく。それを受けて、警察は、自殺を装った他殺と判断して、捜査を開始した。事件当夜、屋敷にはレストリック家の住人のほか、エリザベスの主治医のボーガン、エリザベスの恋人のダイクス、友人のミス・エインズレーといった面々が滞在しており、奔放な性格だったというエリザベスの不可解な死をめぐる隠された秘密が次第に暴かれていく。

 本書は構成に工夫があって、冒頭、レストリック家の二人の子どもたち、ジョンとプリシラがつくった雪だるまから死体が発見される、タイトルにあるとおりのセンセーショナルな場面で始まっている。しかし、実際は、この雪だるまに塗り込められた死体が出現するのは、小説の終盤も終盤、ナイジェルが事件の謎解きをするときなのだ。いわばクライマックスを最初に持ってくるという、フィリップ・マクドナルド[ii]やデイリー・キング[iii]が試みたのと同じような技巧的な構成である。いきなり読者の気を引くのだが、読み進めていってもなかなか「雪だるまの殺人」が出てこないので、肩透かしのようでもある。もっとも、この場面を最初にもってこなかったら、なんで『雪だるまの殺人』という題名[iv]なのだろうと首をひねることになりそうだ。

 なぜ、このような構成を取ったのか、実はよくわからない。雪だるまから死体が発見される劇的な場面を最初に書きたかっただけなのか。小説後半になって、殺人の痕跡が残されているのに死体が発見されないという展開になり、そして冒頭の死体発見場面になるのだが、死体の隠し場所のトリックというほどのものでもない。タイトルになっている割には、雪だるまに死体を隠す必然性も見当たらない(時間をかせぐためと説明されるが、雪だるまのなかでなければならない理由はなさそうだ)。

 この「雪だるま殺人」が冒頭のエリザベスの死と、どう関連するかというと、いがみ合っていたアンドルーとボーガン医師の二人の姿が見えなくなり、一方が他方を殺害して逃亡したものと判断される。どうやら、エリザベスを殺害したのは、この二人のどちらかと思われ、真相をナイジェルが解き明かそうとした、まさにそのとき、死体が発見され、殺されたのはボーガン医師だとわかる。つまり、ナイジェルが推理を披露する前に、真相が割れてくるというプロットで、その辺は、読者の予想を微妙にはずしてくる。しかし、こちらの意表を突くほどの大胆なはずし方でもない。冒頭に雪だるまからの死体発見シーンを置いた理由といい、作者の狙いがいまひとつ、わかりづらい。もっとも、そこがブレイクらしいスタイルといえば、いえるのかもしれないが[v]

 もちろん、アンドルーがボーガンを殺害したとわかっても、それですべての謎が解けたわけではない。一番大きな謎はエリザベスの死の真相であるのだが、それを解く重要な手がかりが、実は冒頭の死体発見場面に伏線として書かれている[vi]。それでこうした構成を取ったとも考えられるが、しかし、手がかりというのは、ジョン少年の回想のなかに出てくるので、雪だるまの死体発見場面でなければならないということもない。

 で、エリザベスの死の謎だが、江戸川乱歩ニコラス・ブレイクを紹介した有名なエッセイのなかで、『野獣死すべし』のほかに、二冊を読んだと記していて、その二冊が、第二長編の『死の殻』(1936年)と本書である。読後の感想は、というと-

 

  「第二作もよく考えてあるが、創意に乏しく、第七作はそれよりも更に平凡であ

 る。」[vii]

 

野獣死すべし』が群を抜いた傑作とはいえ、これでは形無しだが、よりによって、この二作を読んでしまったとは、たまたまだったのだろうが、乱歩も不運だったと言えなくもない。というのは、この二作、実は同じアイディアで書かれているからである。つまり「他殺を装った自殺」という解決なのだ。ただし、『死の殻』は、憎い相手に殺人の罪を着せるために、自分が殺されたように仕組んだうえで自殺するのだが、本書の場合は、エリザベスが自殺したのを発見したアンドルーが、彼女が殺されたように工作をするのである。その理由は、エリザベスを自殺に追い込んだボーガンを殺人犯人に仕立てるためで、違いはあるものの、結局、動機の点でも、この二冊は似かよった発想に基づいているといえる。

 これは興味深いというより、むしろ不思議である。「他殺を装った自殺」というアイディアは、無論、ミステリでは珍しくないが、それほど人気のある解決法とも思えない。殺人事件と思って読んでいた長編小説の結末が自殺でした、では、それまでのストーリーや登場人物の描写が(犯人はすでに退場しているので)無駄だったように感じられてしまうからだろうか。いずれにせよ、このアイディアのミステリは一人の作家がそう多く書くものでもないように思われる。ところが、ブレイクは七冊の長編のうち二冊でこのアイディアを使っているのである。しかも『死の殻』と本書は五年しか離れていない。同じ解決のミステリを、あまり間を置かずに書くというのは、普通、避けようと思うものではないだろうか。

 まさか、自分で書いておいて、『死の殻』の結末を忘れていたわけではないだろうから、ブレイクが同書の趣向を本書でも繰り返したのは、どうしてもこのアイディアで書きたかったからだろう。無論、プロ作家なのだから、『死の殻』とは異なる印象を与えようと工夫したはずである。『死の殻』も復讐が主題だが、形式はあくまでパズル・ミステリだった。本書でも復讐が動機だが、妹のかたきを兄がとる、という点で、犯人の狡知が際立つ『死の殻』に比べ、肉親間の情愛が目立っている。アンドルーが、エリザベスが死んだことを直感するというテレパシーめいた精神感応が描かれ、また、猫の事件があった晩に、アンドルーが、他者を陥れることのみを目的とする絶対的な悪意の持ち主について語る場面が出てくる[viii]。最後、ボーガン医師が、金銭的利益ではなく他人を破滅させる快感だけから麻薬を患者に与えていたことがわかり、まさにアンドルーの言う「悪を楽しむ人間」だったことが判明する。アンドルーの発言は、最初からボーガン医師を念頭に置いたものだったとわかるのだが、このように事件の裏で、アンドルーとボーガンが、互いに、相手に罪を着せようと、あるいは、それに反撃しようとして、死闘を繰り返していたことが示唆される。反面、パズル・ミステリとしては、エリザベスの自殺という真相の手がかりといえるのが、上記の暗示的な描写くらいで、ブレイクらしい理詰めの推理も本書ではあまり見られない。

 このように見てくると、作者が本書で描こうとしたのは、最愛の妹を死に追いやった男を兄が殺害する復讐のドラマであったらしい。

 ブレイクは、最初の三作品で折り目正しいイギリス流のパズル・ミステリを書き続けたが、第四作の『野獣死すべし』を契機に、より自由なスタイルでミステリを書き始めたように感じられる。前作の『ワンダーランドの悪意』は、殺人の出てこない、奇妙な味の、しかし、ブレイクらしいパズル・ミステリだったが、逆に、本書は、オーソドックスなパズル・ミステリの形式を取っているものの、内実は異なっていたようだ。

 乱歩が、同じプロットの『死の殻』と比べて、更に平凡だと低評価したのも当然である。ブレイクが書きたかったのは、パズルではなく、兄と妹の復讐の物語を、狂言回しの名探偵の眼を通して鳥瞰的に描いたクライム・ノヴェルだったのだろう。

 

