カーター・ディクスン『恐怖は同じ』

(本書のトリックを明かしていますが、犯人は明かしていません。)

 

 『恐怖は同じ』(1956年)は、『騎士の盃』以来、三年ぶりのカーター・ディクスン名義の長編だった。そればかりではなく、同名義の最後の長編小説となってしまった。しかも、ヘンリ・メリヴェル卿のシリーズではなく、歴史ミステリである。

 あれほどお気に入りだったヘンリ卿を前作で見限った格好だが、その後も、H・Mシリーズを再開させる意欲はあったらしい[i]。それが結局断念されたのは、もはや戯画的な探偵は時代に合わない、と思い切ったせいだろうか。ヘンリ卿のようなタイプの名探偵は、ジョイス・ポーターのドーヴァー警部、レジナルド・ヒルのダルジール警視など、一つの定番としてミステリの歴史に命脈を保っている[ii]が、ドーヴァー警部の登場[iii]がもう少し早ければ、H・Mシリーズもさらに続いていただろうか。

 ディクスン名義のラストが歴史ミステリだったことも、なんとも座り心地の悪さを感じさせる。歴史ミステリを始め、新境地を開いたり、異色作はカー名義で、というのが最初からの方針のようだった。ディクスン名義は、H・Mシリーズ専用と思い込んでいたのに、あにはからんや。とはいっても、状況はよくわかる。同年のカー名義長編は『バトラー弁護に立つ』で、フェル博士シリーズからの派生作品、今風に言えばスピン・オフで、ディクスン名義には合わない(カー名義の短編集にヘンリ卿が登場する短編が収録されるなどといった例はあるが)。ディクスン名義のほうの出版社の要請もあって、歴史ミステリだが、やむなく、そちらに回したのだろう。

 ちなみに、これもいつもと違って、通例、歴史ミステリといえば、カーが得意気に付記する「好事家のための覚書」が本書には付いていない。原書をもっていないので確かめられないが、訳書でカットしたというわけではないのだろう。その代わり、あとがきで訳者の村崎敏郎が、作品の背景をかなり詳しく解説してくれている。何かと物議を醸した村崎氏だが、歴史的文学的教養の深さはさすがである。余計なことかもしれないが、村崎氏というと、例の「ガラガラ事件」を思い出す。都筑道夫早川書房編集長の頃、ある訳者が、作中に登場する、初期イギリス警察の警吏が持っていた「鳴子」(都築氏の訳)のような音を立てる道具を「ガラガラ」と訳して、氏を閉口させた、という逸話である[iv]。都筑は、配慮して訳者の氏名は伏せているのだが、これはどうみても村崎敏郎ですな[v](間違っていたら、ごめんなさい)。いろいろ叩かれたこともあったが[vi]、氏のおかげでカーの小説をたくさん読めたのも事実で、やはりカーとは切っても切れない名前だろう。

 話がどんどん逸れているが、本書は、歴史ミステリとしては四作目、二作目の『ビロードの悪魔』と同じく、現代人が過去に戻って殺人事件を解決する、というタイム・スリップものの第二弾である。というより、むしろ、最近の我が国のライト・ノヴェルで人気の「異世界転生もの」に近い。過去に戻る原理も理由もわからないまま、ただ主人公たちが時間と空間を飛び越えて、事件に翻弄されるというプロットだからである。『ビロードの悪魔』では、過去の事件を解決したい主人公が悪魔と契約する、という理由と手段がはっきりしていた(悪魔の力を借りて過去に戻るというのが、真っ当な説明と言えればの話だが)。

 主人公のフィリップ・クラバリングとジェニファ・ベアドは、20世紀に生きていたという以外の記憶をほとんど失ったまま、1795年のイギリスで別人同士として再会する。クラバリングには冷え切った関係の妻クロリスがおり、ジェニファには婚約者のディック・ソーントンがいるが、クラバリングは前世(未来だから、前世もおかしいが)においても、妻と同じような関係にあったことを思い出す。何よりも、二人には、現代でも、同じように愛し合っていた、おぼろげな記憶が残っている。クラバリングは、ジェニファの結婚を阻止しようとして、父親のソーントン大佐と激しく対立するが、大佐は、実はクロリスの愛人でもあり、クロリスは大佐との逢瀬のために、いつも侍女のモリーを身代わりに部屋に残していた。クラバリングは、クロリスと直談判しようと部屋に押し入って、そのことを知る。そしてその後、クラバリングが異常な眠気を感じて寝入ってしまうと、その間に、内部から鍵のかかった部屋の中でモリーが殺害されているのが発見される。殺人の疑いをかけられたクラバリングは、ジェニファとともに、官憲の手を逃れ、彼を狙うソーントン大佐や賭けボクシングの胴元をしているサミュエル・ホーダーとの対決のすえ、ついに殺人の謎を解く。

 というストーリーだが、もうひとつの注目は、歴史上の人物、とりわけ、ときの摂政皇太子ジョージ・オーガスタス・フレデリック(後のジョージ4世、在位1820-30年)の存在である。そもそも、ハノーヴァ朝は、カーがごひいきのステュアート朝に代わって、ドイツからやってきた王朝(1714-1901)で、カーが好意を抱いていたとも思えないのだが、そして、実際、本作でのジョージ皇太子は、あんまりいいようには描かれていない(むくんだような赤ら顔でデブ、と、どうみてもカッコよくはない。もちろん、歴史的事実に基づいているのだろうが)。しかし、この皇太子が、劇作家のシェリダンなどとともに、なかなか活躍する。

 ところが、初めて顔を合わせた晩餐会で、クラバリングは、皇太子がかつてカトリックの女性と秘密結婚していたという極秘事実を暴露してしまう。すぐに、まずいと気づくのだが、これは(例によって)歴史に造詣が深いという設定の主人公にしては、ありえない失言だろう。1689年の名誉革命権利章典が「王位継承者は国教会信徒に限る」と定めたように、カトリックの信仰はこの時代の表舞台では御法度である。いくら過去に戻って混乱していたにしても、こんな失態はうっかりすぎる。

 犯人当てのほうは、鍵のかかっていた秘密の出入り口が道具を使って簡単に開けられるなど、いいかげんだなあ、と思うところもあるが、なかなか巧妙にできている。『ビロードの悪魔』や『喉切り隊長』のような意外な犯人の大技ではないので、一見パッとしないが、二階堂黎人によれば、「非常にオーソドックスなフーダニットの佳作」[vii]であり、ダグラス・グリーンも「『恐怖は同じ』は力強い物語だ」[viii]、と言い、さらに「ジョン・ディクスン・カーの歴史物の最高傑作」(「おそらく」つきだが)[ix]とまで評価している。

