エラリイ・クイーンとマルクス

 表題のマルクスマルクス兄弟ではない。

 

 エラリイ・クイーンは、パズル・ミステリ作家のなかでもひときわ異彩を放っている。彼(ら)ほど、論理に拘った推理作家は英米でもまれだろう。同時代のアガサ・クリスティやジョン・ディクスン・カーらに比しても、また現代作家を見回しても、あそこまで論理的推論を追求した例は他に思い浮かばない。それは、作風が変わったとされる1940年代以降でも基本的に同じである。推論に割く割合が減ったとしても、最後までそこに拘泥したのは、最終作の『心地よく秘密めいた場所』(1971年)を見てもわかる。その姿はいささか偏執的ですらある。

 実際、クイーンの推理には、他の英米作家にはない独特の特性があるように思える。それは、むしろ後期の作品に、より強く現われている、というか、よりわかりやすく表現されているように感じられる。ミステリを書き続けることで、当然のことながらアイディアは枯渇し、作風はマンネリ化する。作家も大変だが、しかし、そのなかでその作家の本質が露呈してくるとはいえるだろう。クイーンのミステリ作家としてのコアな部分を明らかにするには、後期の作品をこそ見ていくべきだろう。

 

 ところで、論理的推理をクイーン・ミステリの真髄と考えるとき、筆者が連想するのはカール・マルクスである。

 唐突なようだが、カール・マルクスの資本主義分析の有名な理論として価値形態論というのがある。経済学部の学生なら常識だが、何分、はるか昔に習ったことで、偉そうなことは言えない。そもそも難解過ぎてよく理解できなかった。しかし、経済学者の岩井克人による『貨幣論[i]を読むと、難解な理論をかなりわかりやすく説明してくれている。以下、岩井に従って、価値形態論について見ていくが、経済理論の話をしたいのではない。マルクスの理論的思考の特性について考えてみたいのだ。

 価値形態論とは、手っ取り早く言えば、貨幣がいかにして出現するかを説明したものだ(合ってるかな)。アダム・スミス以来の古典派経済学では、経済の単位である商品の価値を使用価値(その商品を消費することで得られる満足)と交換価値(他の商品と交換可能であることで得られる満足)に分類したが、通常商品が持っている2つの価値のうち、交換価値しか持たないのが貨幣である。

 マルクスは、以上の前提のもとで、次のように価値の形態を展開していく。

 まず、一つの商品が他の一つの商品と交換可能である社会を想定する。

 

20エレのリンネル = 1着の上着[ii]

 

 リンネル(亜麻布)を相対的価値形態と言い、上着と交換可能であることによって自身の価値を表現している。上着を等価形態と言い、リンネルと交換可能であることによってリンネルの価値を表現している。リンネルは、自分(主体)だけではその価値を表現できないので、他の商品(客体)によって価値を表現しているわけである。もしリンネルが他の無数の商品とも交換可能であれば、次のような価値形態(全体的な価値形態)が可能となる。

 

1着の上着

10ポンドの茶

20エレのリンネル =  40ポンドのコーヒー

1クォーターの小麦

2オンスの金[iii]

 

 この等式は逆にすることも可能であるので、さらに次の価値形態(一般的な価値形態)が成立する。

 

1着の上着

10ポンドの茶

40ポンドのコーヒー = 20エレのリンネル[iv]

1クォーターの小麦

2オンスの金

 

 こうしてすべての商品はたった一つの商品によって価値を決定されることになる。この唯一の等価形態の商品が貨幣の役割を果たすことは明白だろう。ただし、この役割は、携帯することが容易で耐久性がある、などの特徴を持ち合わせていなければならない。そこで、最終的にはそれに相応しい商品が貨幣形態として選ばれる。

 

1着の上着

10ポンドの茶

40ポンドのコーヒー = 2オンスの金[v]

1クォーターの小麦

20エレのリンネル

 

 かくして貨幣すなわち金(貨)が経済社会に出現するというのである。めでたし、めでたし。

 マルクスの論理展開は完璧で、非の打ちどころがない。こうしてわかりやすく解説してもらえば、経済学に疎い人でも理解できる単純さが素晴らしい。しかし、だがまてよ、と引っ掛かるところがあるのも事実だ。岩井は、そこのところをこう書いている。

 

  全体的な価値形態Bを逆にすると一般的な価値形態Cがえられる――マルクスのこの 

 説明のあまりの「安易」さに、従来のマルクス解釈者はほぼ例外なく狼狽し、なんと

 かより「深淵」な「解釈」をあたえようとつとめてきた[vi]

 

 どうやら、経済学者もとまどったらしいが、素人でもおろおろする。マルクスの理論展開は確かに見事ではある。このアイディアがひらめいたとき、多分マルクスは飛びあがったのだろう。ついに俺は真理にたどり着いたぞ、と歓喜の叫びをあげたに相違ない。しかし、等式だから左右を入れ替えても大丈夫、という理屈は、いわれてみればそうかもしれないが、でも、ここで扱われているのは数理の世界ではなく、人間社会のことだし・・・。

 

 マルクスのこの価値形態論を見て、筆者が連想するのは、エラリイ・クイーンの『悪の起源』(1951年)である。題名からして、マルクス同様、19世紀の知の巨人チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)をもじった、というより、揶揄した作品[vii]だが、ミステリとしても型破りな「怪作」、いや「快作」だ。

 (以下、『悪の起源』の真相を明かす。)

 私が言っているのは、(既読の方はおわかりだろうが)犯人の超人的な精神操作能力のことではない。この作品におけるクイーン的論理は、犯人から送られてきた殺人予告状の分析で発揮される。予告状(のコピー)に奇妙な違和感を抱いた[viii]クイーン探偵は、とんでもない事実に気づく。99語からなる文章のなかに、英語でもっとも頻繁に用いられる文字のひとつである t が一度も使われていない、という事実に-[ix]

 ああ、恐ろしい。なんということでしょう。t の文字を一度も使わずに、こんな長い文章を書くなんて。想像を絶するような犯人のたくらみに、さしもの名探偵エラリイも背筋が凍りつくような恐怖を感じたのです・・・。

 冗談はさておいて、この驚くべき事実から、さらにクイーンは驚天動地の推理を引き出す。すなわち、意識することなく、t を使わない英語の文章を99語にわたって書くことはありえない。しかし、手書きの場合、t を使わずに文章を書かなければならない必然的な理由はない。従って、手紙はもともとタイプライターで書かれた。タイプライターで文章を書くときに、特定の文字を使わない(えない)理由があるとすれば、その文字のキーが折れたからである。ゆえに、t のキーが折れたタイプライターをもっている人物が犯人である[x]

 水も漏らさぬ緻密な推理である。まさにクイーン流論理の真骨頂だろう。そんなの、t のキーを交換してから打てよ、と突っ込んではいけない。実は、この手紙は真犯人がわざと他人に罪をかぶせようとしてつくった偽の手がかりなのだ。しかし、復讐のため-これが犯人の動機-とはいえ、わざわざこんな回りくどい手がかりを案出するものだろうか。上記の「想像を絶する犯人のたくらみ」はまんざら嘘でもない。そしてこのような論理展開を考えついた作者の頭脳も恐ろしく冴えているが、何だか変。

 そしてこのクイーンの推理を読むと、私が連想するのはマルクスの・・・(以下、略)。

 

 冒頭に書いたように、エラリイ・クイーンの推理は、他の英米作家のそれとはどこか違っているような気がしてならない。単に論理が厳密だとか、徹底しているというのとも異なる。何か、地に足がついていないような抽象性。飛翔する論理というか、アングロ・サクソン的な地に足のついた論理とは別な何かを。そしてその特徴は、いわゆる全盛期のクイーンの諸作よりも、一般に衰えたとされる後期の作品のほうに顕著に表れているように感じる。ミステリのアイディアを書き尽くして、ロジックが次第に現実離れ、もしくは突飛になっていく。説得力が低下していく時代の諸作に。しかし、それはクイーンの本質的要素が露わになっていく時期でもあるのではないか。論理に淫している、と、かつてトーマ・ナルスジャックがクイーンを評して言ったというが[xi]、フランス人作家から見ても特異なこのアメリカ人作家(達)の論理愛好癖は、同じく経済を数学というより論理で解析しようとしたカール・マルクスに似ている、と感じるのだ。

 ちなみにマルクスの資本主義分析では、経済恐慌を資本主義の矛盾の爆発ととらえるが、エラリイ・クイーンがデビューしたのは、まさに世界恐慌が勃発した1929年のことだった。別に関係ない?まあ、そうだが、クイーンのミステリを読むとき、私は、ついついマルクスの価値形態論を思い浮かべてしまうのだ(ついでだが、剰余価値論も面白いぞ)。

 

[i] 岩井克人貨幣論』(筑摩書房、1993年、ちくま学芸文庫、1998年)。

[ii] 同、42頁。エレ(Elle)はドイツ語の長さの単位。

[iii] 同、48-49頁。

[iv] 同、49頁。

[v] 同、55頁。

[vi] 同、51頁。

[vii] 登場人物には、アルフレッド・ウォレスなる人物まで出てくる。アーノルド・C・ブラックマン(羽田節子・新妻昭夫訳)『ダーウィンに消された男』(朝日選書、1997年)参照。

[viii] エラリイ・クイーン(青田 勝訳)『悪の起源』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、89頁。

[ix] 同、87頁。

[x] 同、305-14頁。

[xi] 早川書房編『世界ミステリ全集』第3巻(エラリイ・クイーン編)(1972年)の巻末座談会で読んだような記憶があるのだが。典拠は確かではない。

J・D・カー『死時計』

 何かと言えばG・K・チェスタトンの影響が云々されるジョン・ディクスン・カーであるが、江戸川乱歩がその典型例として挙げたのが、『死者はよみがえる』(1938年)とこの『死時計』(1935年)である[i]