[i] 『雪だるまの殺人』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1961年)。

[ii] フィリップ・マクドナルド『ライノクス殺人事件』(1930年)。

[iii] デイリー・キング『空のオベリスト』(1935年)。

[iv] 原題は、The Case of the Abominable Snowman(『厭わしき雪だるまの事件』)。

[v] 小林信彦『地獄の読書録』(ちくま文庫、1989年)、202頁を参照。

[vi] 『雪だるまの殺人』、10頁。

[vii] 江戸川乱歩「イギリス新本格派の諸作」『幻影城』(講談社、1987年)、127頁。

[viii] 『雪だるまの殺人』、41-43頁。

ニコラス・ブレイク『ワンダーランドの悪意』

(本書の真相を明かしています。)

 

 ニコラス・ブレイクの第六長編は『ワンダーランドの悪意』(1940年)[i]、言うまでもなく『不思議の国のアリス』をもじっている[ii]のだが、「アリス(Alice)」と「悪意(malice)」をかけたのは、日本語訳ではわかりにくい。『不思議の国の悪意』としたほうが、まだしも題名の「しゃれ」が伝わったかもしれないが、作中の「ワンダーランド」は施設の名前、すなわち固有名詞なので、そうするわけにもいかない。いまひとつピンとこないタイトルになってしまったのは、訳者にも気の毒だった。

 上記のとおり、本書の「ワンダーランド」は、休暇用キャンプ施設の名称で、キャンプといっても、昨今日本でも人気のテントを張るキャンプではなく、戸建てのバンガローに宿泊して、食事も共有のホールで取る、どちらかといえば、ホテルか離れの宿のようなものらしい。そうしたレジャー施設内で、悪質ないたずらが頻発する。海水浴中に足を引っ張る生命にかかわる犯罪まがいの行為や、動物の死骸をベッドに投げ込むなど、次第にエスカレートする事態に、ついに出馬を要請されるのがナイジェル・ストレンジウェイズで、前作の『短刀を忍ばせ微笑む者』では、ほぼ出番なしだった名探偵が主役の座に返り咲いた犯人当てミステリである。とはいえ、事件はあくまでいたずらのレヴェルにとどまるので、全体の印象はあまり深刻にならない。ブレイクの、あるいはイギリスのミステリらしく、登場人物が皆真剣なのか、ふざけているのか、よくわからない、独特の空気感である。

 ちょっと脱線するが、こうしたイギリス風の雰囲気をもっとも強く感じさせるのは、私見では、アンソニー・バークリーで、彼の場合、皮肉味が強くて、なんだか自分が創造した登場人物を小馬鹿にしているような書き方なので、あまり真面目に読み進められなかった記憶がある。殺人者の孤独と恐怖がリアルに伝わってくると評される『殺意』(1931年)も、主人公の言動が妙に滑稽にみえて、たいしてスリルを感じなかったことを覚えている(バークリーの小説は多かれ少なかれ同じ印象なので、訳のせいということでもないのだろう)。

 それはともかく、こうしたイギリス風のシニカルなユーモアが滲み出てくるところが、まさにタイトル通りの「不思議の国の悪意」ということなのだろう。

 物語は、世論調査員(フィールドワーカー)[iii]のポール・ペリーがワンダーランドに向かう列車のコンパートメントで、同室となった一家(夫婦と一人娘)と会話するところから始まる。シッスルスウェイトという言いにくそうな(イギリス人にはそうでもないのか)名前のオックスフォード在住の紳士は、ペリーがケンブリッジのカレッジ出身と知ると、やけに突っかかってくるようなのだが、これはやはりオックスフォード対ケンブリッジの対抗心を表現しているのだろうか。もっとも、ペリーはシッスルスウェイトの娘のサリーが気になるようで、この後、ミステリにありがちのロマンスの脇道に迷い込む。

 ところが、ワンダーランドに到着した一行がホールに集まって、早速ダンスを楽しんでいると、突如マイクから「マッド・ハッターに気をつけろ」というアナウンスが響き渡る。そして、その翌日、サリーが水中で足を引っ張られる事件が起こり、マッド・ハッターの署名の入った犯行声明ともいえるビラが掲示されているのが発見される。こうしてストーリーが動き出すと、以下、テニス・ボールの箱やピアノの内部に糖蜜がかけられている、客の飼い犬が毒を飲まされて殺される、宝探しイヴェントで林を歩いていた娘の腕に火傷のような水ぶくれができる、支配人が射撃場のライフルで銃撃される、等々の被害が続出して、ワンダーランドは阿鼻叫喚の地獄と化す、・・・とまではいかないが、ゲスト達はパニックに陥り、ナイジェルも事態の急変に翻弄されるかに見える。

 しかし、最後まで読むと、意外に折り目正しいパズル・ミステリで、ことに、ナイジェルが登場したあたりから、前半の主人公格だったペリーが背景に下がって、むしろ容疑者の列に加わると、最初の場面ではいかにも怪しげだったシッスルスウェイト氏のほうが探偵側に回るのも、ブレイクらしい一捻りしたプロットといえる。ナイジェルを呼び寄せるのがシッスルスウェイトなので、この人物は犯人ではないらしいとわかってきて、終盤では、彼がナイジェルとの対話のなかで、突如犯人を指摘する。そうすると、それがそのまま真相なのである。

 ナイジェルに謎解きを独占させないで、シッスルスウェイトに役割を分担させる、この狙いがどこにあるのか、よくわからないが、真犯人はさして意外な人物ではないので、それが理由なのかもしれない。施設内で次々に起こる小事件を差配して段取りを考える。当然施設について熟知していないと不可能である、と推理するので、結論は明らかで驚きも少ない。もちろん作者も色々工夫はしていて、いたずらと思われた事件のなかに偶然の事故が混じっていたり、犯人以外の人物の行動が事件を複雑化させたりする。さらに犯人指摘の場面では、ナイジェルが失言を誘う罠を仕掛けるといった具合に細かく考えているのだが、謎解きミステリとしては、犯人逮捕に至るまでの経緯は平凡というほかはない。解説の横井氏も、本書の社会背景や用語については詳しいが、ミステリとしての出来については、ほとんど言及がないので、恐らく、あまり評価はしていないのだろう。

 そう考えると、オフ・ビートのミステリというのが、本書の一番適切な捉え方かもしれない。『不思議の国のアリス』をもじったタイトル、殺人すら起こらないストーリーと、いかにもイギリス・ミステリらしい、ブレイクらしい小説ともいえるが、ウィットに富んだ語り口で読ませる典型的な「新本格派」の探偵小説というのが大方の読者の印象になりそうだ。

 しかし、再読して気づいたのは、本書がなかなか面白いパズル小説になっていることである。犯人逮捕の後、今度はロンドンに戻る列車内で、ナイジェルがシッスルスウェイトらに語る推理は意外に(といってはなんだが)冴えている。なかでも、それまでマッド・ハッターは自分がしでかしたいたずらを新聞社に知らせていたのに、ある時点から通報しなくなる、その理由に関する推理[iv]と、もうひとつ、途中からなぜか犯人がペリーに疑いが向けられるように工作を始める理由に関する推理[v]が面白い。とくに後者は、偶然の事故がマッド・ハッターの仕業と受け取られたことで、真犯人に疑いが向けられそうになる。それを避けるために他の容疑者をでっちあげなければならなくなったという、これもブレイクらしい「偶然の事態に犯人が計画を修正せざるを得なくなる」プロットの典型ともいえる謎解きになっている。初読の時はほとんど印象に残らない平凡な作品と思っていたが、読み直してだいぶ評価が上がった(偉そうな言い方だが、要するに、ちゃんと読んでいなかっただけ)。