 個人的には、初読のときには、あまり面白いと思わなかったのだが、やはり結末の意外性を期待しすぎていたのだろう。読み返すと、諸氏の評価のとおり、力作感が強い。主人公達が次々に迫りくる危機に次第に追い詰められていく様が、非常な緊迫感をもって描かれ、ページを繰る手を休ませない。またまた恒例のように、主人公がいらぬ挑発に乗って決闘に応じるなど、危険を自ら招いているようでイライラするが、しかも、最後、クラバリングとジェニファが追っ手を逃れて雨のなかを走り抜けていくと、いつの間にか現代に戻っている。戸惑う二人の前に、警察がやってきて、現代でフィリップが疑いをかけられていた殺人事件のほうも、犯人が自殺して解決したことを伝える。一件落着の結末に、安易だなあ、と思わないでもないが、いつの間にか過去へと転生し、いつの間にか現代に戻ってくる、というプロットは、これで正解だったようだ[x]

 グリーンによる「歴史物の最高傑作」という評価もあながち間違ってはいない。意外な結末こそないが、終盤、主人公がヒロインにつぶやく「すべての時代ごとに、あらゆるものが変わる。・・・しかし恐怖は同じだ」[xi]、という言葉は、本書のようなアイディアの小説ならではの決めの一言といえる。最後、ジェニファに「あれは夢だったの」と問われて、フィリップが答える「わたしにはわからない」、という言葉は、カーの全作中で、もっとも深い余韻を残す。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、406-409頁。

[ii] 芦辺 拓/有栖川有栖/小森健太郎二階堂黎人編緒『本格ミステリーを語ろう![海外編]』(原書房、1999年)、217頁。

[iii] ジョイス・ポーター『ドーヴァー1』(1964年)。

[iv] 都築道夫『死体を無事に消すまで』(晶文社、1973年)、30-31頁。原語はrattlerらしい。rattleは「ガラガラ鳴る」という意味で、確かに「ガラガラ」には違いない。rattlesnakeは「ガラガラヘビ」である。そういえば、ラトルスネイクスというポップ・グループが昔あったなあ。

[v] 『恐怖は同じ』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1961年)、200、213頁。

[vi] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)を参照。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、386頁。

[viii] グリーン前掲書、411頁。

[ix] 同、413頁。

[x] カーは、最初、過去に戻る「論理的な」(?)説明方法を模索していたらしい。同、410頁。

[xi] 『恐怖は同じ』、257頁。

J・D・カー『喉切り隊長』

(犯人を名指しはしていませんが、気づかない人はいないでしょうね。)

 

 『喉切り隊長』(1955年)は、ディクスン・カーの歴史ミステリのなかでも、もっとも「ミステリ」らしい作品といえそうだ。ただし、パズル小説ではなく、スパイ小説である。ジョゼフ・フーシェが登場するせいもあってか、対するイギリスのスパイ、アラン・ヘッバーン(日本では、正しくなくとも、ヘップバーンのほうが馴染みがありますね)、フーシェ配下の女スパイ、イダ・ド・サン=テルム、アランの妻マドレーヌの四人が、全編にわたって、腹の探り合い、騙し合いを展開する。ジョン・バッカンやエリック・アンブラ―を研究したのだろうか。

 ナポレオン戦争さなかの1805年8月、あのトラファルガー海戦の数か月前に、イダの手管に惑わされ(たふりをした、と後で判明)、捕らえられたヘッバーンと、同じくイギリスのスパイと疑われて、フーシェの前に引き出されたマドレーヌは、ブーローニュの野営地に集結したフランス軍の間で、兵士が次々に「喉切り隊長」と名乗る怪人物によって殺害されていることを知らされる。フーシェから、スパイ容疑を見逃す代わりに、喉切り隊長を逮捕するよう持ち掛けられたヘッバーンは、マドレーヌの命を救うために、申し出を受け入れ、人質扱いのマドレーヌ、彼女の監視役のイダ、そして自身の監視役のギー・メルシエ大尉の四人で、ブーローニュへと向かう。

 ヘッバーンは、イギリスにいたとき、マドレーヌがフランスのスパイだと仲間から忠告され、泣く泣く彼女を置いてフランスへと渡った経緯がある。マドレーヌは、ひたすらアランを愛している、というカー作品では恒例の純情ヒロインだが、一方、アランをだましたくせに、彼に魅かれている、という、こちらもカー長編ではお馴染みの、面倒くさい美女のイダがアランを我が物にしようと、色々と画策する。二人の美女の、愛想のよい笑顔の裏で、テーブルの下では互いに相手の足を蹴り合っている女の戦いも見ものである。実は、ヘッバーンには、ナポレオンのイギリス侵攻計画の意志を突き止め、本国にそれを伝える使命がある。そして、彼に喉切り隊長の捕縛を命じたフーシェにも何やら思惑がありそうで、関係者がいずれも腹に一物抱えているという設定である。

 本書は、この基本設定で押しまくっており、従って、いつもの歴史ミステリなら必ず出てくる主人公と敵役の決闘シーンもない。いや、ないわけではなくて、ハンス・シュナイダーという、フランス軍きっての剣豪がいて、いかにも、最後はヘッバーンとやり合うぞ、と期待させるのだが-事実、ヘッバーンは剣のチャンピオンという、カー得意の無駄な設定がついていて、ひと合戦ありそう、と思わせる-、案に相違して、そうはならない。終盤、ナポレオンのイギリス侵攻計画断念の証拠を掴んだヘッバーンを追って、シュナイダーが迫る。両者、なぜか剣ではなく、銃を構えて対決するが、銃声とともに落馬したシュナイダーは、そのまま絶命する。しかし、撃ったのはヘッバーンではないのだ。誰が狙撃したのかもはっきりしないまま、小説も終わる。とんだ肩透かしだが、作者も、ここは読者の予想をはずしてやろう、と思ったのだろうか。それとも、本書はそうした冒険活劇ではない、という意思表示なのだろうか。

 このように、本作は、いろんなことの決着がつかないまま、あるいは、関係者の真意が不明確なまま、作品が終わってしまう。

 ヘッバーンは、ナポレオンのイギリス侵攻計画がオーストリアおよびロシア遠征へと変更されたことを、イギリス艦へ手話で合図することに成功する。最大の見せ場であるが、ところが、情報を受信した艦船が、あろうことか、フランス軍の攻撃に無意味に応戦して撃沈されてしまう。つまり、ヘッバーンの任務は失敗に終わるのだが、この後、史実では、言うまでもなく、ネルソン率いるイギリス艦隊が、トラファルガー沖で、フランス=スペイン艦隊を撃破して、イギリスの制海権を守り、ナポレオンのイギリス侵攻を阻止する。結果的に、ヘッバーンの任務失敗は、歴史には影響しなかったようなのだが、この辺の歴史には詳しくないので、ヘッバーンの使命達成のもつ意義がよくわからない。

 また、喉切り隊長、というか、殺人の実行犯が誰かは、作品半ばで、シュナイダーだ、とヘッバーンが明らかにしてしまう[i]のだが、その前に、喉切り隊長が殺人現場に残していった「ごきげんよう、喉切り隊長」と書かれた紙片を検討する場面で、「喉切り隊長」の綴りがCaptain Cut-throatではなく、Captain Cut-the-throatであることから、犯人はイギリス人である、と推理し、しかも、そのことにフーシェは気づいているはずだ、と述べる箇所がある[ii]。ところが、最後、任務失敗で意気消沈するヘッバーンに向かって、フーシェは、犯人(真の犯人。イギリス人ではない)は最初からわかっていた、と得意気に言う[iii]。これは、ヘッバーンの憶測がはずれていた、ということなのだろうか。それとも、最初はフーシェも、喉切り隊長はイギリス人だ、と思っていたのか(「最初から知っていた」、というのはフーシェの見栄だった?)。確かに、フーシェの推理を聞くと、犯人が誰かを知ったのは、ヘッバーンが出発してから後のようだが[iv]