 カーの「チェスタトン流の味」が苦手だという二階堂黎人は、本作におけるメイン・プロットとサブ・プロット-とくにデパートでの万引き殺人事件-の組み合わせ方を称賛する一方で、あまり好まない作品の六作に入れている[ii]

 このチェスタトンの影響というか、チェスタトン流のミステリというのは、結局のところ、どういうものなのか、乱歩も説明が難しいようで、あまり明快な定義をしていない。「非現実」[iii]とか「合理主義にはずれた」[iv]とか、具体的には「不可能興味」[v]だという。二階堂は、「抽象的な概念で犯人捜しをしている」[vi]と表現するが、要するに「直感的」ないし「感覚的」[vii]、ということのようだ。乱歩は、謎の提示の仕方について、二階堂は、その解決手法に関しての言及だが、やはり一言では言い表せないもののようである。

 しかし、乱歩が挙げた二作に関して言えば、端的にミステリのトリックなりアイディアが非現実的である、ということになるのではないだろうか。同じくチェスタトン流の代表格と見なされている『帽子収集狂事件』(1933年)は、トリック自体は、必ずしも非現実的ではない。かつて隆盛を誇った我が国の社会派推理小説でも使用可能だと思うが、『死者はよみがえる』と『死時計』は無理だろう。

 

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ビー・ジーズ1972

「マイ・ワールド」(1972.1)

1 「マイ・ワールド」(My World, B. & R. Gibb)

 ビー・ジーズのシングル・レコードは、「トゥ・ラヴ・サムバディ」が典型のように、メロディアスなイントロが特徴であることが多いが、「マイ・ワールド」はまるでリハーサルの音合わせのようなイントロで始まる。

 前作の「傷心の日々」同様、バリーとロビンの共作で、二人が交互にリード・ヴォーカルを取る。しかし前作と異なるのは、コーラスとコーラスの間のブリッジの部分を2度ともロビンがソロを取っていることで、つまりロビンのヴォーカル・パートが多くなっている。曲調もロビンの曲に特徴的なメロディ・ラインなので、彼の作曲担当部分が多いのだろう。

 「傷心の日々」のバカラック調から60年代に戻ったかのようなブリティッシュ・ポップで、そのかいあってか、イギリスでも16位まで上がった。「傷心の日々」がランク・インしなかったことを考えると大きな違いだった。日本では、1972年の初来日に合わせて「来日記念盤」と銘打って発売され、レコード・ジャケットには「マサチューセッツ以来のヒット絶対」などと煽り文句が印刷されていたが、もちろんそうは問屋がおろさなかった。しかしアメリカでも16位まで上昇し、前年ほどではないにせよ、好調を保った。英米ともにナンバー・ワンというのも大変な記録だが、英米とも16位というのも、これはこれで珍記録だろう。

 もう一つ特徴的なのは歌詞で、コーラスの”My world is our world and this world is your world and your world is my world and my world is your world is mine.”。まるで小学生が書いたような、あるいは一周回って味わい深いような[i]、あれだけ曲を書いていれば、ときにはこういう歌詞も書いてみたくなるよな、と思わせる。

 曲も歌詞も新しさはなく、前述のように昔に戻ったかのごとき曲調だが、当時はルーベッツの「シュガー・ベイビー・ラヴ」のような懐古調ポップスが流行っていたという事情もあった。しかしそれはそれとして、これこそがビー・ジーズの真骨頂でもある。バロック・ポップの香りを残しながら、あくまで親しみやすく、わかりやすいメロディ。とくにバリーが歌う2番のヴァースの背後に浮き上がってくる繊細なコーラスは美しい。

 

2 「オン・タイム」(On Time, M. Gibb)

 「傷心の日々」同様、A面がバリーとロビンの共作だったので、B面はモーリスの出番ということで、再び彼の独壇場となる作品。

 「レイ・イット・オン・ミー」などと同じく、スワンプ・ロックだが、カントリー色が抑えられ都会的な色合いが強くなっている。インストルメンタル・パートもシャープで、モーリスならではのヴォーカルと演奏が楽しめる。

 

「ラン・トゥ・ミー」(1972.7)

1 「ラン・トゥ・ミー」(Run to Me, B, R. & M. Gibb)

 久々に三人の共作になるナンバー。B面も同じで、タイトルも両曲とも”to”を挟んだ三文字からなるのは意識してのことなのだろうか。

 1972年は、彼らが大量のレコーディングを行い、未発表を含めて3枚ものアルバムを制作したことで記憶されているが、最初のレコードが7月発売のこのシングルだった。アメリカで前作同様の最高位16位、イギリスでは1969年の「想い出を胸に」以来のトップ・テン入りで9位。表面上は、快調にヒットを飛ばしていたように見えるが、ファンなら承知のとおり、この後とんでもない人気の低落にあえぐことになる。後から思えば、この年の膨大なレコーディングも、そうした不安感の無意識の現れだったのだろうか。

 しかし「ラン・トゥ・ミー」は、そうした不安を吹き飛ばすに充分な、まさに「これぞシングル・レコード」といった作品だ。ピアノの短いイントロからすぐにバリーのハスキーなヴァースが始まるが、通常より短い6小節の繰り返しでロビン主体のコーラスに移る。すべてはこのコーラスにつなげるためと思わせるような、なんともキャッチ―なキラー・メロディが鉄壁のハーモニーに乗って迫ってくる。このあたりは見事としかいいようがない。

 ヴァースのパートがコーラスに重なり、コーラスのパートが次のヴァースに重なる曲構成で、性急に先へ先へとメロディが重層的にかぶさり、最後は”Run to me.”のリフレインがフェイド・アウトするまでの3分で完璧にまとめられたお手本のようなシングル・レコード。完全にコマーシャルなポップ・ソングだが、これだけうまくまとめられるのは長年の経験と実績の賜物だろう。

 

2 「アラスカへの道」(Road to Alaska, B, R. & M. Gibb)

 A面とは対照的な、ビー・ジーズらしからぬというか、ロビンらしからぬブギ・ロック。とはいえ、コミカルな曲調も持ち味のロビンであれば、それほど違和感もない。ロック調のバックにロビンのへなへなのヴォーカルは、合っているのかいないのか、味があるのかないのか、よくわからないが、妙なノリのよさで、まるでロック・バンドのお遊びのような雰囲気だ。久々に両面とも三人の演奏とコーラスでまとめられている。

 

『トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン』(To Whom It May Concern, 1972.10)

 『トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン』は、ビー・ジーズのキャリアのなかの大きな節目に位置するアルバムとされている[ii]。イギリスでのレコーディングをやめ、ビル・シェパードとの共同作業も終わった。RSOレコードの設立とともに、マーケットをアメリカに移し、イギリスでの人気の回復を半ばあきらめたようにも見える[iii]

 『トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン』はそうした1967年から続いた時代の終わりを告げる作品でもある。「関係各位」というタイトルは、要するに「ビー・ジーズに関心を持ってくれる人たち」、「このレコードを買ってくれた人たち」に向けたものだろうか[iv]。無論手紙文の慣用句を借りているわけだが、ひねったようでいて、さして面白くもない。前作、前々作とも収録曲の題名をアルバム・タイトルとしていたが、今回は同じタイトルの曲は収録されていない。さすがに「関係各位」というタイトルで曲を書くことは、彼らにもできなかったのだろう。どのようなファンが自分たちのレコードを買ってくれているのかわからない、そんな迷いを示しているようにも見える。ジャケットは、日本でのコンサートの写真が使用されて、日本のファンにとっては嬉しいだろうが、前作のそれなりに凝ったジャケットに比べると、安易に見えなくもない。ジャケットの内側には、メンバーやスタッフ、家族の写真がコラージュされていて、三人の立体写真が飛び出すというおまけつき。これまでの関係者の献身への感謝でもあるのだろうが、配慮なのか、投げやりになっているのか。

 アルバムの中身は、前作とはうって変わって、冒険的あるいは実験的な作品がいくつか含まれている。『トラファルガー』はメロディアスな作品ばかりをそろえた楽曲集だったが、今回は、大作風から小品まで、オーソドックスなポップ・チューンから「前衛的」作品まで、ヴァラエティに富んだ、アソーテッド・アルバムと呼ぶのが適切なアルバムになっている。

 久々にビートルズの色が感じられるアルバムでもある。とくに『サージェント・ペパーズ』の時期のビートルズ。サイキデリックとの親近性を窺わせる変てこなナンバーがあることも、そう感じさせる要因かもしれない。そう考えると、思わせぶりともいえるタイトルや13曲収録というところも『ペパーズ』を意識したものだろうか。『サージェント・ペパーズ』も13曲収録だった(タイトル曲が2曲入っているが)。1972年当時のアルバムで13曲入りというのが、そもそもめずらしい。「ラン・トゥ・ミー」以前のシングルB面曲の「カントリー・ウーマン」や「オン・タイム」はアルバムに収録されていない。同じように「ラン・トゥ・ミー」のB面の「アラスカへの道」は、入れなくともアルバムとして十分な演奏時間を確保しているのに、収録されている。どうしても13曲入りにしたかったようだ。

 全米35位。『トゥー・イヤーズ・オン』が32位、『トラファルガー』が34位だったことを思うと、健闘しているといってよいだろう。(収録されていないが)「マイ・ワールド」と「ラン・トゥ・ミー」のヒットのおかげだろう。しかしそれは、シングル・ヒットが出なくなればアルバムも売れなくなるだろうことを暗示していた。実にまったくそのとおりとなった。

 

A1 「ラン・トゥ・ミー」

A2 「ウィ・ロスト・ザ・ロード」(We Lost the Road, B. & R. Gibb)