 一風変わった舞台とのほほんとした雰囲気だけのミステリと思っているとさにあらず、本書は、ニコラス・ブレイクらしい理詰めの推理が楽しいパズル・ミステリの佳品である。

 

[i] 『ワンダーランドの悪意』(白須清美訳、論創社、2011年)。

[ii] 横井 司による解説を読むと、実際はルイス・キャロルの書名ではないそうだ。そう言われれば、そうだった。同、321頁。

[iii] こちらも解説に詳しい。同、322-23頁。

[iv] 同、315-16頁。

[v] 同、316-18頁。

ニコラス・ブレイク『短刀を忍ばせ微笑む者』

(本書の真相と結末を明らかにしています。)

 

 ニコラス・ブレイクは、第五長編『短刀を忍ばせ微笑む者』(1939年)[i]で作風が大きく変わった。それまでの四作品は犯人当てのオーソドックスなミステリであったが、本作は何とスパイ・スリラーである。随分唐突な方向転換で、当時のイギリスの読者は、この変化にとまどったりしなかったのだろうか。もっとも、前作の『野獣死すべし』(1938年)[ii]も、冒頭はまるで倒叙ミステリだが、それが途中から謎解き小説に転化していく変則的なパズル・ミステリだった。ブレイクが一筋縄でいかない作家であることは、予測できていたのだろうか。それにまた、パズル・ミステリ作家が、こうしたスパイ・スリラーもしくは冒険小説、あるいは組織犯罪小説を書く伝統は、すでにアガサ・クリスティ[iii]やF・W・クロフツ[iv]に先例があった。とすれば、『野獣死すべし』でパズル・ミステリ作家としての名声を確立した作者が、新たなジャンルに挑戦したとしても、抵抗なく受け入れられたのかもしれない。

 しかし、本作の異色性はそれだけにとどまらない。ナイジェル・ストレンジウェイズが登場するので、それまでのシリーズ作品に連なるのかと思いきや、冒頭こそ妻のジョージアと仲睦まじいところを見せるが、以後は終盤まで空気と化して、ジョージアのほうが主人公となる。このはずし方も相当なもので、さして魅力的な探偵とは言い難い(失礼な!)にせよ、この主役交代は、せっかく増えた(?)ナイジェル・ファンを失望させかねない。一体、どのような意図があってのこのスピンオフだったのだろうか?スパイ・スリラーは、ナイジェル向きではないと判断したのか?しかし、それならそれで、なぜまったく別の主人公ではなく、よりによってジョージアなのだろうか[v]

 前述のクリスティ作の冒険スパイ小説は、最初こそトミーとタッペンスものだったが、以後シリーズ探偵は登場せず[vi]、ことに初期の1920年代には、エルキュール・ポワロ等の名探偵ものとほぼ交互に書かれていた。それが『謎のエヴァンズ』(1934年)を最後にひとまず打ち切られて、次にこのタイプの小説が公刊されるのは1941年の『NかMか』である。つまりブレイクの本書が執筆された時期には、クリスティは同タイプの冒険ミステリを書いていない。代わって登場したのが、本格的なスパイ小説の開拓者であるエリック・アンブラ―[vii]である。1938年には『あるスパイへの墓碑銘』が出版されているから、ブレイクが、本書執筆にあたって同時代作家のアンブラ―を意識しなかったはずはないだろう。『短刀を忍ばせ微笑む者』は、クリスティのような旧時代の冒険スパイ小説と比べれば、当時(第二次世界大戦前夜)の緊迫した国際情勢もあってか、よりリアリスティックであるが、かといってアンブラ―のようなシリアスなスパイ小説かと言うと、そうとも言い得ない。

 物語はデヴォンシャののどかな村に居を定めたストレンジウェイズ夫妻が、自宅の垣根の側に落ちていたロケットを見つけるところから始まる。なかにはE.Bと印したメダル(?)と女性の肖像を写した古びた写真が入っていた。話を聞いた伯父でロンドン警視庁要職のジョン・ストレンジウェイズ卿から、E.Bとは「イングランドの旗」という、貴族支配による政治を目指す団体のことで、しかし、その実態は、イギリスの国家転覆を目的とする秘密結社であるとの驚くべき事実を知らされる。

 ここからストーリーは大きく転回し、もともと冒険家として著名であるジョージアが、表面上ナイジェルと離婚したうえで(ええっ!)秘密組織に潜入し、陰謀の証拠を見つける使命を引き受けることになる。彼女は、記者のアリソン・グローブやクリケット選手のピーター・ブレイスウェイト(あわれ、途中で爆死する)らとともに、秘密の賭博場を併設するクラブ-実はE・Bの拠点-に乗り込む。その場の人々の反応を観察したジョージアは、ナイジェル顔負けの見事な心理的洞察力を発揮した推理で、パズル・ミステリ好きの読者を喜ばせる。しかし、謎解き小説らしさが垣間見られるのは、ここくらいで、その後、チルトン・キャンテロ―という美貌の大富豪が登場すると、この人物こそが組織の首領であることがわかってくる。キャンテローと親密になったジョージアは、彼の邸宅で「イングランドの旗」の計画に関する決定的な証拠書類を発見するが、それはジョージアを怪しんだキャンテローの罠だった。なんとか窮地を切り抜けたジョージアは屋敷を脱出すると、ナイジェルの待つオクスフォードを目指して死に物狂いの逃避行を続けることになる。

 この小説の見せ場は、この後半三分の一余りを費やして語られるジョージアの奮闘ぶりで、彼女は迫りくる敵側の追跡や罠を間一髪でくぐり抜け、一旦はキャンテローに捕らえられるが、彼に目つぶしを食わせて再度逃走、ついにオクスフォードまで辿り着く。果たして彼女の運命やいかに・・・。

 という具合で、最後の百ページで展開される敵味方入り乱れての駆け引きや攻守の逆転は、冒険活劇の面白さのほかに、理詰めにものを考えるのが好きなブレイクらしい細かな段取りと丁寧な描写で、なかなか読ませる。

 こうしてみると、本書は、アクチュアルなスパイ・スリラーを狙った作品とも考えられるが、そうとも断言できないのは、例えば、冒頭でジョン卿が、イギリスにファシズム政権をうち立てんとする陰謀とそれを取り巻く政治状況をナイジェルとジョージアに説明するのだが、具体的な内容はばっさり省略されて、「と、まあこんなところかな」[viii]で締めくくられてしまう。長々しい解説など退屈なだけと判断したのかもしれないが、ブレイク自身、こうした現実世界の陰謀や政治の裏面について本当らしく語るほど深い知識を持ち合わせているわけでもないので、それなら書かないほうがぼろが出ない、と判断したようにも見える。

 そう考えると、主人公がジョージアであることの意味がわかる気がしてくる。つまり、本書はスパイ小説のかたちをとったロマンティック・スリラ―とみるべきかもしれない。あるいは得体の知れない悪の組織との戦いに翻弄されるヒロインの冒険ファンタジーか。ブレイクの翌年の長編は『不思議の国のアリス』をもじった『ワンダーランドの悪意』(1940年)[ix]だが、むしろ、本作こそ、アリスならぬジョージアが体験する不思議の世界の冒険譚なのかもしれない。

 最終章で、ジョージアはナイジェルとともに無事デヴォンシャの自宅に帰ってくる。待っていたのは、道路に伸び出した生け垣を刈れというお役所からの通知書。冒険の旅を終えたヒロインが退屈だが平和な日常世界に戻るラストは、やはり本書が、20世紀の大人になったアリスの冒険物語であることを証明しているようだ。