 ところで、そもそも、このCaptain Cut-throatとCaptain Cut-the-throatのくだりが、どうもよくわからない。紙片はフランス語で書かれていたのではないのだろうか。ヘッバーンが、フランス人ならCaptain Cut-the-throat と書くはずがない、成句であるCaptain Cut-throatと書かなかったのは、フランス語に不慣れなイギリス人であることを示している(とフーシェは推理した)、と語る[v]のだが、フランス語で該当する言葉を、カーが英語のCut-throatに翻訳した、という理解でいいのだろうか(Trancher-gorgeとか?)。本書は、当然のことながら、英語で書かれているので、混乱するのだ。英語のCut-throatは単なる「人殺し」の意味らしい。従って、ヘッバーンの「殺人鬼は文字通り喉を切ってるわけではない」[vi]という言葉も意味が通じるのだが、しかし、もともとフランス語で書かれた紙片だったのではないのだろうか。イギリスやアメリカの読者は、この説明を読んで首をひねったりはしないのか。

 さらに疑問なのは、最後にフーシェがキレて、ヘッバーンに喉切り隊長の正体を口走ってしまうことだ。実行犯のシュナイダーが、フーシェが黒幕であるかのごとき偽の紙片を残していったために、それが真犯人の意志だと勘違いして激怒するのだが、こんな胡散臭い手掛かりに過剰に反応するのは、稀代の策士、怪人ジョゼフ・フーシェらしくないのでは。もっとも、こうでもしないと、(ヘッバーンは、犯人の見当がつかないらしいので)犯人を明らかにできる探偵役がいなくなってしまう。

 そしてそもそも疑問なのが、ナポレオンが喉切り隊長の逮捕をフーシェに命じたことだ。連続殺人事件に何も手を打たないわけにはいかないだろうが、実際にそうなったように、フーシェが真相を探り当ててしまったら、どうするつもりだったのだろう。フーシェを舐め過ぎだろう。英傑ナポレオンにしては、考えが浅いというか、それとも細かいことは気にしないから英雄なのか。それはまあ、イギリス側視点のカーの創作ではあるので、こうなるのも仕方がないと言えなくもない。(カーの描く)チャールズ2世だったら、こんなに浅はかじゃないよねえ。

 というわけで、いろいろ首を傾げる箇所はあるが、本書は、カー全作品中でも、飛びきりの手に汗握る面白い小説だ。最初から最後まで、クライマックスの連続である。

従来、『喉切り隊長』は、犯人の意外性で知られていた。一つの新しい型とも呼べそうな犯人像で、これは、短編で書いた『パリから来た紳士』[vii]の意外な探偵役を犯人に置き換えたら、という発想だったのだろう(もはや、ほぼネタ晴らししてしまった)。日本のある有名作に影響を与えたことでも知られている[viii]

 しかし、再読して強く印象に残ったのは、冒頭に述べたように、スパイ・スリラー的なプロットの妙味で、思い切って、わずか数日の出来事として組み立てられた筋書きが強烈な緊張感をもって読み手を惹きつける。作者も自信をもっていたらしい[ix]が、『赤い鎧戸のかげで』や『騎士の盃』など、いささかピントのずれた冗漫なミステリばかり書いていたカーの、これは『ビロードの悪魔』と並ぶ1950年代の代表作であることは間違いなさそうだ。

 ラスト、フーシェは、ヘッバーンに丸め込まれて、喉切り隊長の逮捕に失敗しました、ととぼけるつもりのようだが、喉切り隊長(実行犯)のシュナイダーが殺されたことを、すでに報告されているはずのナポレオンが、そんな弁解をすんなり受け入れるだろうか。むしろ、フーシェが密かに手をまわしてシュナイダーを殺させ、自分の前ではとぼけてみせている、と勘繰るのではないか。小説は、ナポレオンが登場したところで終わってしまうが、この後、両者の間で、一体どういう駆け引きが繰り広げられるのか、そっちの結末も見てみたかった。

 

[i] 『喉切り隊長』(島田三蔵訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、195頁。

[ii] 同、91、176頁。

[iii] 同、419頁。

[iv] 同、428-29頁。

[v] 同、176頁。

[vi] 同。

[vii] 1950年作。「黒いキャビネット」(1951年)もそうだろう。いずれも『カー短編全集3/パリから来た紳士』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1974年)所収。

[viii] 海渡英祐『伯林-一八八八年』(1967年)。

[ix] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、404頁。

カーター・ディクスン『騎士の盃』

(犯人やトリックを明かしてはいませんが、そもそも本書は、たいした結末ではありません。)

 

 『騎士の盃』[i](1953年)は、ヘンリ・メリヴェル卿の登場する22作目の、そして最後の長編となった。デビューが1934年の『プレーグ・コートの殺人』だったので、ちょうど丸二十年、お勤めご苦労様でした(まだ中編小説に登場するけど)。

 当時、ディクスン・カーは46歳。シリーズ探偵を見限るには早すぎる気もする。お気に入りの主人公と見えていたヘンリ卿のシリーズを、なぜ終わらせてしまったのだろう。評伝を読むと、1954年以降も、何度かH・Mシリーズの再開を目論んでいた、という[ii]。しかし、その都度、計画は頓挫して、ヘンリ卿が長編ミステリに戻ってくることはなかった。自身がそうであるように、ヘンリ卿が時代にそぐわない、と実感するようになったのだろうか。卿の滑稽なギャグ・シーンを描くことが楽しくなくなった、むしろ、つらくなってきたのかもしれない。もっと現実的な理由としては、二つのペン・ネームで、毎年二作以上書き続けることが困難になったからか[iii]。残すとすれば、当然本名のカー名義だろうから、それでヘンリ卿は退場ということになったのかもしれない。もっとも、フェル博士の方も、1949年の『疑惑の影』以来、休養が続いていた。カー名義でも、歴史ミステリ中心で行こうと決心して、もう現代もののシリーズ探偵は止めるつもりだった、とも考えられる。