 『トラファルガー』のアウトテイクとされている[v]が、それが意外と思わせる秀作だ。

 例によってモーリスのピアノを基調にした静かな立ち上がりから、バリーとロビンが交代にリード・ヴォーカルを取る。三拍子の曲だが、ワルツというよりロック・バラードの雰囲気。何といっても聞きどころは、力強いゴスペル風とも聞こえるコーラスだろう。とくにラストのリフレインで、コーラスにバリーのシャウトが重なる流れは、これまでにもお馴染みの演出だが、やはりビー・ジーズはこれだ、と思わせる。

 

A3 「ひとりじゃない」(Never Been Alone, R. Gibb)

 このアルバムでは、3人が1曲ずつ単独の作品を寄せているが、ロビンのソロ作はちょっとめずらしいフォーク風で、ギターとオーケストラのみをバックに、抑えた歌唱で淡々と歌っている。

 曲自体も、いつもの歌い上げるようなドラマティックなメロディではなく、かなり地味な印象。しかし、最後の最後に出てくる高音にエコーがかかるところは効果的だ。

 

A4 「紙のチサとキャベツと王様」(Paper Mache, Cabbages and Kings, B, R. & M. Gibb)

 タイトルからして、マザー・グースか何かをイメージしたようだが、妙な呪文のようなイントロから、”Na na na na na na na”のコーラスが聞こえると、子ども番組の主題歌か、はたまたバブルガム・ミュージックかと思ってしまう。しかしヴァースからの展開部で、ピアノのインストルメンタル・パートに続く”Don’t be scared.”の厚いコーラスは、それまでの曲調に不似合いな迫力がある。

 さらに中間部でテンポが落ちて、オルガンが鳴り響くと、まるでピンク・フロイドの『狂気』のなかの“The Great Gig in the Sky”のようだ。『狂気』の女性ヴォーカルほどではないが、ロビンが前作の「ボクはライオン」を引きずったような声を振り絞ったヴォーカルを聞かせた後、再び最初のヴァースに戻ってエンディングとなる。

 この間4分を越える。大作といえばそうだが、むしろ支離滅裂。最後のリフレインの歌詞。「ジミーは爆弾を持っていた。爆弾が破裂して、ジミーはいたるところに散らばった。」“Jimmy was everywhere.”という表現は、こういう場合に使われるものなのだろうか。怖すぎる。

 60年代風ともとれるメロディといい、作り物めいたサウンドと歌詞は『サージェント・ペパーズ』を思わせる。

 

A5 「恋するボク」(I Can Bring Love, B. Gibb)

 バリーの単独作は、以前ファン・クラブのEP用に作ったという短い作品[vi]。バリーなら、いくらでも新しい曲を作れそうなものだが、意外に共作でないとインスピレーションがわかないタイプなのだろうか。オーストラリア時代、ビー・ジーズの楽曲はほとんど彼がひとりで書いていたが、1966年頃からモーリスとロビンも曲を書き始めて、イギリスに戻る直前ぐらいから3人の共作も増えてきた。メロディはいくらでも浮かぶが、それを曲にまとめるにはロビンの言葉のセンスやモーリスのコードの知識などを必要としたのだろう。

 そうはいっても、この短い曲でもバリーらしい耳を引きつけるスウィートなメロディは健在で、やはり彼なら、何かのついでにでもこのくらいのメロディは造作もなく浮かんでくるのだろう、と実感する。

 

A6 「アイ・ヘルド・ア・パーティ」(I Held A Party, B, R. & M. Gibb)

 この曲も『サージェント・ペパーズ』か『アビー・ロード』あたりのポール・マッカートニー作品を思わせる。曲もアレンジもシンプルこの上ないが、ラストのパワフルなコーラスは、「パーティを開いたが、誰も来なかった。・・・バックワ―スは、一晩中でも付き合うよ、と言ってくれたが、僕は彼のことをよく知らない」、という何だか薄気味悪い歌詞と相まって、感銘させるより、首をひねりたくなる。

 この曲も60年代ポップスを連想させるメロディとは裏腹の意味深な歌詞がいかにもビートルズ的ともいえる。

 

A7 「光を消さないで」(Please Don’t Turn Out the Lights, B, R. & M. Gibb)

 A面最後は、三人のコーラスを全面に出した小味な作品。重なり合うハーモニーが聞きものだが、「灯りを消さないで」、と執拗に繰り返す歌詞は、A4やA6のような曲もあって、少々常軌を逸しているようにも感じてしまう。

 

B1 「ほほえみの海」(Sea of Smiling Faces, B, R. & M. Gibb)

 シングルを予定していたのではないか、と思われるほどとっつきやすいメロディとアレンジの曲。実際に、日本ではシングル・カットされた。どこがどうというわけではないが、和製ポップスのようにも聞こえる作品だ。日本に滞在している間に、日本のポップスを耳にしたのか。1973年に発売された南沙織の「早春の港」が似たような雰囲気を持っている。同曲は、洋楽にも造詣の深い筒美京平作・編曲である。

 また、『トラファルガー』収録の「グレーテスト・マン」に続く、バカラック・シリーズの第三弾でもある。段々とバカラックからは遠ざかりつつあるが。

 

B2 「悪い夢」(Bad Bad Dreams, B, R. & M. Gibb)

 前曲の余韻はどこへやら、こちらは『トラファルガー』には見当たらなかったギターが唸るロック・ナンバー。当時全盛のハード・ロックを意識したものだろうが、それにしてはもたもたしたサウンドで、あまり疾走感はない。やはり、やりなれないことに手を出すものではない。むしろ、息のあったコーラスが聞かせどころで、騒々しいロック調には合っていないのが悲しい。

 

B3 「キミのために」(You Know It’s For You, M. Gibb)

 モーリスの単独作は、彼らしい手慣れた作りのソフト・ロック。この頃熱中していたスワンプやカントリー色は消えて、線が太いとはいえないヴォーカルを含めてジョージ・ハリスンを思わせる。モーリスも、ハリスン同様、グループでは「第三の男」だった。リンゴ・スターのレコード制作にはかかわっていたというが、ハリスンにはどのような感情をいだいていたのだろうか。

 ここ最近の曲と比べて、意外なほどメロディアスなイントロや途中の口笛など、ゆとりのある演奏とヴォーカルが印象に残る。これまで以上にメロトロンが強調されているのは、ムーディ・ブルースあたりを意識してのことだろうか。モーリスの繊細な感性が生かされた作品といえる。

 

B4 「アライヴ」(Alive, B. & M. Gibb)

 アルバムからシングル・カットされ、全米34位。そこそこの成績だが、そろそろ70年代に入ってからの一時の勢いに陰りが見え始めたように思える。

 バリーのソロともいえる大作で、しかしその割にはもうひとつ盛り上がらない。バリーのヴォーカルのせいか、コーラスがないせいか。恐らく、アルバムの芯となるような作品を、ということで書いたのだろうが、シングルとしては大仰すぎたようにも思える。

 

B5 「アラスカへの道」

B6 「スウィート・ソング・オブ・サマー」(Sweet Song of Summer, B, R. & M. Gibb)

 アルバム中随一の、いやビー・ジーズの全作品中でも飛びきりの怪作。

 1972年の来日時のインタヴューで、日本の楽曲にも興味がある、楽器を買ってみたいなどと語っているが[vii]、最後のロビンによる怪しげな節回しのアドリブは日本の楽曲をイメージしたのだろうか。まるでいかさま行者の祈祷のようだ。モスラでも呼び出そうとしているのか。

 そしてモーリスの操るシンセサイザー。「シンセサイザーの無駄使い」と評されたらしいが[viii]、無理もない。ヴァースのメロディをなぞった後は、即興風にメロディを奏でているが、どことなく東洋風で、やはりオリエンタルかつエキゾティックな雰囲気を出そうと頑張ったらしい。

 その頑張りに対する評価が上述のとおりでは生憎なことだが、普通のポップスとげてものが交じり合ったような味わいは、本アルバムの最後を締めくくるのには適切だったかもしれない。

 

[i] 松宮英子「ロックの詩⑥ビー・ジーズ 若者、歯車、みにくいアヒルの子」『ミュージック・ライフ』1972年6月号、97頁参照。

[ii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1972.

[iii] Cf. The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.318.

[iv] Ibid., p.317.

[v] Ibid., p.318.

[vi] Ibid., p.686.

[vii] 『ミュージック・ライフ』1972年5月号、99頁。

[viii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb., p.319.

ビー・ジーズ1971(2)

『トラファルガー』(Trafalgar, 1971.11)

 『トラファルガー』は1970年代前半のビー・ジーズのアルバムのなかでベストの作品であるという評価に多くのファンが同意することと思う。バリーとロビンの黄金ライター・コンビが復活することで、前作よりもはるかに粒ぞろいの楽曲がそろい、充実したアルバムが完成した。

 しかしその一方で、いろいろと謎めいたところのある作品でもある。当初二枚組での発売が予定されていたともいい、歴史をテーマとしたコンセプト・アルバムとして構想されていたともいう。後者については、タイトルからしてそれを裏付けるし、そもそもアルバム・ジャケットがポーコックの「トラファルガー海戦」を使用している。ポップ・ロック・アルバムがジャケット・デザインにも凝るようになった動向の反映でもあるが、コンセプト・アルバムについては、そうはならなかった、というのが真相のようだ。

 確かに「トラファルガー」以外には、「ワーテルローに戻ろう」という曲が入っているほかは、とくに歴史にちなんだタイトルは見当たらない。これら2曲はいうまでもなくナポレオン戦争に関係するタイトルだが、「トラファルガー」の歌詞は、作者であるモーリスのコメントによると、実際は1805年のトラファルガー海戦とは関係なく、ロンドンのトラファルガー・スクェアで毎日時間をつぶす孤独な男をテーマにしたのだ[i]、という。とすると、ジョセフ・ブレナンが指摘しているように[ii]、「ワーテルローに戻ろう」のタイトルも1815年のワーテルロー会戦とは無関係で、ウォータールー駅(ロンドン)に歩いて帰るという意味なのだろうか。そのとおりなら、歌詞の最後の”You can get a good seat at the end.”はウォータールーがターミナル駅だから、好きな席に座れるよ、ということか。