 

[i] 『短刀を忍ばせ微笑む者』(井伊順彦訳、論創社、2013年)。

[ii]野獣死すべし』(永井 淳訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[iii] アガサ・クリスティ『秘密機関』(1922年)以下の諸作。

[iv] F・W・クロフツ『製材所の秘密』(1922年)以下の諸作。

[v] このあと戦後の諸作をみると、ジョージアは死亡してしまっているので、なおさら疑問がつのる。

[vi] 厳密にはバトル警視が登場する。『チムニーズ館の秘密』(1925年)、『七つのダイヤル』(1929年)。あっ、ポアロが登場する『ビッグ4』(1927年)があった。

[vii] エリック・アンブラ―『暗い国境』(1936年)。

[viii] 『短刀を忍ばせ微笑む者』、50頁。

[ix] 『ワンダーランドの悪意』(白須清美訳、論創社、2011年)。

ニコラス・ブレイク『野獣死すべし』

(本書のトリックおよび犯人のほか、アガサ・クリスティ、J・D・カーの長編小説のトリック・犯人に触れています。)

 

 『野獣死すべし』(1938年)[i]は史上最高のパズル・ミステリだと、そう思っていた。

 江戸川乱歩が、戦後まもない頃、「イギリス新本格派」のひとりとして取り上げて[ii]以来、ブレイクの長編ミステリは順調に翻訳され、一時、『秘められた傷』(1968年)[iii]以降、刊行が途絶えていたものの、クラシカル・ミステリの出版ブームに乗って、ついに『死の翌朝』(1966年)[iv]をもって、全長編が日本語で読めるようになった。おかげで、『殺しにいたるメモ』(1947年)[v]のように、知られざる佳作[vi]が新たに掘り起こされたりもしたが、依然として、ブレイクといえば『野獣死すべし』という構図は変わっていないようだ。

 上記の紹介エッセイで、乱歩は同作について、こう語っている。

 

  「『野獣死すべし』は子供を自動車で轢殺して逃げた男を推理によって探し出し、 

 これに復讐するまでの綿密な計画の日記の文章で三分の一を費やし、その日記の計画

 が手違いになっていくところに中心興味がある。」[vii]

 

 犯人を暴露してしまっているとも取れる解説だが、そう思わせて、なおかつ意外性があるというのが本作の大きな特徴で、さらに続けて、「このトリックには前例のない創意があり、(中略)一つの機知に富んだ着想が描かれている」[viii]と激賞している。

 乱歩の評価は短い文章で適格に長所を捉えており、これ以上の補足は必要ないほどだが、他のブレイク長編と同様、『野獣死すべし』もまた、それまでに書かれたミステリの古典から諸要素を吸収して、いわば伝統の上に成り立っているといえる。そうした特徴に関しては、まだ論ずべき余地があるようだ。

 筆者が本書を読んだのは、ハヤカワ・ミステリ文庫[ix]に収録されてからであるが、一読して、乱歩の評価通りの、あるいはそれ以上の感銘を受けた。パズル・ミステリの理想的な姿が本書にあるのではないかとさえ思った。今回、数十年ぶりに再読してみて-あまりにも読後の印象が強烈だったので、読み返す気にならなかった-、初読の印象はおおきくは変わらなかったのだが・・・。いや、そこに触れる前に、なにがそこまで優れていると思えたのか、改めて考えてみよう。

 推理作家フィリクス・レインことフランク・ケアンズは、一人息子をひき逃げによって失い、絶望的な日々を送っていた。彼の生きる唯一の目的は、息子を殺した運転手を探し出して復讐することである。推理作家らしい洞察力で犯人を見つけ出したレインは、まず、車に同乗していた女優リーナ・ロースンに接近する。彼女と恋人関係になったレインは、目指す相手である自動車工場主ジョージ・ラタリーの一家に入り込み、妻のヴァイオレット、幼い息子のフィル、母親のエセルらと知り合う。彼ら一家の間に漂う異常な雰囲気に驚きつつも、レインは、ジョージに対する復讐計画を練っていく。ついにその日、レインはジョージをヨットの川遊びに誘い、泳げない彼を海に振り落として事故死を装おうとする。

 ここまでが第一部で、乱歩の紹介のとおり、レインの日記、すなわち一人称の手記として書かれている。続く第二部からは、三人称の客観描写に変わり、復讐を果たそうとするレインに対し、ジョージが反撃に出て、お前の計画はすでに知っている、自分を殺そうとすれば、日記を警察に送る手はずをつけている、と脅す。レインも応戦して、日記が公になれば、ひき逃げの罪も暴かれるぞ、と切り返し、結局、両者は互いの秘密を暴露しないことを約束して別れる。

 ところが、翌朝、家に戻ったジョージがストリキニーネを飲まされて死亡したことを知ったレインは、このままでは自分が殺人犯として逮捕されると考え、友人を通じて、素人探偵のナイジェル・ストレンジウェイズに事件の捜査を依頼する。

 以上が前半で、後半はナイジェルの視点で『死の殻』(1936年)[x]にも登場したスコットランドヤードのブラント警部とともに、ラタリー殺害の真相に迫っていく、という筋書きである。

 乱歩が指摘した本書の創意とは、ひとことでいえば、倒叙ミステリでありながら犯人当て小説でもある、という点に集約できる。文庫版で最初の100頁余りは、レインによるひき逃げ犯人の探索と復讐計画が綴られており、予備知識なしに読み始めた読者は、一人称で書かれた犯罪小説だと思うだろう。ところが、レインの計画が失敗して、しかし、その後ラタリーが自宅で毒殺された事実が判明する第三部から、本書は通常のパズル・ミステリへと転換する。

この一人称から三人称への語りの変化に本書の工夫があるのだが、真犯人は結局レインなのである。すなわち、倒叙ミステリから犯人当てミステリに転化したと見せて、最後倒叙ミステリに戻る(一人称の手記ではないが)、という捻ったプロットなのだ。このアイディアのヒントは、恐らくアンソニー・バークリーの『殺意』(1931年)ではないか。『殺意』は、もちろん全編一人称の倒叙ミステリだが、これをパズル・ミステリに出来ないかというのが、本書の発想だったように思える。

 同時に、本書は一人称の手記の作者が犯人だった、という「記述トリック」のミステリでもある。ヨット遊びを装った殺人はおとりで、毒殺のほうが本当の目的だったというトリックなのだが、無論レインは日記にそのことを書いていない。つまりA・クリスティの代表作[xi]のように、犯人であることを隠した一人称の手記のなかで、わざと事実を省略したり、自分の真意を伏せて記述をするなどの細工を施すミステリでもある。もし『野獣死すべし』が全編一人称で書かれていたら、クリスティ作との相似がもっとはっきりしていただろう。

 さらに、レインはわざと殺害計画に失敗したように見せかけることで、自分が犯人ではないように思わせるのだが、つまり、本書は、最初に疑いをかけられる人物が最終的に真犯人であった、という逆説的な「意外な犯人」のミステリでもある。このアイディアの長編も枚挙にいとまないが、恐らくブレイクが直接影響を受けたのは、ジョン・ディクスン・カーの長編(注で書名を挙げます)[xii]のように思われる。カー長編は、あまりにトリッキーすぎて無理があるが、これをもっと心理的に扱ったのが本作だったともいえる。以上の諸作品との関連についての推測が正しいとすれば、第一部の終わりで、カーとバークリーの名が挙げられている[xiii]のは意味深長である(クリスティの名が挙げられていないのは、代表作との相似から真相を言い当てられる危険が高いと判断したからだろうか)。ミステリ作家らしいお遊びとも取れるが、先輩作家の名前を持ち出して手の内を明かしているようにも見える。