 してみると、本書でH・Mシリーズを打ち止めとする気も幾分かあったのだろうか。結果論だが、振り返ってみると、そんな気配がなくもないように見える。シリーズの特徴であるファースを書くことが嫌になったのでは、と書いたが、訳者があとがきで述べているとおり、本作は最初から最後まで喜劇的なミステリになっている[iv]。シリーズの有終の美を飾るために、ユーモアを基調とした長編に徹しようとしたのか。『青銅ランプの呪』(1945年)に登場した執事のベンスンを再度起用しているのも暗示的だ。以前の作品に出て来たキャラクターを再登場させるというのは、シリーズ最終作にありがちな演出だろう。もっとも、シリーズ完結記念で再登場させるなら、ケン・ブレイクあたりのほうが相応しかっただろうが。それに、本作はファース・ミステリ色が濃厚だが、ヘンリ卿自身はさほど滑稽ではない。例によって、傍若無人に振る舞い、女性相手には「別嬪さん」を連発する一方、マスターズ主任警部には、「うすのろ」、「蛇」、と言いたい放題だが。今回は、イタリア人の音楽教師を相手に、われ鐘のような歌声を披露するくらいで、ギャグ・シーンは、他の登場人物に任せたようだ。ヘンリ卿が、比較的おとなしく、他の男女の暴走をはたから眺めているのも、シリーズの終わりを予測させる徴候といえるかもしれない。

 本書は、無論、歴史ミステリではないが、謎解きの要に歴史的背景が関係しており、この時期のカー作品らしい。歴史というより伝説だが、冒頭に、またロビン・フッドへの言及[v]があって、前作の最後でロビン・フッドが出てくる[vi]のに対応している。しかし、事件の鍵となるのは、ピューリタン革命時代の史実に基づく伝説で、ステュアート王家びいきのカーらしく、例によって例のごとく、王党派の騎士が革命派との激戦のあと、サセックスのテルフォード館に住む恋人に一目会いに逃れてくる。騎士は追撃してきた敵の兵士と戦って死んでしまうが、その前に屋敷の窓ガラスに「国王チャールズ[vii]万歳」の言葉を書き残して(刻んで)いった。その文字が今も残る一室で、かつての騒乱[viii]を記念して作らせた、ダイヤをちりばめた純金製の騎士の盃が、鍵をかけてしまっていた金庫から取り出され、寝ずの番をしていたはずの当主の目の前に置かれていた。部屋は内部から鍵をかけられ、侵入することは不可能、という事件が起こる。

 この事件のことを、当主の妻から聞かされたマスターズ警部は現地に派遣されると、その夜、同じように騎士の盃を保管する部屋で一夜を過ごすはめになる。翌朝、人々が発見したのは、頭を殴られて失神している警部と、やはり、金庫から取り出されて、警部の目の前のテーブルに置かれている騎士の盃だった。

 騎士の盃は、いかにして誰も侵入できないはずの部屋の金庫から取り出されたのか。そして、犯人の目的は?騎士の盃の盗難なら、なぜ持ち去らずに、残していったのか。そしてまた、同じ犯行(?)が二晩に渡って繰り返されたことには、一体どのような意味があるのか。

 大変魅力的な謎だが、それに相応しい解決かというと・・・。がっかりすること間違いなしである。もちろん、マスターズ主任警部が想定したように、夢遊病で知らない間に当主が自分で取り出していた、などという解決ではない。とはいっても、実際の謎解きも、カーとは思えないような平凡さで、さすがにもうトリックに期待してはいけない、と覚悟させられる。しかし、後半の、同じ事件が繰り返された理由については、(推理できるようなものではないが)意外に面白い。そもそも犯罪とも言えないような事件なので(マスターズは殴られているので、犯罪でないというのも気の毒だが)、それを前提とすれば、動機の説明に無理がない。

 結局、上に述べたように、本書の事件は密室といっても、密室殺人どころか、犯罪でもなく、未遂でしかない(マスターズに対する暴行は犯罪です)。まったくの家庭内の事件なのだが、それもH・Mシリーズの最後に相応しかったのかもしれない。ヘンリ卿の住まいも紹介されて、生活ぶりが描かれるのも、締めくくりの演出めいている。

 ただひとり、マスターズ主任警部だけが、何だか憎まれ役を押し付けられて可哀そうな気もする。殴られて安静にしたまま、最期の謎解きにも参加せず、和気あいあいとしたエンディングにも不在とは、カー先生、ちょっとひどいんじゃありませんか。

 

[i] 『騎士の盃』(島田三蔵訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、405-409頁。

[iii] 『騎士の盃』は、ディクスン名義の最終作ではない。この後、1956年に最終作の歴史ミステリ『恐怖は同じ』が出版されている。

[iv] 『騎士の盃』、342-43頁。

[v] 同、49頁。おまけに、ヘリワード・ウェイクという登場人物が、敵役として登場する。この名は、ヘリワード・ザ・ウェイクをもじったように思えるが、後者については、ロビン・フッド伝説関連の書籍を参照。例えば、上野美子『ロビン・フッド伝説』(岩波新書、1998年)、221頁。

[vi] 『赤い鎧戸のかげで』(恩地三保子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、431頁。

[vii] カーお気に入りのチャールズ2世の父親のチャールズ1世。ステュアート朝は、ジェイムズ1世、チャールズ1世、チャールズ2世、ジェイムズ2世の順だが、高校生の頃、世界史の先生から、(サンドイッチとは逆に)ジャムでチャールズを挟んでいる、と覚えろ、と教わった記憶がある。今、考えると、意味不明だなあ。

[viii] カーは、ピューリタン革命などとは言わず、「大反乱時代」(これも正しい歴史的表記)と書いているが、いかにも、である。同、61頁。

カーター・ディクスン『わらう後家(魔女が笑う夜)』

(本書のトリックについて言及しています。)

 

 1950年代に入ると、ディクスン・カーの作品には明らかな衰えが目に付くようになった。短期的には、『コナン・ドイル伝』(1949年)で精力を使い果たしただけなのかもしれないし、一方で、『ニューゲイトの花嫁』以下の歴史ミステリで新境地を開いているので、衰えと決めつけるのは早計ともいえる。しかし、カーが戦後という時代に嫌悪感を抱き、時代にそぐわない居心地の悪さを感じ続けていたのは事実らしく[i]、この後、根無し草のように、イギリスとアメリカを行ったり来たりしているのも[ii]、居場所を失った旧世代作家の悲哀を感じさせる。そうした先入観もあってか、50年代以降のカーには、かつてのようなパズル・ミステリにかける情熱のようなものが薄れていったように見える。その熱意の低下が、アイディアの枯渇と細部への目配りに対する意欲の減退へと繋がっているとも映る。あれだけ書けば、飽きるのも不思議ではないが。

 かつてのお気に入りだった探偵たちに対する態度にもそうした変化が見て取れる。フェル博士には『疑惑の影』でもって一旦引導を渡してしまった(同作でも、大して活躍しないが)。より豪放でキャラクターの濃いヘンリ・メリヴェル卿のほうは、まだ未練が残っていたらしく、50年代に入っても、三作に登場させている。ヘンリ卿をめぐるギャグ・シーンを書くことにまだ楽しみを見いだしていたのだろう。そのうちの一作、通算20作目のH・Mものが『わらう後家(魔女が笑う夜)』(1950年)[iii]である。

 本書については、ある意味で、数ある代表作以上に、その名を知られているといえるかもしれない。ある意味で、というか、悪い意味で・・・。

 何しろ、「絶対さいしょに読んではいけないカー作品」[iv]に堂々ランクインしているくらいだが、『五つの箱の死』とともに、最初に本書の「迷声」を高めた(?)のは、瀬戸川猛資のエッセイだろう。「知る人ぞ知る怪作」「ちょっと信じがたいほど珍妙なトリック」「珍無類」「よくも、これほどバカなことを思いついたものだ」[v]といった適切かつ冷静(?)な言辞が並んでいる。