 このような解釈が正しいとすれば、『トラファルガー』は、歴史事象をモチーフとみせかけて、実際は日常的な情景や場面をテーマにした楽曲集と見ることもできる。そうしてみると、”The Greatest Man in the World”も「歴史上の偉人」[iii]を連想させて意味ありげだが、同様のタイトルはほかにもある。「ボクはライオン(Lion in Winter)」は、明らかに1968年公開のピーター・オトゥールキャサリン・ヘップバーン主演のイギリス映画のタイトルから取られている[iv]が、同作品は12世紀のイギリス(イングランド)王ヘンリ2世とその家族との間の葛藤を描いた歴史映画だ。歌詞には”a star on a screen”という一節も出てくる。「イスラエル」は現在のイスラエル国家の礼賛歌のようにみえるが[v]、実は古代イスラエルのことかもしれない。18世紀のイギリスでは、自国を古代イスラエルのように神に選ばれた民の国とみなす時論が広まっていた[vi]、という。大英帝国の繁栄のおかげということだが、さすがに作者のバリー・ギブにそれほどの教養があるとも思えない[vii]。しかしいろいろと想像をめぐらせたくなるようなアルバムではある。

 もし『トラファルガー』がコンセプト・アルバムであるとすれば、本来オープニング曲は上記の「イスラエル」でラストが「ワーテルローに戻ろう」だったのではないか。どちらの曲も「歴史」が絡んだタイトルで、どちらもシンフォニックなストリングスがスケール豊かな、オープニングとエンディングに相応しい曲に思える。「傷心の日々」はヒット曲であるゆえに収録されたおまけの一曲という位置づけなのかもしれない。『トラファルガー』は曲数も曲順も制作途中で変動があったというが[viii]、最も収まりのよい構成は、(「傷心の日々」をA面ラストにして)「イスラエル」と「ワーテルローに戻ろう」を最初と最後に置く、というのではどうだろうか。

 ちなみに、1971年夏の日本では、映画『小さな恋のメロディ』の公開に伴い、シングル・カットされた「メロディ・フェア」が50万枚近くを売り上げる大ヒットを記録していた[ix]。そのあおりで、「傷心の日々」のほうはチャートにかすりもしなかったが、日本での人気の再燃はすさまじく、それが翌年の来日コンサートに繋がった。日本では1972年早々にリリースされた『トラファルガー』も、久々に「待望のニュー・アルバム」となった。

 

A1 「傷心の日々」

A2 「イスラエル」(Israel, B. Gibb)

 ゆったりとしたピアノのイントロから、バリーがソウル・ミュージック風に自在にメロディを崩しながら、次第にシャウトしていき、サビではオーケストラがシンフォニックに音を奏でる。タイプとしては「トゥ・ラヴ・サムバディ」だろうか。

 ティンパニ(ドラム?)が鳴るラストは、もう少し厚みが欲しかったが、バリーの単独作品ではベストの一曲と思う。「イズレイエ~」からのコーラスがとくに美しい。

 

A3 「グレーテスト・マン」(The Greatest Man in the World, B. Gibb)

 前曲とは打って変わって、物静かなバラード。全編ロマンティックでドリーミーなムードが漂う。恋人に向かって「僕が世界一の男になれば、世界最高の女の子を手に入れたと言えるね」、と語りかけるサビは、「寝ぼけてんのか」と言いたくなるが、注目はメロディのほうだろう。バリーのバカラック・シリーズ第二弾で、都会的なメロディはバックのストリングスと相まって、こちらも大変美しい。

 同じバラードでも、シングル・カットするなら(「過ぎ去りし愛の夢」より)本作のほうがよかったのではないだろうか。

 

A4 「ジャスト・ザ・ウェイ」(It’s Just the Way, M. Gibb)

 モーリスらしい手作り感満載の軽妙なフォーク・ロック。小味だが、彼の単独作のなかでも出色のメロディが聞かれる。中間部のギターを主にしたインストルメンタル・パートもビー・ジーズには珍しい。最後に浮かび上がってくるようなストリングスも美しい。

 

A5 「想い出」(Remembering, B. & R. Gibb)

 ロビンのソロ・ヴォーカル作品がようやく5曲目に登場する。語りかけるような冒頭から、重厚というか、重量感漂うベースに合わせて、ロビンがかみしめるように歌う。サビでは滝が落ちるような分厚いコーラスが押し寄せる、スケール豊かなバラードに仕上がっている。

 前作アルバムの「アローン・アゲイン」の続編的な曲だが、バリーとの共作でより深みが出たように感じられる。これもシングル向きといえる。ただし、こうしたブリティッシュ・ポップ風のバラードが当時のアメリカで受けたとは思えないが。

 

A6 「サムバディ・ストップ・ザ・ミュージック」(Somebody Stop the Music, B. & M. Gibb)

 本作では珍しいバリーとモーリスの共作。それだけに、よりリズミカルで軽快な曲になった。ヴァースはとくにしゃれたメロディだが、雰囲気はどことなく「ロンリー・デイズ」に似ている。コーラスでロック風の展開になるせいかもしれない。ファンキーなベースに乗ったスキャットから陽気なコーラス、最後の静かに遠のいていくハーモニーまで、凝った展開を見せる。

 

B1 「トラファルガー」(Trafalgar, M. Gibb)

 モーリスの単独曲がアルバムの表題曲になっているのには少々驚いた。

 こちらもモーリスの一人ビー・ジーズ的なフォーク・ロック・ナンバー。ヴォーカルにギターが呼応するヴァースのメロディに比べ、サビの「トラファルガ~」のリフレインがやや単調で物足りないのが惜しい。ロビンが得意とするトップから音が下がってくるメロディ進行だが、ロビンのような哀愁はなく、ドライなヴォーカルがモーリスらしいところでもある。

 

B2 「過ぎ去りし愛の夢」(Don’t Wanna Live Inside Myself, B. Gibb)

 アルバムからのシングル・カットで全米53位を記録した。イギリスではリリースされていない。53位に終わったから言うのではないが、シングル・ヒットを狙うには、やや重すぎたのではなかったか。

 「傷心の日々」以来、レコード会社はバラードしか求めなくなった、とバリーが語っていたようだが、また確かに『トラファルガー』はバラード・アルバムといってよい内容だが、シングル向きの曲は他にあったのではないかと思う。

 もちろんバリーのバラードが悪いわけもなく、アルバムの柱となる堂々たる大作である。静かなピアノのイントロから、バリーがここでもソウルフルなヴォーカルを聞かせる。激しいドラムスと張り合うようにシャウトする後半では、華麗なストリングスがいっぱいに広がり、圧倒される。しかし、いささか冗長なのも確かだ。

 

B3 「ホエン・ドゥ・アイ」(When Do I, B. & R. Gibb)

 バリーの大作の後は、ロビンが比較的軽めに流すように歌うポップ・ソングが続く。最初は重々しいギターで始まり、ヴァースのメロディもマイナー調だが、サビになると、何やら呑気な雰囲気に変わり、やたらと上下する、どことなくコミカルなメロディをロビンが飄々と歌う。ラストのストリングスは前作アルバムの「アイム・ウィーピング」のエンディングと同じだ。

 

B4 「可愛い君」(Dearest, B. & R. Gibb)

 伝統的あるいは、悪く言えば古臭いタイプのスロー・バラード。ピアノとストリングスだけをバックに、ロビンとバリーが交互にヴォーカルを取る。三拍子のヴァースと四拍子のコーラスを組み合わせた彼ららしい作品。

 サビのロビンの高音がやや苦しいが、曲は大変美しい。ありふれたバラードではあっても、こういった作品は彼らの独壇場といえる。これも中世風というか、そうした意味ではこのアルバムに相応しい。

 

B5 「ボクはライオン」(Lion in Winter, B. & R. Gibb)

 延々と続くイントロのドラム・ソロ(?)は、かつての「エヴリ・クリスチャン・ライオン・ハーテッド・マン・ウィル・ショウ・ユー」同様、ライオンの歩くさまをイメージしているのだろうか。

 「ボクはライオン」とは、可愛らしいというか、間抜けな邦題で脱力するが、前述のように映画『冬のライオン』から取られていると思われる。「イスラエル」などと同じく、ソウル風のナンバーだが、日本盤解説でも指摘されていたロビンのヴォーカルがあまりにもあんまりだった。酔いどれというか、よれよれというか、これでいい、という判断は誰が下したのだろう。いや誰もロビンに言えなかったのか。やはりこの時期のロビンは精神的にも不調だったようだ[x]

 しかし、最後のバリーとロビンの掛け合いを押し流すようにオーケストラがかぶさり、遠ざかっていくエンディングは素晴らしい。

 

B6 「ワーテルローに戻ろう」(Walking Back to Waterloo, B, R. & M. Gibb)

 ラストの「ワーテルローに戻ろう」はアルバム中のベスト・ナンバーであろう。

 切迫感を漂わせるピアノのイントロから、最初のヴァースをロビンが、次をバリーが取るが、コーラスの三人のハーモニーが圧倒的だ。曲も『オデッサ』の楽曲を思わせるクラシカルな大作風で、ビー・ジーズバロック・ポップの集大成といった趣がある。

 エンディングで三度繰り返されるコーラスとストリングスが一体となった奥行きとスケールは相当なもので、もはやプログレッシヴ・ロックといってもよさそうである。来日時のインタヴューで、バリーは好きな自作曲として本作と「可愛い君」を挙げていた[xi]

 

 『トラファルガー』はバラード・アルバムの秀作だが、その弊害も現れている。初期のアルバムに見られた瑞々しさと躍動感が失われていることだ。瑞々しさが薄れたのはやむを得ないが、あまりにも落ち着きすぎたサウンドやヴォーカルは、とうていロックとはいえず、かといって70年代ポップのアルバムとしてはアダルトな魅力に欠けるという結果になっている。そのなかで、何とかロックのビートを感じさせるのがモーリスの作品だった、といえる。

 『トラファルガー』の収録時間は47分を越えるが、実は二枚組の『オデッサ』を除けば、40分を越えるアルバムはこれまでなかった。バラード主体であることが要因であるし、じっくり聞かせるためには相応の時間が必要だったともいえるが、やはり少々長すぎただろうか。「傷心の日々」を外すわけにはいかなかったのだろうが、アルバムのまとまりを考えれば、「イスラエル」で始まり、「ワーテルローに戻ろう」で終わる11曲収録のほうがよかったのではないか、と改めて思う。

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.311-12.