 ただし、この、意図して自分に疑いがかかるように見せるトリック、あるいは殺害計画に失敗したとみせかけて疑いを逸らそうとするトリックが、本書が優れている理由というわけではない。このようなトリックは、紙の上では通用しても、現実にこんなことを企てるバカな殺人犯はいないだろう。わざと殺人に失敗したかに見せかけて、結局は警察の疑いを招くなどという危険極まる計画を実行する素っ頓狂な犯罪者がいるわけがない。意外であっても、騙せるのはミステリの読者だけで、現実にはありえない、トリックのためのトリックでしかない。しかし、実は、ここにこそ、乱歩の言葉を借りれば、「前例のない創意」が隠されている。なぜなら、レインがこのような非現実的なトリックを実行したのは、疑いを免れることが第一目的ではないからである。最後のレインとの対話の場面で、ナイジェルはこう言う。

 

  「・・・罪を証明できない人間を殺すことはできない考えたときから、日記はきみ

 の新しい計画の主要な道具になった・・・」[xiv]

 

 つまり、この偽りの殺害計画は、ジョージから罪の告白を引き出すためのものであり、日記は最初から彼に読ませるために書かれたものだったのだ。ラタリーが息子を死に至らしめた事実を確認できない以上、レインには彼を殺害することはできなかった。従って、それが明らかとなった瞬間から真の殺人計画が発動したというわけである。

 なぜ殺人の偽装などという不自然なトリックを計画したのか、という疑問に対する、この解答は素晴らしい。この犯人の性格だからこそ、この解釈が成立するよう、巧みに人物造形がされている。本書の最大の美点は、こうした一見すると不自然なトリックに必然性があることである。ミステリの謎を、人間心理の分析によって解き明かしているといってもよい。別の言い方をすれば、作者が読者を欺くための意外ではあっても無理のあるトリックが、犯人にとっては、どうしても必要な計画の一部だったと読者に納得させる点にある。ヴァン・ダインが目指して到達できなかった心理的探偵法[xv]を実現しているといえるかもしれない。

 だが、まったく不自然さがない、ともいえない。告白を引き出すために偽りの殺害計画を立案するというのは、本当にレインが殺人の罪を免れようと思っていたのだとすれば、やはり、あまりにも無謀すぎる。人間心理を読み解くナイジェルの推理は見事だが、犯罪計画の不合理さを完璧に払拭する説明にはなっていない。

 レインが、復讐だけが目的で、自分の生命を顧みるつもりはなかったというのなら、ナイジェルの説明で完全に納得できるだろう。しかし、そう思えないのは、ナイジェルに捜査を依頼した理由が理解できないからである。

 復讐を果たしてもなお罪を逃れようとする意志と大胆過ぎる殺害計画との整合性がとれていない。探偵に捜査を依頼するのはよいが、どうやって無罪を証明してもらうつもりだったのだろう。レインは自分が無実であるかに見せるための工作をほとんどしていない。従って、実際に作中で描かれているように、警察に疑いをかけられるのは確実である。誰かに罪を着せるために偽の手がかりを用意しておいて、探偵にそれを発見させるというなら、まだわかるが、(ナイジェルのような)腕利きの探偵であれば、レインが犯人であることを見抜いてしまうかもしれない。そのような危険があるにもかかわらず、探偵に依頼する意図がわからない。そもそも、処罰を免れようとするなら、あのようなトリックを立案するはずがないだろう。告白を引き出したいなら、もっと別の方法を考えるべきで、自身の殺意や殺人計画を記した手記を残すのは頭がおかしい。

 もっとも、ラタリーが殺害されて警察の捜査が入れば、レインの正体も早晩明らかになることは避けられない。従って、むしろ殺意を自ら暴露することで、逆に疑いを逸らそうとする捨て身のトリックだったということなのかもしれない。しかし、そうだとしても、自分は殺害に失敗した間抜けな犯罪者であるが殺人犯ではない、と思わせたいのなら、警察がそう判断するのを期待して見守るほかないのではないか。名探偵に事件の解決を依頼するなど、危険を増幅させるだけである。

 それとも、最初は処罰を受けることも覚悟していたが、殺人を実行してみると、やっぱり自分の命が惜しくなった。それで焦って探偵を探したのだろうか。可愛がっていた少年が犯人と疑われても、なお自ら告白しようとはしなかったところをみると、そう考えてもよいかもしれない。しかし、それでは、レインの人物像は、作者が描こうとしていたものとは大きく異なってしまうのではないか(「野獣」とは、フィリクス・レインのことなのだろうか)。人物描写に優れているはずのブレイクにしては、レインのキャラクターがブレているように見えるのだ。

 このあたりの矛盾は充分には説明しきれていないようだ。一体なぜ、レインは、このような危険な計画を実行したのか。一体なぜ、ナイジェルを事件に介入させるようなことをしたのか。パズル・ミステリである以上、事件は探偵(役)によって解決されなければならないから、作者としても苦しいところではある。ブレイクにとって、本書でもっとも難かしかったのは、いかにして名探偵を登場させるかにあった、ということだったのかもしれない。

 『野獣死すべし』こそ、史上最高のパズル・ミステリと思ってきたのだが、さて、――。

 

(追記)

 『野獣死すべし』に論理的な矛盾があることを、都筑道夫の兄である鶯春亭梅橋が指摘して江戸川乱歩らを感心させた逸話は、都筑のエッセイによってよく知られている[xvi]が、具体的にどのような矛盾であるのかは、明かしてくれていない。「都筑道夫コレクション」の編者である新保博久は、解説で「犯人の計画のなかに、予測できなかったはずの名探偵の登場が織り込み済みであるのはおかしいといったところだろうか」[xvii]、と推測している。この指摘が当たっているか、そもそも、新保氏の解釈の内容も、上記の短い文章だけでは、いまひとつはっきりしないが、どうやら筆者の発想も新保氏と似かよっていたらしい。もっとも、本文で述べた「矛盾」は、論理的というより心理的なものだと思うのだが。

 

[i]野獣死すべし』(黒沼 健訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1954年)。筆者未見。

[ii] 江戸川乱歩「イギリス新本格派の諸作」『幻影城』(講談社、1987年)、121-39頁。

[iii] 『秘められた傷』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1971年)。

[iv] 『死の翌朝』(熊本信太郎訳、論創社、2014年)。

[v] 『殺しにいたるメモ』(森 英俊訳、原書房、1998年)。

[vi] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、604-605頁。

[vii]幻影城』、126-27頁。

[viii] 同、127頁。

[ix]野獣死すべし』(永井 淳訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[x] 『死の殻』(大山誠一郎訳、創元推理文庫、2001年)。

[xi] 題名を挙げる必要はないので、挙げません。

[xii] 『死時計』(1935年)(吉田誠一訳、創元推理文庫、1982年)。

[xiii]野獣死すべし』、113頁。もうひとり、グラディス・ミッチェルの名も挙げられているが、彼女に本作のヒントになったような作品があるのかどうかは、寡聞にして知らない。