 カーの魅力は不可能トリックにあるのではない、そのストーリーテラーとしての云々、などといっても、さすがに、これほどの「珍無類」なトリックが使われると、そっちに目が行ってしまう、それでもって評価せずにはいられない。その気持ちはよくわかります。そして、こんなトリックを1950年という時期のミステリに堂々と使用するカーの無鉄砲さにも、いっそ清々しさを感じる。

 でも、個人的には『テニスコートの殺人』(1939年)などよりは、百倍ましな気がする。鏡に映った自分の顔をお化けと間違える、というのは、一種の皮肉味があって、G・K・チェスタトンを思わせる。・・・いや、褒め過ぎか。なまじっか、メイクアップなどといった小細工を弄するから、滑稽に見えるのだ。本作が馬鹿馬鹿しいというなら、ラヴクラフトの「アウトサイダー」なども滑稽小説になるだろう。

 トリックは置いておいて、本書のテーマは匿名の手紙、もしくは中傷の手紙である。日本では、ある時期から、横溝正史がこのテーマに執着して、何作も書いている。もっとも早いのは中絶した連載『神の矢』(1946年)[vi]なので、本書よりも早い。匿名の手紙テーマは、ドロシー・L・セイヤーズが『大学祭の夜』(1935年)で取り上げているが、横溝のヒントになったとすれば、アガサ・クリスティの『動く指』(1943年)のほうだろう[vii]。カーが意識しているのも、多分クリスティ作である。本書で、カーは珍しくイギリスの村社会を描いているが、これがまさにクリスティ風なのだ。もちろん、イギリスの田園地方を舞台とした長編なら、カーはいくたりも書いているが、大半は、特定の一家族や屋敷に限定されて、地域のコミュニティを扱った作品はほぼ見当たらない(『死が二人をわかつまで』や『時計の中の骸骨』などに、ある程度描かれている)。本書は、匿名の手紙がテーマであるせいか、地域社会の多様な人々が登場する。その辺が、カー長編としては目新しいといえるだろう。もっとも、物語の中心となるのは荘園主や元軍人、作家といった知識階層の連中で、結局、従来の作品と大差ないのだが。

 やたら会話が多く、しかも、無駄と思えるような会話が多いのは、そしてまた、だらだらと長いのは、カー自身がこのストークドルイド(すごい名前だ[viii])という村の住人たちを描くことに狙いを置いていたことを示すのかもしれない。

 たまたま本書を再読する前に、アンソニーホロヴィッツの『カササギ殺人事件』(2017年)を読んだのだが(今ごろ?と呆れられるだろうが)、本書と比較して、会話があまりに明晰なのに驚いた。登場人物の会話がきちんと「成立」していて、質問したことにはちゃんと皆答えるし、最初渋っていても、最期には質問に応じるので、読んでいて気持ちがよい。あまりにも、みんな素直すぎるような気もするが[ix]

 それに比べると、カーのミステリは、やはり会話が読みづらい、と実感した。本書ではさらにそれに輪をかけて、登場人物はいずれも最後まで話をさせてもらえない。突然横やりを入れられたり、自ら口ごもって話をそらせたりするので、一体、作者がその会話にどのような意味をもたせようとしているのかが不明な場合が多すぎる。カー自身は、それがリアルだと思っていたのかもしれないが、会話のまずさというより、はぐらかしの韜晦趣味が治療不可能なまでに重症化しているようだ。

 話を「毒の手紙」テーマに戻すと、作半ばの13章で、事件を担当する警部補(ガーリックという名前には、何か意味があるのだろうか。それとも、「ニンニク」のように臭いという単なる悪口?)を相手に、ヘンリ卿が、こうした悪意の手紙の書き手に関する分析を行う[x]。かつての『緑のカプセルの謎』(1939年)の「毒殺講義」ほど詳細ではないが、学究肌のカーらしく、手紙の書き手のタイプを四つに分類して、犯人の性別や思考の傾向を明らかにしようとしている。もちろん、そこに作者の罠が潜んでいるわけで、警部補が否定したタイプに犯人が属している(警部補が同意を求めると、ヘンリ卿が「ずっと無表情だった」[xi]、と書いているのも、カーらしい手管である)。恐らく、カーが本書を書く気になったのは、この「悪意の手紙」テーマにおける新しい犯人の型を描ける、と判断したからなのだろう。時代背景が第二次大戦前、しかしその直前の1938年に設定されていることも、作品中にドイツ人医師が登場し、かなりの敵意をもって描写されているのも、そうした犯人の設定に関連していると思われる。そして、犯人を特定するために、カーは、これまで時々試みてきたように、ある種心理的な手掛かりを用いている[xii]。といっても、結局はほのめかし程度のものに過ぎないのだが。

 そして、さらに勘ぐれば、この犯人が時代に疎外された、と感じ、それに対する報復感情が匿名の手紙の執筆動機に繋がっているのは、カー自身が無意識に自身の心情を犯人に投影している「心理的な」徴候であるとも取れる。犯人が「わしはいったいどんなつもりだったんだ?」[xiii]、と最後に自問するのは、案外、これも作者自身の心境を思わず知らず吐露してしまったものなのだろうか。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、322頁。

[ii] 同、13章以下を参照。

[iii] 『わらう後家』(宮西豊逸訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)、『魔女が笑う夜』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。題名が変更された理由は何だったのだろう。新訳でも、作中では「後家」が使われているのだし。

[iv] 『死が二人をわかつまで』(仁賀克維訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2005年)、若竹七海による解説「やっぱりカーが好き」、328頁。

[v] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、46頁。

[vi]横溝正史探偵小説選Ⅴ』(論創社、2016年)、392-426頁、に収録されているのは、1949年に『ロック』に連載されたもの。1946年に『むつび』に掲載され、一回で中絶した同題の長編と同一内容で、やはり中絶した。1956年に中編として発表され、同年に書下ろし長編として刊行された『毒の矢』の原型になっていると思われるが、トリックや犯人等が同一だったのかどうかはわからない。その後も、『黒い翼』(1956年)、『白と黒』(1960-61年)で「毒の手紙」を扱っている。

[vii] 『動く指』の初訳は1958年らしいので、横溝が原書で読んでいたかどうか。森英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、228頁参照。

[viii] ウェールズとグラストンベリの近くにあるという設定なので、明らかにブリテン古代史を意識しているのだろう。

[ix] ミステリとしての感想を問われれば、一言で言うと、面白かったが期待したほどではなかった、というところだろうか。

[x] 『魔女が笑う夜』、230-33頁。

[xi] 同、231頁。

[xii] 同、379-82頁。

[xiii] 同、382頁。

カーター・ディクスン『時計の中の骸骨』

 (本書のほか、アガサ・クリスティの『五匹の子豚』、『邪悪の家』、エラリイ・クイーンの『フォックス家の殺人』、横溝正史の『女王蜂』、『悪魔の手毬唄』、『不死蝶』のプロット、犯人設定等について言及しています。)