[ii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1971. モーリスも、いずれの曲も歴史とは無関係だと発言している。The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.312.

[iii] 同じタイトルの小説がジェイムズ・サーバーにあるが、これが発想のもとになっているのだろうか。同短編小説は、1927年のチャールズ・リンドバーグによる大西洋単独無着陸飛行をモチーフにしているらしい。ジェイムズ・サーバー「世界最大の英雄」(The Greatest Man in the World)『虹をつかむ男』(早川書房、2014年)、27-42頁。

[iv] もともとは1966年のブロードウェイ演劇だったそうだが、ギブ兄弟が見たとすれば、多分映画版のほうだろう。同映画には、後に『羊たちの沈黙』(1991年)のレクター博士役で有名になるアンソニー・ホプキンスがヘンリ2世の次男リチャード(後の獅子心王リチャード1世)に扮している。

[v] ブレナンは”enigmatic”と言っている。Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1971.

[vi] リンダ・コリー(川北稔監訳)『イギリス国民の誕生』(Linda Colley, Britons: Forging the Nation 1707-1837, Yale University, 1992, 名古屋大学出版会、2000年)、33-47頁。

[vii] しかし、「ライオン・ハーテッド・マン」は、バリーがローマを旅行しているときに、ローマ帝国を扱った映画に相応しい曲を、と思って書いた、というから、やはり歴史への興味はあったらしい。To Love Somebody: The Songs of the Bee Gees 1966-1970 (Ace Records, 2017), p.9.

[viii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1971.

[ix] 『1968-1997 Oricon Chart Book』(オリコン、1997年)、276頁。Craig Halstead, Bee Gees: All the Top 40 Hits (2021), p.71. 後者はオリコン・チャートをきちんとチェックしているらしく、最高位(3位)より、34週間もチャート・インしたことを強調している。

[x] 1972年の来日時の記事を参照。『ミュージック・ライフ』1972年5月号、101頁。Cf. Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1971.

[xi] 『ミュージック・ライフ』1972年5月号、99頁。

ビー・ジーズ1971(1)

「傷心の日々」(1971.5)

1 「傷心の日々」(How Can You Mend A Broken Heart, B. & R. Gibb)

 「ロンリー・デイズ」から半年後に発表された、リユニオン後の2枚目のシングル。なぜこんなに間があいたのか不思議だが、モーリスのコメントによると、「ロンリー・デイズ」を作ったのと同じ日にこの曲をレコーディングした[i]、という。しかし「傷心の日々」のレコーディングは知られる限りでは、1971年1月28日らしいので[ii]、モーリスの発言とは矛盾する。同じ日に「ホエン・ドゥ・アイ」などニュー・アルバムのレコーディングが開始されているので、シングルもその日程に合わせてレコーディングされたのだろうか。それにしても、1月に録音を済ませていたのに、シングル発売を5月まで遅らせたのはなぜか。半年間新曲を出さないというのは、「ジャンボ」と「獄中の手紙」の間もそのぐらい空いたとはいえ、少し空きすぎのようだが、それだけ新曲発表に慎重になったということなのだろうか。

 そうした詮索はともかく、「傷心の日々」は、アメリカで思いもよらない大ヒットとなった。ビルボードでは4週間連続1位。年間チャートでも5位(1位はスリー・ドッグ・ナイトの「喜びの世界」、2位はキャロル・キングの「イッツ・トゥー・レイト」)。グラミー賞にノミネートされるおまけ付きだった。実際4週連続1位というメガ・ヒットは、ブリティッシュ・インヴェイジョンの時期でも、ビートルズローリング・ストーンズぐらいしか記録していない。70年代にはいってからは、「傷心の日々」の前に、ジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」が、後にポール・マッカートニ―(とウィングス)の「マイ・ラヴ」が達成している。それほどのヒットだったのだが、イギリスではチャート・インすらしなかった。「ロンリー・デイズ」でも33位にはなっているのだから、それよりはイギリス人向きと思える「傷心の日々」がノー・ランクだったのは意外だ。もっとも、2011年のBBC番組「ネイションズ・フェイヴァリット」のビー・ジーズ回では、堂々8位にランクしている。イギリスでは1位になっていた「獄中の手紙」(10位)などを抑えてのこの順位だからわからない[iii]。繰り返しカヴァーされてスタンダードになった結果なのかもしれないが。

 いずれにせよ、英米で対照的な結果となった本作だが、ギブ兄弟の作品ではお馴染みともいえるカントリー・タッチのバラードで、バリーとロビンの共作。ロビンが最初のヴァースを歌い、コーラスでバリーに交代し、以後バリーが2番まで通して歌っている。やや珍しいのは、最初に4小節のヴァースから次に4小節の展開部に移った後、コーラスが8小節を2回繰り返す構成になっている。通常は8小節のヴァースを2回繰り返すか、8小節のヴァースから8小節の展開部に移ってサビになる、と思うのだが、ヴァースの部分がコーラスの半分しかないのだ。それだけ早くコーラスに移るというか、コーラスが聞かせどころになっているといえる。

 しかし、このコーラスのメロディは、誰がどう見ても、いや聞いても、バート・バカラックの真似だろう。フィフィス・ディメンションのヒット曲でバカラック作の「悲しみは鐘の音と共に(One Less Bell to Answer)」(1970年全米2位)に似ているという指摘もあるが[iv]、明らかに元ネタは、前年にカーペンターズが歌って4週連続ナンバー・ワンとなった「遥かなる影(Close to You)」と思われる。コーラスの付点八分音符と十六分音符の組み合わせやテンポがまるで同じである。最初耳にしたとき、バカラックがクレームをつけるのではないか、と思ったが、そんなこともなかったらしい[v]。1971年当時のアメリカ人は、この曲を聞いて、バカラックのカヴァーと思わなかったのだろうか。それとも、ビー・ジーズバカラックと共作したと思ったのか。1970年はバカラックの年ともいえ、年頭に映画『明日に向かって撃て』の主題歌「雨にぬれても」がB・J・トーマスのレコードで1位、その後夏には「遥かなる影」が、さらに上記のフィフィス・ディメンションが大ヒットになった。こうした状況でバカラックのような曲を書こうという気持ちになるのもわからないではないが。

 思えば69年の『オデッサ』までのビー・ジーズは常にビートルズを意識していた。ロバート・スティグウッドがブライアン・エプスタインのパートナーだったということもあったが、ビー・ジーズにとってビートルズは変わることのない目標だった。しかし1970年にビートルズが消滅してからは、その影響は薄れつつあったようだ。もともとギブ兄弟、とくにバリーは-多くの作曲家もそうなのかもしれないが-、気に入った曲を聞くと、そこからインスピレーションを得て自分でも書いてみるというやり方で作曲をしてきたのだと思う。従って、他のアーティストやライターの作品を連想させるような曲をいくらも書いている。69年までは、その多くがビートルズだったが、ビートルズ消滅後は、刺激を受ける作曲家も変わったということだろう。その一人がバート・バカラック(とハル・デイヴィッド)であったわけだ[vi]。1972年の初来日時のインタヴューで、お気に入りのソング・ライターを聞かれて、3人が口をそろえてバート・バカラックとハル・デイヴィッドの名を挙げているが[vii]、正直というか、開き直っているというのか。イギリスでヒットしなかった理由は、バカラック風の気取った(しゃれた)メロディ進行がイギリス人に受け入れられなかったのかもしれない。

 ともあれ、この後も、とくにバリーはバカラック調の曲をしばらくの間作り続けることになる。

 

2 「カントリー・ウーマン」(Country Woman, M. Gibb)

 「マイ・シング」などと同様、モーリスの一人舞台の作品。再結成後も、ときにモーリスはソロであるかのような活動を続けていたようだ。こちらもA面と同じカントリーだが、アップ・テンポのカントリー・ロックである。ピアノ、ベース、ギターなど、モーリスが気ままに演奏し、兄弟とやるときより伸び伸びしているように聞こえるのは勘ぐりすぎか。

 4月に他のニュー・アルバム用の曲とともにレコーディングされたようだが、この曲がシングルのB面に収録されたのは、「傷心の日々」がバリーとロビンの共作だったので、印税を平等にするためにモーリスの単独作を、ということだったのだろうか。ところが、日本ではあろうことか、「傷心の日々」がB面に回されて、こちらがA面で発売されたのだ(!)。全米ナンバー・ワン・ヒットをB面にするとは、暴挙というか、英断というか。確かに、同じカントリー調でも、「マサチューセッツ」などとは違って、「傷心の日々」のようなあまりにスローなバラードではヒットは見込めない、とレコード会社は判断したのだろうが、それにしても、グラミー賞にノミネートされたほどの作品をB面にするというのは・・・。絶句するほかない。しかし、そのおかげで、ついに日本のみではあったが、初めてモーリスがリード・ヴォーカルを取るビー・ジーズのシングルが発売されることとなった。

 

[i] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[ii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1971.

[iii] Wikipedia: The Nation's Favourite.