[xiv] 同、280頁。

[xv] 江戸川乱歩「探偵小説論争(江戸川乱歩井上良夫)」(1943年)『書簡 対談 座談』(講談社文庫、1989年)、131-32頁。

[xvi] 都筑道夫『推理作家のできるまで 上巻』(フリースタイル、2000年)、471頁。

[xvii] 都筑道夫都筑道夫コレクション 悪意銀行(ユーモア篇)』(光文社、2003年)、新保博久「〈ユーモア篇〉解題」、549頁。

ニコラス・ブレイク『ビール工場殺人事件』

(本書の犯人、トリック等のほか、注で横溝正史の短編小説のアイディアを明かしています。)

 

 ニコラス・ブレイクの第三作は、第一作の学園ミステリ、第二作の田園ミステリから一転して、ビール醸造工場内の殺人事件を扱っている[i]。おや、ブレイクが企業ミステリを書いたのか、と思わせるが、基本的には、本書もイングランドの田舎町を舞台にしており、都会企業における殺人を描くミステリでない。それにしても、「トラブルが醸成する」というしゃれたタイトルに表われているように、ビール工場内の圧力釜の中から、骨ばかりになった男の死体が発見されるという珍しい殺人現場シーンは、前二作までの、むしろ平凡な殺人手段に比べると、ブレイクらしからぬセンセーショナルなもので、わざわざ取材したのだろうか。それとも、ビール工場で働く知り合いでもいたのか。いずれにしても、前作前々作には見られなかったショッキングな死体発見場面である。

 しかし、作品のテーマはミステリとしてはオーソドックスで、何と「顔のない死体」である。顔どころか、皮膚も内臓も溶解して、かろうじて溶け残って回収された義歯から、身元が確認される。もちろん、そこにトリックがあるのだが、当然読者は、殺されたのは別人だろうと予想するはずだ。先に真相を明かせば、結局、予想通りで、殺されたと思われた工場主のユースタス・バネットが犯人、被害者は弟のジョー・バネットとわかる。定石通りで、従って、「顔のない死体」テーマを、どうひねっているのかが焦点となるわけである。

 作中でも最初から、死体はユースタスではないのではないか、という疑問が呈されて、作者も「顔のない死体」トリックを熟知したうえで、このテーマに挑んでいるのがわかる。従って、死体は別人でユースタスこそ犯人である可能性が提示されると、それを打ち消す論拠が直ちに持ち出される。そこがプロット上の工夫で、物理的証拠から否定されるのではなく、地域の名士であるユースタスには、死を偽装してまで自らを死んだものとする動機が見当たらないという理由[ii]で否定される。こうした理屈は心理的推理法を特徴とするブレイクらしい。

 それでもなお、最終的にユースタスが犯人であるという結末を納得させるためのアイディアが本作の見所となるわけで、それが加害者と被害者の逆転である。つまり、当初ジョー・バネットが兄ユースタスを殺害しようと計画し、しかし土壇場で、反撃したユースタスが逆にジョーを殺してしまい、被害者が立てた計画をそのまま引き継いで、自らを死んだものと見せかけようとした、という解決法である。

 前作の『死の殻』でも、「他殺と見せかけた自殺」トリックに「殺人を目的とした自殺」というアレンジを加えることで、既存のテーマに独自性を持たせようとしていたが、既存のアイディアやトリックをちょっと捻るというのが、初期のブレイクのミステリ作法であったらしい。

 それにしても、前作といい、本書といい、従来からあるテーマとはいえ、かなり大がかりで、ある意味不自然なトリックが用いられており、現実味のある人物描写に長けた不自然さの少ないミステリの書き手というブレイクの定評からは、かなり遠い印象である。どうやら、意外にトリッキーなミステリが好きだったらしい。

 ただし、これもブレイクらしいともいえるのだが、犯人のユースタスが、殺人を犯したとはいえ、なぜ、自分が殺されたように見せかけて、姿を消さなければならないのか。一応、説明は加えているが、十分に納得できるとは言い難い。正当防衛を主張すれば済むではないか、という常識論を打ち消すまでには至っていないのだ。その辺の動機の合理化が完璧とは言い難いのは、この後のブレイク作品にも見られる[iii]ところで、むしろ、そこにこそブレイクの長所があるはずなので、不満が残る。

 それと、これも前作同様に、本作でも、ストレンジウェイズは、しきりに推論を組み立てては壊す作業を繰り返す。これを嬉々として書いているらしいブレイクという作家は、文学派のイメージとは裏腹に、実に理屈好きだったのだな、と、そこはむしろ感心する。最終的に間違っていたとわかる推理まで、ああでもないこうでもないと様々な角度からひねくり回すナイジェルの姿を見ていると、ブレイク自身が、単にいろいろな可能性を考えて理屈をこねるのが好きなだけなのでは、と勘繰りたくなる。

 例えば、エラリイ・クイーンのミステリの場合、無駄な推理というものがない。すべてのロジックが計算されており、エラリイ探偵の推理はことごとく最終的な結論に結びついている。たとえ間違っていたとしても、エラリイの失敗そのものがプロットの不可欠な一部として組み込まれている。しかし、ナイジェルの推理は、結末にまったく関係ない場合もあるようなのだ。作者が色々な推論を組み立てるのが好きで、不要な推理まで作中探偵にさせているように思えるところがある。見方を変えると、読者が想定しそうな推理を先回りしてナイジェルにやらせているようにも見える。読者に勝手に見当違いさせておけばよさそうなものを、間違った推理であっても自分のほうが先に提示しておきたいらしいのだ。この理屈好きの性癖で連想するのは、見当違いかもしれないが、コリン・デクスターである。別稿でも書いたが、とても詩人とは思えない(どういう偏見?)。本書の解説に「詩論家としてのほうが断然すぐれている」[iv]という評価を読むと、なるほど、とも思う。この人は芸術的インスピレーションよりも、分析的論証に秀でていたようだ(これも偏見?)。

 ちなみに、『死の殻』の構想が、横溝正史の長編ミステリに似ている、と、やはり別稿で書いたが、本書の「被害者が加害者を倒して、犯罪計画を引き継ぐ」というアイディアも、横溝の戦後間もない時期に書かれた短編小説のプロットによく似ている[v]。これもなかなか面白い偶然だ。

 

[i] 『ビール工場殺人事件』(永井 淳訳、『別冊宝石102号』、1960年)、8-162頁。

[ii] 同、57頁。

[iii] 次作のところで詳しく述べたい。

[iv] 『ビール工場殺人事件』、「ニコラス・ブレイクおぼえがき」(大原寿人)、164頁。

[v] 横溝正史「靨」(1946年)。ただし、横溝短編のアイディアは、E・ベントリーの『トレント最後の事件』に基づくようだ。

ニコラス・ブレイク『死の殻』

(本書の真相、トリック等のほかに、注で、エラリイ・クイーンおよび横溝正史の長編小説に言及しています。)

 

 処女作『証拠の問題』で学園ミステリに取り組んだブレイクの第二作『死の殻』[i]は、こちらもイギリス・ミステリ伝統のカントリー・ハウスものに分類されている[ii]

 第一次大戦でイギリス空軍に所属してドイツと戦い、伝説の撃墜王と謳われたファーガス・オブライエンが、何者かから三通の脅迫状を受け取る。手紙には、クリスマスが過ぎた後にオブライエンの命を奪う、と予告されていた。相談を受けたスコットランドヤード警視監のジョン・ストレンジウェイズ卿は、甥のナイジェルをオブライエンの住むサマセットの屋敷に派遣する。そこには、オブライエンによって砂漠の遭難から命を救われた冒険家のジョージア・キャヴェンディッシュとその兄エドワード、オブライエンの愛人ルシーラ・スレイル、ルシーラの元愛人シリル・ノット-スローマンといった、いわくありげな人たちが招かれていた。殺人予告状は、オブライエンが開くクリスマス・パーティに言及しており、犯人は招待客のなかに潜んでいる可能性が高いとわかってくる。警戒するオブライエンは、わざわざ屋敷の寝室から、深夜、別棟の小屋に寝床を移して襲撃に備えていたが、クリスマスの翌朝、ナイジェルが小屋に向かうと、前夜に降り積もった雪の上に、小屋まで一筋の足跡のみが残されている。中には、自分の銃で胸を撃ち抜かれたオブライエンの死体が横たわっていた。