 

 『時計の中の骸骨』(1948年)[i]を読みかえした。三回目か四回目になるが、やはり面白い。カーの作品のなかでは、比較的早く読んだ小説-ポケット・ミステリの古本だった-で、印象が強かったせいもあるのだろう。あるいは、過去の殺人事件を解明する、というプロットが好みなのかもしれない。偶然か、1940年代に、アガサ・クリスティ[ii]も、エラリイ・クイーン[iii]も、同様の趣向の長編を書いている。クイーン作品とは、犯人の設定も類似している。そういえば、作品は異なるが、クリスティも、同じ頃、同様の犯人設定で長編を書いている[iv]

 カー作品(ディクスン名義だが)が他の二人と異なるのは、謎解きでヘンリ・メリヴェル卿が強調しているとおり[v]、作品中の現在においても殺人が起こって、過去の殺人と犯人が同じ、という構成になっている点だ。このアイディアは、横溝正史がいくつもの長編で用いている[vi]。横溝は、本書を原書で読んでいたのだろうか(翻訳は1957年[vii])。

 もっとも、パズル・ミステリとしては、さしたる出来ではない。誰もいないはずの屋上から被害者が転落して死亡するが、銃弾のあとも、刺された傷も見つからない。事故としか見えないが、ヘンリ卿は殺人と断言する、という、相も変らぬ不可能犯罪ミステリである。が、そのトリックは、犯人が屋上の床を這って、目撃者の死角に入っていただけ、というもの。肩透かしもいいところで、おまけに、タイトルどおりの骸骨入り大時計[viii]が登場して、そこに殺害トリックの秘密が隠されているのだが、そんなものをわざわざ時計に入れて残しておくなど、頭のおかしな犯人がやること-実際は、犯人ではなく、犯人をかばう人物の仕業だが、どっちにしても、おかしいことに変わりはない-で、リアリティ・ゼロである。

 これが、過去に起きた殺人のトリックで、現在の事件は、とくにトリックらしいトリックはなし。ただの刺殺による犯行。その動機も、過去の殺人の秘密を知られたから、といった明白なものではなく、単なる激情による犯行とわかる。カーが40年代前半の幾つかの長編で見せてくれた、盲点をつく犯人特定の推理もなし。犯人も意外ではなく、むしろ、カー作品恒例の、一見人当たりのよい好青年、実はイカレポンチのサイコ野郎で、また、こいつが犯人か、と思って読んでいくと、やっぱりこいつだった、という始末。さらには、主人公の画家は、戦時中に軍隊で知り合った女性のことを、運悪くはぐれてしまった後も、ずっと思い続けている、という、毎度おなじみの通俗ロマンス的展開。たまたま、サザビーズならぬウィラビーズの競売所に出かけると、そこで想い出の女性と再会するが、彼女には婚約者がいて・・・、という、こちらもカーの二十年来の伝統芸。さすがに、ここまでくるとマンネリ感がすごい。こうしてみると、どこがどう面白いのか、どうやって説明すればよいのやら。

 だが、細かな手がかりは、いずれも断片的で暗示的な発言や証言ばかりだが、全編にわたって、無数に散りばめられており、長編ミステリに投入すべき労力は感じさせ、投下労働に見合った商品価値(=定価、文庫版税込み620円)は備わっている。なかでは、犯人の証言と目撃者の証言の時間的な矛盾を示す手がかり[ix]が面白い。

 しかし、一番の読みどころといえば、ダグラス・グリーン[x]二階堂黎人[xi]がそろって指摘している二つの場面だろう。今回、読み直して、やはりそこが印象に残った。ひとつは、主人公と友人の弁護士が、かつて刑務所だった建物のなかの、かつて処刑室だった場所で、肝試しで一夜を過ごす場面。もうひとつは、クライマックスの犯人逮捕のシーンで使われる鏡張りの迷路の描写である。

 前者では、主人公と弁護士がくじを引いて、どちらが処刑室に籠るのかを決める。当たったのは弁護士のほうで、これもカーらしいはずし方である。普通、主人公が当たりくじを引いて、かつて多くの死刑囚が絞首刑にされた室内に閉じこもる。そこになぜかヒロインが現れて、突然のラヴ・シーン。しかし、実は殺人犯が主人公を狙っており、銃声が鳴り響いて危機一髪、となりそうだが、あにはからんや、そうはならない。肝試しを終えて、ひとりで屋敷に戻ってきた主人公が、そこでヒロインと出くわすと、二人で朝のお茶を飲みましょう、じゃ、僕は先に行っているよ、と屋上に昇っていく。おや、双眼鏡があるぞ、と、覗いていると、突然何者かに突き飛ばされて、あわや一巻の終わり、という展開になる。

 処刑室のほうに話を戻すと、こちらは弁護士の回想として語られる。彼は、処刑室内の異様な雰囲気、処刑された死刑囚達の悪霊のようなものを感じて落ち着かない。部屋の真ん中には、落とし板があり、その上に立った死刑囚が首に縄を巻きつけられ、二枚の落とし板が開くと、そのままその下の穴の中にぶら下がって絶命するという仕組みである。高をくくっていた弁護士は、思った以上に恐怖を感じて、部屋の隅に椅子を置いて、本を読んで時間をつぶそうとする。ところが、気がつくと、いつの間にか椅子が部屋の真ん中の落とし板の上に来ていることに気づく[xii]。この辺が一番怖いところで、カーの書いた怪奇短編小説と比べても、むしろ出来がいいんじゃないか、と思える。この後、弁護士が怖いもの見たさで落とし板を開いてみると、穴の中に娘の惨殺死体が横たわっていることに気づく、というショッキングな結末が描かれるが、そこに至るまでのカーの筆力はさすがに冴えている。

 鏡の迷路のほうは、ヘンリ卿が犯人を罠にかけて捕えようとするのだが、主人公が卿を探して(カー作品らしく)無鉄砲に部屋を飛び出し、無謀にも迷路の中に飛び込んでしまう。自分の姿が鏡に映って何重にも重なって見えたり、通路が果てしなく遠くまで続くかのような、鏡の錯覚と迷路の恐怖が描かれて、江戸川乱歩の「鏡地獄」を連想させる。この後、主人公が、自分の影ではない誰かの後ろ姿を見かける場面が一番不気味なところである[xiii]。さらに、館内アナウンスで、何者かの声が主人公に呼びかける箇所は、ぞくぞくわくわくさせてくれる。最後、鏡と思われた壁がゆがむと、犯人が主人公とヘンリ卿の前に転げ出てくるシーンの描写も見事だ。

 結局、本書の面白さは、これら二つの場面に集約されるのかもしれない。カーの熟練の場面演出と表現力が堪能できる一作である。

 

[i] 『時計の中の骸骨』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[ii] 『五匹の子豚』(1943年)。