[iv] ポップス中毒の会『全米TOP40研究読本』(学陽書房、1993年)、70頁。

[v] 『ミソロジー』には、バート・バカラックも祝福の言葉を寄せている。Bee Gees Mythology (2010).

[vi] もっとも1967年11月のインタヴューで、すでに、バリーは、敬愛する作曲家として、バート・バカラックビートルズの名前を挙げている。Bee Gees: The Day-By-Day Story, 1945-1972, p.45.

[vii] 『ミュージック・ライフ』1972年5月号、100頁。

ビー・ジーズ1970(3)

「ロンリー・デイ」(1970.11)

1 「ロンリー・デイ」(Lonely Days)

 1970年8月に、ギブ兄弟3人での活動再開をメディアに宣言した後、最初に発表されたシングル。イギリスでは、脱退騒動の悪印象が影響してか、最高位33位と不評。ドイツでも思ったほど伸びず25位だったが[i]アメリカではむしろ69年以来ヒットに恵まれず、忘れられていたことが逆に良かったのか、ビルボードで3位、キャッシュ・ボックス誌ではなんと1位の大ヒットとなり、初のミリオン・セラーを記録した。半年前の惨状を思えば、開いた口が塞がらない。

 ピアノのアルペジオから、3人の息の合ったコーラスが懐かしさをかき立てる。グループの復活を印象付ける効果を狙ってのことだろう。メロディは彼らにしてはめずらしいマイナー調で、物悲しい響きはばらばらだった時期の3人の心境をあらわしているのだろうか。しかしコーラスのパートが終わると、一転して力強いピアノにホーンが加わってロック・マーチ風の展開になる。モーリスのピアノは次第に浮かれたように乱打され、まるで乱痴気騒ぎだ。グループ活動を再開した喜びの表現だろうか。その後、再び陰気なコーラスに戻ると、最後は「ロンリー・デイズ、ロンリー・ナイツ」の大合唱になる。バリーのリード・ヴォーカルはソウル風のシャウトに変わり、最後に一気にオーケストラがわき上がると、そのまますべての音を彼方にさらっていく。スリリングで絶妙なエンディングだ。

 こうしてみると、本作はグループの消滅と復活を音で表現しようとした画期的かつ自伝的な作品なのかもしれない(?)[ii]。ラストのコーラスは、本当は”Happy days, happy nights. We’re the Bee Gees and forever.”とでも歌いたかったのではなかろうか(〇〇ホームか)。

 スロー・バラードからロック・マーチへと展開するダイナミックな構成は、「トゥモロウ・トゥモロウ」の逆パターンだが、サウンドは見事に70年代風にブラッシュ・アップされている。シャープなサウンドアメリカで受けた理由の一つだろう。

 彼らにしては、曲はそれほどでもないが、構成とアレンジの勝利といったところか。

 

2 「恋のシーズン」(Man for All Seasons)

 B面のこの曲も静かなピアノから始まり、バリーのハスキーなヴォーカルからロビンのハイ・トーンのヴォーカルへと移り、サビのいかにもビー・ジーズといった怒涛のコーラスへと向かう。こちらもバリーとロビンのヴォーカルと3人のハーモニーをもう一度印象づけようとする作品になっている。

 

 『トゥー・イヤーズ・オン』(2 Years On, 1970.11)

 1970年6月に、ロビンとモーリスはビー・ジーズとしてのアルバム制作を開始したという[iii]。そこにバリーが加わり、8月にはギブ兄弟3人による活動再開がアナウンスされた[iv]

 そんなニュースが伝わらない日本では、『キューカンバー・キャッスル』が発売され、その帯文句には「ビー・ジーズが変わりました!ゴキゲンにフレッシュな感覚!」と謳われていた(ゴキゲンとフレッシュは傍点付き)。なにも傍点をつけてまで強調しなくてもよさそうなものだが、ジャケットに映っているのはテレビ番組の衣装の甲冑を着たバリーとモーリスのみ。しかし実際はすでにロビンが戻って3人になっていたのだから、何がいつ「変わった」のか。あまりに展開が急で眼が回る。いや、びっくり仰天で目を丸くする。

 伝えられるところでは、バリーとロビンが和解し、兄弟の結束を取り戻したことでビー・ジーズを再スタートさせることになった、という。1969年の時点では、「ロビンがいなくなって・・・バリーと僕は以前以上に仲良くなった」、といっていたモーリスだったが[v]・・・。機嫌を損ねたバリーには手を焼いたらしい。1970年になって、再びロビンに接近したのも無理はない。それでもグループの再建には、モーリスという「第三の男」の存在が欠かせなかったのだろう。3人はそれぞれが進めていたソロ・アルバムの制作を断念し、ビー・ジーズとしての活動を優先させることになった。

 しかし、さらに本音を推察すれば、すでにソロ・アルバムを発表していたロビンも含めて、3人ともがソロ活動に限界を感じていたのだろう。一人一人ではこれ以上成功が見込めないことが身に染みてわかったはずだ。『キューカンバー・キャッスル』は浮上の気配もなく、バリーとモーリスのシングルも何の話題にもならなかった。時代はビートルズ消滅後の新たなロック・アルバムの70年代へと移り、ポップ・ミュージックの世界でも、カーペンターズやブレッドといった歌唱力とテクニックを備えたプロフェッショナルなグループが脚光を浴びるようになっていた。彼らは、60年代を引きずるポップ・グループでは太刀打ちできない完成されたレコードをつくり、もはやビートルズのフォロワーとして登場したアマチュアっぽさの抜けないようなバンドはおよびでなくなった。ビー・ジーズにとっても状況は同じで、いつまでも各自のエゴを優先させている場合ではなかった。グループの再結成が、生き残るための最後の拠り所だったのだろう。

 とはいえ、そこからリスタートすると、途端に大ヒットを放ったのだから、さすがといえばさすがである。「ロンリー・デイズ」はビルボード誌で最高3位のミリオン・セラーを記録。一気にビー・ジーズどん底からの脱出に成功した。半年後には「傷心の日々」でさらに大きな成果を収めることになる。

 アルバム『トゥー・イヤーズ・オン』も、『キューカンバー・キャッスル』の時代遅れのサウンドから一新、70年代ポップに見事にフィットするシャープでクリアな音を手に入れている。アレンジのビル・シェパードを含めて、スタッフは変わらないのに、この変化はどうしたことだろう。

 だが、アルバムのチャート・アクションは思ったほど伸びなかった。最高位32位はまずまずとも思えるが、トップ・テン・シングルが一枚もなかった『ファースト』が最高7位、「若葉のころ」が37位に終わった『オデッサ』でも20位だったことを考えると、物足りない。つまりビー・ジーズはシングル・アーティストと見なされるようになりつつあった。前述のように、70年代前半はロック・アルバムの時代となり、ハード・ロックプログレッシヴ・ロックのアルバムがチャートを席巻するようになる。カーペンターズやブレッドでもオリジナル・アルバムは1位になれなかった。ましてビー・ジーズにおいておや・・・。やはり時代は変わっていたのである。

 さらに付け加えれば、『トゥー・イヤーズ・オン』はビー・ジーズのアルバムといっても、シングルの「ロンリー・デイ」/「恋のシーズン」を除けば、「バック・ホーム」のみ3人の共同作品で、残りはバリー(4曲)、ロビン(4曲、うち2曲はモーリスとの共作)、モーリス(1曲)のソロ作品の寄せ集めだった。やはり急ごしらえのアルバムだったこと、そして3人の関係も完全には修復されていなかったと思われることが、アルバムの内容にも影を落としている。一言でいえば、楽曲に「コクがない」。3人の力が結集されてこそのビー・ジーズであり、本アルバムはそのことを逆説的に教えてくれている。

 

A1 「トゥー・イヤーズ・オン」(2 Years On, Robin and Maurice)

 キャロルのようなアカペラ・コーラスから、ゆったりとしたリズムに乗ってロビンがくつろいだヴォーカルを聞かせる。サビでは、コーラスが空高く舞い上がり、”Only you can see me.”のところは、まるでジェット気流に乗って下界を見下ろしているようなスケールを感じさせる。アルバムを代表するナンバーで、ロビンとモーリスにより制作された。

 ところで表題はビー・ジーズの復活を暗示しているというが、本当だろうか。アルバムが発表された1970年11月は、ロビンの脱退から1年8か月後、まだ前年のことだ。四捨五入して2年ということだろうか。もともと”I Can Laugh”というタイトルで、歌詞を書き直して現行のタイトルになったというから[vi]、確かに、3人での再スタートを象徴するものにしようとしたのかもしれないが。

 

A2 「ルイズのポートレイト」(Portrait of Louise, Barry)

 1970年9月から10月にビー・ジーズとしてレコーディングされたが、ヴォーカルはバリーのみ。ビル・シェパードのオーケストラをバックに、バリーが快調に飛ばすポップ・ソング。甘いメロディも彼おなじみのパターンだ。

 バリーとしては平均点の出来で、彼ならこのくらいの曲はいくらでも作れるだろう。

 

A3 「恋のシーズン」(Man for All Seasons, Barry, R and M)

A4 「いつわらぬ関係」(Sincere Relation, Robin)

 この曲も「トゥー・イヤーズ・オン」同様、ロビンらしいメロディが特徴的な作品。モーリスのピアノをバックに、哀愁を帯びたメロディをロビンが淡々と歌う。高音はやや苦しいか。

 

A5 「バック・ホーム」(Back Home, B, R and M)

 アルバムのアクセントになるようなロック・コーラス・ナンバー。『ファースト』の「イン・マイ・オウン・タイム」を思い出す。しかしサウンドは70年代らしいタイトな音で、以前のロック風の曲にはなかったメリハリが効いている。3人のコーラスも張りがあり、モーリスが弾いているというギターもなかなか様になっている。

 

A6 「はじめての誤り」(First Mistake I Made, B)