 犯人の足跡が見つからないという不可能犯罪のトリックは、しかし、ほどなくして、後ろ向きに歩いて小屋から逃れた、という安直な解決が提示され、読者を白けさせるが、この後、今度は、胡桃が大好物のノット―スローマンが殻に仕込んだ青酸を飲んで毒死してしまう。その前にはオブライエンの従者だった男が頭を殴られて人事不省になる事件が起こっており、事態はいよいよ混迷の度を深めていく。

 タイトルは、胡桃の殻に毒を入れるというトリックをもじっているが、同時に文学派のブレイクらしく、シリル・ターナーという劇作家の作品からの引用に基づいている。他にも、シェイクスピアを始めとして、登場人物がめったやたらと文学作品からの警句を口ずさむなど、詩人ミステリ作家の面目躍如たるものがある。

 しかし、本作で目立つのは、ナイジェル・ストレンジウェイズと、スコットランドヤードのブラント警部との間の推論の応酬である。本書を読み直して改めて思ったのは、ニコラス・ブレイクという作家の、詩人らしからぬ(というのは偏見かもしれないが)理屈好きの一面である。ひとつの推理が示されるたびに、それと異なる複数の可能性が持ち出されるといった具合で、芸術家というより学者タイプの作家という印象なのだ。エラリイ・クイーンのような、あっといわせる意外な推理ではないが、ああでもない、こうでもない、と、しつこいぐらいに論証を重ねていく。本当にこの人はパズル・ミステリが好きらしい。

 もっとも本書の目玉は、その思い切った真相にある。必ずしも独創的というわけでもないが、ブレイクの文学派ミステリ作家というイメージからすると、思いのほか大胆なアイディアを用いている。

 要するに、オブライエンの死は自殺によるもので、ノット―スローマンの殺害は生前に仕掛けておいたもの。従僕の襲撃はノット―スローマンとスレイルが示し合わせて実行したものである。とはいえ、さほど意外な真相とも思えないのは、殺人と見せかけた自殺のアイディアは1930年代でもすでにパターン化していたし、また、オブライエンは病により余命いくばくもないという重要な情報が、割合早くから提出されているからである。

 それでも自殺の動機が、かつて自分が愛した女性を死に追いやった男(エドワード・キャヴェンディッシュ)に復讐するためで、相手を脅して、逆に反撃されて殺されたように見せかけるという犯罪計画は、パズル・ミステリとしても、かなり強引で現実離れしている。何年も時間がたってから復讐を実行した動機については、ジョージアを救出したことで、復讐相手のエドワードに巡り合ったから、と一応説明がつけられているが、偶然の度が、やや過ぎるようだ。ついでだが、この「殺人を目的とした自殺」というアイディアは、我が国では、横溝正史の有名な長編ミステリ(注で作品名を挙げているので、ご注意ください)[iii]がある。

 かなり無理のある構想とはいえ、殺害予告は自殺を殺人と見せるため、探偵を派遣するよう依頼したのは、一見自殺と見えるオブライエンの死を殺人であると証明させるため、と、ミステリとしての組み立ては、かなり念入りに考えられている。作者としては、主人公の探偵であるナイジェルに、一旦は、これは殺人だ、と推理させることで、読者の目を自殺からそらせようとしたのだろうが、そううまくだまされてくれるだろうか。同じようなアイディアの長編ミステリが、エラリイ・クイーンにあるので(前に同じ)[iv]、なおさら、そう思う。しかも、犯人の立場になって考えると、意図して探偵を呼び寄せているので、実際そうなったように、名探偵によって真相が露見してしまう可能性を想定していなかったのかしら、とも思う。

 最終的なナイジェルの推理は、オブライエンとキャヴェンディッシュの性格分析によるもので、この辺は前作と同様、心理的探偵法と観察に基づく手掛かりの解釈という従来型の推理法を組み合わせている。最後にキャヴェンディッシュが逃走して、自ら命を落とすのは、因果応報というか、ややご都合主義的な結末のように見えるが、犯人の命を賭した復讐を悲劇として描きたいという、こちらもブレイクらしい締めくくり方といえるかもしれない。

 

[i] 『死の殻』(大山誠一郎訳、創元推理文庫、2001年)。

[ii] 同、「訳者あとがき」、341頁。

[iii] 横溝正史『本陣殺人事件』(1946年)。

[iv] エラリイ・クイーン『シャム双子の謎』(1933年)。

横溝正史『扉の影の女』

(本編のほか、カーター・ディクスン『五つの箱の死』の犯人について言及しています。)

 

 横溝正史の作品中、飛びきりの異色作といえば、まず本編が挙げられる。

 その割には、従来、その異色ぶりというか、とんでもなさは、あまり論じられてこなかった。

 どこがとんでもないかといえば、ジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスン名義で発表した『五つの箱の死』(1938年)という作品を引き合いに出せば、わかってもらえるはずである。同長編は、瀬戸川猛資がエッセイのなかで、カーの数ある失敗作のなかでもずば抜けた珍品として太鼓判を押した作品で、どこが珍であるかといえば、「登場人物外の犯人」[i]。このミステリ史上空前のイカサマを犯した作品だというのである。

 その当否は別として[ii]、上記のカー作品を読んでいるミステリ・マニアでさえ、腰をぬかしそうになるに違いないのが、この『扉の影の女』である。

 何しろ、文庫本で251頁のうち、犯人の名前が初めて出てくるのが247頁である。しかも、その章の見出しは「蛇足」[iii]。これほど読者を舐めきったミステリが他にあるだろうか。犯人の正体が「蛇足」って・・・。

 事件は、横溝長編には珍しく、銀座で起こる。横溝といえば岡山県だから、東京が舞台の金田一シリーズに物足りない思いを抱く読者も多いだろう。しかも、横溝は、乗り物恐怖症だったことも有名である。その彼が、東京のど真ん中の銀座を舞台に選んでいるのだから、これは珍しい。しかし、若い頃の横溝は、実はモボ(モダン・ボーイ)で鳴らした無鉄砲ダンディであった。ヨーヨーを片手に(!?)銀座を闊歩した[iv]というから、現代のチャラいナンパ青年など相手にならない。彼にとって、銀座など自宅の庭同然だったに違いない[v]。もっとも、本書を読んでも、昭和30年代の銀座の風景が眼前に浮かぶというほどではない。有楽町や数寄屋橋などの地名は出てくるが、細かい描写はなく、むしろ、誰も人が歩いていない無人の境であるかのような印象である(事件が深夜に起こったせいもあるが)。若い頃の記憶で、とりあえず土地勘はあるので、舞台にしたということなのだろう。

 京橋から有楽町駅に向かう道すがら、薄暗い路地で女が首筋を鋭い棒状の凶器で刺され、殺されているのが見つかる。凶器は、当時流行していたという帽子を留めるハット・ピンで、それを後ろから左の首に打ち込まれたようなのだが、ピンは被害者自身のもので、犯人は背後から近づいてピンを抜くと、そのまま凶器に使った、すなわち左利きと推定される。