[iii] 『フォックス家の殺人』(1945年)。

[iv] 『邪悪の家』(1949年)。江戸川乱歩が『続・幻影城』のなかで、H・C・ベイリーの短編小説について論じているが、そのついでに、1949年には、何人もの作家が、少年を犯人や重要人物とした小説を書いていることを紹介している。カーの本書(イギリスでは1949年刊行)とクリスティの上記作のほか、マイクル・イネスやニコラス・ブレイクの名が挙がっている。江戸川乱歩『続・幻影城』(光文社、2004年)、94頁。

[v] 『時計の中の骸骨』、355頁。

[vi] 『女王蜂』(1951年)、『悪魔の手毬唄』(1957-59年)、『不死蝶』(1958年)。

[vii] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、115頁。

[viii] 書名は、言うまでもなく「戸棚の中の骸骨(外聞をはばかる秘密)」(skeleton in the closet, skeleton in the cupboard)をもじったもの。

[ix] 『時計の中の骸骨』、78-79、130-31、283-86頁。

[x] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、364-65頁。

[xi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、381頁。

[xii] 『時計の中の骸骨』、247頁。

[xiii] 同、334頁。

J・D・カー『眠れるスフィンクス』

 (本書の内容に触れているほか、『時計のなかの骸骨』およびアガサ・クリスティの長編小説に言及しています。)

 

 1940年代後半になると、ディクスン・カーの創作力もめっきり衰えて、長編小説は急減する。数え方にもよるが、1930年代には、共作を含めて30冊(カー名義19冊、ディクスン名義11冊)もの長編小説が出版されているのに対し、1940年代前半には、11冊(カー名義5冊、ディクスン名義6冊)と、大きく減少した。後半になると、それがさらに7冊(カー名義3冊、ディクスン名義4冊)にまで落ち込んだ。

 作量の低下に伴い、注目作も減ったというか、わが国でとりあげられることも少なくなった。江戸川乱歩の熱も冷めたのか、「J・D・カー問答」で取り上げられた1940年代半ばまでの作品以降は、言及されることもまれになった。松田道弘の「新カー問答」でも、この時期の諸作にはコメントがない。この後、1950年代になると、いよいよ歴史ミステリの執筆が始まり、それなりに注目度が上がるので、この40年代後半は、まさにカー評価の空白期に近い。

 『眠れるスフィンクス』(1947年)は、その空白期の一冊で、二階堂黎人は、短いながら「恋愛的事件としては、なかなかの悪意を描いている。墓場のトリックも小粒だがなかなか良い」[i]、と記して、多少投げやり感はあるが、評価は悪くない。

 氏の言っているとおり、例によって、恋愛が事件を動かす要因となっている。そして、密閉された納骨堂のなかで棺が何ものかによって移動させられている、という不可能トリックも登場する。『火刑法廷』を彷彿させる、胸ときめかせる謎だが、あんないいものではない。ディクスン名義の『青ひげの花嫁』もそうだったが、ミステリとしてはなんとも地味な印象で、犯人の意外性に関しても、さしたることもない。

 ただ、本書で、カーはあえて普通小説風のプロットと描写を試みているようにも感じられる。ストーリーは、例によって、大戦後、諜報機関の任務を解かれた主人公が、莫大な遺産を相続して、昔、魅かれていた女性にもう一度思いを伝えようと、力んでロンドンの街路を歩むところから始まる。またですか、というような幕開けだが、『死が二人をわかつまで』や『囁く影』で顕著となってきたように、主人公の恋愛はノンキな一目ぼれではなく、なかなかシリアスなもので、とくに本書では、主人公の恋愛に関する疑惑と不安が、全編にわたって、じわじわと緊張感を持続させる。カーとしては珍しい展開である。

 主人公が思いを寄せる娘は、姉妹の妹のほうで、姉は社交的な美女だったのに対し、彼女は無口で内向的。姉は、富裕な実業家と結婚して幸せそうだったが、主人公が音信不通になっている間に、毒を飲んで死んだことがわかる。妹はそれ以来、義兄の実業家を恨みに思って、姉は彼に殺された、と信じているらしい。しかも、かつて主人公は、二人の祖母から、姉妹の一人は精神的に問題があり、心配だ、と漏らすのを聞いていた。妹のほうが、いささか偏執的に、亡き姉の夫を攻撃するさまをみた主人公は、彼女に対する不安を隠せない。このような、第二次大戦後に流行したニューロティック・サスペンスのようなムードで物語は進んでいく。

 フェル博士が登場すると、二階堂がこれまた指摘しているように[ii]、相変わらずの韜晦趣味的発言が続いて、主人公もキレそうになる[iii]。怒りを抑えながら、博士に同行した主人公とヒロインが地下墓地を開くと、敷きつめられた砂に一つの足跡もないのに、重い棺がいくつも散乱して、宙に浮く何モノかが動かしたようにしか見えない。果たして、密室状態の石室に侵入して棺を放り投げ、放り出したのは悪霊なのか・・・。

 実に嬉しくなる不可能状況だが、解決はあっけない。二階堂の評価のように、悪くはないが、自然現象なので、なんとなく拍子抜けする。そもそも、フェル博士達が、何のために墓を開いたのか、一応理由は述べられるが、わかったような、わからないような説明で、カーがこのトリックを入れたかったから、というのが理由、ということしか頭に残らない。つまり、筋に関係のないおまけとしか見えないのだ。

 もっとも、本書の特色は、少しずつサスペンスが高まっていく語り口にあるので、フェル博士の思わせぶりなセリフや、「本当のことを話そう」、というと、とたんに玄関のベルや電話が鳴りだすマンネリズムも、確かに、初読のときはいらいらさせられたが、再読すると、そうでもない。ゆとりがあるときなら、これはこれで、もどかしさも癖になる(好意的過ぎるか)。

 姉と妹、どちらが精神に問題を抱えていたのか、という問いは、謎というほどの謎でもなく、誰でも見当がつくとおり、答えは姉だが、彼女には、ヒステリーの症状と性的な特性があり、結婚生活が破綻していた、と明かされる。このあたりも、40年代半ば以降のカーに顕著となる特徴だが、その結果、本作の犯人は、カー作品ではお馴染みの、ともいえるし、少しそこからはずれている、ともいえる。自尊心丸出しの美青年だが、これまでのカー作品に比べると若い。まだ自我が確立していないような未熟な若者、という設定である。この犯人は、翌年のディクスン名義の『時計のなかの骸骨』に近いものがあり、なにかしら作者にこうした犯人像に対する思い入れがあったのか、と考えさせる。

 犯人に関する手がかりとして、門が閉じられ周囲を濠に囲まれた屋敷に、深夜、侵入するために、濠を泳いで渡らなければならない。しかし、体や服がずぶぬれになれば、家族に怪しまれる。そこで、あらかじめ、誤って濠に転落したようにふるまい、それで、その後水に濡れることをごまかそうとする、というトリックが出てきて、なかなか面白い。後年、アガサ・クリスティがある長編で、この手がかりを使っている[iv]