 バリーによくある8小節の短いメロディを延々繰り返すタイプの曲。「スピックス・アンド・スペックス」などとは異なるのは、後半の4小節のメロディを変えて16小節でひとまとまりにしている点。カントリー風にも聞こえるが、バリーのヴォーカルはソウル風で、後半に行くにしたがって盛り上がる構成も素晴らしい。アルバムのなかでも聞きごたえのある一曲。

 

B1 「ロンリー・デイ」(Lonely Days, B, R and M)

B2 「アローン・アゲイン」(Alone Again, R and M)

 モーリスの流れるようなピアノのイントロに導かれて、ロビンのはつらつとしたヴォーカルが楽しめる。サビのメロディは例によってロビン節だが、口ずさみたくなるようなメロディでシングル向きともいえる。

 1972年に出たギルバート・オサリヴァンの名曲と同タイトルで割を食っているが、ロビンのソロ作品には欠けていた躍動感が魅力的だ。

 

B3 「テル・ミー・ホワイ」(Tell Me Why, B)

 バリーのこれまた彼らしいカントリー・タッチの三拍子のバラード。「想い出を胸に」や「想い出のくちづけ」など、この頃のバリーはよほどカントリーに凝っていたらしい。そういえば「傷心の日々」もカントリーだった。

 バリーらしいメロディの美しさはあるが、これだけスローだといささか退屈になる。バリーが本アルバムに書いた4曲はいずれも彼の作品のもつ様々な側面を提示しているが、単独の作品だと、それぞれのタイプがそのまま型通りに曲になってしまっているようにも聞こえる。つまり新鮮味や驚きが少ない。そういったスパイスはやはりロビンやモーリスによってもたらされるのだろうか。

 

B4 「レイ・イット・オン・ミー」(Lay It on Me, M)

 モーリスの作品ではおなじみのワン・マン・ソング。ほぼすべての楽器とすべてのヴォーカルを自分でこなしている。曲も彼らしいブルース・ロックのようなナンバー。バリーやロビンの作品に比べて、かっちりまとまった隙のない曲で、最もプロらしい作品ともいえる。しかしこれがビー・ジーズでなければ味わえない魅力かどうかは疑問と言わざるを得ない。

 

B5 「エヴリ・セコンド・エヴリ・ミニット」(Every Second Every Minute, B)

 バリーの4曲目は、モーリスの作品と同様、ブルージィなロック風の楽曲。バリーがロックを書こうとすると、こういう得体のしれない曲が出来上がる。基本的に、バリーの最大の才能はメロディを書くことのできる力だから仕方がない。まあ、こういう曲も書けるということだろう。

 

B6 「アイム・ウィーピング」(I’m Weeping, R)

 ロビンの最後の曲は、こちらも彼らしい聖歌風。物悲しいメロディと歌詞で、ラストを締めくくる曲としては相応しいのかもしれない。1曲目もロビンのヴォーカル曲だったので、アルバムとしてのつじつまは合っている。なんとなく作りかけという印象を与える曲ではあるが。

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.704.

[ii] 本曲のプロモーション・ヴィデオは、まさにそのような内容-ばらばらに過ごしていた3人が、最後に出会って、彼らが乗ってきた自動車が並んで走り去っていく-になっていた。The Ultimate Bee Gees (Reprise Records, 2009), DVD-06.

[iii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.290.

[iv] Ibid., p.289.

[v] Ibid., p.234. この頃の彼らの動向は、日本でも音楽誌の記事になっていた。『ミュージック・ライフ』(1969年11月号)、ジョージ・トレムレット「解散したビー・ジーズとギブ三兄弟の胸のうち」、86-89頁。この記事のなかで、モーリスが「バリーとぼくは、ロビンがいないのでよけい仲がよくなったよ」、と語ったことになっているので、この記事がオリジナルなのだろうか。このほかにロビンもインタヴューを受けていて、「もうビー・ジーズを離れたシンガーというふうに見られるのはごめんだな」、と発言している。これ以外にも、モーリスの発言で「ぼくらは1433曲も書いた。しかし、それには9年間という時間がかかったけどね」、とあったり、なかなか面白い。最も利益を生んだ曲として、「マサチューセッツ」、「トゥ・ラヴ・サムバディ」、「ワーズ」の3曲が、カヴァーが多いという理由で挙げられている。これも妥当なところだろう。

[vi] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1970.

ビー・ジーズ1970(2)

「アイ・オー・アイ・オー」(1970.3)

1 「アイ・オー・アイ・オー」(I. O. I. O.)

 ビー・ジーズの7か月ぶりのシングルが出たとき、すでにグループは消滅し、コリン・ピーターセンは解雇され、バリーとモーリスはソロ・レコーディングに取り掛かっていた。もはやめちゃくちゃである。

 しかしそんな中でリリースされたシングルは、彼らにしては、やたらと軽快で明るい、能天気なポップ・ソングだった。失恋の歌なのに。もうめちゃくちゃである。

 パーカッションからいきなりモーリスの「アイ・オー・アヤヤヤヤヤ・アイ・オー」の掛け声が始まる(モーリスがシングルA面で初めてリードを取った)[i]。これまでにないアフリカっぽいリズムの曲だ[ii]。1968年には書かれていて、『アイディア』のセッションでもレコーディングされていたというから[iii]、随分と寝かせておいたものだが、『キューカンバー・キャッスル』のなかにあっても違和感はまったくない。バリーらしいキャッチーなメロディが楽しめる。

 バリーの甘いヴォーカルも耳馴染みがよく、爽快感があるが、モーリスによると、1969年後半のごたごたもあり、この曲は未完成で、ガイド・ヴォーカルのままだというから[iv]、毎度のことながら驚かされる。

 ドイツでは最高6位、日本でもそこそこヒットし、むしろ「若葉のころ」や「思い出を胸に」の不振から若干人気を取り戻した感があったが、イギリスでは49位と沈没。アメリカでは「イフ・オンリー・アイ・ハッド」に続いてシングル・カットされたが、94位と悪夢に終わった[v]

 

2 「スウィートハート」(Sweetheart)

 Aサイド以上に素晴らしいメロディを持った楽曲。カントリー・タッチのバラードだが、ゆったりしたリズムに乗って、バリーとモーリスの息の合ったハーモニーが気持ちよい。とりわけ”Long as I’ve got you there beside me.”からの甘く爽快なコーラスは、聞き手の耳をさらう。

 エンゲルベルト・フンパーディングのカヴァーが同年のイギリスで小ヒットとなったが、シングルA面でもよかったように思われる。翌年の「傷心の日々」を連想させるところもあるが、ビー・ジーズらしさという点ではこちらのほうが上だろう。

 

 

「イフ・オンリー・アイ・ハッド」(1970.3)

1 「イフ・オンリー・アイ・ハッド」(If Only I Had My Mind on Something Else)

 ニュー・アルバムからイギリスで「アイ・オー・アイ・オー」がシングル・カットされたのに対し、アメリカではこの曲がリリースされた。イギリスとアメリカで異なるシングルを発売するのは初めてのことだった。

 とはいえ、それ以外の話題は見つからない。あとは、ビー・ジーズの曲の中で最もタイトルが長いということぐらいか。アメリカでの成績は91位と、それまでの最低。恐らく慌てたレコード会社(アトコ・レコード)は「アイ・オー・アイ・オー」を翌月急きょ発売したが、前述のとおり、最高94位。「イフ・オンリー・アイ・ハッド」でやめておくほうがよかった。

 曲は、意外にこれまでなかったようなアーバン・ポップ調のバラード。冒頭の”Doo, doo, doo, …”の印象的なスキャットで始まり、”Oh, tell me how to say good-bye.”のメランコリックで儚げなメロディが胸を打つ。歌詞のなかに、”Every year I’d fly to Spain.”という一節があるせいか、夜の空港をイメージさせるような都会的雰囲気をもっている。下降するスキャット・コーラスは、飛行機が着陸する様を表現しているのだろうか。

 すでにピーターセンに代わり、セッション・プレーヤーがドラムを叩いているという。そうした状況を聞くと、何やら物悲しくなるが、個人的には大好きな曲で、バリーが書いたシングル曲では、「トゥ・ラヴ・サムバディ」や「ワーズ」より気に入っている。賛同する人は少ないだろうが・・・。最後の情報は、この曲は、60-70年代を通じて、唯一、英米で発売されながら日本ではリリースされなかったシングルであろうことだ。

 

2 「スウィートハート」

 

「アイ・オー・アイ・オー」(1970.4)

1 「アイ・オー・アイ・オー」

2 「君との別れ」(Then You Left Me)

 アメリカでリリースされた『キューカンバー・キャッスル』からのセカンド・シングルのB面。イギリス盤では「スウィートハート」だったが、同曲はすでに「イフ・オンリー・アイ・ハッド」のカプリングで出ていたので、当然の措置だろう。

 壮麗なイントロから始まる、クラシカルなアレンジのバラード。イントロのオーケストラは、ビートルズの「レット・イット・ビー」を思わせる。サビでは、語りを交えて音数を抑え、ストリングスの演奏が中心となるのが珍しい。セリフ入りの曲はこの曲だけだ。クライマックスは、後半一気にハイ・トーンになるところだが、この演出はなかなかドラマティックだ。一か所、バリーの声が裏返るが、この曲もガイド・ヴォーカルなのだろうか。

 

 

『キューカンバー・キャッスル』(Cucumber Castle, 1970.4)

 バリーとモーリスによるビー・ジーズの5枚目のオリジナル・アルバムは、テレビ・ドラマの一種のサウンド・トラックとなった。同題のテレビ・ドラマの構想は1967年からあったというが[vi]、制作は1969年になってから。もっとも、実際にドラマで使われた曲は5曲に過ぎないが、アルバム・タイトルもドラマに合わせて、『キューカンバー・キャッスル』になった。もちろんテレビ・ドラマもアルバムも、タイトルは『ファースト』に収録の曲に由来するが、曲名をアルバム・タイトルにしながら、その曲がアルバムに収録されていないという珍なる例となった。取り立てて言うほどのことでもないが、他に特記すべきことがない。