 女は、そこで男と待ち合わせしていたらしく、傍らに、「ギン生」という人物が「タマちゃん」に宛てた手紙らしき紙片が見つかる。捜査が進むと、被害者は実際にタマキで、銀哉という左利きのプロ・ボクサーと付き合っていたことがわかる。あまりにも見え透いた手がかりだが、額面通り、銀哉がタマキを殺害したと考える読者はいないだろう。従って、この後のひねり方が問題となる。事件の知らせは、「たまたま」殺害現場に行き会わせ、凶器のハット・ピンを持ち去った加代子という女によって、金田一耕助にもたらされる。実は、彼女は、つい先頃、恋人だった銀哉をタマキに奪われた女で、疑いがかかることを恐れて金田一を訪ねたのだった。・・・何という偶然!(笑ってはいけません。)

 これに、金門なんたらという成金実業家や、裏口が現場の路地に面したレストランで働く広田というコックなどが絡んで、事件は輻湊してくるのだが、要するに、真相は間違い殺人で、「ギン生」も「タマチャン」も銀哉とタマキとは別人。自称「銀月」というへぼ詩人が「珠美」という麻薬中毒の少女を殺そうとして、あやまってタマキを殺害してしまったのだった。似たような呼び名の二組の男女が、たまたま同じ路地裏で密会しようとしたことから起きた殺人事件だったのである。・・・何という偶然!(馬鹿笑いはやめてください。)

 というわけで、犯人は、一応最初に路地を飛び出したときに加代子とぶつかっているので[vi]、まったく登場していないわけではない。しかし、これを登場したと言えるのか?

 この史上空前のインチキについて、文庫版解説の、お馴染み中島河太郎は、何も述べていない[vii]。本当に読んでます?

 これに対し、『別冊宝島1375号 僕たちの好きな金田一耕助』では、ちゃんとこの犯人について触れていて、「真犯人の名を言い当てるのは絶対に無理だ」[viii]と正しく指摘している。そりゃ無理ですよね、作中に登場してないんだから。

 本長編は、もともと高木彬光、島田一男とリレー連載していた「女」シリーズの一編として書かれた「扉の中の女」(1957年)[ix]を書下ろし長編化した作である。さらに原型となるのは、人形佐七ものの「銀の簪」(1946年)[x]で、横溝の得意技である改稿作品の代表的な一編ともいえる。

 「扉の中の女」と「銀の簪」を比べると、無論、捕物帳を現代ミステリに改稿しているのだから、時代背景等は異なるが、プロットは基本的に変わっていない。例えば、どちらの短編でも、犯人は左利きとなっている。これは、犯人が被害者と抱き合って、被害者の簪ないしはハット・ピンを抜いて右の首筋に打ち込む。それを捜査側が、右利きの犯人が被害者の背後から襲ったように誤解するというのがトリックになっているからで、右利きの犯人と思われたのが、実は左利きだったとするほうがパズル・ミステリらしい趣向だと考えたのだろうか。ところが、長編の『扉の影の女』では、犯人は右利きに変更されている。その理由は恐らく、犯人が最後まで登場しないので、左利きであるという伏線を張ることができないと悟ったからなのだろう(もっとも、短編の二作でも、左利きであるというデータが早い段階で提示されているわけではない)。むしろ、容疑者となるボクサーを左利きにして疑惑を強めておいて、実は犯人は右利きだったという結末にしたほうが(読者が騙されるかどうかは別として)効果的だと判断したものと思われる。

 右利き左利きをトリックに用いるのは、横溝には珍しいが、このトリックに関しては「銀の簪」が一番いいようだ。単純なアイディアだけに、捕物帳のほうが活きているからだろう。しかし、問題となるのは、もちろん、もう一つのテーマである「間違い殺人」のほうである。しかも、単なる間違い殺人ではなく、犯人が一度も顔を出さず、一言もしゃべらないまま、小説が終わってしまうという、呆然とするような結末である。実は、短編の「銀の簪」、「扉の中の女」のほうは、犯人が普通に登場している。つまり、ごくまともな(というのも変だが)犯人当てミステリなのである。ところが、長編化した本編は、この有様である。一体なぜ、作者は、このようなマニアから猛烈に叩かれそうな、ぶっ飛んだ結末にしたのだろうか。

 「この物語は人生にまま起こるふしぎな運命の十字路を語るのが目的だった」などと、作者はとぼけているが(いや、まま起こったりしませんって!)、江戸川乱歩が1955年に書いた『十字路』[xi]を意識しているのだろうか(ただし、『十字路』は無論こんな結末ではない)。本長編は、1960年から翌年にかけて、東京文芸社が企画した『続刊金田一耕助推理全集』の第4巻として、書下ろしで刊行されたものである[xii]。つまり、読者は一見の客ではなく、横溝作品を読みなれたファンの人たちが大半である(と作者も判断したはずだ)。これくらいのお遊びは笑って見逃してくれるだろう、と安心していたのだろうか。それにしても、犯人当てミステリで「登場人物外の犯人」という掟破りの趣向を堂々と、というか、平然と実行する横溝の肝の座り方も相当なものである。社会派推理の台頭で、どうせ話題にもならないだろうと捨て鉢に、いや、腹をくくったのだろうか。

 最後に「蛇足」になるが、昭和30年代以降の金田一ものでは、彼の日常や等々力警部らとの交流が細かに描かれるのが恒例となって、本書では、これまで以上に、刑事諸氏との和気あいあいとしたやり取りが読者の微笑を誘う。それどころか、金田一の言動がことのほか調子づいているところが微笑ましい、・・・というべきか、何というか。作半ば、密かに金門から面会を求める電話を受けた金田一が、依頼がきたぞっ、と小躍りし、その後、等々力警部からの電話で「痛い」腹を探られて、弁明に相務める場面が出てくる。そこで最後に金田一が警部にいう一言が「わかってちょうだい」(!)。・・・いかになんでも、これはないだろうと思うC調さだが、まるで財津一郎(?)みたい。・・・いけない、おかしな連想をしてしまった。これでは、今後、金田一のことを考えるたびに、財津氏のあの四角い顔が眼に浮かんできそうだ。

 

[i] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、46-47頁。

[ii] 私は、本作に比べれば、『五つの箱の死』はルール違反でも何でもない、とてもちゃんとした(?)ミステリだと考えている。

[iii] 横溝正史『扉の影の女』(角川文庫、1975年)、247頁。

[iv] 野本瑠美「人形佐七は横溝家(わがや)の天使」横溝正史『定本 人形佐七捕物帳 二』(春陽堂書店、2020年)、503頁。都筑道夫『推理作家の出来るまで』(上巻、フリースタイル、2000年)、18頁参照。

[v] 「人形佐七は横溝家(わがや)の天使」、504頁。

[vi] 『扉の影の女』、14頁。

[vii] 同、354-58頁。

[viii]別冊宝島1375号 僕たちの好きな金田一耕助』(宝島社、2007年)、103頁。

[ix] 横溝正史金田一耕助の帰還』(出版芸術社、1996年;光文社2002年)、307-48頁。

[x] 横溝正史『完本 人形佐七捕物帳五』(春陽堂書店、2020年)、231-57頁。

[xi] 江戸川乱歩『十字路』(1955年)。実際は、渡辺剣次との合作であることは有名。

[xii] 『別冊幻影城 横溝正史 本陣殺人事件・獄門島』(創刊号、1975年)、島崎博編「横溝正史書誌」、339頁。