 本書は、かつてのような一大スペクタクルでもないし、かといって、小気味よいカード・マジック・ショーというわけでもないが、そのサスペンス・ミステリ風の語り口や、犯人の設定、手がかりなど、マンネリズムに陥らないように(実際は、陥っているのだが)、作者も結構工夫をこらしている。その細かな工夫と変化を楽しめるならば、読んで損はない、といっておこう(やっぱり、好意的過ぎるかな)。

 

[i] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、381頁。

[ii] 同。

[iii] 『眠れぬスフィンクス』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、169-72頁。

[iv] アガサ・クリスティハロウィーン・パーティ』(1969年)。

カーター・ディクスン『青ひげの花嫁(別れた妻たち)』

(本書のアイディア、真相に触れています。)

 

 本書はハヤカワ・ポケット・ミステリ[i]に収録されたあと、1982年にハヤカワ・ミステリ文庫[ii]に収められた。訳者は変わっていないので、改題ということになる。旧題だと、単に離婚しただけのように受け取られるからだろうか。もちろん、タイトルは「死に別れた」、「私の死んだ妻たち(My Late Wives)」という意味である。

 題名が示唆するように、次々に女性と結婚しては、殺害していく殺人鬼を素材にしている。この手の犯罪者は、現代なら、さしずめシリアル・キラーということになって、ミステリ作家の大好物だが、カーター・ディクスンディクスン・カー)も例外ではない。以前から、作品のなかにしばしば現実の殺人魔の名を挙げていたが、満を持してということなのか、あるいはネタに困ったのか、結婚相手を殺しては、次の獲物を探す現代版青髭をテーマに、異色の犯罪実話風ミステリに挑戦している。アプローチの仕方は異なるが、同時期のエラリイ・クイーンの『九尾の猫』(1949年)を連想させる作品である。

 といっても、実話をなぞっただけでは面白くない。当然、ミステリらしい仕掛けが欲しいところで、まずその第一は、人気舞台俳優が休暇に訪れた保養地で、青ひげに扮して、それらしく振る舞う、というプロットである。

 十年ほど前に、四人の女性が殺害されて、しかし、その死体が発見されないという事件が起こった。犯人とみられるロージャー・ビューリーなる人物は、最後の事件で、目撃者に死骸を見られながら、結局、監視の警察官の手を逃れて、死体もろとも姿を消してしまった、と思われている。そして、十年後、俳優のブルース・ランサムのもとに、何者かから劇の原稿が送られてくる。その内容は、かつてビューリーが犯したとみられる犯罪を題材とした脚本だった。脚本に興味を示すランサムは、その結末をめぐって、演出家のベリル・ウェストと口論になるが、サフォークのオールドブリッジ[iii]近くの町で休暇を過ごすというランサムに、ビューリーのふりをして若い娘を誘惑してはどうか、とベリルが提案する。脚本では、ビューリーと思われていた怪しい人物が実は高名な小説家だった、という結末になっていて、ベリルは、現実では、そんな結末ではハッピー・エンドにならないと主張していたからだった。いいとも、やってみよう、と言い出すランサムに、軽率なことはやめろ、と友人のデニス・フォスターは忠告するが、数週間後、ランサムに呼び寄せられたフォスターとウェストがオールドブリッジを訪れてみると、案の定、ランサムは、ダフネ・ハーバートという娘と親密な間柄になっており、しかも、ランサムがビューリーだという噂が周辺に広まっていた。おかげで、ダフネの父親のジョナサン・ハーバートが娘を思いとどまらせようとするなど、事態はこじれていき、しかも、ヘンリ・メリヴェル卿とマスターズ主任警部が介入してくると、ビューリーが実際に当地に潜んでいることが明白となってくる。

 こうして、いかにもという展開になっていくが、このプロットの捻りは、ランサムが本当にビューリーかもしれない、と思わせるところにある。正体不明の送り主が寄こした原稿には、ビューリーしか知らない事実が述べられており、それがビューリーがオールドブリッジに住んでいる証拠なのだが、ランサムは原稿が届く前から、その事実を知っていたようにも見え、彼に対する疑惑の原因となる。ランサムがビューリーなら、いかにもミステリらしい真相だが、もちろん、カーはそんな単純な手は使わない。ランサムの様子は確かに怪しいが、実は、彼が事件に入れ込むのには、理由があったことがわかる。しかし、この展開は、ビューリーがそのような因縁のあるランサムにたまたま原稿を送ったということになって、偶然で済ますには少々無理があるようだ。

 その他の、ミステリ的アイディアは、ビューリーが死骸を見られた十年前の最後の事件の偽装のトリックと、死体隠滅の方法。後者は、現実の殺人鬼たちは、死体の処分方法として、大体、手近なところ、例えば地下室の壁に塗り込める(『夜歩く』?)、といった方法を取る、と説明しておいて、裏をかいて、ゴルフ場をトリックに用いている。ただ、ゴルフ場は、掘り返したりすれば、すぐ痕跡でわかってしまうので、死体の処分には向かない[iv]、と一旦否定しておいて、これはカーの常套手段だが、そのあと、でも、バンカーの砂のなかなら隠せるよね[v]、というのが種明かしなのは、正直、平凡過ぎて、あまり盲点を突いたトリックとも思えない。まだ、ゴルフが人口に膾炙するスポーツとはなっていなかった時代で、当時は充分意外な方法だった、ということなのだろうか。

 いずれにしても、犯罪実話風なので、カーも、密室だとか、幽霊による殺人だとかの現実離れした謎や装飾は排して、現実的なトリックや犯罪を用いてパズル・ミステリを書こうとしたらしい。その意欲は買えるが、出来栄えとしてはいまいちか。

 ダグラス・グリーンの評価は、ビューリーが「死体を消す方法の説明は、うんざりするほど見え透いている」が、「殺人者の正体は意外な人物だ」、というもの[vi]二階堂黎人は、「けっこう意外な犯人が出てきて、しかも充分納得できる」[vii]、と、こちらも高評価。最後に、御大、江戸川乱歩の評価は、「J・D・カー問答」では、最低の第四位[viii]。この頃の乱歩の関心対象から言って、当然の結論だろう。ちなみに、この時点で、本書が、乱歩が読んだ一番新しいカー長編だったらしい。

 確かに、ランサムをうまく使っているので、犯人をなかなか上手に隠せているようだ。その辺がプラスの評価だろうが、全体としては、やはりかなり地味な印象である。地味なのはいいのだが、40年代前半の長編のような、鮮やかな背負い投げを食わせるようなアイディアが見当たらないのは、やはり物足りない。とはいえ、カーの本質が、トリックよりも、犯人の隠し方の上手さにある、ということを実証している作品ともいえる。いつもと異なるプロットづくりが読ませどころ、ということになるだろうか。

 

[i] 『別れた妻たち』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1957年)。

[ii] 『青ひげの花嫁』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。

[iii] サフォークのオールドブリッジは、『弓弦城殺人事件』(1933年)の舞台になっている。『弓弦城殺人事件』(加島詳造訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。サフォークというとイングランド東部だが、なぜまた13年ぶりに舞台に選んだのだろう。

[iv] 同、217頁。

[v] 同、322頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、364頁。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、380頁。

[viii] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、344頁。