 ビー・ジーズほど浮き沈みの激しいグループもまれだが、最初の底が1970年だった。それを証明するのが本アルバムというわけだ。全米で94位、全英で57位。見事にそれまでの最低記録を更新し、さすがのドイツでも36位だった[vii]。この後、アメリカでは、この年の末にリリースした「ロンリー・デイズ」によって短期間でどん底からはい上がるが、イギリスでは、1970年代前半を通して低迷が続いた。メンバーの脱退ぐらいしかニュースがないようなグループでは、すっかり愛想を突かされたのだろう。

 内紛騒動を別にしても、もはやビー・ジーズが受け入れられる時代は終わっていた。60年代ポップのグループは、まさに70年代に入った途端に、軒並み人気凋落の危機に陥ったが、ビー・ジーズも例外ではなかった。すでにポップ・ミュージックでも、時代はサイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」やカーペンターズの「遥かなる影」のような、メロディの美しさだけではなく、ヴォーカルの強さを備え、さらに完璧に組み立てられ洗練されたレコードが支持されるようになっていた。これらの曲こそが70年代の「大人の」ポップスだったのだ。その中では、『キューカンバー・キャッスル』は、あまりにも古臭く、洗練されていなかった。60年代から脱していなかったのだ。

 しかし、これはこれで素晴らしいポップ・アルバムである。12曲中、「ザ・ロード」と「マイ・シング」を除く10曲は(恐らく)バリーが書いたポップ・ソングで、いずれもメロディの魅力で聞かせる曲だ。アレンジやスタイルは様々でも、どれもこれも似たような楽曲ばかり。これだけメロディアスな曲ばかり書いて、それらを平然と一枚のアルバムにしてしまう。メロディ・メイカーとしてのバリー・ギブの面目躍如たるものがある(ほめてるのか、これ)。

 気を取り直して言うと、『キューカンバー・キャッスル』は、実質バリー・ギブのソロ・アルバムであり、彼の「ソロ・アルバム」のなかでもベストの作品だろう。繰り返すが、これだけ似たような、でも異なるメロディばかりを書いてアルバムをつくれるのはただ事ではない(繰り返すが、ほめてるのか)。軟弱なポップスなど嫌いなロック・ファンでも、このアルバムの多彩なメロディにだけは脱帽せざるを得ないだろう。

 

A1 「イフ・オンリー・アイ・ハッド」

A2 「アイ・オー・アイ・オー」

A3 「君との別れ」

A4 「ザ・ロード

A5 「僕は子供だった」(I Was A Child)

 『キューカンバー・キャッスル』のAサイドは、交互にバラードとアップ・テンポのナンバーを組み合わせている。『アイディア』と同じ趣向で、5曲目は、アルバムでも最もスローなバラード・ナンバーだ。

 静かなピアノのイントロから、バリーが語りかけるように歌い始める。幼いころからの初恋がかなわない、という「若葉のころ」の続編のような歌詞だが、ヴァースからの”For all too soon”のメロディは、最初のピアノのイントロと同じである。さらにサビの”Why, loving you, loving me”のメロディは、カンツォーネ風か。最後の”I was a child.”では、急に音が下がって終わる。この強引な展開も「若葉のころ」を思わせる。

 ラストで、背後でかすかに聞こえる(ゲスト・シンガーによる)スキャットが美しい。

 

A6 「アイ・レイ・ダウン・アンド・ダイ」(I Lay Down and Die)

 ティンパニが打ち鳴らされ、ピアノが激しく打ち下ろされるイントロに絡む、バリーの”Oh, oh, oh. …” が熱気をはらむ。ヴァースの親しみやすいメロディから、サビでは”I lay down and die. The whole world joins in….”と進むうちに、ピアノのソロに楽器が加わり、盛り上がっていく。ブリッジのメロディを挟んで、ヴァースに戻ると見せて、再びサビのメロディに移り、そのままフェイド・アウトしていく。-と思わせて、ベースのソロに続いて、バリーが今度はソウル風にシャウトし始め、バックでピアノが乱打され、その背後ではゴスペル風のコーラスが加わって、最後はすっかりソウル・ミュージックとなって終わる。

 3分30秒のなかで、テンポやスタイルを変えて組曲風に組み立てられたナンバー。アルバムのなかでもハイライトの一曲といえる。

 

B1 「スウィートハート」

B2 「ダウン・バイ・ザ・リヴァー」(Bury Me Down by the River)

 映画音楽風のストリングスのイントロから、(例の)カン、カンと響くモーリスのピアノをバックに、冒頭からバリーがソウルフルに熱唱する。カントリー・タッチでもあり、R&B風でもある。「俺を川のそばに埋めてくれ」、と歌い上げるコーラスの哀切なメロディが胸を締めつける。ラストでは、ゲストのP・P・アーノルドとのかけ合いがさらに熱気を帯びて、オーケストラと一体となってエンディングへとなだれ込む展開は息を呑む。最後のアーノルドによる”Set me free.”も迫力満点だ。

 間違いなく本作のベストの一つだろう。

 

B3 「マイ・シング」(My Thing)

 バリーのヴォーカル曲とは打って変わって、モーリスのクールな歌声が落ち着いた雰囲気を醸し出す。

 モーリスがほぼすべての楽器を演奏し、ひとりでヴォーカルも担当した作品。『オデッサ』の「サドンリィ」ともまた違った都会的なサウンドは、ジャズともボサノヴァとも言えそうで、サイモンとガーファンクルの「パンキーのジレンマ」(1968年)からの影響を思わせる。

 

B4 「愛のチャンス」(Chance of Love)

 こちらもピアノのイントロから、オルガンをバックにクラシカルなアレンジで、バリーがキャッチーなメロディを歌う。お得意のスタイルだ。

 サビでは、バリーがシャウトするというより、絶叫するが、まるでアドリブのようにメロディを歌いつなげていく。再びヴァースに戻ると、そのまま絶叫パートは繰り返さずに終わる。

 コンパクトにまとまった、しかしドラマティックな構成の佳曲。

 

B5 「ターニング・タイド」(Turning Tide)

 『キューカンバー・キャッスル』は、全曲バリーとモーリスの共作となっているが、この曲だけはバリーとロビンによって書かれたと言われている。とすると、(「アイ・オー・アイ・オー」を除いて)他の曲より以前に書かれたものということになるが、確かにロビン風と言われると、そう思わせる箇所がある。三拍子と四拍子を組み合わせた、彼らがときどき試みる方法だが、中間の四拍子のパートのメロディ展開がロビン風と言えなくもない。

 Aサイドの「僕は子供だった」と並んで、アルバム中でももっともスローなバラードだが、とくに三拍子のパートの”And who are we …”からの展開はメロディがじわじわと胸にしみこんでくる。

 実に地味だが、これも心に残る旋律をもっている。

 

B6 「思い出を胸に」(Don’t Forget to Remember)

 

 

モーリス・ギブ「レイルロード」(1970.4)

1 「レイルロード」(Railroad)

  そろってソロ・アルバムの制作に乗り出したバリーとモーリスは、相次いでソロ・シングルをリリースする。モーリスのシングルが「レイルロード」だ。

 冒頭の弾き語りから、ミディアム・テンポでカントリー・タッチのメロディを、モーリスが飄々と歌い綴っていく。ピアノとオーケストラが強調されたアレンジは、ビー・ジーズとさほど変わらない。カントリー風の曲調もモーリスらしいとはいえる。

 曲はなかなか美しい。しかしシングル向きかというと、疑問符が付くし、それはモーリス自身が認めているところだ[viii]

 

2 「帰ってきた僕」(I’ve Come Back)

 Bサイドは、同じくミディアム・テンポの曲だが、ロック・シンガーのバラードといった趣。プログレッシヴ・ロックといっても通りそうな作品で、むしろこちらの曲のほうが新しさを感じる。爽快なアレンジも魅力的。

 

 

バリー・ギブ「想い出のくちづけ」(1970.5)

1 「想い出のくちづけ」(I’ll Kiss Your Memory)

 バリーの初のソロ・シングルは、なんとも地味なカントリー・バラードだった。

 ギターとオーケストラを基調としたサウンドは、モーリスのシングルとも共通して、ビー・ジーズらしいとはいえる。甘くセンチメンタルなメロディもバリーの得意とするところだ。

 しかしなぜ、バリーもモーリスも、そろいもそろってこうも地味な作品をシングルに選んだのだろうか。どちらもオーケストラを使ったカントリーで、そこも共通しているが、曲の構成も似ているのは、打ち合わせでもしたのだろうか。当時の彼らの仲を考えると、とてもそうとは思えないが。「想い出を胸に」がヒットしたことが頭にあったのだろうか。それとも単純にカントリーを歌いたい時期だったのか。それにしても、古臭い。「想い出を胸に」はまだドラマティックなサビをもっていたが、「想い出のくちづけ」は、もはや70年代の新曲とは思えない。バリーとモーリスの初シングルについて謎があるとすれば、まさにその点だろう。

 

2 「ジス・タイム」(This Time)

 こちらもギターとストリングスを中心としたフォーク・ロック。バリーの軽いヴォーカルもよいが、何よりもA面曲よりも時代に合っている。軽快で、バリーらしいメロディが耳をくすぐる。Aサイドと比べると、ついついこちらの肩を持ってしまう。

 

[i] Cf. The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.277.

[ii] モーリスの回顧によれば、バリーのアフリカ旅行の成果だという。Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[iii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.176-77.

[iv] Ibid., p.277.

[v] Ibid., p.705.

[vi] Ibid., p.166.

[vii] Ibid., p.704.

[viii] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).